2012年12月30日日曜日

2012年12月30日 説教要旨


「 神の憐れみが届く所 」 ルカ18章9節~14節

今年最後の礼拝、一年の終わりの時期というのは、一年を振り返って恵みを数えたり、あるいは至らなかったことを悔い改めたりする時を持つもの。今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は、そういう私たちに自己吟味の助けとなるような箇所だと思う。この話は「たとえ」と言われているが、とても作り話とは思えない。ノンフィクションでも見ているかのように、私たち人間の姿を克明に見せてくれているたとえ話である。

 2人の礼拝者の姿が語られている。ひとりは、ファリサイ派の人間。彼は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」を代表する人物として登場している。彼は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言っているが、これは当時の規定以上のことであって、彼の信仰の熱心さを証するものである。しかしその彼が、礼拝後、神に義とされて家に帰ることはできなかったと言うのである。「義とされる」というのは、正義感があるとか、道徳的な意味で正しいということではなくて、神と正しい関係にあるという事。このファリサイ人は「あなたは私と正しい関わりにある」と、神に言っていただけなかったのである。それはなぜだろうか。

その理由は、彼の祈りの中に明確に現れている。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という彼の祈りには、神に何かを求めるという姿勢はない。徴税人のように赦しを求めることもないし、何か自分の欠けているものを満たしてくださいというものもない。むしろ、自分の立派さを主張しているだけで、神様に何かをしていただかなくても、自分は十分にやっていけますという誇りに満ちた姿勢でしかない。彼は「感謝します」と言っているが、神を頼らなくても自分の力でやっていける、そういうところでなお語られる感謝の言葉は、何と空しい言葉であろうか。イエス様は、このファリサイ人を自分は正しい人間だとうぬぼれていると言っておられるが、「うぬぼれて」は、原文はギリシャ語は「信頼する」という意味もあり、マタイ27章43節ではそのように訳されている。このファリサイ人は自分の正しさに信頼しているのである。あの十字架の上で人々からの嘲りを受けながら、なおも神に信頼したイエス様の信頼と同じような信頼を自分自身に対して抱いているのである。言い換えると、神を必要としないということ。神を必要としないほどに、自分の正しさを、自分の力を信頼しているのである。ファリサイ人の祈りには、神のお姿が一向に見えてこない。徴税人の祈りでは、罪人を憐れむ神のお姿が段々と大きくなってくるのだが、ファリサイ人の祈りには神のお姿が見えてこない。私たち人間は、真に神が見えなくなる時、隣人のみが見えるようになる。その隣人が大きく見えれば劣等感になるし、小さく見えれば優越感になる。神なしに隣人を見ると、必ず、この2つのどちらかになる。彼は他人を見下した。他者を見下すというのは、神から与えられたに過ぎないものを、その源から引き離して、自分の所有物にしてしまい、神の力と助けによってのみ可能となったことを自分の功績にしてしまうことから生まれる。ただ神様の恵みのゆえに可能となるような信仰の歩みだということを真剣に受け止めているならば、それが他者を見下す材料となることはない。私たちは何と、この過ちを犯してしまうことだろうか。自分の努力で勝ち取ったものも、本当は神に与えられた才能があってこそ、実を結べるものでしかないのに。それなのに、いつの間にかそれを自分の功績と考え、他者を見下す材料としてしまうなんて。ファリサイ人の立派な信仰生活だって、神の賜物があってこそ初めて可能となるものだったのに・・・。

一方の徴税人は、「遠く離れて」立っていた。ファリサイ人の立つ位置までは来られないのだ。この人は、普通の人がするように自分はできないと思っている。ファリサイ人のように、胸を張って祈ることなど、当然できない。むしろ反対に胸を打ちたたく。だからと言って、神から完全に離れてしまうこともできないのである。遠く離れていても、自分は目を天に向けることができなくても、神には目を向けていただきたいと思っている。神の方で自分の祈りに耳を傾けてくださるなら、神が私を赦してくださることも起きるのではないか。いや、神が自分を赦してくださらなかったら、一体自分は何を頼りに生きていけるのか。そういう思いで神の憐れみにすがっている。彼は・・・神に義とされて帰って行った。自らの弱さを知る謙遜な教会でありたい。ファリサイ人たちのように、自分たちは立派で、あとの人たちは駄目だ、みたいな教会に誰が来るであろうか。むしろ、この徴税人のように、神の御前に胸を打ち叩くことを知っている教会でありたい。それほど弱く、貧しい存在なのに、しかし神はそれを憐れんで救ってくださる。そう信じているところに人は集まるもの。自分も弱くても大丈夫だと思えるから・・・・。 

聖書日課 1月1日〜6日


成瀬教会 <聖書日課>  1月1日~6日

 今年の成瀬教会の活動標語は『神様と出会う』です。私たちが神様と出会うのは、何よりも聖書の言葉を通してです。日曜日の礼拝だけでなく、毎日、聖書を読むことを通しても、私たちは神様と出会うことができます。今年の前半は、マタイによる福音書を少しずつ読み進めて生きたいと思います。どうぞ、成瀬教会の聖書日課に参加し、皆で同じ御言葉に触れ、その恵みを互いに分かち合い、兄弟姉妹の絆をさらに深めてまいりましょう。


1月1日(火)マタイ1章1節~17節
  イエス・キリストの系図。あなたの家には、系図があるでしょうか。本来、系図というものは、その血筋を誇るために用いられますね。ところがイエス・キリストの系図はそうではありません。この系図の中には、ユダヤ人が蔑んだ異邦人のルツや遊女ラハブの名前、さらにはダビデが部下ウリヤから略奪した妻のことまでも書かれています。つまり、自ら恥をさらすような系図になっているのです。この系図は、イエス・キリストが人間の罪に連座してくださったという恵みを語る系図なのです。「 こんな私なのに 」と思うあなたに、キリストはつながってくださる方なのです。そしてあなたの罪という重荷を共に担い、引き受けてくださるのです。あなたは、自分ひとりで重荷を担っているのではありませんよ。

1月2日(水)マタイ1章18節~25節
 ヨセフは、いいなづけのマリアが自分の知らないところで身ごもったので、表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。これは律法の規定に照らすと、かなり温情的な措置です。石打ちにさえ値する事柄でしたから。しかし、決心はしたものの、本当にこれで良いのかと、ヨセフはなおも考え続け(20節)、行動に移せないままでいました。そんなヨセフが、神の夢によるお告げを受け、決心と正反対の方向に進み出します。人間的判断で簡単に事を済まさず、本当にこれでいいのか、と神様の前に問い続け、考え続けることが神様の祝福につながったのです。あなたは、どうしていますか。

1月3日(木)マタイ2章1節~12節
 占星術の学者たちは、幼子イエス様を礼拝したとき、彼らの宝を捧げました。彼らが捧げた黄金、乳香、没薬は、占いをするときに使った道具だったと言われています。つまり、商売道具を手放してしまったわけです。私たちは、自分の生活のためのいろいろなことで思い煩ってしまいます。しかし、イエス様を礼拝して行くとき、どうしても手離せなかった生活上の問題を、イエス様にお委ねして行くことができるようになります。学者たちは、本当に捧げるべき方に、自分の大切な事柄を委ねたとき、平安のうちに帰っていくことができました。これは絶対に手離せない、手離したくないと言って、私たちはかえって自分の手の中でそれをつぶしてしまうのです。イエス様に向かってそれを手離してみよう。

1月4日(金)マタイ2章13節~15節
 神様は、私たちの人生を導いてくださっています。それは、逃げて、とどまっているような時があり、呼び出される時があります。それは、静かに待つ時があり、積極的に活動する時がある、と言い換えてもいいでしょう。でも、真相は静かに待つ時に蓄えられるものが、実際に活動する時を支える力になるのですよ。毎日、聖書日課をしていますか。このわずかな時が、あなたの一日の長い活動を支える力になるのです。聖書日課を読んだ日と読まない日では、一日の疲れ方が違ってくるものです。さあ、今日も御言葉から始めましょう。

1月5日(土)マタイ2章16節~18節
 ヘロデは残忍な王様ですね。でも、私たちはヘロデとかけ離れた人間なのだろうかと、考えるのです。ヘロデは自分の王位が、王として生まれた幼子によって奪われるのではないかという不安にかられていたのです。失う不安というものは、恐ろしいですね。人の心に入り込んだ不安は、次第に増長し、最後には「 自分を守るために(自分が失わないために)、相手を殺す(相手に失わせる) 」というところまで行き着いてしまうものなのです。大切なものをイエス様に手放し、平安のうちに出て行った占星術の学者たちとは対照的な姿を見る思いがします。「平和があるように」というイエス様のお約束の宣言をいつも心に響かせていないと、不安から逃れる術はありませんね。

1月6日(日)マタイ2章19節~23節
 13節~15節のところ、16節~18節のところ、そして19節~23節のところと、すべてのところに「 主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった 」という主旨のことが記されていますね。幼子イエス様の身には、父なる神様が予め定められたこと以外は起きなかったということです。すべてのことは・・・それがたとえ辛すぎることであっても・・・・神様の御手の外にあるような事ではないのです。神の御子イエス様と共に歩む私たちの身にも、同様に、父なる神様が予め定められたこと以外は起きないのです。それが信仰者である私たちに与えられている優れた慰めなのです。この出来事は、神様のあずかり知らぬところで起きている事なんだって・・・・そんなこと、考えただけでも恐ろしいことですね。御手の中で起こっている事だからこそ、希望はまだあると言えるのです。

2012年12月23日日曜日

2012年12月23日 説教要旨


「 御子の生まれし所 」 マタイ2章13節~23節

主がお生まれになった家畜小屋は、ベツレヘムという町にあった。都エルサレムから南に8キロほど下ったところにある町。その名前は、ヘブライ語で「パンの家」という意味である。「わたしはいのちのパンである」と言われた主の言葉を思い起こす。パンの家とはメルヘンチックな感じがするが、ベツレヘムはその名前とは裏腹に数多くの悲しみを見続けてきた町なのである。創世記第35章16節以下、ヤコブの最愛の妻ラケルの出産の場面である。ラケルは自らの命と引き換えに、我が子を出産しようとしていた。ラケルは最初の子、ヨセフを産んだとき、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださるように」と願った。その願いがかなえられようとしている今、ラケルの命は取り去られようとしているのだ。神様の聖なるご意志とは言え、ラケルはこの現実を受け入れることができなかった。ラケルは最後の息を引き取ろうとするときに、我が子にベン・オニ・・・わたしの苦しみの子と命名しようとした。我が子が生涯、若くして死んだ母を記念して、悲しみの中にたたずんで生きるようにとの願いをその名前に込めようとしたのだ。しかし夫ヤコブは、我が子が生涯、この名を引きずって歩むことを望まず、ベニ・ヤミン、幸いの子と命名した。ヤコブは生まれたばかりの我が子が、悲しみの方向に生きるのではなく、幸いの方向に生きることを願ったのである。こうしてラケルの遺体は、エフラタ(今日のベツレヘム)に向かう道の傍らに葬られた。ベツレヘムは、ラケルが我が子と一緒に到達することができなかった、母ラケルの悲しみが注がれた町なのである。

それから何百年も後、預言者エレミヤの時代、ユダヤの国がバビロンという国に滅ぼされ、ユダヤの民は捕囚となって、バビロンに連れ去られて行ってしまう。そのとき、再びベツレヘムは母親たちの悲しみの町となった。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(エレミヤ書31章15節)。イスラエルの民が捕虜としてバビロンに連れて行かれるときに、ベツレヘムは集結を命じられた町となった。バビロンは自国に有益と判断された者たちをこぞって捕虜として連れて行った。やはり、若い人たちが多かった。彼らはベツレヘムの地に集められ、そこから異郷の地バビロンへと連れて行かれた。捕虜となってベツレヘムを出発して行く息子たちの姿を見て、母親たちは耐え切れずに涙を流した。愛する我が子を取り去られた母の悲しみを、預言者エレミヤはあのラケルの悲しみに重ねたのだ。ベツレヘムは、捕囚に連れて行かれる我が子を悲しむ母親たちの悲しみの涙が流された町となった。

それからさらに600年、再びベツレヘムに悲劇が起こった。ユダヤの王ヘロデの命令により、ベツレヘムとその周辺一帯にいた幼児の大虐殺が行われたのである。ヘロデは、ベツレヘムで王としてお生まれになった御子を、自分の王位を奪う者として、そのまま生かしておくわけには行かないと思った。しかし東方の学者たちは御子を拝んだあと、ヘロデのところに戻らなかった。そのため王として生まれた赤子がどの子なのか、確定することができず、結局ヘロデはベツレヘムとその周辺の町々に住む赤子と幼児までも殺してしまったのである。愛する我が子が理由もなく殺され、悲しむ母親たちの叫びが再びこの町に響いた。ラケルの墓の前で再び悲劇が起きたのだ。マタイはラケルの悲しみと重ね合わせて、あのエレミヤの預言の言葉を引用している。このように、ベツレヘムは多くの母親たちの涙が流されてきた地。愛する我が子との間を無理やり引き裂かれるという悲劇が繰り返された地なのである。どうすることもできない歴史の現実、不条理・・・それらを引き起こす人間の罪という現実の前で、無力の涙が流された地である。しかしそのベツレヘムの地に救い主イエスはお生まれになられた。それは、母の悲しみの現実を生んだ人間の罪のただ中に、イエス様は生まれて来られたということなのである。ヘロデによる幼児虐殺の出来事を読んで、イエス様がベツレヘムに生まれたばっかりにこんなことが起きてしまったのだと思うかも知れないが、ヘロデのような人間が王として君臨していることこそが問題なのである。世の中には、そのような不条理なことがたくさんある。「何で・・・」と言いたくなることが一杯ある。主はその悲しみのただ中に入って来られた。私たちの悲しみの中に共に立つためである。

考えてみると、主のご生涯は、罪の痛みと不条理の中に立ち続けるご生涯であった。神の御子であるのに家畜小屋に生まれ、愛に生きたにもかかわらず、指導者たちからは排斥され、その行き着いた先は十字架であった。十字架上での最後の言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、主が最後まで人間の罪と不条理の中に立たち続けられたことを示している。しかし、その叫びに父なる神は復活という恵みをもって応えられた。そのとき、不条理は主の死と共にその息の根を止められてしまった。主と共にある私たちにとって、もはや罪と不条理は力を持たなくなったのだ。罪と不条理を圧倒的に凌駕する神の愛が私たちに注がれていることが明らかになったのだから。それがクリスマスを祝う私たちひとりひとりに与えられている神の恵みである。

2012年12月16日日曜日

2012年12月16日 説教要旨


「 祈りを要請される神 」 ルカ18章1節~8節

「気を落とさずに絶えず祈らならなければならないことを教えるために」と、語られたイエス様のたとえ話。「祈らなければならない」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「祈る必要がある」となっている。一体、誰が祈りを必要としているのだろうか。祈りは「私たち」の必要が満たされるためにするものだと、当然のように考えているかも知れない。だが、このたとえ話では「イエス様」が私たちの祈りを必要としておられ、私たちに祈ることを要請しておられる、そういうたとえ話なのである。たとえ話の結びで、「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と、主は言っておられる。「人の子が来る」というのは、先週の箇所で見たように主の再臨のことである。そのとき、地上に信仰を見出すことができるだろうかと主は言われる。この言葉にはイエス様の強い願いが込められているであろう。「私は人々の信仰が満ち溢れる中で迎えられたい。それを切望している。だが、そのように満ち溢れの中で迎えてもらえるのであろうか・・・」。ここでいう信仰は、絶えざる祈りを生んでいる信仰である。祈らずにはおれないという信仰。そういう信仰の満ち溢れの中で私は迎えられたいのだと、主は言われるのである。

では、その祈りの内容は何であろうか。一人のやもめが登場する。彼女は裁判官のところに行き、必死になって「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えている。当時の社会では、生活に困窮しているやもめが数多くいたらしい。そして、やもめたちはしばしば、悪質な指導者や搾取する者たちによって虐げられていたそうだ。神の律法は、やもめたちに対して特に憐れみを施すようにと教えているが、実際には、弱い者を守るどころか、むしろ弱い者を食い物にしてしまう社会の現実があった。正義が行なわれていなかったのだ。おそらく、このやもめも何か不正なことでもって、苦しい立場に置かれてしまったのだろう。裁判官のところに来て、必死になって訴える。「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と・・・。この必死になって「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と訴えるやもめの姿の中に、主は弟子たちの姿、そして教会の姿を重ねておられるのである。主は山上の説教と呼ばれる箇所で「義に飢え乾いている者は幸いです」と言われた。義とは神の正しさ。神の正義がこの世に打ち立てられることを飢え渇くように求める者、神の正しい裁きが行なわれる日が早く来るようにと求める者は幸いだと言われたのである。このたとえも同じことを語っている。このたとえ話では、「裁く」という言葉が繰り返される。やもめが裁判官に正しい裁きを求めて食い下がったように、私たち教会に生きている者たちは、この不正がまかり通り、弱い者たちが虐げられている社会のただ中にあって、「神よ、どうぞ、あなたの裁きを行なってください。あなたの正義を打ち立ててください」と、飢え渇くように祈り続ける・・・その祈りをイエス様は切実に要請しておられるのである。神の正しい裁きが行なわれる時というのは、イエス様が再びこの世に来られる時である。その時、イエス様はすべてのものを裁き、白黒、決着をおつけになる。この世の歴史にピリオドが打たれ、そこに神の正義が打ち立てられる。主が再び来られる時というのは、神がお定めになるのであって、それがいつなのか、私たちには分からない。だが、神は私たちの祈りを用いる形で、その時をお定めになるのである。

 気を落とさないために・・とあるが、私たちは気を落としてしまうことがある。この不正な裁判官のように、「神など畏れないし、人を人とも思わない」人間が権力の座についているのだから、どうしたって、世の中が良くなるはずがない。いくら選挙に行ったところで、政治家たちだって、結局は自己保身ということが先に立って、本当になすべきことなんかしてはくれない。この世は正義が勝つなんてことはない。悪人が栄え、正しい者が馬鹿を見る不条理な世界なのだ。そう言って気を落とし、あきらめ、祈らなくなるのである。でも、このやもめはあきらめないで、必死になって食いさがった。そして裁判官の心は動く。やもめが可哀想だからではない。このままだと自分が持たないと思ったから。こんな裁判官でも訴えを聞いたのなら、「まして神は」・・・とイエス様は言われる。神は、この裁判官とは正反対の方。ならば、喜んで聴かれないはずはないと・・。困窮していたやもめ、信仰者は願い続けるより他、なす術がない。昼も夜も祈る。それは熱心であるからではない。昼も夜も問題が次々と起こり、不安が尽きないから。そして本当の解決は、この方のところにしかないと知っているから・・・。私たちはこの国が少しでも良くなるようにと選挙をし、選ばれた人たちに協力もする。だが政治の力だけでこの世の問題がすべて解決するとは思っていない。世の中の問題の根底には、人間の罪がある。エゴイズムという罪が。人間の力でその罪に勝つことはできない。罪に打ち勝てるのは主ただおひとり。だから主の再臨を切に待ち望むのである。マラナタ(主よ、来たりませ)の大合唱の中で主をお迎えしようと、祈りの火をともし続ける、それが教会。クリスマスの日、後に主を殺してしまうような不信仰に満ちた世に、イエス様は飛び込んで来てくださった。ならば、マラナタの祈りが満ち溢れているならば、主は速やかに喜んで来てくださらないはずがない。

2012年12月9日日曜日

2012年12月9日 説教要旨


先週の説教要旨 「 主は再び来られる 」 ルカ17章20節~37節

 世間でもクリスマスのお祝いがなされている。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日だという理解は持ちながら祝っているようだ。それはありがたいことである。しかし、教会のクリスマスの祝いと世間のそれとには決定的な違いがある。教会のクリスマスの祝いには、御子がお生まれになったことを喜ぶだけでなく、その御子が再びこの地上に来られることを待とうという希望が込められている。今朝の箇所は、御子の再臨についての言葉が語られている。その発端となったのはファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」との問い。彼らはまだ神の国は来ていないと思っていた。神の国というのは「神の支配」のこと。ファリサイ人たちは、もし神の支配がここに来たならば、ローマ帝国の植民地と化しているユダヤの国は今すぐ解放される。そしてダビデ時代のような繁栄した国へと復興されると考えていた。そのような解放をもたらす者こそ、救い主メシアなのだと考えていた。救い主であるイエス様は、もう彼らの間に来ておられるのだが、神の国の到来=ローマからの解放と考えていた彼らにはイエス様がなさっている働きを見ても、神の国が来たとは思えなかったのである。

神の国の到来に関して、旧約聖書が予言していることは足の不自由な人、目の不自由な人、耳の不自由な人が癒されるということが起きると言う。弱き者が立てるようになるのだ。あるいは、狼と子羊が共に住み、若牛と若獅子が草を食べ、乳飲み子がまむしの穴に手を入れるというように、弱肉強食の姿はなくなり、「愛の原理」が世を支配するようになる。神の国が来るとそういうしるしが現れるというのだ。愛に対立する原理は、罪の原理である。人間にエゴイスティックという罪がある限り、愛の原理が働く世の中になることはない。だからこそ、救い主は、人間の罪を取り除くための闘いをされているのだ。そのための究極の業として、主は十字架におかかりになる(25節)。救い主は、この世界が神の支配を中心とした愛の原理のみが働く世界とするための御業に集中される。それが救いなのであって、武力によるローマからの解放が救いなのではない。ファリサイ人たちにはそれが分からない。

 イエス様が来られたことによって、その救いの御業が始まった。神の国が始まったのである。だが、完成はしていない。その完成は、再び、イエス様が来られるとき、そう、再臨のときに完成するのである。その時までは、始まったけれども、途上にあるのである。それゆえに、弟子たちには戦いがある。神の国の完成へと向けて、少しでも愛の原理が働く世界となっていくための闘いがあるのである。忍耐が求められる。終わりまで耐え忍ぶことが求められる。そのことをおもんばかって、イエス様は弟子たちにも語られる(22節以降)。ここで言われていることの要点は、イエス様が再び来られるのは、突然のことであって、しかしそれは必ず、起こることだ。それを「確信」をもって待てばよいということ。イエス様は思いがけないときに来られる。稲妻がビカッと光るのが私たちにとって突然の出来事であるのと同様、イエス様も突然やって来られる。思いがけない時に来られるのだ。だから、イエス様が来られることにおのが目標を定めて、生きていなければならない。ノアの時代の人たちは、洪水が起こるなんて信じていなかった。ロトのときもそう。滅びが襲うなんて信じていなかった。それと同じように、人の子(救い主を指す表現)の再臨が起こるなんて全く信じられない、というようなことではいけないとイエス様は言われる。「人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり」と、日常生活をしている。しかしその日常性はいつまでも続くものではないのだ。どこかで断ち切られる。主による終わりがある。その終わりを計算に入れて今を生きているかどうか、それが問題なのだと主は言われる。

 主の再臨が起きるとき、一人は連れて行かれ、一人は残ると言う(35節)。救われる者と滅びる者との一線が現れるのだ。それまで全く隠れて見えていなかった一線が突然現れる。これまでひとつの絆で結ばれていて、何もかも一緒に体験していると思い込んでいた者たちの間に、断絶が生まれる。日常生活では隠れていた一線が浮かび上がる。永遠との関わりはそのように厳しく人を分けるのだ。「死体のある所には、はげたかが集まる」という言葉の意味は、主の再臨は、救いと滅びを地にもたらすということなのである。

 私たちは再臨ということをどれほど期待しているだろうか。切望しているだろうか。再臨の時は、罪からの完全な解放であり、愛の原理が完全に私たちの生の原理となる時。そのことを切望する姿勢は、私たちが愛に真剣に生きようとすることなしには起きない。愛の原理に生き得ない社会の罪、そしてその社会を形作っている一員である自分自身の罪、それと向き合わされ、何としてもそれから解放されたいと切望させられるのでなければ、再臨信仰が私たちの生活の根幹となることはない。愛に生きることと再臨を待つこととは深く結びついている。主の再臨を切望し、自らの愛の貧しさに耐え続けているとき、その自分を背後から支えてくださっている方がおられることに出会う。だから前を見ることができる。先になお苦しみがあるとしても、背後にある主の苦しみが私たちを支えている。

2012年12月2日日曜日

2012月12月2日 説教要旨


「 感謝を生む心 」 ルカ17章11節~19節

イエス様がエルサレムに上る途中、重い皮膚病に苦しんでいた10人の人を癒された話。病を癒された10人のうち、ただ一人だけがイエス様の元に戻って来て感謝した。なぜ1人しか戻って来なかったのか、私たちの関心をひく。主は戻って来た1人を外国人と呼んでおられる。さらにルカはわざわざ「この人はサマリア人だった」と書いている。この出来事はユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられているのである。おそらく10人のうち9人はユダヤ人で、主の元に戻って来た人だけがサマリア人であったのだろう。ユダヤ人とサマリア人は極めて仲が悪かった。サマリア人はユダヤ人が他民族と結婚して混血になった人たちのこと。神に選ばれた特別な民族であることに誇りを持っていたユダヤ人たちからすると、彼らは民族の誇りを捨ててしまった人たちであり、軽蔑すべき存在だった。そんな彼らがここでは一緒になってイエス様に助けを求めた。重い皮膚病という同じ苦しみを味わっているという事実が、彼らの間の障壁を取り去り、そこに深い絆を生んでいた。重い皮膚病にかかった者は、この当時、「神に捨てられた者」と見なされていた。神に棄てられた汚れた存在として、社会から隔離されて人目に触れぬよう、町外れでひっそりと暮らさなくてはならなかった。遠く離れたところに立ち、10人があたかもひとつの声のようになって叫ぶ、その姿をご覧になってイエス様は「祭司たちのところに行ってからだを見せなさい」と命じられた。当時、この病気が治ったか、否かを判定するのは祭司たちの役目だったからである。10人はすぐにイエス様のご命令に従った。だがその途中、サマリア人は自分が癒されていることに気がついて、向きを変えてイエス様のところに向かう。あのイエス様を遣わしてくださった神様が私を癒してくださったと、神様をほめたたえながらイエス様の元へと向かう。しかし他の9人は別行動を取った。彼らは祭司のところへ行くことを優先した。何がこの違いを生んだのか、聖書には何の説明もされていない。だが、この出来事がユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられていることからその理由を推測することができる。9人のユダヤ人たちは、自分たちが癒されたことを「神の恵みだ」と思わなかったのだ。むしろ癒されて当然、当たり前のことが起こったのだ。そもそも神に選ばれた民である自分たちがあんな病気になること事態、あってはならないことだったのだと思ったのである。しかし自分は神に捨てられた民族の一人であって、恵みに与る資格もないと思っていたサマリア人は、癒されたとき、それは恵み以外の何ものでもないと思ったのである。神の恵みの受け止め方がまるで違った。それが両者の違いを生んだのである。当たり前だと思う心からは、不平は生まれても感謝は生まれない。私たちは、本当は神様からの恵みであるのに、それが当たり前のことように考えてしまっている、そういうことがたくさんあるのではないか。健康であること、仕事がうまく行くこと、安定した暮らしができていること、それは自分が努力した結果であって当たり前のことなのだ。そう考えてはいないだろうか。しかしそれは本当に当たり前のことなのだろうか。入院中の山岡文姉が胃ろうをやめて自分の口で栄養を摂取できるようになった。「感謝です。感謝です。こんなにしていただいて」と山岡姉は言う。私たち健康な人間にとっては、口から物を食べられるというのは当たり前のことに過ぎないが、一度でも病気をした人間からすれば、それは決して当たり前のことではなく、神の恵みとして受け止められているのである。もうひとつのことを学ぼう。癒された10人には社会に復帰する道が与えられた。それはどんなに大きな喜びであろうか。しかしその喜びが訪れたとき、このサマリア人は人々との関係を取り戻すことから始めるのではなく、神様との関係に深く入ることから始めようとした。神様の元から・・・そこを人生の出発点、中心にしようとしたのだ。その結果、彼だけが「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という宣言を聞くことができた。10人全員が癒された。しかしこの人だけが「救われた」と言われた。このことが示しているのは、救われるということは病気が癒されることよりもはるかに大きな恵みであるということ。救われている人間というのは、魂健やかに病むことさえ出来る。健康であること以上の祝福の中にいるから。救われている人間は、すべてのことを神様との感謝のかかわりの中で受け止め直すことができる。それは「立ち上がって、行きなさい」・・・「あなたは立ち上がれる。そして生きて行くことができる。私はあなたと共にいるから」という主の言葉を聞くことから、生きることができるから。楽譜の最初につくフラットは、最初にそれがついているだけでその曲全体を最後まで支配する。それと同じように、今こうして神様の元に戻って来て、そこから1週間を始めようとしている私たちの人生には、神様の恵みのフラットがつけられているのだ。「立ち上がって、行きなさい」という恵みのフラットが・・・。途中、悲しい調べが奏でられるようなことがあっても、その曲全体を支配しているのは、神の恵みのフラットなのだ。「ほかの九人はどこにいるのか」・・・イエス様は戻って来なかった9人を責めるのではなく、心配されている。彼らにも同じ言葉をかけたいと切望しておられる。私たちを用いて・・・。