2013年11月24日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月25日~12月1日

11月25日(月) 詩 編 8編1節~10節
  この詩編の詩人は、神の創造の御業の前に圧倒される思い(4節)で、「 そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは 」(5節)と告白しています。この詩編には、神と人間と人間以外の被造物という三者の間にそれぞれ一線が引かれていることを喜びとする信仰が告白されています。人が神との一線を乗り越えて、自分が神のように振舞いだすと、この喜びは失われます。人が動物との一線を越え、獣のように振舞い出すと、多くの人が傷つき、命が奪われ、この喜びが失われます。人間がこの喜びを保ち、真に健やかに生きる道は、それらの一線を越えずに踏みとどまることなのです。5節の心で生きること、それが私たちの求める姿なのです。

11月26日(火) 詩 編 9編1節~21節
  主よ、御名を知るものはあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない 」(11節)。もし、あなたが神に依り頼まないのであれば、それは神を知らないからです。神の神たることを知ったならば、どうして神に依り頼まないことがありましょうか。人が信仰の小ささを嘆くことがありますが、それは神を知ることの少なさに原因があるのです。私たちがその人を本当に知るようになるには、多くの関わりが必要です。神を知るというのであれば、なおさらです。「 あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は・・・」(マタイ7章11節)、主の言葉を思います。

11月27日(水) 詩 編 10編1節~18節
  主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け、その願いを聞き、彼らの心を確かにし、みなしごと虐げられている人のために、裁きをしてくださいます 」(17節、18節)。神は心の貧しい人の祈りを聞いてくださいます。ならば、心の貧しくない人の祈りは聞かれないのでしょうか・・・・。いいえ、そうではありません。心の貧しくない人は祈らないのです。だから神がその祈りを聞こうにも聞けないのです。しかし自分の心の貧しさを知っている人間は、祈ります。祈れずにはおれないからです。人間関係でもあなたがある人にずっと声をかけないでいたとすれば、その人からは「 自分はあの人の中ではいないも同然の存在なのだ 」と思われてしまうことでしょう。「 どうしても祈れない 」ということはあると思いますが、それとは違って「 祈らない 」と言うことは、その人にとって神はいないのと同じなのです。

11月28日(木) 詩 編 11編1節~7節
  主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか、『 鳥のように山へ逃れよ 』」(1節)。困難な現実に直面するとき、私たちの心の中にひとつの誘惑が生じます。「 逃げてしまえ・・・」と。困難を前にして逃げ出してしまう・・・。それは、手っ取り早い解決方法に見えるかも知れません。しかし、問題を避けてそこから逃げ出そうとすればするほど、かえってその問題に縛りつけられ、苦しい思いになって行くものです。困難な現実から逃げずに、そこの中に踏み込んでいくとき、思わぬ形で解決の道が与えられます。主を避けどころとする人は、目の前の困難から逃げずに、そこで解決の道を与えられます。

11月29日(金) 詩 編 12編1節~節
  2節の「 主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました 」という告白は、日本に生きるキリスト者が共感する言葉ですね。私たちは、「 信仰のある人は消え去りました 」と言わねばならないような社会に生きていますね。今は確かに、社会倫理が破れてしまった時代です。私たちはそういう時代に、信仰を持つ者としてこの時代に生を受け、生きています。それは、「 主よ、お救いください 」と言う祈りを、この世のすべての人を代表として祈るようにと、神から使命をいただいているということなのではないでしょうか。いちじくの木を呪って枯らしてしまわれたイエス様のお姿は、神の民イスラエルの中に信仰を持つ人を必死に探し求めておられた姿でしたね・・・・。

11月30(土) 詩 編 13編1節~6節
  いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか 」(2節、3節)。こういう「 いつまでなのですか 」という言葉を口にしたくなることがありませんか。待つことはとても辛いことです。しかし、「 待つ辛さ 」を知ったものは、もはや人を待たせることをしなくなります。「 いつまでなのですか 」と口にしたくなるとき、ちょっと立場を変えて考えてみましょう。神はこの私に対して「 いつまでなのですか 」と、待っておられるということを・・・・。そのとき、あなたの心で何かが変わります。

12月1日(日) 詩 編 14編1節~7節
 「 神を知らぬ者は心に言う。『 神などない 』と 」(1節)。私たちはこの言葉を幾度となく、隣人から聞かされたのではないでしょうか。しかし「 信仰がなければ神に喜ばれることはできません 」(ヘブライ11章6節)。魚は水の中であれば自由に生きられます。そのように、神に造られた人間は信仰の中でこそ、自由に生きられるようになります。信仰の外に飛び出してしまうとき、罪の力に束縛され、窒息してしまいうのです。ストウ夫人の『 アンクルトムの小屋 』のトムは奴隷でしたが、主人レグリーとは対照的に自由な生き方をしていましたね。

先週の説教要旨 「 祈る教会 」 使徒言行録4章23節~31節

教会は、十字架につけられたイエス・キリストがあなたの主であると証する聖書の言葉を大胆に語り、伝道することを、その使命とする。しかし伝道という業は、いつの時代であっても簡単なことではない。困難が伴う。教会は、そこで知る困難な問題を、自分たちの知恵だけで解決しようとはせず、神に向かって声をあげることによって克服させていただき、伝道の働きを担い続けて来た。今朝の箇所は、そういう教会の姿を伝えている。

神殿の門のそばで、物乞いをしていた足の不自由な男の人を癒したことがきっかけとなって、ペトロは周りに集まった人たちに向かって伝道を始めた。しかしそのことが神殿の運営責任を負っていた指導者たちの耳に入り、ペトロたちは捕らえられ、「 決してイエスの名よって話したり、教えたりしにいように 」と脅されてしまう。このとき教会は、教会の命とも言うべき伝道の業を禁じられるという危機に直面したのである。釈放された2人は、仲間のところへ行き、祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した。残らず話した・・・つまり、問題を皆で共有しようとしたのである。皆が問題を共有することをまず第一のこととしたのである。報告を聞いた教会の人たちはどうしたか。「 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った 」(24節)。まず、祈った・・・。「 声をあげて 」の「 あげる 」は、「 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい 」とのイエス様の言葉の「 負う 」と訳されている言葉であり、「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい 」の「 背負う 」と同じ言葉である。つまり、教会の人たちは今、自分たちが危機的な状況にあるということを知ったとき、皆が、「 この危機に際して、私もまた負うべきことがあるならば、それを負います 」という決心をして、その決心において皆がひとつ思いになって神に向かって祈りの声をあげた、ということなのである。彼らは一体、何と祈ったのか・・・・。24節から30節に祈りが記されている。彼らは、神はすべてのものの造り主であって、すべてのことをその御手のうちに治めておられるお方。世の指導者たちが、私たちの大切な2人の伝道者を裁いて、脅したけれども、その彼らがこの世を支配しているのではない。この世を支配しておられるのは神、この危機的な状況さえも、神の手の中にあるのだという信仰をまず告白している。続いて詩編第2編を引用し、神が立てたメシヤと主に世の諸王が逆らうとのこの詩編の言葉は、イエス・キリストの十字架において成就した。指導者らはそのことに気づかないままに、今も「 イエス・キリストの名によって話すな、教えるな 」と、イエス・キリストの存在を抹殺してしまおうと企てているけれども、すべてのことを支配しておられるのは主である。その主に「 今こそ彼らの脅しに目を留め・・・大胆に御言葉を語ることができるように・・・どうか、御手を伸ばし 」と祈った。困難な状況に直面したとき、私たちはまずそれを神に向けて差し出すことができるのだ。「 主よ、今こそこの問題に目を留めてください 」と。問題を神に向けないで、自分ひとりで抱え込んで「 ああでもない、こうでもない 」とするのは、遠回りとなる。神は、「 苦難の日にわたしを呼べ、わたしはお前を救おう 」(詩編50篇15節)と約束してくださっている方だから、自分だけこんな大変な思いをしていると言いながら、それをひとりで抱え込んでいるならば、「 何とみずくさい。私とあなたのかかわりはそのようなものなのか 」と言われてしまうだろう。神はいつだって、私たちの状況に目を留めてくださいと言われることを期待しておられるし、あなたの問題に手を差し伸べようと待っておられる方なのである。もし人が、神に向かうべきところで、神に向かわずに、自分ひとりで問題を抱え込んでしまうと、どういうことになるのだろうか。「 なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか 」という詩編第2編の言葉が引用されているが、詩編第2編を開いて読んでみると、「 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか 」となっている。もし人が、神に向かうべきところで、神に向かわずに、自分ひとりで問題を抱え込んでしまうのであれば、そこで発せられる声は、むなしく、空に響くだけになってしまう。それは「 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った 」(24節)と、実に対照的である。神に向かって声をあげるとき、それは祈りとなる。だからその声には、ふさわしい手応えが与えられる。彼らは、大胆に御言葉を語らせてくださいと祈った結果、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした(31節)。「 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから 」(詩編121編)。天地を造られた方のもとから来る助け、それは「 祈り 」という道を通して、私たちのところへ来るのである。私たちは空しく声をあげる生き方ではなく、神からの祝福という応えをいただくような声をあげる生活をしよう。「 一同の集まっていた場所が揺れ動き 」(31節)とあるように、教会の人々は困難な状況によって揺り動かされるのではなく、聖霊に揺り動かされた。こんな幸いなことはない。ここに描かれている教会の人たちの姿は、ここにいる私たちの姿でもある。  (2013年11月17日)

2013年11月17日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月18日~11月24日

11月18日(月) 詩 編 1編1節~6節
   今日から詩編を読みます。詩編の言葉は、ユタヤ人たちが祈りの言葉として用いたり、賛美の言葉として用いたりしたのです。そのことは2節の「 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ 」という言葉にも表れていますね。「 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす 」(2節、3節)。主と親しく生きる者には、実を結ぶという約束が与えられています。しかし、ときが巡り来れば・・・とあるように、急いではなりません。寒い冬、暑い夏、それらのときを経て、実りの秋が訪れるように、私たちにも「 待つ 」ということが必要なのです。待ち通したときに、あなたの人生にも、豊かな実が実るのです。

11月19日(火) 詩 編 2編1節~12節
   この詩編は、神様が支配される歴史の壮大なパノラマを描いて見せているものですが、イエス様がすべてのものの王として即位されたことを預言したものとしても理解されています。それにしても「 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるの 」(1節)でしょうか。人間は神様に与えられた知性を用いて、原子力を開発し、臓器すら移植できるようになりました。しかし世界の1/3と言われる飢えた人の額のしわの意味が分からず、核で脅し合うことをやめようとせず、平和運動を展開する人たちが争っているのが実情です。歴史を支配しておられる方を忘れる時、人は騒ぎたち、空しい声をあげざるを得なくなるのです。

11月20日(水) 詩 編 3編1節~9節
  ダビデは息子に王位をつけ狙われる中で、「 主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか 」(1節)と言いました。私たちは自分を悩ませる事があると夜も眠れなくなりますね。ダビデはこの状況で「 身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます 」(6節)と告白します。悩み事の多くは、自分が悩んだところでどうにもならないことが多いものです。むしろ、その悩み事をも支配しておられる主を信頼し、委ねて眠ることです。ダビテはそのことをよく悟っていたのです。

11月21日(木) 詩 編 4編1節~9節
  主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください 」(7節)。このダビテの祈りをあなたはしたことがありますか。暗く沈んだ顔で街中を歩く人たちが増えましたね。あなたもそのような人たちのひとりになっていませんか。「 主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない 」(詩編34編6節)とあるように、輝く主の御顔を拝する者は、自分の顔にも輝きを取り戻します。エマオ途上の二人の弟子たちは暗い顔をしていたけれども、輝く明るい顔に変えられましたね。さあ、私たちも「 主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください 」と祈りましょう。

11月22日(金) 詩 編 5編1節~6節
   主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます 」(5節)とダビデは祈りました。朝ごとに、私たちの声を聞いてくださる神様がおられます。私たち信仰者の一日は、自分ひとりで始めるのではなく、朝ごとに私たちの声を聞いてくださる方と共に始まるのです。自分の思いや決心から一日を始めるのではなく、神様にあなたの声を聞いていただくことから、あなたの一日を始めてみませんか。今までとは全く違った一日を歩めたと、夜、床に就くときに感謝で一日を終えることができますよ。

11月23日(土) 詩 編 6編1節~1Ⅰ節
 「 主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる 」(10節)。この詩編の詩人は、深い嘆きの中にいたようです。「 主よ、いつまでなのでしょう 」(4節)の言葉からは、詩人の心の中で、期待する心と失望する心が綱引きをしている様子が想像されます。3節に、「 主よ、癒してください 」との言葉がありますから、この詩人は病気に苦しんでいたのでしょう。6節からは死の予感さえ感じさせられます。嘆きに遭遇しない人生はありません。大切なことは、その嘆きを祈りとして神様の御前に注ぎ出すことです。嘆きを祈りに!!使徒パウロは伝道の妨げになるような病を担っていました。その「 肉体のとげ 」を取り去ってくださるようにと、神様に祈る中で、私にとって「 病気は恵みだったのだ 」という発見に導かれたのです(Ⅱコリント12章7節以下参照)。嘆きを祈りにしてみませんか。

11月24日(日) 詩 編 7編1節~18節
 第7編は「 訴えられる者の祈り 」と言われています。ダビデは何もやましい心も、謀反の企てもないのに、サウル王から疑われ、いのちをつけ狙われてしまいました。そういうとき、私たちだったら、どうするでしょうか・・・。ダビデは人の「 心とはらわたを調べる方 」(10節)の御前に自分を持って行きました。私はかつて胃カメラを飲んだことがありました。もちろん、楽しい経験ではありませんでしたが、疑いのあるはらわたを調べてもらったわけです。その結果、「 異常は認められませんでした。あなたの胃は牛の胃のように立派です 」との診断をいただき、戸惑いつつ??、安堵した経験があります。誤解されたり、疑われてしまうとき、私たちはまず、魂の医者である方のところに赴きましょう。主がすべてを知っていてくださるところから始めるとき、私たちの心は平安に支えられます。

先週の説教要旨 「 この名のほかに 」 使徒言行録4章1節~22節
   使徒言行録4章には、エルサレムの神殿において足の不自由な男の人を癒したことがきっかけになって、ついにペトロたちが逮捕され、裁かれるに至った経緯が記されており、そのときの弁明がイエス・キリストを証しする伝道になったことが伝えられている。この箇所から伝道ということを学んでみたい。

 ペトロたちを裁いた議会の議員たちは、何の権威によって、だれの名によってあのような奇跡をしたのか、と尋問した(7節)。それに対して、ペトロは「 あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです 」(10節、12節)と答えた。福音を語るときに、しばしば問われるのは、世の中にたくさんの宗教があるのに、なぜ、キリスト教でなければ救われないのか、ということである。自分たちの信じる宗教でなければ救われないなどと言うから宗教の争いが起きるのではないか。もっと他の宗教に対して寛容になるべきだとの非難も聞こえてくる。しかし教会は「 この名のほかに救いはない 」ということを大切に信じてきた。私たちもこのことをよく心得ていたい。しかしこのことは礼儀知らずに、乱暴に他宗教を退け、非難するような傲慢な言葉を口にして良いということではない。いつも謙遜でいなければならないし、他の宗教の人にこのことを説得することはできないのである。この主張は信じてみないと分からないのである。信仰生活を重ねて行く中で、「 私はこのキリストによる以外には決して救われ得ない人間であった 」と、その認識が深まる中で得ることができる確信なのである。だから信じてみないと分からない、納得できないことなのである。だが、この確信がないと伝道の意欲が薄れてしまうのも事実。だから私たちは「 キリストによる以外には私は決して救われ得ない人間であった 」との、イエス様との結びつきを日々、深めて行きたいと願う。

 イエス様の裁判の場では、怖くなってイエス様を見捨てて逃げ出したペトロたちが、ここでは堂々と裁きを受け、イエス様のことを証言している。驚くべき変化である。8節に「 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った 」とあるように、この変化は聖霊による御業なのであり、伝道というのは聖霊に満たされないとできないということなのである。しかし聖霊に満たされさえしたら、誰にだって伝道はできることなのである。そう、弱さを抱えている私たちであっても・・・。聖霊に満たされるとは、ここでは「 主イエス以外に救いはない 」と信じて、主に身を委ねること。ただそれだけのこと、そしてその主に用いられて生きることである。「 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった 」。イエス様と共にいた・・・今もイエス様と共にいる・・・ペトロたちはそれ以外に何もない人なのである。主の御名が私たちのすべてだと言っていい。そういう私たちになっている。その時、伝道の不安も、迷いも、破れもまた主に背負われている。そのすべてをまるごと、主が受け入れ、用いてくださる。だから私たちにも伝道ができるのである。

13節に「 ペトロとヨハネの大胆な態度を見 」とある。人々に向かって大胆に語るペトロ、そうやって伝道する者と共に、ここにはもうひとり、違った形で伝道の働きを担っている者がいる。生まれつき足不自由であった男である。彼については「 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった 」と記されている。この人は何も語っていない。黙って立っているだけ。しかしイエス・キリストの力によって生かされて、今こうして自分はあるのだということを、その存在を通して語っている。伝道する人生というのは、立派な人格者になるということではない。優れた人物、ひとかどの有能な人物になることでもない。むしろ、主イエス以外には何もない人、主イエスの救い以外には、究極的には何もない「 ただの人 」になることではないか・・・。そしてそれは「 不思議な人間 」になることなのである。人々はペトロたちを見て驚いた。不思議に思ったのである。どうしてあのような無学のただの人があんなにも大胆に、雄弁に・・・・。それは説明のつかないことであった。キリスト者というのは、説明がつかない人生を生きるのである。その人生は「 ただ、イエス・キリストと一緒にいた 」ということからだけ、説明がつくのである。主イエス様が共にいるということを抜きにしたら、説明のつかない人生を送るのである。それ以外の尺度をあてがうと理解できないのである。ずいぶん無駄に見えるということもあるだろう。変わり者に見えるということも、愚か者に見えるということもあるだろう。世の知恵からすれば、なんともったいない、なんであそこまで・・・と不思議に思われることが多々あろう。私たちキリスト者は、主イエス様が共におられるということからしか、理解できない人生を生きる。しかしそうやって生きる人生は素晴らしい人生であり、人々を驚かせ、惹きつける何かを持つ人生なのである。2013年11月10日)

2013年11月11日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月11日~11月17日

11月11日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1節~7節a
   不思議な霊的経験をした一人の人についてパウロは語ります(2節~4節)。この人とは、実はパウロ自身なのです。なぜ、パウロは自分の経験を他人事のように語るのでしょうか。7節で、その体験を「 すばらしい 」と表現していますが、この言葉は「 尺度を超える 」という意味の言葉です。その経験は、自分の経験としては語れず、他人の事としてか語れないほどに自分の尺度を超えた事だったのです。私たちが神の祝福を受けるというのは、その最も深いところではパウロのこの体験と同じです。つまり自分の経験からすると、弱さに振りまわされ、まさに5節後半の言葉が自分でしかないと思われるそのところで、そういう自分の尺度を超えてすでに神が自分をしっかりととらえ、生かしてくださっている事を知る祝福です。

11月12日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章7節b~10節
   パウロには伝道の妨げになるようなとげがあったようです(7節)。とげは、肉体的な欠陥か精神的な欠けを言うのでしょう。パウロにとってはつらいものです。神の許容の中で、サタンがパウロに働きかけているのです(7節)。パウロはそれが取り除かれることを祈りましたが、三度(3回にわたる期間)祈って聞かれないとき、そこに神のご意志があることを知り、祈るのをやめた。サタンからの使いにとらわれているのではないかと思う体験と第三の天に引き上げられる体験(2節)。後者は14年前に一度あっただけの体験。前者は毎日の体験。両者を抱えこんでパウロは生きています。その中で主の答えを聞いています。「 わたしの恵みはあなたに十分である 」(9節)と。私たちには皆、生きるに十分な神の恵みが与えられています。

11月13日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章11節~18節
   コリント教会は伝道者の報酬という点で弱さを抱えていたので、パウロは配慮してあえて報酬を受け取らなかったようです(13節)。本来、伝道者の報酬というのは神が教会の人たちを通して与えられるものですが、コリント教会の人たちはそのような信仰的理解に立てず、伝道者を自分たちが雇うのだと考えました。そうすると、雇われた者は雇い主の言う事を当然聞くべきであるということになります。そこでパウロは受け取らない選択をしたのです。しかし教会の人たちは愚かにも、伝道者としての力量がないから、彼は報酬を受け取らなかったのだと、パウロを非難しました。パウロは相手の愚かな地平まで自分も降りて来て(11節)、愛の言葉で語りかけています。まるでイエス様が私たちに対して、語りかけてくださるようにして・・・・。

11月14日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章19節~21節
   パウロはコリント教会の人たちに会うとき、どんなことになるかと心配しています(20節~21節)。「 心配 」と訳された言葉は、「 恐れる 」とも訳せる言葉です。パウロは、人間を恐れているのではありません。人間の悪がうずまくとき、神がそこで何をなさるかを恐れているのです。コリントの教会の人たちが相変わらずであれば、パウロの語った神の恵みの言葉が届いていないということになり、彼は伝道者としての面目を失うかも知れない。神がそれをお許しになるかも知れない。そういう恐れ、自分の弱さを率直に語るパウロ。だからこそ、パウロは改めて「 弱さの中でこそ強い 」と言わせていただける恵みの原点に戻って来ないといけないと、自からを奮い立たせるようにキリストに結ばれて語るのです(19節)。

11月15日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章1節~4節
   パウロは2度目の訪問の際に、コリント教会で行われている様々な不道徳な行為を確認し、罪を犯している人たちに厳しく警告しておいたようです(2節)。ですから3度目の訪問では、「 私の期待に応える者であってほしい 」と願わずにおれないのです(12章20節)。パウロが不道徳な行いを「 悔い改めよ 」と言うのは、単なる道徳の勧めではありません。たとえ、世間で常識的に間違っていることであっても、なぜそれが間違っているのかをキリスト者はもっと深く悟っていなければいけない。それはキリストの言葉に背くことだから間違っているということなのです。

11月16日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章5節~10節
 「 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが 」(5節)。信仰者の自己吟味を促すパウロ。普通「 反省しろ 」と言われるときは、「 自分がどんな人間か分かっていなくて、もっと自分のしていることをよく考えろ、自分を知れ 」という意味が込められています。しかしパウロの言う反省は反対です。「 あなたがたの内にはキリストがおられる。あなたたちは自分が何ものであるか、よく知っているはずだ。思い出してごらん 」と言うのです。キリスト者は、自分のうちにキリストがおられることを忘れるとき、本当の自分を見失っている状態にいるのです。

11月17日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章11節~13節
 「 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように 」は、礼拝の最後でなされる祝福の言葉です。厳しい言葉を重ねるようにこの手紙を書いたパウロは、最後は祝福で終えます。たとえ、自分の目には祝福の中にあると思えないコリント教会の状況であっても、なお、「 祝福を受けた者は祝福の中にあるのだ 」という確信にパウロは立っています。私たちも同じ確信に立って、いろいろなことに向き合って行けるといいですね。

先週の説教要旨 「 契約の子 」 使徒言行録3章11節~26節
  この箇所にはペトロが語った説教が記されている。エルサレムの神殿の門のそばで物乞いをしていた生まれつき足の不自由な男が、ペトロたちに「 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい 」との言葉をかけられると、たちどころに立ち上がり、歩き出すという奇跡が起きた。それに驚いて集まってきた人たちに向けて語った説教である。ペトロの説教は、自分の力や信心によって、この人を歩かせたのではなく、イエスの名を信じる信仰がこの人を強くし、完全にいやしたのだと言って、そのイエス・キリストがどのようなお方であるかを集中して説き明かす説教である。

  ペトロはイエス・キリストをいろいろな名称を用いて人々に紹介している。「 僕イエス 」(13節)、「 命の導き手イエス」(15節)と言った具合に。今朝は、この「 命の導き手 」という言葉に注目してみたい。「 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です 」(15節)。
 「 導き手 」と訳されている言葉はとても豊かな意味を持つ言葉で、「 はじめ 」を意味する言葉から生まれた言葉。だからヘブライ人への手紙ではこの言葉を「 創始者 」というふうに訳している。命の創始者、命を造られた方というふうに。はじめというところから、先頭を歩く者という意味が引き出され、導き手という意味をも持つようになった。新共同訳聖書はそれを採用している。イエス・キリストは命の創始者、命の源。その命の源である方を、あなた方は殺してしまったとペトロは言う。命の源である方が殺されてしまう・・・そんなこと、ありえるのだろうか・・・。しかし、そのありえないことをあなたがたは引き起こしたのだ。それがあの十字架の出来事だったのだとペトロは言う。なぜ、そんなありえないことが起きたのか・・・・。人間が抱えている罪というのは、結局のところ、命の源である方を殺してしまう、なきものとしてしまう(なきもののように無視して生きる)ことを願う・・・それが人間の罪の性質なのである。しかし父なる神は、この方を死者の中から復活させられた。神はこの罪から人間を救う方法はないかと考えられた。そして唯一の方法として考えられたことが十字架の身代わり。イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして十字架につけて殺す、それによって罪の償いを果させる。そうすることによってしか、人間の罪が消し去られる道はない。父なる神はそう決心して、実際にイエス・キリストをこの世に送って来られたのである。

あなたがたは、このイエス・キリストを殺してしまった。私たちには、あの十字架において人々のイエス様への殺意が成就してしまったように思えた。しかし神は・・・・そうなのである、あそこで成就していたのは罪人を救おうとされた神の御心であった。神の御心は変わらない。 しかし神は人々の悪しき業を救いのための御業として用いられたのである。「 しかし神は・・・」、この言葉が私たちの口癖になったらどんなに素晴らしいことだろうか。私たちは、「 しかし私は・・・」というように、神という言葉が私に入れ替わり、いつも結論が「 しかし私は・・・ 」ということで落ち着いてしまう。しかし信仰に生きる者にとって、結論はいつも「 しかし神は・・・」なのである。

ある英語の訳は、「 命の導き手 」をAuthor of life と訳していた。Authorと言うのは、著者という意味。命の著者、人生の著者。イエス・キリストはあなたの人生の著者。真にあなたの命の源として、あなたの人生を導かれる方。あなたの人生の1ページ1ページを開いて、用意してくださる方。主が用意されるその筋書きは、恵みで満ちている。星野富広さんの詩に「 秋のあじさい 」というものがある。「 一日は白い紙 消えないインクで文字を書く あせない絵の具で 色をぬる 太く細く 時にはふるえながら 一日一枚 神様がめくる 白い紙に 今日という日を綴る 」・・・・私のために白い人生の1ページを今日も用意して、めくってくださる主に信頼して、そこに自身の一日の歩みを書き込んでいく喜びが伝わってくる詩である。人生とは、そうやって主から与えられるもの、自分のものじゃない。自分のものだと考えると、自分でその責任を負わなくてはいけないと考えるようになるから、つらくなる。何でも自分ひとりで背負っているように思えてしまうのである。だが、主の筋書を信じる者は違う姿勢で生きるようになる。それは無責任ではなく、主に委ねるという死生を生む。人生の著者に委ねつつ、生きる。

私の牧師仲間の知人は、自分が犯してしまった大きな過ちを赦せずに苦しんでいた。すでに相手も相手の家族も、彼を赦してくれていたのだが・・・。彼はその苦しみをノートに書き綴った。毎日、毎日・・・。そうやって彼は過去にとらわれ、新しい人生の一歩を踏み出せないでいた。その気持は痛いほど分かる。彼のことを心配した友が彼を旅行に誘った。だがその旅行の最中に、彼はその大切なノートを無くしてしまう。何度、来た道を引き返して探しても見つからない。だが奇しきかな・・・彼がそのノートを無くした日は、彼があの忌まわしい過ちを犯してしまった日と同じ日であった。彼は、主が「もう過去の過ちにこだわるな。新しい一歩を歩み出そう 」と働きかけくださったのだと受け止めた。(2013年11月3日)

2013年11月3日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月4日~11月10日

11月4日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節~15節
  各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです 」(7節)は、大切にしたい御言葉です。献金のことについてパウロは語りますが、おのおのが心で決めれば良い、喜んで与えれば良いと言います。そのような強制など感じない、不承不承などと感じない心はどこから生れてくるのでしょうか?それは神様が私を生かし、支えていてくださるという信仰です。5羽まとめて買えば1羽おまけについてくる雀でさえ、神は御目を注いでいてくださる。その雀以上の存在である私に神がまなざしを注がれていないはずがない(ルカ12章6節~7節)。すべてを神にお任せしている信仰は、いつでも喜んで捧げる心を造ります。

11月5日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章1節~6節
 パウロは、コリントの一部の人たちから悪評をもらっていました(1節)。しかし、そのような悪評を言う者には勇敢に立ち向かうと言います(2節)。「 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります 」(4節)。パウロは神が与えてくださる戦いの武器、神に由来する力によって悪評にも立ち向かいます。その武器は、キリストの優しさと心の広さ(1節)です。悪に対して悪をもって戦わない。悪に対して善をもって戦うのです。そこに神に由来する力が大きく働きます。世の人には、愚かな戦い方に見えるかも知れませんが、これが最も良い結果を得る戦い方なのです。

11月6日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章7節~11節
   パウロは12弟子の後から使徒として登場しました。コリント教会のペトロ派を自認する人たちは、自分たちは12使徒の直系であり、後から「 自分は使徒だ 」と出て来たパウロの、使徒としての権威を容易に認めることができなかったようです。私たちには権威を正しく理解して受け入れるのを難しいと感じることがあります。権威=威張るというイメージがあるからでしょうか。しかし、神から与えられる権威は、威張る権威ではなく、御言葉を通して人を建てあげる権威です(8節)。信徒も牧師も共に、御言葉を語り抜くために立てられている権威を重んじるのです。御言葉を語る牧師も自分に与えられている権威をいい加減に考えてはいけない。信徒も自分たちを建て上げるために目の前に置かれた権威を重んじる。そのようにして私たちは、実は人の権威ではなく、キリストの御業の権威を重んじるのです。

11月7日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章12節~18節
   コリント教会は、パウロの伝道生涯の中でもかなり長く時間を費やしたところです。しかしコリント教会では、「 パウロは限度を超えて働いた。他の伝道者に任せていれば良いのに、わざわざコリントまで来て長く働き、自分たちを誇ろうとしたのだ 」という非難があったようです。そこでパウロは、自分たちは限度を超えてはいない。むしろコリント教会の活動も自分たちの限度の範囲内に過ぎないと反論しています。自分が神様から託されている限度/範囲( 能力 )を正しく理解し、そこで精一杯働くことで満足できる心があるのは素晴らしいことです。他者と比較する心から自由になるには、神は一人一人に能力、範囲を与えておられる。しかし、それは「 公平に 」ではないという事実を真摯に受け止めることが大事なのです。

11月8日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章1節~6節
   キリスト者は、キリストの愛以外のものは受け入れません。つまり、キリストへの愛を損なわせるようなものを退けるのです。ただひたすら目の前におられるイエス様を愛するのです。パウロはそれを結婚の関係にたとえています(2節)。さしずめパウロは、自分の娘を一人の人に嫁がせた父親の心境でしょうか。夫であるキリストへの愛を一途に貫いて愛のかかわりをいよいよ深めて行ってほしい。誘惑があることを知っているだけに、一層真剣に願わずにおれないのです。そのようなパウロの抱く熱い思いは、神様がコリントの人々に抱く熱い思いの反映なのです(2節)。パウロの言葉から私たちに注がれている神様の愛が見えてきますね。

11月9日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章7節~15節
 パウロはいろいろな教会で伝道活動をしましたが、それぞれの教会の事情に応じて、伝道者としての報酬をもらったり、もらわなかったりと、自由な形で伝道しました。コリント教会では、無報酬で伝道したようです(他教会の援助で伝道した)。それがかえって、パウロはやましいところがあるから報酬を受けなかったのだと非難される結果を招いたようです。なぜ、パウロが無報酬で伝道したのか、コリント教会への配慮があったのでしょうが(9節)、詳しい理由はわかりません。自分の思いやりを非難の道具にされてしまったパウロの心境を察します。そのようなパウロの自由は、独善的でなく神がご存知です(11節)と言える点にかかっています。

11月10日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章16節~33節
 自慢話をすることは愚かな事です。しかし、パウロはそれをしないわけにはいかないところに置かれていました。彼はあえて、愚か者になって、肉の誇りを誇ります。キリストのために数多くの労苦を経験してきたことを長々と語ります。パウロの伝道者としてのスタートはダマスコでした。30節~31節は、パウロのダマスコでの体験です。そのスタートは苦難から始まりでしたが、そこでパウロは神のご加護を体験したのです。そのことがいつも伝道者パウロの苦難に対する姿勢を造りました。神は一人一人にそのような信仰生活を支える原体験を与えてくださいます。