2014年1月19日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  1月20日~1月26日

1月20日(月) 詩 編 64編1節~11節
   この信仰の詩人は、「 毒を含む言葉を矢としてつがえ 」た人々の悪事を神に訴えています。そのような「 敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください 」(2節、3節)と訴えます。戦時中、自分の住んでいた地域が毎日毎晩、太平洋上の敵艦から艦砲射撃を受けた人がいます。ある晩、皆が身を隠しているとき、ひとりだけ集中砲火に身をさらして堤の上を駆け抜けている人がいたそうです。それはその人の母でした。その人の名前を呼びながら命がけでその人のことを捜していたのだそうです。この体験がきっかけとなって、その人は「 神の愛 」を見出すに至ったのだそうです。身を挺してでも我が子を敵の脅威から守ろうとする愛、あなたはこのような愛に守られつつ、今日一日を生きるのです。

(火) 詩 編 65編1節~14節
   この詩編は、罪が赦される喜びの満ち溢れを歌っています。それは自然も一緒になって神を賛美していると感じる(14節)ほどに、この世界を見る目を新しくしています。4節の「 いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように 」は、罪が贖われ、御側近くにいられることの何ものにも変えがたい幸いを言い表しています。あなたもこのような幸いの中のひとりに数えられているのですよ。

1月22日(水) 詩 編 66編1節~20節
   この詩編の背後には、出エジプトという苦難と救出の出来事が思い起こされています(6節、12節)。神は時として、ご自身の民を苦難の中を通されることがありますね。「 神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された 」(10節)。キリスト者の生涯は、ハンモックの中で居眠りができるようなものではなく、溶鉱炉の中での精錬であり、修練です。銀が火で練られるように、人の心も苦難の火によって鍛えられます。しかしその火はすべてを焼き尽くして消滅させてしまうことはありません。ただ不純物を取り除けるためだけの火だからです。私たちは苦難の火と二人三脚で人生を歩みます。そのようにして、私たちのうちに「 神の御子の似姿 」が作り上げられて行くのです。

1月23日(木) 詩 編 67編1節~8節
   1節に、伴奏付き。賛歌。歌とあるように、この詩編は神殿の礼拝においてよく歌われた詩編のようです。この詩編の終わりは「 神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように 」(8節)と、自分たちの救いが全人類への救いへと広がることへの願いになっています。時として、私たちの信仰は「 わたしの神、私たちの神 」という領域にとどまってしまいます。しかし神は、全人類の神、すべていのちある者の神なのです。次々と敵を生み出していくような世の中にあって、「 全人類の神 」という信仰を掲げて、私たちは今日もとりなしの心と業に生きましょう。

1月24日(金) 詩 編 68編1節~36節
   この詩編は、壮大さと描写の美しさにあふれています。神をほめたたえる賛美の歌とか、神の勝利の歌とか言われています。「 主は言われる。『 バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう 』」(23節)。昔、神はエジプトからご自身の民を約束の地へと救い出されました。ここに示されているように、神は連れ帰る神です。あなたが今、どのような山の高みに取り残されていようとも、どのような海の深みに引き込まれていようとも・・・。この世に神の手の届かない地点はありません。いかなる失意の最果てにあったとしても、祈りの旗を立てて揺るがず待ち続けたいと思います。神が連れ帰ってくださるその時を。

1月25日(土) 詩 編 69編1節~37節
   詩人は深い悩みの中にあって祈っています。死を意識するような病の癒しと罪の赦し、そして偽りの非難をする者からの救いなど、一度に重なった種々の苦難からの救出を訴えています。子どもの頃、プールでおぼれかけた経験のある私には2節の言葉は強烈なインパクトをもって迫ります。「 神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました 」。私たちの人生を様々な濁流が襲う時があります。そのとき、心の内で密かに自分の支えとしていたものが流されて行きます。そして本当に自分の支えとなるべきものがはっきりとその姿を現してきます。幻影でない、本当の支えが、です。その方に向かって「 わたしを救ってください 」と私たちは切実な思いで叫ぶことができるのです。そしてその叫びは聞かれる叫びとなります。

1月26日(日) 詩 編 70編1節~6節
 迫害からの速やかな救助を求めるこの詩編は、詩編40編14節から18節とほぼ同じです。私たちは皆、神に対してはせっかちになりがちですね。「 速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください 」という気持を抱いたことのない人はいないでしょう。しかし神にとって、遅れると言うことは、決して拒否ではないのです。マリアとマルタの姉妹は、弟のラザロが重篤な病を患った時、イエス様の到着が遅かったことを嘆きましたね(ヨハネ11章)。しかし姉妹たちは主が自分たちの想定よりも遅かったことによって、かえって神の栄光を拝する結果を得たのでした。神が遅いというのは、最善のときが満ちるのを神が待っていてくださるのだと考えるべきことなのです。

先週の説教要旨 「 小舟を用意しよう 」 マルコ3章7節~19節 

「 おびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た 」(8節)とある。このようなことが起きるのは、イエス様の時代のことだけではない。今日においても起きる。イエス様がしてくださったことが明らかにされるとき、そこに人々は集まって来る。たくさんの悩み、痛みを覚えている方々が押し寄せて来る。毎日たくさんの人が教会を訪ねて来るわけではない。しかしたった一人の人の悩みを聞いていても、この社会全体が深く傷つき、病んでいることを感じる。そしてその痛みをどこに持っていけば良いのか、迷っているたくさんの人たちの姿が思い浮かぶ。もし、そこに魂の医者であるイエス様の御業が明らかにされるなら、人々は集まって来るのである。ここにはいろいろな地名が出ているが、これは言って見れば「 東から西から北から南から 」という意味で、実に広範囲からイエス様のもとに人々が押し寄せて来たことを示す。

 あまりにもたくさんの人々が押し寄せて来たために、イエス様は群集に押しつぶされそうになった。そこで弟子たちに言われた。「 小舟を用意してほしい 」(9節)と。これはもちろん、群集から逃げてどこかに行ってしまおうと言うのではない。湖に舟を浮かべ、そこから岸に集まる群衆に向かって語ろうとされたのである(4章1節、2節参照)。「 小舟を用意してほしい 」。これが、私たちが今年の活動主題として、イエス様から示されている御言葉である。群集の求めを体全体で受け止めようとしておられるイエス様が、「 あなたたちにも、この群集の悩み、苦しみ、真理を求める切実さが伝わってくるだろう。どうか私と一緒に、この群集の迫りを受け止めてくれ。何も大きな舟を用意してくれとは言わない。あなたたちの持っている舟でいい。あなたたちの持てるものをもって、この私と一緒になって、群集の激しく求めてくる力を受け止めてくれ 」・・・イエス様はそう言われたのである。ここに、私たちの伝道の原点がある。

考えて見ると、イエス様が押しつぶされそうになるというのはおかしなこと。なぜ、神の御子ともあろうお方が押しつぶされそうになっているのか。それは群集、一人一人を愛されたからである。十把ひとからげに扱うのではなく、一人一人を愛されたからである。今日の政治家は、群集(大衆)の力というものをよく知っている。大衆を無視したら、政治家としてやって行けないと心得ている。だがもう一方で大衆を軽く見ていることも事実。選挙の公約違反が横行するのもその現われだろう。しかし主はそのように大衆を扱われない。もし大衆を軽んじているなら、大衆のために押しつぶされそうになることはない。トルンアイゼンというスイスの牧師は伝道において、まとめて人間を扱うなと教える。ひとりひとり、ひざ付き合わせるような言葉を交しながらでないと伝道はできない。教会のひとりひとりが、痛みの中にある人と対話ができるようにならなければ、本当の意味で教会の伝道はではきないと・・・。主が弟子たちにそのことを求められたのだと思う。群集をまとめて扱わず、一人一人を粒だって命を持って生きている者として遇することをお求めになられた。

今日の午後、教会員懇談会を行なう。成瀬教会がこれからの伝道をどのように進めて行くかを、皆で祈り、考えるのだ。具体的な道筋を立てようとしている。私たちが伝道を考える時、帰らなければならない原点がここにあるのである。私たちは群集を十把ひとからげに扱うような伝道はしない。ひとりひとりとの魂の対話を重んじる。その対話へと至るための様々な道筋(小舟)を、自分たちのできる範囲で考え、工夫する。群集に押しつぶされそうになっているイエス様が私たちの助けを求められたのだ。小舟を用意してほしいと・・・・。

イエス様の激しい求めが、12人の弟子を選んだという13節以下の記事につながっている。この12人の名前を覚える必要はない。大切なことは、13番目のところに自分の名前を入れてみるということである。あなたも小舟を用意する一員としてイエス様に選び出された人間なのである。いやいや、そんな大それたことを私はできないと思わないでほしい。ここに挙げられている12人の名前を見ると意外なことだらけではないか。普通、何か一つの目的を持った組織を造ろうとする場合、できるだけチームワークを大切にしたメンバーを選んでいくもの。より優れた力を持つ者たちを選抜していくもの。しかし、イエス様の弟子選びの場合、これで本当にチームワークが取れるのかと、多くの成果を挙げられるのか、と思うようなメンバーである。しかも最後に裏切り者のユダの名前が・・・。そう、伝道の教会は最初から問題を抱えつつ、スタートするのである。問題がなくなったら伝道するというのではない。痛みがあり、問題がある、そういう群れに対してイエス様は一緒に伝道しようと声をかけておられるのだ。イエス様がやがてこの群集に押しつぶされてしまうときが来る。それがあの十字架だ。イエス様は人々の痛みや悩みの根源にある罪という大問題を解決するために、すでにこのとき、十字架を見据えておられた。ユダの選びはそのことを暗示する。その主が私たちに呼びかけておられる。小舟を用意してほしいと。私たちはそれに応えて行こう。(2014年1月12日)

2014年1月12日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  1月13日~1月19日

1月13日(月) 詩 編 57編1節~12節
 この詩編は表題に示されている通り、ダビデがサウルを逃れて洞窟に隠れていたときに詠われた詩編です。ダビデがエン・ゲディの洞窟に隠れていたとき、サウルが用を足そうと洞窟に入って来ました。しかしダビデはサウルに手をかけずに、自分にはサウルへの敵意がないことのしるしとして、ただその上着の端を切り取っただけであったという出来事がありましたね(サムエル記上24章)。ダビデは洞窟に身を隠すことが多かったようですいが、暗い洞窟の中でダビデはいつも何を想っていたのでしょうか。彼の行動を見る限り、恐れの心を増幅させるよりも、自分は主の御手の中にあるという信仰を深めて行ったようです。彼は洞窟内の壁を見つめ、自身の困難な状況と向き合いますが、彼が見ていたものは困難な状況の背後に置かれている御手だったのですね。あなたは困難な中で、何を増大させますか・・・。

1月14日(火) 詩 編 58編1節~12節
  表題が示すように、この詩編は神殿の礼拝で賛美歌として用いられたようです。もし今日の「 ○○賛美歌委員会 」であったら、『 賛美歌 』を編集するときに、このような賛美歌は採用しないでしょうね。激しい呪いと報復の歌だから・・・。9節、10節などは、よくもこういう言葉が思いつくものだと妙に感心してしまいますが、でもそれほどに「 憎まずにはおれない痛み 」があるのですね。そのような痛みを率直に神の御前に注ぎ出すことが許されている(人に対して注ぎ出すのではなく)ということが、この詩を通して、私たちが示されていることなのだと思います。ボイラーに取り付けられた安全弁と言っては言葉が軽すぎますが、私たちはこのような思いを神の御前に注ぎ出すことによって、自らの手で報復の血を流す悲惨から守られるのです。最後は、神がこの地を裁かれるのですから(12節)。

1月15日(水) 詩 編 59編1節~18節
  詩編59編は、「 サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見晴らせたとき 」の作であることが分かります。息も止まるような状況です。7節の「 夕べになると彼らは戻って来て、犬のようにほえ、町を巡ります 」という言葉は、夜のとばりと共に、詩人の不安は深まりのときを迎え、眠れぬ夜を幾度も過ごしたことを暗示します。しかすし、どんなことがあっても、どんなにつらく、苦しい日々でも、この詩人が心に決めて実行してきたことがあります。それは「 朝明けの歌 」を歌うことでした。「 わたしは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います 」(17節)。神をほめたたえることによって、一日を生き始める人は、必ず力強い日々を送っています・・・・。私の知るところでは。

1月16日(木) 詩 編 60編1節~14節
  この詩の背景は、2節の表題のところに丁寧に説明されています(サムエル記下8章参照)。「 神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください 」(3節)の「 突き放し 」という言葉に目が留まりますね。確かに神は、悔い改めない頑なな魂を一時的に「 突き放 」されるように想われます。しかしそれは「 救う 」のを拒まれるということではなく、「 救いのために 」拒まれるのです。私たちは時として、神に拒まれ、突き放された感じることがあるかも知れません。しかし、それは神以外のどこにも真の憩いがないということを思い知らされるための導きであって、決して拒まれたのではないことを忘れないようにしましょう。

1月17日(金) 詩 編 61編1節~9節
  詩編61編は心がくじけるときの体験を語っています。「 心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください 」(3節)。高い岩は大きな困難、試練を意味しています。それは行く手を妨げるものとして、目の前にそびえ立っています。詩人の体験は深刻なもので、「 地の果てからあなたを呼びます 」と言っています。携帯電話の画面に「 圏外 」と表示された場所では、助けを呼ぶことはできません。しかし私たちの神には「 圏外 」というものはありません。主を呼ぶ声は必ず届き、行く手を塞いでいると見えた岩の高さは、そのまま神の恵みの高さになります。

1月18日(土) 詩 編 62編1節~13節
 預言者ハバククは「 全地よ、御前に沈黙せよ 」(2章20節)と呼びかけています。その呼びかけに応えるかのように、この詩編62編は「 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ 」(6節)と言っています。大きな沈黙の中からこそ、人の心に伝わる音は生まれるのだとある音楽家が言っています。信仰者にとって沈黙とは、黙想であり、神の前に静まることです。すると、あなたの行く手に立ち込めていた霧の中から歩むべき道がゆっくりと浮かびあがるでしょう。それは神から受け取ることであって、人間のひらめき思いつきによる道ではありません。

1月19日(日) 詩 編 63編1節~12節
 この詩編もユダの荒野に逃げ込み、窮迫したダビデの経験から生まれたものと思われます。水のない荒野、それはそのときのダビデの心の状況とも重なっていました。私たちも人生のいろいろな局面で荒野の経験をします。しかしこの詩編は、そういう荒野にも神はおられることを証します。そして呼べば応えてくださるのです。ほかに何も期待できない人生の荒野こそ、人の魂が神の力と栄光を見出す聖所なのです。聖書では、荒野は試練を意味すると同時に、いつも人が神と出会う場所です。

先週の説教要旨 「 安息から始めよう 」 創世記2章1節~9節
 今年の最初の主日礼拝、神の天地創造の御業に思いを向けてみたいと思う。2章1節~4節は天地創造の最後の部分、言わば、締めくくりの部分。神は天地万物を造り、6日目に人間を造られたということは、天地万物は最後に造られる人間のために造られた。つまり、人間の舞台として造られたと言うことができる。人間が生きるためのすべての条件がそこで整えられている。食用として、植物、動物、魚、飲み物としての水が用意された。そして明るさと暖かさをもたらす太陽や月も造られた。しかしそれだけではない。人間にとって直接有用と思われないものも、その創造の業の中に含まれている。直接、人間の役に立つという枠を越えて、まったく人間にとって無用と思われるもの、あるいは無縁と思われる無数のものも、天地創造の業において造られ、人間が生きる舞台に置かれている。「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった 」(1章31節)とあるように、神は人間にとって直接有用ではないと思われるそれらのものもすべてご覧になった上で、「 極めて良い 」と判断された。すなわち、神のもとではすべてが有用なものとして、意味あるものとして存在しているのである。人間にとって意味が分からなくても、創造された神のもとではすべてに意味がある。そのことを信じて2014年、私たちはこの造られた世界を生きる。人間はそういう意味では自分にとって有用なもの、利用できる有用なものだけで生きているのではない。意味の分からないもの、意味の隠されている無数のものがある世界で私たちは生かされている。私たちにとってこの世界は分かりきった世界ではない。だからこそ、可能性が開けていると言えるのだ。人はよく人生不可解だと言って絶望するが、それは意味のない不可解ではない。この世界は不可解なことが一杯ある。しかし意味のない不可解ではないのだ。私たちには今の時点では不可解だけれども、創造者である神のもとでは必ず意味がある。だから私たちはこの人生を投げ出さないし、この世界に期待することができる。この世界の中で望みをもって、可能性を信じて生きることができるのだ。苦難もまたしかりである。苦難というのは、私たちにとって「 ないにこしたことはない 」もの、無縁であったらいいと思うものである。時に、意味の分からないものである。しかし天地万物を造られた方のもとでは、苦難にも意味があり、苦難もまた神の祝福につながるものとしてそこに置かれている。ノアの箱舟の物語で、あの洪水は言わば苦難であった。地上に生きるものをすべて滅ぼしてしまう水。しかし他方、その同じ水がノアにとっては自分が乗っている箱舟を地表から高く浮かび上がらせる働きをした。一方では人を打ちのめす水が、他方ではノアを高く浮き上がらせる水となる。苦難とはそういうものである。苦難が世の一切を呑み込んで行く一方で、信仰者にとってはそれが単なる苦難ではなく、試練であり、それを通じて民を救いへと引き上げて行く働きをする。神の祝福というのは、私たち人間が頭で考えるほど、分かりきった単純なものではないと、つくづく思う。神の祝福は人間には分からない部分がたくさんある。神によって本当に目が開かれた者たちだけが、神のなさるすべてのことは祝福につながっていると知るに至る。
 さて、6日間で創造の業を終えて、神は安息された。神が安息され、安息の日を祝福されたあとに、「 これが天地創造の由来である 」(4節)と言われているように、第7日の安息を含めて天地創造の働きなのである。神は6日間働いて疲れてしまわれたので、それで7日目に休まれた。いわば、7日目はつけ足しのようなものであって、本来はなくてもよかったものというのではない。人間の手は5本の指がある。4本は同じ方向を向いているが親指だけは違う方向を向いている。しかしその親指がなければ、手は手として昨日を失う。それと同じように、この第7の日の安息こそ、まさしく第一のものであり、これをなくしては先のすべてのものがゼロになってしまう。安息こそが神の創造の業の軸なのである。最初の6日間と第7日目には大きな違いがある。それは「 夕があり、そして朝があった 」という記述が第7日にだけないこと。つまり第7の日は終わっていないのであり、神の安息はまだ続いているのだ。なぜ、神の安息はまだ続いているのか。それは造られた人間が神の安息の中で生かされるためだ。神の安息から人が生き始めるためなのだ。このとき、最初の人間アダムはまだいかなる働きもしていない。指一本動かしていない。彼が最初にやるべきことは、まずこの神の安息に招き入れていただくことであり、神の息吹を吹き入れられて生きるようになることであった(7節)。土の塵が象徴するように、人間はもろく、弱い。しかしそのような人間の生が神によって肯定されている。「 あなたは生きてよい、生きる意味がある 」と言ってくださるのである。そこから人はすべてのことを始めるべく、創造されたのだ。しかし現代はこれと全く反対の方向に加速している。安息ではなく、何かの業をするということが軸となり、自分の存在価値を保証することになっている。自分が業をやめるというのは自分が不必要な人間になってしまうことを意味してしまうのだ。その不安を解消するために、人は働きに働きを重ね、結局、行き詰まる。2014年、神のもとにある安息をこそ軸とし、私たちはそこから始めよう。
                           (2013年1月5日)

2014年1月5日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  1月6日~1月12日

1月6日(月) 詩 編 50編1節~23節
   この詩編は、ダビデ時代の音楽指導者アサフによるものと考えられています。神が裁きのために法廷を開く場面を思い描いたものです。「 それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう 」(15節)。この聖句は2010年の成瀬教会の年間活動聖句でしたね。私たちが神を呼ぶのは、私たちが熱心であったり、正しい人間であるからというのではなく、呼ばずには生きていけない罪の弱さを抱えているからです。私たちが神の民であることのしるしは、何か特別な能力とか、正しさ、強さがあるというのではなく、その罪の弱さゆえに、日々、神を呼んでいるということなのです。しかし、その呼び求めに神は応え、ご自身の栄光を現してくださるのです。

1月7日(火) 詩 編 51編1節~21節
   詩編の中にある7つの悔い改めの詩編と呼ばれるものの一つで、最も有名な詩編です。2節の表題には、この詩の背景が短く説明されています(サムエル記下12章を参照)。もし人が人間らしく生きることを願うならば、その人は人間の悲惨を真剣に見つめなければならないでしょう。「 神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください 」(3節)と祈らずにはおれない現実を、ダビデに限らず、すべての人間は持っています。そのことに気がつくのは、自身の限界を思い知らされ、打ち砕かれるような時でしょう。しかしそこで始めて、開かれて行く道があるのです。人間らしく生きるための道が・・・。神はそこに、新しく確かな霊、聖なる霊、自由の霊によって(12節~14節)を授け、その歩みを支えてくださいます。

1月8日(水) 詩 編 52編1節~11節
   この詩編は、富める力ある物が貧しく弱い者を苦しめている様を描いています。詩人は、その弱い者のようです。「 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます 」(10節)。オリーブの木は地中3m~4mもの深さから水分を吸収するので、夏の乾燥期にも緑を保ち、安定の象徴とされていました。また、その栽培には長期にわたる平和を要するので平和の象徴とも考えられていました。生い茂るオリーブのように・・・・それは神の家にとどまり、命の源である神から日々、必要な糧を吸収し、神のご加護のもとに身を委ねるということなのですね。

1月9日(木) 詩 編 53編1節~7節
   この詩編は詩編14編ととてもよく似ています。「 神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と 」(3節)。神は探される神です。神を求めて一生懸命聖書を読み、そして目覚めて祈る人を探されます。そういう人を祝福して、用いようと考えておられるのです。一方、神を捜し求めようとしない人たちもいます。「 神を知らぬ者は心に言う。『 神などない 』と 」(2節)。神を探し求めようとしない人間の腐敗は、心の中で始まるのです。それは周りの人には分からない領域です。しかし神はそこまで探し、分け入って、見つけようとされます。あなたの心の中にご自身を喜ばせるものがないかと・・。あの広大な宇宙から戻って来た小惑星探査機のカプセルに砂埃やガスがないかと探した人のように。

1月10日(金) 詩 編 54編1節~9節
   この詩編はダビデの詩編の中でも最も短いもののひとつです。2節の表題からはダビデがサウルの王に追われて隠れていたところに、ジフ人が居場所を通報するという緊迫した場面で詠まれたものであることが伺えます(サムエル記上23章19節参照)。とすれば、そういう間一髪の時に、ダビデは他の何かをなすのではなく、まず神を覚えて祈ったということでしょう。ダビデはいつも「 自分の前に神を置いていた 」のですね。いや、神の前に置かれていたと言う方が正確な表現でしょう。自分を神という彫刻家の前に置かれた大理石だと自覚しましょう。自分からは何事もなさず、彫刻家の思うがままに、お任せするのです。それが完成品への道です。

1月11日(土) 詩 編 55編1節~24節
   この詩編の詩人には、死にたいと思うほどの重荷があったようです。詩の多くの部分を嘆きと苦悩の告白が埋め尽くしています。そういうとき、私たちはその場から逃避したいと考えますね。詩人も逃避したいと考えました。そして彼は、神の御翼のかげに逃避するのです。そして「 あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる 」(23節)と自らに言い聞かせています。私たちは宅配業者に荷を委ねることがありますね。自分の手を離れた荷物をあとは業者がきちんと処理してくれるのを信じて待つだけです。神はあなたが荷を任せてくれるのを待っておられますよ。

1月12日(日) 詩 編 56編1節~14節
 56編は私の大好きな詩編です。特に9節のダビデの言葉に心を打たれます。「 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください 」。イスラエルの人たちにとって、革袋は砂漠を旅するときの必需品。今日で言えば、水筒のようなものです。あなたが荒野のような人生の旅の途上にあるとき、神は共に旅をしてくださり、ご自身の革袋に私の涙を一滴残さず蓄えて、それを飲み干して(共に味わって)くださるのです。あなたの人生の同伴者としての神お姿が告白されています。


先週の説教要旨 「 アブラハムに始まり 」 使徒言行録6章8節~7章16節 
   今朝からステファノの物語を読み始める。かなり長い物語なので、比較的大きな区切りで読む。
  ステファノの名が初めて登場するのは6章5節。教会の食事の分配のことで混乱が起き、その解決策として食卓の世話をする奉仕者7人を選んだ。その7人の最初に彼の名が記されている。興味のあることに、この7人は皆ギリシャ語を話すユダヤ人たちであったと考えられている。使徒たちは食事の配給をする奉仕者7人を選んで問題の解決に当たらせ、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念した。だが、食卓のことを委ねられた人たちは説教をしてはいけない、というわけではなかった。彼らは教会の中で交わりを整えるために働くと同時に、民衆の間で伝道もしていた。もちろん説教もした。中でも「 ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた 」。そしてその説教を聴きとがめた人たちがいた。それが「 解放された奴隷の会堂 」に属する人々である。
  彼らは外地で育ったユダヤ人で、奴隷状態から解放されて祖国に戻って来た人たちであり、ヘブライ語よりもギリシャ語を話す方が得意であった。彼らは神殿で礼拝する一方、自分たちのグループの交わりの場として会堂を有していた。この人たちは外地で生活をしたユダヤ人であるだけに、ユダヤ人の伝統というものについては極めて、熱心、あるいは固執するほどにそれを厳守しようとした。自分たちもユダヤ人であることを周囲に認めてもらおうと必死だったのである。ステファノも同じように外地出身なので、もしかすると以前から彼らと親しかったのかも知れない。ところがステファノがキリスト者になると、自分たちと考えが違うようになった。その違った考えを説教の中で聴きとがめたのであろう。ステファノと議論になった。
  「 あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた 」(11節)、「 あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変える 」(14節)とあるように、イエスの影響下にあるステファノは、我々がしている神殿礼拝に対して批判的であり、また我々が大切にしているモーセが伝えた掟、その掟と結びついた生活の慣習を変えてしまおうとしている、そういう議論をしたようだ。
  本来、同志であるはずのステファノが反対のことを言い出した。苛立ち、憤る。しかし議論をしても歯が立たない。そこで偽証者を立てて訴え出て、最高法院によって裁かせようとした。イエス様の裁判と同じように・・・。
  大祭司の前に引き出されたステファノは問われるままに長い話を始める。ここにはアブラハムから始まり、旧約聖書が伝える物語がステファノの口によって語り直される。しかもキリスト者の視点から旧約聖書の物語をもう一回語り直し始めるのである。
  神はアブラハムにあなたを祝福するとの約束を与えられた。アブラハムの時代、彼には子どもがおらず、その約束はかなわぬと思われた。人間的に見たら可能性ゼロであったが、神は彼に子を与えられた。ヤコブの時代、彼らは約束の地を離れてエジプトへ下ることになる。約束の地を離れることは神の約束の実現から遠ざかることのように思われたが、その約束は保持されて行く。そのように、神の約束は困難な状況を貫いて進展して行き、その約束はイエス・キリストにおいて決定的に成就した。イエス・キリストこそ、アブラハムに与えられた約束の成就。それがステファノの理解。彼はその視点から旧約聖書の物語を受け止め直して語る。
  この「 キリストの出来事から過去の歴史を見つめ直す 」ということは、私たちに大きな示唆を与える。私たちに置き換えて言うなら、キリストの出来事から自分の過去の歴史を解釈し直し、それを受け止め直すということであろう。キリストの出来事という視点から「 わが人生 」を見るのだ。
  私たちの人生は、どこからそれを見るか、その見方によって非常に違ってくる。私たちの人生には成功と思える部分と失敗と思える部分とがある。この一年間を振り返っても、良かったと思える点、悪かったと思える点、そういうものが多々あると思う。信仰というのは、自分の人生の成功と思える部分から人生を見るわけではないし、失敗と思われるところから見るのでもない。いつでも、イエス・キリストの出来事、十字架と復活の出来事から自分の人生を見るのだ。十字架は、あなたの人生がいかなるマイナスの要素で固められていたとしても、その人生に赦しを与え、贖い、意味あるものへと変える。そうするためにキリストの十字架の犠牲が払われたのだ。
  この一年、あなたの人生の収支決算書、バランスシートはどうなっているだろうか。マイナスの項目が多いだろうか。しかしあなたの人生は些細な失敗でもって、すべてマイナスに転じるようなことはない。それどころか、たとえ容易に取り返せない罪や失敗によってさえも、マイナスになることはない。私たちのバランスシートにはイエス・キリストの十字架と復活の恵みが膨大なプラスの数字として記入されているからだ。それはまことに膨大な数字であって、正直なところ、私たちにはそれがどれほどの数字になっているか、自分でも十分には分かっていないほどなのだ。それは無限のプラス。どんなマイナスの経験も、この膨大なプラスの数字をマイナスに転じさせることはできない。私たちは自分が知り、理解しているよりもはるかに大きく救われている。それがキリストの十字架と復活を通して見えてくる私たちの人生なのである。     (2013年12月29日)