2011年12月25日日曜日

2011年12月25日 説教要旨

神の愛は届いている 」 創世記22章1節~19節

私たちは時として「 なぜこのようなことが起きるのであろうか・・・・。神様は本当にこのことが起こるのをお許しになられたのであろうか。神様のお考えが分からない・・・」。そういう出来事に遭遇する。そういう現実を知る私たちが、このクリスマスの礼拝で聴く聖書の言葉は創世記第22章以下のアブラハムの物語である。

このとき、アブラハムも目に見えない神様が更に見えなくなる出来事が、その身に降りかかっていた。「あなたの愛する独り子イサクを私への焼き尽くす捧げ物として捧げなさい」と神様に命じられたのである。あなたは、私の子孫を空の星のように増やしてくださると約束されたではありませんか。それなのに私のたったひとりの跡取り息子を殺せと言われるとは・・・・。私にはあなたのお考えになっていること、なさろうとしておられることが全く理解できません・・・。アブラハムはそういう神様が分からなくなる出来事が起こった只中で、ただひとつのことだけに思いをグーッと集中させて、神様の示されたモリヤの地へと歩んで行く。そのひとつのことというのは、第22章8節のこの言葉、「焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」。ここで「備える」と訳された言葉は、英語の聖書ではprovideと訳されている。provide、備える、このprovideという言葉からprovidence、日本語では摂理と訳される言葉が生まれた。アブラハムはきっと神様が、その摂理のうちに、すべてのことを整えていて下さると信じたのである。このprovideという言葉は、原文ヘブライ語では「見る」という言葉が使われている。つまり、アブラハムは、「きっと神様が先に見ていてくださる」と言いながら歩み続けるのだ。そしてどこへ向かって歩んで行くのかというと、神様を礼拝する場所へと歩んで行くのだ。モリヤの山、そこで息子イサクを焼き尽くす捧げ物として捧げ、神様を礼拝するのだ。だが、神様を礼拝するその場所で、アブラハムは今まで見えなかったものが見えたのである。それは身代わりの犠牲の羊だった。後に人々は、この出来事が起こった場所を「主の山に備えあり」と呼ぶようになった。「主の山に備えあり」、原文ヘブライ語を直訳すると「彼は見た。見られていることを。主の山で」となる。

アブラハムは見たのだ。自分が神様に見られていることを、神様に見捨てられていなかったことを見た、主を礼拝するその場所で。実際にアブラハムが見たものは犠牲の羊、だがその犠牲の羊を見た時に神様の御心を見たのである。神様は自分たちを見捨てておられるのではないということを見たのだ。たとえ、神様のなさることがまったくもって分からなくなってしまうような中にあったとしても、神様は見捨てておられないことを。

この出来事からおよそ1800年経ったとき、アブラハムがその子イサクを捧げようとしたこの同じモリヤの山で、神様はその独り子イエス・キリストを十字架の上で捧げられた。クリスマスの日に、人としてお生まれになった神様の御子は、十字架の上で「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)として捧げられた。

ヨハネによる福音書の第3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」は、クリスマスによく読まれる聖書の言葉。代々の教会は、この言葉をアブラハムの物語を通してより深く味わった。すなわち、アブラハムの物語は予告編であり、イエス・キリストの十字架は本編であったと理解したのである。予告編も本編も、神様の変わらぬ愛を示す出来事。しかし本編ではもっと決定的にその変わらぬ愛が示されたのである。ゴルゴダの丘には、アブラハムを助けた主の使は現れなかった。イエス様御自身がそのまま犠牲の羊になられた。神様が備えたもう羊、そのものとなられたのである。十字架の上で死ぬために、御子は人となってこの世に来てくださったのだ。それを見れば、私たちがどんなに深く神様に愛されているか分かる。たとえ言葉にできないほどのつらい出来事に遭遇したとしても、なお、神様は私たちを愛してくださっている。どんな時でも神様の愛は届いている。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この御言葉の背後で、神様にはもだえ苦しむような激痛が走っている。独り子をお与えになる、それは神様だから簡単にできるなどとは決して考えられないこと。旧約聖書に登場するダビデという王様は、その晩年、自分の息子に王位を狙われた人物である。その息子の手からダビデを守るために、ダビデの兵卒は命を賭けた戦いの末、息子の命を奪った。そのときダビデは嘆き悲しんだ。自分が代わって死ねばよかったと。ダビデの部下たちにはその気持ちが全く理解できなかった。しかし、この理解しがたい思いこそが我が子を失う父親の思いなのだ。「その独り子」という一句の背後で、神様の思いにはもだえ苦しむような激痛が走っている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、それは言葉にならない父なる神様の思いを、やっと言葉にしたようなものではないか。その苦しみを引き受けてもなお、神様は私たちへの愛を示してくださった。神様の愛は私たちに届いている、どんな時であっても。十字架で死ぬために世に来られた御子はその愛のしるし。

2011年12月18日日曜日

2011年12月18日 説教要旨

望み尽きる時に 」 ルカ8章49節~56節

会堂長ヤイロはイエス様の足元にひれ伏して、自分の家に来てくださるよう願った。12歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからだ。大勢の群集がイエス様を取り囲んでいる中でその願いを聞き入れてもらえた。どんなにか、感謝したことであろうか。ところが家に向かう途中に、12年間出血がとまらなかった女性がイエス様の服に触れるという事件が起こった。イエス様はヤイロの家に向かうその足を止めて、その女と立ち話を始める。ジリジリするような思いで、ヤイロはその対話を見ていた。一刻も早く、この方を娘のところにお連れしなければならない。死んでしまったら、もうどうにもならない・・・。やきもきしているうちにも時間は経ってしまう。そして、そのときついに恐れていたことが・・。会堂長の家から人が来て、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言った。からだ中の力が抜ける・・・。私たちは比較的小さな事柄には神の助力を願うものの、「こればっかりはだめでしょう」と大きな事柄に関しては、イエス様の力をもってしても無理とあきらめて願わないのではないか。イエス様の力を自分の方で限定してしまう。そうやって難題を解き放つ主を見失うのである。ヤイロも同じ考えだった。イエス様という方は、大変すばらしい力を持っているけれどもそんな力を持っているこの方であったとしても、死に対しては無力だ。命がある間はまだ希望があると思う。だからあらゆる努力をし、また祈る。しかし死んでしまったら、もうそこでおしまい。死の事実を前にして私たちは力尽きたと思う。しかし私たちが力尽きてなす術なし、ただ立ちすくむだけのところで堂々とその現実をはねのけるように「恐れることはない。ただ信じなさい」と言ってくださる方が私たちの傍らにおられる。

 ヤイロはその言葉に支えられるようにして家に向かう。すると娘のために人々が泣き悲しんでいる。ヤイロの心は動揺する。イエス様はその泣き声を突き破るよう「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われる。娘が死んだことを承知の上で眠っているのだと言われる。人々はこれを聞いてあざ笑った。イエス様は両親とペテロとヤコブ、ヨハネだけを連れて死の中に踏み込んで行かれる。あとの者たちはついて来ることをお許しにならなかった。これでもう終わりだとあきらめてしまっている者たちは連れて行かなかったのである。人々があきらめてしまったとしても、なお、あきらめることができない両親だけを連れて行かれた。私たちの信仰というのは、あきらめてしまったところで終わり。ここまでだと思ったところが私たちの終わり。ここまでは一生懸命祈ってきた。でもここからはもう何もないと思ったところで終わる。こんなつらい場面ではもう信仰も役に立たないと思ったらそこで終わる。こんなひどい場面ではもう神様は関係ないと思ったら、そこで終わるのだ。しかしイエス様はその向こうに行くことを期待される。ここから先はもうどうにもならないと人々が投げ出す、その場所にイエス様は踏み込んで行かれるのである。「娘よ、起きなさい」、イエス様の言葉が響きわたると同時に人々の目には死んだと映っていた少女が本当に眠りから覚めるように起き上がった。

「ただ信じなさい」とイエス様は言われる。これはヤイロだけではなく、私たちに対する呼びかけでもある。ならば、信じるとは何を信じることなのか。ヤイロの場合、娘を生き返らせることができるということを信じなさいと意味で語られた言葉であることに疑いの余地はない。だが私たちの場合はどうか。この娘のように一度死んだ人間をもう一度生き返らせてくださるというようなことをイエス様はしてくださらないではないか。そう、イエス様はヤイロの娘を生き返らせることを通して死に打ち勝つ力を持つことを示された。私たちの場合、その力を時計の針を戻して死者を生き返らせるためにではなく、時計の針をさらに進めて永遠の命の中へと進ませてくださるために用い下さるのだ。私たちの時計が死でもって止まったままになることをイエス様はお許しにはならない。イエス様の愛がそれをお許しにならない。信じる・・・それは、イエス様に愛されていることを信じるということなのだ。イエス様の愛が、私たちを死んだままにしておくことはなさらない。死でもって私たちの存在が終わってしまうようなことを決して許さない。必ず「終わりの時」に復活させてくださる。永遠の命に与る者としてその存在を新しくしてくださる。

 ヤイロとは「神が目覚めさせてくださる」という意味。この物語は私たちの目を覚まさせてくれる。死んだら終わりだと思っている私たちの目を目覚めさせてくださる。どんなに大きな愛が私たちに注がれていることか。それは死でもって終わることを許さない。私との交わりがそこで途絶えてしまうことをお許しにならない、それほどの激しい愛が注がれている、そのことに目覚めさせてくれる。そしてそのことを知ることが信仰なのである。死んだ少女のもとにイエス様は踏み込んで行かれる。後に、イエス様は再び死の中に踏み込んで行かれる。十字架の死の中に・・・。それは、私たちの時計が死で以って終わらずに、永遠の命へと進むことができるように、イエス様ご自身の存在を賭けた行為であった。私たちの命は永遠に癒されたものとしてある。そういう命を私たちは生きている。

2011年12月11日日曜日

2011年12月11日 説教要旨

「 小さな願いを 」 ルカ8章40節~48節

出血のとまらなかった女性の物語、48節に「あなたの信仰があなたを救った」とあるように、これは「信仰」をテーマにした物語だ。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くと、「私の信仰はイエス様から、あなたの信仰があなたを救ったなどと言ってもらえるような信仰だろうか」と考え始めてしまう。だが、今朝の物語はそういう私たちに確信と勇気を与えてくれる物語である。

「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」(43節)。治療のためにその全財産を使い果たしたが良くならなかった。しかもこの病は「婦人病」の一種だと思われるが、この時代には宗教的な意味で汚れた病とされていた。誰か他の人に触れると、その汚れが伝染する。それゆえこの病にかかった人は家族から引き離され社会からも隔離され、人との接触が禁じられた。だが、孤独と絶望の中にいる彼女にかすかな期待を持たせる噂が飛び込んで来る。近ごろイエスという方が登場して、自分に似た肉体の苦しみを癒してくれるそうだ。その方が私たちの住んでいるこの地方にやって来ているらしい・・・。彼女は一縷の望みをこのイエスという方にかけて、イエス様を取り巻いている群衆の中にうまく紛れ込んで震える指先で、そっとイエス様の服にさわった。せめてその服にでも触れることができれば治ると信じていたのである。イエス様の服に触れた彼女の手はどんな手だったのだろうかと思う。病のためにやせ細り、弱っていたであろう。助けの手を一番差し伸べてほしかったその手なのに、触れたら汚れるという理由から何度も払いのけられて来た手・・・、そして何度も祈るために合わせた手・・・。その手をイエス様に差し伸べた・・・。そして奇跡が起きた。出血が止まったのである。しかし、ここにはもう一つの奇跡が起こっている。それはイエス様が彼女の手をお感じになったということ。それこそ奇跡ではないか。「イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」(45節~46節)。ペトロの発言はもっともなこと。しかしイエス様は言われる。「いや、そうではない。確かにたくさんの人たちが私に触れた。しかしまったく違った思いをもって、触れた者がいる。私の体から力を引き出すような触り方をした者がいる。それは誰か・・・」。イエス様は繊細にも、この女性のか細い手から、もしかしたら指先だけで触れたかもしれない、その指先から彼女の切ないまでの苦しみのすべてを感じ取られたのだ。なりふりかまわず、一心にイエス様に期待して、自分の悩みをイエス様に直接触れさせていくような思いを敏感に感じ取り、そして受け止めてくださったのだ。この奇跡は私たちにも起こっている。悩みを携えて、願いを携えて、私たちもこの礼拝の場に来ている。そして祈りの手をそっと合わせる。主は、そのあなたの手を感じ取ってくださる方。あなたの小さな祈りの手に込められたその思い、願いのすべてを感じてくださる、そして受け止めてくださる。その方がこの礼拝にもおられる。

イエス様の言葉に、彼女はもう自分を隠しておくことはできないと悟って、震えながら進み出てすべてを話した。彼女はイエス様のもとで自分の心の中にずっとしまい込んで来た重荷を降ろした。そのときイエス様はこう言われた。「あなたの信仰があなたを救った」・・・。このときの信仰とは何であろうか・・・。彼女は「自分は信仰を持って触りました」と堂々と胸を張ってイエス様の前に出たのではない。むしろそっと帰ろうとしていたのである。きっと彼女も驚いたのではないか。「自分のどこに信仰があったというのか。全く自己流の信仰ではなかったか」と・・・。しかしそれでもイエス様が「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださったのだ。彼女は自分の重荷のすべてをその指先にこめて、直接イエス様に触れさせて行った。体をむしばまれ、財産をすべて失った女性がその自分の重みをイエス様に投げかけた。自分の重さをこの方に預けたのだ。その思いをイエス様は信仰と呼んでくださった。そこに信仰があると、彼女の中に信仰を見つけてくださった・・・。

私たちは、自分に信仰があるかないか、自分の中に信仰があるという実感を求めてしまう。しかし今日の御言葉は、信仰というのはイエス様が見出してくださるもの、私たちのイエス様に対する思いをイエス様があなたの中に見出して信仰と呼んでくださる、そういうものだと告げている。確かにこの女性は、病が癒され治って行くのを体で感じたであろう。しかし著者ルカのタッチ(筆遣い)は、そのことを丁寧に記すのではなく(マルコは記しているが・・)、むしろイエス様が彼女の指先に込められた思いのすべてをお感じになってくださったことに集中している。私たちのイエス様に対する思い・・・それは決して胸を張れるような立派なものではないが、自分の苦しみ、痛み、願い、自分の重さを直接、イエス様に触れさせずにおれない、その思いをイエス様の方で見つけてくださり、信仰と呼んでくださる。「それがあなたの信仰、立派な信仰だよ」と言って受け止めていてくださる。だから私たちは自分の信仰に対して確信と勇気を持っていい。

2011年12月4日日曜日

2011年12月4日 説教要旨

「 正気に返って 」 ルカ8章26節~39節

 クリスマスは何と言っても歌の季節である。1ヶ月あまりのクリスマスの期間だけでは到底、歌い尽くすことができないほどのたくさんの歌が作られている。クリスマスに歌を歌う慣わしは、ルカ福音書2章に始まる。救い主誕生の夜、天に天使の大群があらわれて、「いと高きところに栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の歌を歌った。それがクリスマスの最初の讃美歌で、その賛美の波紋を広げるように、次々と豊かなクリスマスの歌が生み出されて行った。

今朝の福音の物語は音に満ちている。突風が止んだガリラヤ湖、静かに舟を進めて来たイエス様と弟子たちが、ゲラサ人の地方と呼ばれる岸に着いた。多くの人々が歓迎して出て来たわけではない。ひとりの男がやって来ただけである。しかしこの男が騒がしい存在で、イエス様のもとに来ると、わめきながら大声で叫ぶ。それよりももっと度肝を抜くのはたくさんの豚の群れが走る音。崖からなだれをうって湖の中に落ち込んで行く音。そしてルカはこのものすごい響きの後に、突然、静けさがやって来たことを語る。もちろんまだ物音はしている。豚という財産を失った豚飼いたちが騒いだだろうし、一目散にこのことを伝えに町に走りだす者たちもいた。皆、小声ではなかっただろう。けれどもそうやって集って来た人たちが、そこで目にしたのは静けさである。いつもは裸で鎖を引きちぎっては、人々を恐れさせていた墓場の男が、きちんと服を着て、イエス様の足元に座っている。聖書は彼が「正気に返ったのだ」と伝えている。イエス様の足元で正気になって座っている男、その周りには静けさがあり、平和がある。そしてその静けさの中で、この男はイエス様に「お供したい」と申し出る。主の御元にある静けさにずっと生き続けたいと願ったのだ。しかしイエス様は静かに答えられた。「自分の家に帰れ。そして神があなたにしてくださったことを、ことごとく語り続けたらいい」と。その言葉に促されて、この男は家に帰って人々にこのことを言い広め始めた。この男は、軽やかな足取りで我が家に帰っただろう。もしかしたら、道々、歌を歌いながら帰ったかも知れない。今は悪霊の軍勢から解放されて、クリスマスのときの天の軍勢と同じ心で「いと高きところに栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と歌うことができる。私たちは、この男に歌を歌わせるような神の恵みが一体、いかなるものであったかを、時間の許す限り、一緒に思い巡らしたいと思う。

まず、何よりもこの物語の中で私たちの心をとらえるのは、たくさんの豚の群れだ。どうして、悪霊が豚の群れの中に入ることをイエス様はお許しになったのか。こう考えるとよい。医者で健康診断を受けたら悪性の腫瘍があることが判明したとする。自覚症状もなかったので、戸惑いの中、手術を受ける。やがて手術が終わり麻酔から目が覚めると、医者がフォルマリンに漬けた大きな腫瘍を見せてくれる。「こんなに大きなものが、あなたの体の中にあった。でももう、すっかり取り除いたから安心していい。あなたは癒された」と。それと同じことがここで起こっている。自分の目の前で豚の大群がおぼれ死ぬのを目の当たりにしたとき、この男は「自分は何という恐ろしい力のとりこになっていたことか・・・」と、初めて気がついたに違いない。しかし今は、もうその力から解放されている。自分は平和の中に戻ることができた。このイエスという方のおかげで・・・。

私たちは悪霊にとりつかれていた男に隔たりを感じるかも知れない。しかし聖書にこうした人物が登場するときには、一般的な人間の一つの典型として登場して来るのだ。ならばその典型的な姿とは何か。彼はひとりの人間であったが、彼の中には大勢の者も一緒に住んでいた。そのために自分自身がなくなってしまっていた。つまり、大勢の人の声に引き回されて生きているような状態だった。自分の声を持たず、他の人の声に引き回される。いつも誰かの声に引っ張られてしまう。自分で生きていながら、自分というものがそこにはない。この姿は、現代の人間が持っている最も深刻な病ではないだろうか。自分が他人の声の中にいないと落ち着かない。不安になるのだ。そういう状態にいることは、悪霊に支配されている姿と同じなのである。そして豚の末路は極めて象徴的だ。自分の声を持たない人間が群れをなして行動する、その行き着く先は滅びでしかない。しかもこの男がイエス様に最初に言った言葉は人間の根源にある問題を明らかにする。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」。神様との関わりを求めないのである。しかし軸となるべき神様を抜きにして、自分たちの力だけで平和を作り出すことはできない。聴き従うべき確固たる言葉を失った人間は、人の声に惑わされ、右往左往して、結果としてますます不安が増大するだけである。イエス・キリストは、そのような歩みの中から私たちを解放してくださる。この男をご自身のもとにある平和の中に、静けさの中にとらえ移してくださったように、私たち現代人をも、真の平和へと解放してくださるのだ。この男はイエス様にお供したいと申し出た。しかしイエス様はそれを拒まれた。イエス様はこの町から出て行かなければならない。それでもなお、この町の人たちをあきらめることができなくて、この男をご自身の分身としてここに残したいと願われたのだ。ここに私たち教会の姿を見る。

2011年12月2日金曜日

クリスマスコンサート

直前の告知になってしまいますが
明日、12月3日(土)成瀬教会でクリスマスコンサートが開催されます。
どうぞ、皆様、お気軽にいらしてください。

2011年11月27日日曜日

2011年11月27日 説教要旨

「 こんなところにも道が 」 ルカ8章22節~25節

嵐の中を弟子たちが行く光景が描かれている。これは端的に言って信仰とはどういうものかを言っているのだと思う。信仰は固い陸地の上を進んで行くようなものではなくて、海を渡って行くのに似ている。地図さえあれば、歩いて行けるようなものではなく、「これが道だ」と言えるようなものはない。水の上・・・足元を踏みしめられない。足元がしっかりしていて、そこを踏みしめて行けばよいということではない。また、突風が吹いてくれば、もうどこにも逃げる場所がない。もろ直撃。そやって絶えず揺さぶられるようなことに遭遇する。それが私たちの信仰の歩み。

 22節、「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」とある。弟子たちはイエス様の言葉に従ったら、危険な目に遭遇した。このことは、私たちの信仰の歩みというのはいつだって問題が待ち構えているということを意味しているのだと思う。この世の悩みなしに試練を受けずにうまくすり抜けて、向こう岸へと到達することはできない。いろいろな問題が待ち構えている、そこを貫いて向こう岸へと渡って行く・・それが信仰の歩み。ここでの向こう岸というのは、単にゲラサ人の地方を意味するのではなくて、もっと象徴的な意味をも含んでいるだろう。おそらく向こう岸は、救いの世界、神の祝福の世界を意味していると思われる。だが、そこへたどり着くには、この世の悩みなしに、試練を受けずにうまくすり抜けて、たどり着くことはできない。平穏な、いい時だけを見計らって向こう岸に渡ることはできない。問題を貫いて、試練を貫いて、初めて向こう岸に着くことができる。それが私たちの信仰の旅の姿。

 けれども、そこで忘れてはならないことがある。向こう岸に行くというのは、単に私たちの願いや決意ではないということ。救い主イエス・キリストが向こう岸に渡って行くことを望んでおられる、私たちと一緒に・・・。だから私たちは出発するのだ。ただ私たちの方で一大決心をして出発するのではない。イエス・キリストが一緒に渡ろうと言ってくださるから、私たちは舟出をする。問題の待っている海に向けて・・・。ここにお集まりの皆さんの中にも、今、自分はとてつもない試練の中にいる。とても厳しい思いをしており、「ああ、あのときの自分の決断が間違っていたから、こういうことになったのではないか」と迷っておられる方もおられるかも知れない。でもそうではない。あなたが今、その状況にいるというのは、主があなたに、「向こう岸に渡ろう」と声をかけてくださったから。イエス様が、あなたと一緒に行こうと、あなたの決断を促してくださったから、今のその状況にいるのだ。表面的には自分の選択の結果と思えるかも知れないが、一番深いところではそういうことなのだ。私たちが困難に遭遇するのは、必ずしも私たちが進む方向を誤ったからではない。主が、そこを貫いて進むことを求められたから、私たちと一緒に進むことを求められたから、私たちは今、そこにあるのだ。

突風が吹き降ろして、舟が水をかぶって弟子たちは慌てた。そして寝ておられたイエス様を起こしてこう言った。「先生、先生、おぼれそうです」。弟子たちの中の少なくとも4人はこの湖の漁師だった。湖のことを熟知していた。しかし突風は、彼らの手に負えなかった。この世の試練、人生の試練は、いくら経験を積んだとしても、人の手だけで負えるようなものはほとんどない。主にしっかりと支えられて行くのでなければとても負い切れない。私たちの経験、知識、言わばマニュアルが役に立たない。それが試練の実態だろう。弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と言った。これは叫び、悲鳴のたぐいであって、祈りではない。切羽詰まってあげた悲鳴。冷静さを完全に失っている者の必死の叫び。祈りの体をなしていない。だからイエス様に「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、あなたがたのあるはずの信仰は突風によってどこかに吹き飛ばされてしまったのか、どこにも見えなくなっているではないかと言われてしまったのである。不信仰の中での叫び、悲鳴である。信仰に根差していないのだから、とても祈りとは言えないだろう。だが、その悲鳴を聞いてイエス・キリストは立ち上がられた。その悲鳴をも聞いてくださる方がいる!!不信仰な叫び、悲鳴をも聞いてくださる方がいる。それが私たち信仰者の支えだ。救い主は私たちの一番情けない、もろい、その底辺にまでおりて来てくださっている。だから叫んでもいい。イエス・キリストが十字架につけられたとき、その両側には2人の犯罪人がいた。そのイエス・キリストが犯罪人の最も情けないところで発せられた願いを聞かれたことを思い起こす。

イエス様が風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言った。この言葉の中には、こういう思いが込められているのだろう。「この方は何という方だ。こんなところにまで道を開いてくださるとは・・・」。弟子たちはもうこれ以上進めない、終わりだと思っていた。しかしこの方はそこに進路を開く。「人間のピリオドは神のカンマ」でしかない。私たちの信仰の旅は、試練に遭遇する。しかしこの方はそこで私たちのために道を開き、必ずや向こう岸、神の祝福へと私たちを導かれる方なのだ。

2011年11月23日水曜日

2011年11月23日 説教要旨

「 あなたの傍らに立つ主 」 ルカ8章19節~21節

イエス様のもとに、身内の者たちがやって来たことが記されている。しかしイエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。冷たい対応だと感じるかも知れない。同じ出来事を記したマルコ福音書を見ると、そのときの事情が記されている。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(マルコ3章20節、21節)。身内の者たちは、イエス様のことを聞いて取り押さえに来ていたのである。気が変になっているといううわさは、悪霊を追い出しているということもあったのだろうが、その異様なほどの暮らしぶりということもあったのだと思う。何しろ食事をする暇もないほどの暮らしぶりであったのだから。その異様な生活をやめさせようと、身内の者たちはやって来たのだ。冒頭のイエス様の言葉は、そういう身内に対する返答だったのである。

 イエス様の暮らしぶりは気が変になっていると評されたのだが、それは何よりも父なる神の言葉を聞いて行なう生活であった。普通は世の中に出て人々に認められ、成功を手にすると、生活は安定し、いくらかゆとりができるものである。しかしイエス様の生活はそういうものではなかった。主は別の機会にこう言われた。「狐には穴があり、鳥には巣があるけれども、人の子には枕するところもない」。それほどに人々の悩みや苦しみに引っ張りまわされていたと言うこと。つまり、イエス様の生活は自分を削るような生活、自分が安定するどころか、益々、慌しくなるような生活だった。小さな子どもが「みんなのお祈りを聞いてイエス様は忙しいね」と言ったことがあった。イエス様は、人々の思いや困窮、それにかかわることにおいて本当に多忙な生活をされていた。考えるに・・・神の言葉を聞いて行おうとするとどうしてもそういう方向へと生活が向かって行くのではないか。およそ、他者を助けるということは身を削るような生活以外のことではない。神ご自身がそのことをイエス・キリストを通して示しておられる。神が私たちを助けられるとき、神ご自身もひどく苦しまれた。犠牲を払われたのだ。人を助ける、支えるというのは、自分の何かを削ること以外のものではない。自分の何かを犠牲にする。時間を犠牲にする。労力を犠牲にするし、痛い思いをする。そうやって初めて私たちは誰かの命を支えることができる。世の人々からすると、そういう生活ぶりというのは異様なのである。誰かのために損をする。時間を使う。誰かの悩みのために引っ張りまわされる。誰かのために苦しむ。それはこの世の常識ではない。損なのだ・・・常識では。しかし信仰というのは、そういう部分を持っていることである。私たちの生活の中に失う部分を持っているということ。あるいは、自分の生活の中に損をする部分を持っているということ。なぜならば、この私たちの命はキリストがそうしてくださることによって支えられている命だから・・・。私たちが生きているこの社会、「ありゃ、変だ」という人がたくさんいる。つまり、賢い人が一杯いる。自分の得になることしかしない。自分の利益にならないことをするのは愚かなことだと考える。自分の利益にならないことのために、自分の時間を使ったり、労力を使ったり、人生をもぎとられることは何か非常に損なことだと考える。何も失いたくない、損をしたくない生き方、要領のよい生き方が、私たちの回りにたくさんある。しかし、そうやって人は自分の命の意味を失っている。利口に立ち回って自分の命を無駄にしているのである。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と主は言われた。痛みや苦しみを様々な仕方で負いながらキリストに従うのである。それが私たちにとっての生きる道であり、救いに通じている道なのだ。痛みも苦しみもない、全く損をしない生き方、安全地帯に立ち続ける生き方、それは決して利口な生き方ではない、否、むしろそういう生き方によって人は命を失っている。自分の命を救おうとする者はそれを失う。自分の命を守ろう、守ろうとして、損しまい、傷つくまい、時間を無駄にしまい、労力をとられまい、そうやって自分の生活を守りながら自分の命を無駄にしてしまう。私たちは生きることの本当の喜びをそうやって失ってしまう。

神の言葉を聞いて行う人たちがイエス様の家族・・・。イエス様の周りにいた人たちを主はそう呼ばれた。つまり、そこにいた人々はイエス様の苦しみによって支えられている人々、イエス様の献身によって支えられている人々、そしてその恵みに感謝して、応えようとしている人々。そして、その人々と一緒にキリストはおられる。まるで身内のように・・。ここに集まっている私たちも神の言葉を聞いて行なおうと労苦している人間ではないか。他者を助けるために何らかの形で身を削っている者たちではないか。そうやって自分の十字架を負って一生懸命歩こうとしている者たちではないか。その私たちの傍らに、まるで身内のように主は近くにいてくださる。だから私たちは苦しみの中で本当に大きな支えを得、本当の命を生きているという喜びをそこで受け取りつつ生きるのである。