2015年2月8日日曜日


先週の説教要旨「 伝道者の心 」使徒言行録26章19節~32節 

今、私たち日本の国はどこに向かって進んでいるのだろうか。人質とされていたフリージャーナリストの後藤健二さんが殺害されたというニュースが飛び込んできた。これを受けて安倍総理は「 テロを許さない。我々はテロ屈せず、これからも国際社会と連携してテロと戦う 」という主旨の声明を発表した。一方、イスラム国側は「 日本は勝ち目のない戦争に参加するという無謀な決断をした 」と、いみじくもこれを「 戦争 」と言った。双方にそれぞれに言い分があり、それが平行線を辿り、最後は武力によって相手をねじ伏せ、片をつけるということが歴史で繰り返されて来た。しかし武力による制圧は、憎しみの連鎖を生むだけで本当の解決には至らないこともまた歴史は証言している。どのように理由、形にせよ、武力で相手を制圧する方向に向かうことは果たして、正しいことなのであろうか。戦後70年を迎えた今、私たち日本人はそのことを問われていると思う。
 
使徒言行録第26章は、捕らわれの身となっているパウロが時の権力者たちの前で弁明をしている箇所。「 フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです 」(25節)。パウロはローマの軍事力を思うままにできる立場の人間に向かってそう言った。私は、今朝の礼拝でこのような箇所が与えられていることに深い神様の摂理を感じる。私たちは、戦争に突き進む決断ができてしまう立場の権力ある人間に対しても、「 私たちは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです 」と言う事ができるかと神様に問われているのではないだろうか・・・。パウロが捕らわれの身になっていることは、正当なことではないと総督たちは気がついていた。だから皇帝に上訴しなければパウロは釈放されていたのである(32節)。しかしパウロはたとえ捕らわれの身となっても、皇帝の前に立ち、語るべき福音を語る機会を得ることの方が大切だと思った。権威者に対しても、語るべき言葉を語りたいと願っていた。パウロの弁明の中心は「 王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが 」ということであり、ユーモアさえある。しかし鎖に繋がれることはなくても、あなたが王であろうとなかろうと、ユダヤ人であろうとローマ人であろうと、誰一人例外なしにつながれるべきものがある。それはイエス・キリストにつながれることだ。イエス・キリストを主とし、この方につながれた生活を造ることだと言うのである。この言葉をいかなる権力であろうとも聞いてほしい、それが伝道者パウロの心であり、教会に生きる者の心であると思う。
 
しかしパウロはなぜ、そういうことを語るのであろうか。パウロもかつては、権力の側に立った者であった。その権力を用いてキリスト者たちを力で屈服させ、殺そうとした。パウロはイエスの名が持つ力に恐れと不安を抱いていたのである。しかし殺意に燃えて向かったダマスコ途上において、パウロがこの地上から抹殺してしまおうと考えていたイエス・キリストがパウロを捕らえる。パウロとイエス・キリストの戦いに、イエス・キリストは勝たれた。パウロは荒れ狂う自分に勝ったイエス・キリストの力が、自分がそれまで知っていた力とは全く異質な、全く新しいものであることをそこで味わうことになった。その力をパウロは「 光 」と表現する(12節)。この光は、彼らの目を開かせる光であり、真実に気がつかせ、神のもとへと導く光であった(18節)。14節に「 とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う 」とあるが、パウロは力でもって相手を屈服させる生き方は問題を解決にではなく、かえって自分自身をも傷つけることになることに目が開かれた。キリストの力とは、滅ぼす力ではなく、赦し、悔い改めさせ、正しい方向へと生かす力であると知った。キリストの招きは、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、日本人であろうと、誰一人として例外はない。すべての人に向かって呼びかけてられている。すべての人よ、神のもとに立ち帰れ。そこ以外に人間の生きうる道はないのだ。そのために、神の御子イエスがどれほど、心を砕いておられることか。イエス・キリストはそのために十字架の苦しみの中に立たれたのだ。あなたもまたイエス・キリストの苦しみの中に今、生き始める。この世の暴力を振り回す側ではなく、むしろその暴力がもたらす苦しみの中にこのイエス・キリストと共に立とうではないか。真実の勝利はそこに約束されているのだ。そう呼びかけることが教会の伝道であり、それが教会の心であろう。
 
権力ある者に堂々とキリストに従う道を語るパウロをフェストウスは「 頭がおかしい 」と言った(24節)。それは常識的ではないと・・・。神を信じること、キリストの救いにあずかること。そのことこそ真実なのであって、あなたのように自分の知恵、力に拠り頼んで神を無視して生きることの方が常識だと考える方が、おかしいのではないか・・・。政治の中枢に生きるフェストゥスにとって、パウロの言動は政治を知らない甘っちょろい非常識な人間にしか見えなかったことだろう。今日の政治家も「 武力を捨てよ 」と叫ぶのは、甘い、何も分かっていない人間だと言うであろう。だが昨日天に召されたヴァイツゼッカー元ドイツ大統領は政治の世界でこそ、キリストの山上の教えを真剣に生きようとした人物だったのである。彼の死がこのような時と重なったということに深い神様の摂理を感じずにはおれない。       2015年2月1日)