2015年2月15日日曜日


先週の説教要旨「 世にあるキリスト者 」使徒言行録27章1節~12節 

27章は、ついにパウロがローマ皇帝のもとに護送される船旅に出たことが記されている。『 新共同訳聖書 』の巻末に載っている地図9番、<パウロのローマへの旅>というのを見ながらこの箇所をたどってみるとよいだろう。護送の責任者であったローマの百人隊長ユリウスは、囚人パウロに対して大変親切に接し、仲間のアリスタルコの同伴を許可し、シドンの港に着いたときには船を降りてシドンの町の友人たちと会うことも許可してくれた。そのように一見すると、この船旅は快適なものであったように思えるのだが、地図中央のキプロス島の辺りを航行したときから雲行きは怪しくなるのである。向かい風に遭い、思うように進めない。風を避けるようにして何とかミラに着き、もっと馬力のあるイタリア行きの船を見つけ、乗り換える。しかしそれでも船足ははかどらず、ようやくのこと、クニドスの港に近づいた。しかし風に行く手を阻まれてクニドスの港に上陸することができず、進路を変えてクレタ島に向かい、「 良い港 」と呼ばれる港にたどり着く。しかし季節風の関係で、この時期の停泊には向いていない港だった。暴風をもろに受けてしまうのである。それで百人隊長は、船長と船主の勧めるままに同じクレタ島にある冬を越すには適した港フェニクスに移動する決断を下す。この時期、地中海は荒れるため、航海は数ヶ月の間、一時中断するのが通例となっていたのだが・・・。そのことを聞いたパウロは反対する。パウロは航海のプロではないが、3度にわたる大きな伝道旅行の経験から、船旅の経験もずいぶん重ねており、海のことをよく知っていたようである。パウロは人々に忠告する。「 皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります 」(10節)。しかし船長や船主たちは、どうにかフェニクス港までは行きたいと考え、出航してしまう。来週読むことになるが、案の定、彼らの船は暴風に遭い、難船してしまうことになるのである(14節、15節)。今朝はこの箇所から「 世にあるキリスト者 」ということを一緒に考えてみたいと思う。

 この箇所には「 わたしたち 」と言う言葉が何度か登場する。最初は、この「 わたしたち 」はパウロとその仲間のことを指して使われているようなのですが、節が進むに連れてこの「 わたしたち 」は、範囲を拡大して行く。6節の「 わたしたち 」は、パウロとそれ以外の囚人たちのこと。そして10節の「 わたしたち 」は、百人隊長も、船長も、船主も、船に乗っている全ての者を指すと言った具合に。このときに至ってパウロは、ユダヤ人であろうとローマ人であろうと、キリスト教徒であろうと、他の神々を信じている者であろうと、皆、同じひとつの船に乗って航海をしている、言わば運命をともにとしている「 わたしたち 」と呼んでいるのである。これは実に興味深いことだと思う。皆さんは、『 宇宙船地球号 』という言葉をお聞きになったことがあるだろうか。国際飢餓対策機構が毎年発行しているカレンダーには、『 地球家族 』とか『 宇宙船地球号 』という言葉がよくて出てくる。地球という船は、ひとつの運命共同体であり、かけがえのないものである。この船にはイエス様を信じている者も乗っていれば、イスラムの信仰、あるいは仏教の信仰を持っている者もいる。肌の色も違う。しゃべっている言葉も違う。毎日お腹をすかせている子どもたちもいれば、満腹に満ち足りて、食べ残している人たちもいる・・・。実に多様な人たちが、この地球というひとつの船に乗り込んでいるのである。しかし皆同じ地球人、同じ人間、「 地球家族 」なのだ。家族なのだから、苦しい時には支え合い、うれしい時にはその喜びを分かち合い、たとえ仲が悪くなったとしても、いつかは仲直りをしてまた一緒に生きて行こう・・・。そういう願いがそこには込められている。しかし今の世界の状況は、争いが絶えず、互いに互いを滅ぼしかねない状況を抱えている。今もしパウロがこの地球船に同船していたら忠告することだろう。10節のように・・・。神と隣人に奉仕するという愛の論理に寄らない経済的圧力や軍事力という力の論理による最近の航行は、深刻な危機を招くのではないだろうか。パウロの忠告を信用しなかった「 大多数の者の意見 」による「 船出 」は、間違っていた・・・。私たち今、この時代にこの世界に遣わされているキリスト者たちは、『 キリストが教えてくださった愛の論理 』は信用されないとしても、共に生きる人々に向かって『 忠告 』しないで良いのか・・・。

 パウロは彼の忠告を信用しなかった人々と運命を共にさせられる。しかし彼はその運命共同体の絶望的状態をキリストにある愛と祈りで支え続け、人々がなお希望を持って生きるように励ます(21節)。私たちは、神様からこの世界に遣わされている者たち。それはこの世界に生きる人々に危険を忠告するように「 地の塩 」としての働きをするため。あるいはこの絶望的な状況においても、なお望みがあると望みの光を輝かせる「 世の光 」という働きをするため。そして私たちの言葉に残念ながら耳を傾けず、その結果ますます苦しみを担うことになる人たちの苦しみを一緒に担って、その苦しい思いを彼らに代わって神様に向かって注ぎ出す、「 とりなし手 」の役割を担うためである。それらのことのために私たちは神から遣わされている。預言者ヨナのように船底で眠りこけてはいけない。2015年2月8日)