2015年2月1日日曜日


先週の説教要旨「 主の証人として召され 」使徒言行録26章1節~18節 

26章は、パウロがユダヤの王ヘロデ・アグリッパの前で弁明をしている場面である。弁明と言っても、その内容は信仰の証と呼んだ方がふさわしい。この証を今週と来週とに分けて読みたいと思う。

 1節から3節までは弁明に先立つ挨拶であり、実際の弁明は4節から始まる。その内容は、パウロ自身も最初はイエス・キリストに対して反対の立場にあった(8節、9節)。反対の立場にあった自分がどうしてその立場を逆転させ、イエス・キリストを伝えるまでになったかということを語る、キリストとの出会いの証である。パウロはユダヤ人の宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として生活していた。ファリサイ人は律法を重んじ、律法に生きることを何よりも第一のことと考える。そのパウロがナザレ人イエスを信じる信仰によって生かされている人々の群れを見たときに、「 これは自分と相容れない生き方であって、神を冒涜するものだ。これらの人々を残らず滅すべきだ 」と考えたのである。信仰の熱心というものは、往々にしてこういう形を取る。信仰はこうあるべきと考え、自分はそれに非常に熱心になっているとき、他者に対しても自分と全く同じように生きるべきだと考え、自分と同じように生きていない人たちを圧迫するということが起こる。このことは今日でも同じである。信仰に限らず、様々な文化、生活習慣、政治のシステムが世にはある。しかし今日の世界は、そういうものの違いを受け入れず、自分と同じように生きていない人たちを排除したり、圧迫しても構わない、それが当然のこととしてまかり通ってしまう世の中である。テロとか正義の戦争とか、いかにも正当な理由がつけられているが、ことの始まりが何処にあったかを冷静に見つめるべきであろう。そこには、自分と違う生き方をする人たちなら排除しても構わないという意識が働いているのではないか。表現の自由の名をもって、イスラム教徒を貶めるようなことが果たして認められるのであろうか。宗教というものは、自分たちと同じように生きていない人たちに対とどう関わっていけるか、そのことが重要なのである。かつてオウム真理教は自分たちと違う人たちを殺しても構わないと考えたが、イエス様は善きサマリア人のたとえで、隣人を愛することを教えられ、その隣人には同じ信仰であるとか、同じ民族であるというような枠はないのだと言われた。しかしこのときのパウロはそれと真っ向から対立する生き方をしていたし、そのことに非常に熱心であった。彼はキリスト者を捕らえようと、ダマスコへと向かう。その途上、強い光が照らし、彼は地に倒れた。そしてよみがえりのキリストと出会った。キリストは「 なぜわたしを迫害するのか 」と言われた。主を信じる信仰のゆえに厳しい迫害の中に命の危険を冒して、なおその信仰を守り抜いているその人々を主は「 わたし 」と呼んでおられる。ここでは主を信じる者の苦しみがイエス様の苦しみともなっている。私たちは苦しみも労苦も、何もかも自分ひとりで担っているように思い込んでしまうことがあるが、そうではない。私たちはひとりで苦しみを担っているのではない。キリストも共に担っていてくださるのだ。私たちはそれほどに、キリストと深く結びついて生きているのだ。

 パウロはよみがえりの主によって「 地に倒れた 」。主がパウロの行く手を阻み、パウロを地に伏させたのである。これはただ単にパウロを地面に打ち倒して伏させたということだけでなく、それまでのパウロの生き方そのものを打ち倒し、地に伏させたということなのである。主に打ち倒されなければならなかったそれまでのパウロの生き方とは、どのようなものであったか。「 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです 」(フィリピ3章4節)。キリストにとらえられるまでのパウロの生き方は、肉に頼る、すなわち自分の力に頼り、そして自分の力を誇るという生き方。力を誇り、そして自分と相容れない生き方をする者を、力をもって屈服させる、あるいは殺す。そういう生き方をよみがえりの主は打ち倒される。しかしよみがえりの主がパウロを打ち倒されたのは、パウロを滅ぼしてしまうためではなく、救うためであった。救うためだけではなく、新しい使命を与え、それに生きるようになるためであった。一体、どんな使命が与えられたのか。「 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす 」(17節)。私たちに使命を与えられるというのは、私たちが救い出されて来たその場に、もう一度改めて遣わされることだと言うのである。改めて主の証人として遣わされるのだ。それは「 彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである 」(18節)。目を開かせる・・・今まで見えなかったことが見えるようにする。自分が立っていた高みとは深みであった、自分が生きていた安全とは破滅のことであった、自分が持っていた光明とは暗黒のことであった、自分の力を誇ることは他者を傷つけるだけでなく、自分自身をも傷つけることであったと、目を開かせる。かつてそのような誤解の中に生きていた私たちは再び、そこに遣わされる。主の証人として。2015年1月25日)