2012年4月29日日曜日

2012年4月29日 説教要旨


主のおもてなしを受けよ 」 ルカ10章38節~42節 

フェルメールというオランダの画家が、10章38節以下の小さな物語を絵に描いている。彼にとって唯一の宗教画がと言われているもので、マルタを諭されるイエス様のまなざしが何とも印象的な絵である。姉のマルタがイエス様一行を自宅へと招き入れた。「さあ、お食事の準備を致しますから、しばらくそこに腰掛けておくつろぎください」、そう言って彼女は台所へと姿を消す。そのとき、妹のマリアはマルタを追って台所に行くわけでもなく、そのままイエス様の足元に座ってその言葉に耳を傾けて始めたのである。マルタはひとりで料理を作り、お皿を並べ、盛り付けをする。おもてなしのために一生懸命に働いている。しかし、どうして妹は手伝いに来ないのか・・・ついにたまりかねて、マルタは戻って来てイエス様に言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」。するとイエス様は「マルタよ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」答えられた。小さな家の一室で起きた、よくありそうな出来事だが、この出来事はマルタとマリアの小さな家の中に留まることなく、今もこうして世界中の人たちに読まれ、人々の胸に迫ってくる、「必要なことはただ一つだけである」と・・・・。

40節の「マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」の「せわしく立ち働いていた」という言葉は、原文ギリシャ語では周りに引っ張られて、中心から引き離された状態を言う言葉が使われている。マルタには、大事な中心となるべきことがあるのに、この時のマルタは周りに引っ張られて、その中心から引き離されていたと言うのである。イエス様たちを接待しなくてはいけない。お皿はこれとこれで、料理はこれとこれ。いろんなことに思い悩み、いろんなことに引っ張られ、その結果、マルタは大事な中心となる事から引き離されていたのだ。そしてマルタは「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と、マリアだけでなく、妹に何も言ってくれないイエス様に対してまで批判的奈言葉を口にするようになってしまったのである。私だけが働いている・・・マルタは、そう思い込んでいるが、果たしてここで働いているのは本当にマルタだけだったのか・・・。実は、イエス様もこの時、働いておられたのではないか。御言葉を聞かせてくださるというおもてなしの働きをイエス様もしておられたのではないか・・・。礼拝のことを英語でサーヴィスと言う。礼拝は、私たちが主に仕えるだけでなく、主が私たちに御言葉のおもてなしをもって仕えてくださっているときでもあるのだ。マルタにとって、中心にあるべき事柄というのは、このイエス様おもてなしを、まず自分が受けること。イエス様の御言葉のサーヴィスを受けることが、中心にあるべき事であったのだ。私たちもその中心にあるべき事から、周辺的なことに心を奪われて、そのことに没頭して、周辺へと引き離されていくとき、マリアのようにただ忙しいだけの人間になってしまう。せっかく一生懸命、善きことのために働いているのだけれども、そこには充実感よりも、むしろ不平や不満、他者への批判、怒りなどに心を占められてしまう・・・。イエス様はそういうマルタに言われた。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。イエス様は2度、マルタの名前を呼ばれた。聖書の中で、2度、繰り返して名前が呼ばれるというのは、そこには愛といたわりが込められている場合である。イエス様は、マルタのことを決して、突き放してはおられない。マルタの労苦をいたわりながら、「必要なことはただ一つだよ。マリアはその良い方を選んだんだよ」とマルタを諭しておられる。フェルメールは、このイエス様のいたわりに満ちた愛の心を、そのまなざしに込めて描いたのだと思う。私たちがいろいろなことで忙しくして、心の中に他者への批判、不満、不平、そして自分はこんなに一生懸命なのに、誰も私の働きを認めて評価してくれない・・・そうやって苦しみ始めるとき、イエス様はこのマルタに語られたように、私たちにも「まず私のもてなしを受けなさい」と、私たちを招き、そこから解放しようと働いてくださるのだ。そういう方が私たちにはいるのである。

マザー・テレサは、取材や見学のために修道院を訪ねて来る人たちに決まってこう言ったそうである。「皆さん、私たちの活動ばかり見ないで、朝4時からの沈黙の時も見て行ってくださいね」と。シスターたちにとって、朝の4時からの沈黙のときとは、イエス様のおもてなしを受ける時なのである。そこを理解しないと、私たちの働きは分からないと言うわけである。そのマザーが「沈黙は祈りを生み出し、祈りは信仰を生み出し、信仰は愛を生み出し、そして愛は奉仕を生み出し、奉仕は平和を生み出す」という言葉を残している。東日本大震災で被災したキリスト者たちは、震災直後の日曜日の礼拝に、なぜこんなことが・・・と問うのではなく、「ただあなたの御言葉を聞かせてください」と、主の御言葉のおもてなしを受けることを切実に求めていたと言う。その姿は、人が生きようとするうえで、本当になくてはならないものが何であるかを証している姿なのだ。

2012年4月22日日曜日

2012年4月22日 説教要旨


あなたも行って同じようにしなさい 」 ルカ10:25~37

ひとりの律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と主に尋ねた。最近評判の高いイエスという男が、どれだけ神の掟をわきまえているかを試そうとしたのである。永遠の命とは、私たちが肉体の死を迎えたあと、なおそれを超えて生きる命のことであり、神が与えてくださる命だ。そのような命に結びついていく生き方とは、どんな生き方かを彼は問うたのである。しかし主は「あなたはどう思うか」と反対に問い返した。彼は即座に「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。主は、彼がそれを実行していないのを見抜き、そう言われたのだ。だから彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」と言い返したのである。彼は隣人に対して境界線を設けて、愛せる隣人、愛するに値する隣人は愛するけれども、自分が愛する価値はないと思った隣人は隣人とも呼べないと考えていたのである。イエス様は、隣人を愛することにそのような境界線を設ける彼の姿勢を問うて、このたとえを語られたのである。

エリコ下って行く途中、半殺しの状態で人が倒れている。その旅人に近づくということは、自分の予定を変更することを意味する。祭司とレビ人は向こう側を通って行った。2人は宗教家だが、傷ついた人を見て、これは好ましい隣人ではないと判断した。そしてこんな人のために時間を取られてはダメだ。この人に関わったら自分の予定が変えられてしまうと思って、通り過ぎた。傷ついて倒れている隣人がそこにいる。そういう隣人と出会っていない人はひとりもいない。自分の人生の道を歩いてきて、倒れて苦しんでいる隣人と一切、出会わずに歩ける人は、おそらくいない。そういう場面に出くわして、「ああ、この道は悪かったのかなあ」と思ったり、舌打ちをして「なんでこんなときに・・・別の時だったら」と言いながら、向こう側を通り過ぎるということがあるだろう。しかしそこにサマリア人がやって来た。ユダヤ人と他民族との混血で、ヤダヤ人からはひどく軽蔑され、見下げられていた人たちだ。そのサマリア人は倒れていた人を見て、憐れに思い近づいたために自分の予定を変更させられた。急にこのサマリア人にとって、人生は重たいものになった。この人と関わる事によって・・・。主はこのたとえ話を通して、私たちの人生にひとつの問いを出しておられる。一体、誰にも妨げられない人生、誰にも予定を変更されられない生き方、快適な人生、そういうものが本当に私たちのあるべき人生なのか・・・そして、そういう人生こそが、永遠の命につながらない人生なのではないのかと・・・。主は「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われた。快く愛せる隣人は誰かと、律法の専門家は問うた。しかし好ましい隣人と好ましくない隣人がいるわけではない。大事なことは「隣人になる」という生き方なのだと主は言われる。
隣人というのは、近づくことによってはっきりと見えてくる。近づかなければある程度の距離を保っているならば、単なるそこにいる人として普通に付き合うこともできる。しかし隣人というのは近づけば、近づくほど傷ついているのが分かってくる、そういう存在。そして近づくことによって、その傷が自分自身の重荷になるという経験をさせられる。重荷にならざるを得ないのである。しかしそれがイエス・キリストの答えである。どうすれば永遠の命につながることができるのか・・・。それは、隣人になるという生き方、すなわち隣人にかかわるという生き方、回り道をするという生き方、重たいものを自分の中に背負い込むという生き方、そういう生き方と、永遠の命とは深くつながっているのだと言われる。私たちは隣人なき人生というものを夢見る。傷を負っていない隣人、重荷を持った隣人と関わらなければならない人生ではなくて、もっとスムーズに歩ける人生はなかったかと私たちは考える。しかしそんな人生、もしあったとしても、それはまさに永遠の命につながらない生き方、命なのだということを、主はこのたとえを通して語っておられる。

このサマリア人とは、イエス・キリストのことであると解釈されてきた。そして倒れている人は、私たち人間・・・。私たちは罪に傷つき、瀕死の重傷にある。キリストはその私たちを見て、近づき、私たちのもとに立ち止まってくださった。それが私たちの救いだ。キリストが通り過ぎないで私たちとかかわってくださった。この世に来られて、私たちを自分の背中に背負って、私たちを宿屋へと連れて行ってくださった・・・。あなたも隣人になりなさいというイエス様のお言葉。それはまさにイエス・キリストが私たちにしてくださったことを指している。あなたが主にしていただいたように、あなたも同じようにしなさい・・・。隣人になるという道を選んでいきなさい。目の前にある重い現実。それは決して無意味なものではない。私たちが永遠の命へと結びついていくために神が与えられた現実なのだ。最後にもうひとつ。サマリア人は、自分のできることをしただけである。彼は自宅へ連れて行かず、宿屋に連れて行った。そう、彼は大きく背伸びするのでもなく、身の丈に合ったできることをしたに過ぎないのである。 

2012年4月15日日曜日

2012年4月15日 説教要旨


賛美から始めよう 」  ルカ10章17節~24節

72人の弟子たちが伝道から帰り、その成果をイエス様に報告している。弟子たちは「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までが私たちに服従します」と喜びにあふれて報告をしている。その報告をお聞きになったイエス様は、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」と、イエス様ご自身もそのことを一緒になって喜んでおられる。悪霊というのは、遠い昔話ではない。自分が何か他の力のとりこになっているとしか、言いようがないことが起こる。自分だけではない。自分の周りに生きている人、あるいはこの社会を見ても、どうしてあんなことをするのだろう、これはもう何かの力のとりこになってしまっているとしか考えられないようなことが起こる。誰も戦争を望んではいないのに、この世界から戦火が絶えることはない。ミサイルの数は増えるばかりである。それこそ、悪霊のとりこ、金縛りにあっているかのように、争いが起こり続ける。北朝鮮が人工衛星と称してミサイルを発射した。あのミサイル発射にかかる経費というのは、北朝鮮の人たちのほぼ2年分の食糧をまかなうことができる金額に匹敵するそうである。たくさんの国民が飢え死にしそうな生活を強いられている中であの出来事は起きた。何で国民を見殺しにしながら、あんな莫大な費用を費やすことができるのか、理解に苦しむ。悪しき霊の力のとりこになってしまっているとしか思えないようなことである。

 ある聖書学者が、今日におけるサタンの働きについてこういう主旨のことを言っている。サタン、悪霊というのは、今日では一部の地域を除けば、私たちに直接とりつくというようなことは多くはないが、だからと言ってサタンの働きを軽視することはできない。今日、サタンはこの世の制度、構造、システム、あるいは価値観、そう言ったものを通して人々を支配し、人々を破壊へと追いやるのである。トニ・モリスンの『青い眼がほしい』という小説の主人公は12歳の黒人少女。容姿がよくないという理由で、学校でいじめを受ける。テレビや新聞広告に登場してくるきれいと言われる女性たちは皆、ブロンドの青い眼をしている。そう、黒い目ではなくて青い眼が美しいのだ、美しさというこの世の価値観に照らしてみると、自分はとっても醜い人間なのだ。いじめられるのも無理はないと思い込んで行く。やがて少女は自分の眼が青くなればこの辛い毎日から逃れられると考えて、「どうかわたしの眼を青くしてください」と神様に祈りを捧げるようになる。そして最後には自らの精神を崩壊させることでその辛さから逃れる道を選んでしまう。これは小説の中だけのことでない。今もこの世界で、悪魔がこの世の価値観をもって、この世の様々なシステムを利用して、人々を支配し、滅びに至らせようと、うごめいているのである。それならば、そのような悪魔の力とどのように戦うことができるか。どうしたら、それに打ち勝つことができるか。72人の弟子たちは、主イエスの名によってするならば悪霊も倒れて、自分たちに服従するという体験をした。主イエスの名である。つまり、「主イエスの名を呼ぶ」ということが、人間に悪魔からの解放をもたらすのだ。主イエスの名を呼ぶということは、その名前によって支配されることを意味する。つまり、主に支配していただくときに初めて、人間は悪魔の力から解放される。私たちが捧げているこの礼拝も、主の名を呼ぶ場所である。主の名を呼び、主によって支配されることを喜んで受け入れる。それがこの礼拝の場。そういう意味から言うと、72人の弟子たちが経験した解放の喜びを私たちもまた知っているということ。こうして主の名を呼び、礼拝をしているところで、私たちも悪魔の力から解放されている喜びを知っているのである。

 さて、喜んで報告をした弟子たちにイエス様はこうも言われた。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」。イエス様がここで語っておられることは、どんなに大きな業をしようが、どんなに小さな業に終わろうが、等しくあなたがたの名は、天に記されている。その、天に名が記されているあなたがたの業は、天の父なる神によって、いつまでも覚えられている。消えることがないのだ、と言うことである。 弟子たちは、本当に目を見張るような出来事を体験してきた。彼らの業を見て、人々もまた驚嘆したであろう。しかし、伝道はいつもそのような目を見張るような成果を得られるというものではない。ならば大きな業ができたと言っては喜び、小さなことしかできなかったと言って落胆することになるのか。成果の大小にとらわれなくていいのだ。どんなに大きな業をしようが、どんなに小さな業に終わろうが、そのことで一喜一憂しなくていい。むしろ、あなたがたの名は天に記されている。その、天に名が記されているあなたがたの業は、天の父なる神によって、いつまでも覚えられている。消えることがない、そのことをあなたの喜びとしていい、と主は言ってくださるのである。あなたのどんなに小さな業も主に記憶されているのだ。

21節以下に、主の賛美の言葉が記されている。弟子たちの名が天に記されていることを喜ぶと言われた主が、聖霊に満たされ、天地の主なる父をほめたたえておられる。私たちも、主イエスのなさった賛美に、その喜びに心を合わせるところから生き始めたい。私たちのすべての業を始めたいと願う。

2012年4月8日日曜日

2012年4月8日 説教要旨

神の栄光を現せる 」  ヨハネ21章15節~19節

今朝はイースターの礼拝、およみがえりになったイエス様がペトロに語られた言葉を、心開いて聴きたいと思う。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」・・・そう、主は3度ペテロにお尋ねになった。3回同じことを繰り返されたのでペトロは悲しくなった。主が十字架にかけられた前夜、鶏が2度鳴く前に3度主を知らないと言ってしまったペトロ、主はそのことを意識して問いかけられたのだ。一番の痛みの部分にペトロは触れられたのである。一見すると酷のようにも聞こえるが、主はペトロの信仰のリハビリテーションをしようとしておられるのだ。リハビリと言うと、元の状態に戻すことを考えるかも知れないが、主のなさる信仰のリハビリは元の状態に戻すことではない。元の状態よりもさらに良くする。このときのペトロはすっかり自信をなくし、主の弟子であり続けることをあきらめて、ガリラヤの漁師に戻って来てしまっている。しかし主はそのようなペトロを弟子として復帰させるばかりか、いよいよ弟子としての主の愛に生きられるようにしてくださる。それが主のリハビリ。

 私たちにもペトロと同じように信仰のリハビリが必要なのではないか。さらに深められた信仰生活へと立ち直って行くリハビリが。私たちも主との親しい関係の中に力強く復帰することを必要としている。それができるとき、私たちは自分の心身の立ち直り、生活全体の立ち直りもできるだろう。そして仕事や人間関係の中でも立ち直ることができるだろう。信仰生活を生きている人で、このリハビリテーションを必要としない人はいまない。どのクリスチャンもその使わされた場所で戦い、傷つき、疲れを覚える。主イエスによる信仰生活のリハビリテーションを必要としている。復活の主の慰めの中で繰り返し、立ち直ることを必要としている。私たちが毎週捧げる礼拝というのは、そういうイエス様のリハビリを受ける場なのでる。

主は、「あなたはわたしを愛しているか」とペトロに問われた。この問いかけによってペトロは深く痛む。しかしその痛みの中でペトロは主の愛を深く感じている。一般的に言って、誰かが人を見限っていたならば、その相手に声をかけることはしないだろう。無関心になるか、仮に声をかけたとしてもあたりさわりのない表面的な言葉でやり過ごすに違いない。主はペトロに声をかける。しかもペトロの心の深いところにある問題に触れる言葉をもって・・。ペトロを愛しておられるのだ。これからもペトロと関係を持ち続けたいと願っておられるのだ。ペトロにはその思いがひしひしと伝わっている。ペトロはそこで主の思いを聴いている。「ペトロよ、私の身に起きた受難の苦しみ、十字架の出来事、復活・・・それらの一連の出来事は、すべてあなたのためのものだったのだよ、それが分かるか。分かっていれば、それでいいのだよ。ならばあなたは立ち直れるね」・・・・という主の思いを。主の問いかけに対して、ペトロは「はい、主よ わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えている。答えになっていないようにも聞こえるが、これはすべてをあなたにお委ねしますというペトロの信仰告白、愛の告白である。「あなたは全部知っていてくださる。私がどんなに弱い人間であるか、もろい人間であるか。それでいて私を愛するかと私に声をかけていてくださる。私は今、私の弱さの全部をあなたにお任せして、あなたに従って行きたいと思います。私のことをすべて知っていてくださるあなたが・・・・この私の中にあなたを愛する愛を造り出してくださることでしょうから、私はすべてお任せして従って行きます・・・」。

「あなたはわたしを愛しているか」、この問いは、あなたは主を愛する者とされているではないか、という響きを持つ。自分はイエス様を愛する者とされている、主がその歩みを支えてくださっている。私たちのリハビリも同じであって、主イエスを愛する者とされているということ、その愛を主が支えていてくださるということを繰り返し、主からの問いかけを受けて、新しく受け止め直して行く。私たちが自分に失望しているときにも、主以外のいろいろなことに心が傾いて思い煩いに心が潰されてしまいそうなときでも、私たちは主を愛する者とされている。それによって私たちの人生の中心はイエス様に置かれていて揺るぎがない。私たちは「主を愛する者」とされているではないか。そこからいつでも立ち直ることができるのである。

主は、そのあと「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。主の弟子とされた人には、誰にでも主から託された主の子羊がそばにいる。主を愛するその愛によって、愛をもって接すべき人が幾人かは与えられている。あなたの家族、友人、同僚、主にある兄弟姉妹。その務めを負う中で、ペトロがどんな死に方をするかも主は告げられた。行きたくないところ、それは何よりも死を意識させる場のことではないかと思う。だが、そこでもペトロは神の栄光を現せると言う。死の恐怖からイエス様を3度否んだ過去を乗り越え、ペトロは今度は主への愛を貫ける。主のリハビリがペトロを造り変えたから。

2012年4月1日日曜日

2012年4月1日 説教要旨

肯定されている命なのに 」  マルコ14章10節~21節

 12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」と記されている。過越祭というのは、ユダヤの民がかつて奴隷状態にあったエジプトの地から神様が救い出してくださった、そのことを記念する大切なお祭り。ユダヤの人々は、この祭りの特別な食事(過越の食事)のために入念な準備をした。お互いに心から信頼できる間柄にある者たちを10人から20人程度集め、そして過越の食事をした。弟子たちの場合、この過越の食事を用意したホストはイエス様。イエス様は過越の食事のホストとして、とても入念なご準備をなさっていた(13節~15節)。弟子たちの知らない所ですでに準備を進めておられた。心を込めて・・・。私たちであってもそうだろう。誰か大切な方を招いて一緒に食事をするということであれば、おいしい食事を用意するのはもちろんのこと、食べ物だけでなく、心のこもったおもてなしの準備をするだろう。そうやって自分がどんなに招いた相手のことを大切に思っているかを伝えようとするだろう。イエス様の場合は、なおさらのこと。この過越の食事の席でイエス様は「とって食べなさい。これはあなたがたのために裂かれる私の体・・・・飲みなさい。これはあなたがたのために流される私の血・・・・ 」と言って、パンとぶどう酒を掲げられる。主イエスご自身が、その命を差し出すほどの大きな、確かな愛を、弟子たちに抱いておられることをお示しになる。「どうぞ変わらずに、私の友でいてください。私の人生の道連れでいてください。あなたに私を差し上げたい 」・・・。過越の食事の席は、主の愛が注ぎ込まれている食卓。

 そのような愛の食卓において、イエス様は今まで決して口にされることのなかった恐るべきことを言われる。18節、「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』」弟子たちしは代わる代わる「まさか、私のことでは」と言った。誰のことか分からなかったのである。ただ一人を除いては。ユダだけは自分のことだと気がついたはず。彼はこの時すでに祭司長たちに主イエスを引き渡す約束をしていたのだから・・・・。主は続けて言われる。「12人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。それでもユダを除く他の弟子たちは分からない。主イエスとユダのふたりだけが分かっている。信仰というのはそういう面があると思う。周りの人がどんなに目を凝らしてよく見たって、その人の本当の信仰の姿というのは分からない。でもイエス様とその人だけは分かっている。そのふたりだけのかかわりの中で、イエス様はユダに最後の悔い改めを促しておられるのだ。主は、不幸だと言われた。なぜ、不幸なのか・・・・。最後の晩餐は弟子たちに差し出された神の赦し、キリストの肉と血を通して差し出された神の愛が差し出されている場。そこには神の痛みがある。イエス・キリストの痛みがある。神は人を受け入れるために苦しまなければならなかった。人間に罪があるから。人間の罪を受け入れるために、神は苦しまなければならなかった。そうやって、神が手を差し伸べてくださっている、それが最後の晩餐。主は定められた通りに去って行くのだが、裏切りを実行するユダはその責任を問われる。ユダがなぜ、主イエスを裏切ったのか、そのことははっきりとは分からない。はっきりと言えることは、ユダはイエス・キリストを通して示されたこの最後の悔い改める機会をも、自らの意志で拒否したということ。ユダはすでに裏切りという行為に手をかけていた。しかしそう言う者になお、救いの手が差し伸べられている。救われ難い者が、なお救われうる。それが最期の晩餐。救われ難い罪人に救いの手が差し伸べられている。痛みをもって・・・。

ユダはその愛を拒否する。罪ある者を赦し、その存在を認め、受け入れようとする愛を拒否する。ユダは主イエスの愛の腕の中に抱かれているのにそれを跳ね除けてしまう。その愛を拒絶する者には、もはやひとつの道しか残されていない。世間に自分を認めさせるために、他の人間に自分の存在価値を認めさせようとして頑張って生きる道である。どこかで自分を肯定させなくてはならない。肯定してもらわなければならない。そう思いながら頑張って生きなくてはならなくなるのである。神の愛を拒否するならば・・・。それは非常に不幸なこと。キリストの差し出して下さるこの恵みに自分をまかせることが信仰。こんな自分でも受け入れて下さるから・・・この手を広げているキリストの中に自分を投げ出す。それが信仰。肯定されている自分の命を知る。そこから人間は生き始めることができる。世の中の人間に自分の価値を知ってもらわなければならない。そんなことしなくていい。私たちはこのキリストの差し出してくださった、痛みをもって差し出してくださった恵みの中にいる。そうやって、「ああ、こんな自分の命をも肯定して、赦して、受け入れてくださっている方がいるのだ」と知ることから私たちは生き始める。生きようと思う。私たちは皆、このキリストの恵みのもとにいることを本当に感謝して受け止めて生きて行こう。私たちにはそれが許されている。