2014年6月29日日曜日



成瀬教会 <聖書日課>  6月30日~7月6日

6月30日(月) テモテの手紙Ⅱ 2章1節~7節
 「 あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい 」(1節)。キリスト・イエスの恵みによって生きる者の強さ、それは2節です。パウロから「 聞いた福音を忠実な人たちに委ねよ 」と、テモテに命じています。自分の大切な務めを他の人に委ねるというのは、勇気や強さが必要です。キリストの恵みによって強くされ、すべてのものを生かしていてくださるキリストへの信頼を深めていただかないと、他者に委ねることはできません。主の恵みによって強くされましょう。

7月1日(火) テモテの手紙Ⅱ 2章8節~13節
 11節~13節は、キリスト賛歌です。パウロがこの手紙を書いた時、彼は牢獄の中にいました。獄中でこのような賛歌を歌ったのです。「 キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる 」(13節~14節)。前半からのつながりからすると、わたしたちが誠実でなければ、キリストもわたしたちに誠実であられない、となるのが自然です。しかし、後半は歌の流れが変わってしまっています。なぜでしょう。キリストの愛が勝ったからです。主の愛が私たちの不誠実に勝ったから歌が変わってしまったのです。私たちの側の条件によらず、私たちへのキリストの愛はいつも真実です。

7月2日(水) テモテの手紙Ⅱ 2章14節~26節
 私がまだ青年の頃、「 わたしに向かって、『 主よ、主よ 』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである 」(マタイ7章21節)の御言葉に、自分は口先だけの信者だと思って不安を感じて、当時神学生であった松本牧師( 高座教会 )を訪ねた時、先生はⅡテモテ2章19節、「 主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである 」との御言葉を引用して、御心を行うことを大きく考え過ぎない方が良い。神の愛に応えて、自らを清めていくこと(21節)も御心であるから、心を込めて主の愛に応えて生きれば、それで良いのだと教えくださいました。主の愛に応え、自分にできる精一杯のことをする。それは信仰の自然な姿です。

7月3日(木) テモテの手紙Ⅱ 3章1節~9節
 「 彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です 」(9節)。「 精神 」と訳された言葉には、「 知識 」とか「 知性 」という意味もあります。「 知性が腐る 」とは、正しい信仰の理解から逸脱することです。「 知解を求める信仰 」という言葉がありますが、信仰にはふさわしい知識があり、その知識にしたがって物を考え、判断していく理性的な働きがあります。それをなおざりにすることはできません。信仰は、まず信じるということが先ですが、盲目的によく分からないままに信じているところから、自分は何を信じているのかを知性においても、理解を深めていくものなのです。真理を知ることに熱心で、快楽を愛するよりも、神を愛することを喜ぶ者(4節)でありたいと願います。

7月4日(金) テモテの手紙Ⅱ 3章10節~17節
 「 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながらますます悪くなっていきます 」(13節~16節 )。「 悪くなっていく 」という言葉は、「 悪へと前進する 」と言う意味の言葉です。前進と言う言葉は、普通は良い意味の言葉ですが、ここでは進めば進むほど、悪に落ちるのです。私たちは、進歩の名で悪に誘う誘惑に囲まれています。しかし、私たちには聖書の言葉があります。聖書には知恵が満ちています。救いに向かって全身する知恵です(15節)。聖書と共に歩む時、必ず救いへの前進があります。聖書は、誤りを犯しやすい私たちを訓練し、守ります。だから聖書を日々読みましょう。

7月5日(土) テモテの手紙Ⅱ 4章1節~5節
  「 神の御前で、そして・・キリスト・イエスの御前で、厳かに命じます 」(1節)。神の御前にあることの厳かさを忘れてはなりません。ある牧師の神学生時代の体験です。説教演習の授業の後、教授に呼ばれてこう言われました。「 説教の時に、万年筆を胸に着けてはいけない。光る物はすべた駄目だ。本当は金歯もいけない 」。教授は厳かにそう言われたそうです。神のみが輝くべきであって、それ以外のもの、すなわち説教者が自分を輝かすべきではないと言うことでしょう。神の御前にある事の厳かさを思わせるエピソードです。私たちは皆、神の御前に生きています。そこで生まれる厳かな思いに生きることは、神のみが輝かれることを願い求める心とひとつです。それは自分の好みではなく、神の言われる事を聴こうとする説教聴聞の姿勢にも結びつくものです(3節~4節)。

7月6日(日) テモテの手紙Ⅱ 4章6節~8節
 パウロは自分の死を間近に見据えています(6節)。しかし、この時だけでなく、パウロはいつも死を意識していました。キリスト者の生活は、いつも死を意識した生活です。「 人は生きて来たようにしか死ねない 」と言われますが、反対に死を意識していない者は本当の意味では生きられないとも言えるでしょう。パウロは自分の死の時を、キリストから義の栄冠を受ける時と理解していました(8節)。私たちの愛してやまない主が、ゴールでご褒美を用意して待ち構えていてくださる。これはパウロだけではなく、主を信頼して人生を走り抜く私たち、すべてのものに当てはまることなのです(8節)。終わりから人生を見ているのがキリスト者なのです。

 

先週の説教要旨 「 年を重ねる恵み 」 イザヤ書46章1節~4節 

今朝は伝道礼拝と言うことで、「 年を重ねる恵み 」と題してお話をする。若い人がこういう話しをするのは嫌味なことだが、私もそろそろこういう話をしても大丈夫な域に入ったかなと思う。巨大化するアンチエイジング産業、アンチエイジングが目指すことは老化の時計の針を少し遅らせること。アメリカでは、この市場の売り上げが日本の国家予算の7%にもなっている。不景気にも全く影響されない、それほどのニーズがあると言う。老化のスピードをゆるめるとか、若さを保つとか、それ自体は悪くない。しかし注意すべきは、こういう産業は年を重ねることが病気であるかのように、悪であるかのように思い込ませて、商品を売っている点なのである。年を重ねることは、悪いことなのか?健康を保つこと、若さを保つことは素晴らしいと同時に、私たちはもうひとつのことを知らなければならない。私たちは皆いつか死ぬのだ。誰も自然の摂理に逆らうことはできない。ならばその摂理に逆らうよりも、むしろ年を重ねることの中にどういう神の恵みがあるのかを積極的に見出して、その人生の後半の最も素晴らしい時を美しく終えることを考えた方がいいのではないか。聖書は確かに年を取ることの厳しさを、目をそらさずに見ているところがあるが、同時に恵みをも見ている。そのことを3つ、お話したい。

年を重ねることの恵み、それは「 知恵 」が増し加わるチャンスだということ。知識と知恵は違う。あるいは技術と知恵も違う。年を重ねると、知識、技術に関しては若者には勝てるはずがない。デジタル化時代に若者は簡単に順応するが、私たちには辛い。だが、知識や技術では若い人たちに負けても、知恵においては年を重ねた人は負けない。知恵とは、知識や体験を動員して人生の舵取りをする力、総合力のことだ。しかし聖書の言う知恵は、それと同じようで少し違う。「 主を畏れることは知恵の初め 」(箴言1章7節)。年を重ねて生きてきた人は、様々な失敗や成功を体験してくる中で、どうも人生というのは、自分の力で切り開いて来たというよりも、何か別の誰かの力が働いていて、その力に導かれて来たのではないか、自分が人生を作ったというよりも、誰かの手がそこに添えられていたのだ、そういう実感を持っている。聖書は、その添えられた手というのは、実は神様の手なのだと言う。神様があなたの人生に手を添えて、あなたの人生を導いて来られていた。だから、もっとも確かな人生の舵取り、知恵というのは、その神様が私の人生の同伴者であることを認め、その方の導きをいただきながら歩むこと。それが聖書の知恵。年を重ねる恵みは、最良の人生の舵取りを知る絶好の機会なのである。

 2つ目の年を重ねる恵みは、自分の人生で最後に残るものは何かを見直すチャンスであると言うこと。年を重ねる不安というのは何かと言うと、段々、段々、神様にお返しすることが増えて行くということだ。体力とか、能力とか・・・。そのときに私たちは、それでは自分の人生で残るものは何だろうか?と考えざるを得ない。
  最後まで残るものは何かというと、神様に愛されているという、神様との関係しか残らないのだ。 「 老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください 」(詩編71編9節、)。年を重ねると、いろいろなものを手放すことから、自分が周りから見捨てられてしまったような思いになりやすい。この詩編の祈りは、高齢者の共感を呼び起こす。神は年を取ったら捨てるのか、この祈りに対する答えは「  あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」(イザヤ書46章3節、4節、)である。神様はあなたが白髪頭になっても、あなたを背負うと言われる。この関係だけが最後に残るのだ。私たちには・・・。そして、この関係にこそ、望みを持っているということが信仰なのである。ベテスダ奉仕女のシスターたちは、引退後の生活を、キリストの花嫁となる婚礼前夜と呼んで、期待に胸を膨らませて過ごす。主は、最後まで私たちを背負い、ご自身の花嫁のように愛してくださる。

 年を重ねることの恵みの3番目、それは復活の信仰を確認するチャンスであるということ。年を重ねることの不安は、いろいろなものを神に返して行くことと、それともうひとつ、「 死への恐怖 」である。週報にも書いてあるが、私、今、ひとり息子がくも膜下出血で、鎌倉の病院に入院している。救急病院に運ばれ、助かってくれと祈りつつ、そこで待っているとき、「 この感覚って、これが最後じゃないんだ。今回、息子が助かっても、いつか必ず、最低もう一回は、こういう時が来るのだ。そして、その時は必ず負けるのだ 」と、切実な思いになった。そして、人間にとって本当に大事な問題は、その人に永遠の命への道が開かれているか、どうかなのだ、それが一番,大事なことなのだと、骨身にしみて感じた。人間にとって一番大切な問題は、死を越えたその先にある望みに立てるか、そう、永遠の命の問題、復活の問題である。加藤先生は、大変厳しい病状のお連れ合いの介護をしながら、「 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか 」と、主に問われながら、「 はい信じます 」と答えて、一日を生き始める。私たちの望みは本当によみがえり以外にはない。
                                                   (2014年6月22日)

2014年6月24日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月23日~6月29日
 
6月23日(月) テモテの手紙Ⅰ 5章3節~16節(Ⅱ)
 9節に「 やもめの登録 」と言う事が出ています。教会が親身になってお世話をしてあげなければいけない人たちの名簿の事を指していると考えられますが、他にも「 やもめという務め 」を指しているという意見もあります。カトリックの聖職者はみな独身ですが、それは家族の制約なしに自由に神と人に仕えることができるからです。やもめもある意味でそういう面があり、教会で物質的に支えられながら、いろいろな人に仕えることができたのです。教会は、人々にサービスされることを楽しみ、喜ぶばかりでなく、・・・それもありますが・・・それ以上に、自分の悲しみや寂しさを乗り越えて、色々な形で助けを必要としている人たちに仕えることをもって、受けるよりも与える喜びを教えてくれる場となっていたのですね。

6月24日(火) テモテの手紙Ⅰ 5章17節~25節
 21節、偏見を持つこと、えこひいきをすることは、人間が無意識に犯す一番大きな過ちかも知れません。偏見というのは、前もって人についてある判断をして、あの人はこういう人だと、決めてかかってしまう事です。それはえこひいきを生みます。そして正当な判断をしないで、私はこの人の味方だとし、とてもわがままに裁きを行うのです。人々を裁かねばならないときに、裁く者が裁くところで犯す自分の罪をよくわきまえていないといけません。一歩退くほどの慎重さが求められています。

6月25日(水) テモテの手紙Ⅰ 6章1節~10節
 「 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です 」(6節)。利得という言葉が使われています。よく、信仰はご利益ではないと言われます。しかし、神を信じると大きなご利益があるのです。ただ、人間の考えているレベルでのご利益ではなく、もっと大きな利得、神の考えておられるご利益が与えられるのです。神のご利益を人間のご利益のレベルに引き下げてしまう(6節)ことが大きな間違いなのです。そういう意味ではキリスト者は、自信をもって本当のご利益を語り、これこそ神の下さる大きな、あなたが考えている以上のご利益なのですと語れる必要があるでしょう。そのご利益の一つが満ち足りる事を知る心です。

6月26日(木) テモテの手紙Ⅰ 6章11節~16節
 「 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです 」(12節 )。人生は戦いであると言われます。しかし、私たち信仰者にとっては、人生は信仰の戦いです。この信仰の戦いは、「 神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主 」(15節)であると真剣に受け止めることがなくては、戦い抜くことはできません。信仰者の信心を挫けさせるに十分な様々な出来事が身の回りに起きます。どこに神の主権者たる現実が見られるか?どこに神の祝福が見られると言えるのか?そこで戦うことを諦めてはいけないのです。信仰者にとって諦めは大敵です。

6月27日(金) テモテの手紙Ⅰ 6章17節~21節
 「 不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように 」(17節)。主は誰も二人の主人に仕えることはできないと言われた時、ご自身と富を比較しておられました。ある牧師は、その人のお金の使い方でその人の信仰がはっきりと分かると言われました。誤解を招きそうな言葉ですが、17節の言葉と照らし合わせると真理でもあると言えます。ある牧師夫人は、一生懸命月々の出費を節約して貯金をしていました。それは、いつ神様から捧げることを求められても、喜んで捧げることができるようにとの思いから貯められていたのです。神に望みを置く者は富からも自由に生きます。

6月28日(土) テモテの手紙Ⅱ 1章1節~18節(Ⅰ)
  テモテ第Ⅱの手紙は老境を迎え、いよいよその信仰のバトンを弟子テモテに引き継ぐ時が近づいた時に書かれたと言われています。「 わたしは、あなたの涙を忘れることができず 」( 4節 )とパウロは言います。人の流す涙というのは、いつまでも自分の心に刻み込まれます。それと並行してパウロは、「 そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています 」(5節)と、テモテの純真な信仰も忘れられないと言います。テモテはパウロにとって信仰の後輩ですが、テモテの純真な信仰に触れるだけでパウロもまた彼から深く慰められていたのです。私たちも同じような経験をすることがあるでしょう。テモテの信仰は母親たちから受け継いたものですが(5節)、人の心の中に純真な信仰を見るのは、神の奇跡を見るようであり、それだけで深く慰められます。純真な信仰は人を慰める力があります。

6月29日(日) テモテの手紙Ⅱ 1章1節~18節(Ⅱ)
 教会に生きる時に、とても大事な事があります。言わばキリスト者であることのコツと言ってもよいことですが、教会員であることを過まつことなく、しかも生き生きとして生きることができるための必要な心構えは、信頼する方を持っていることです。「 わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです 」(12節)。信頼するから委ねることができるわけですが、テモテには神様から福音がゆだねられました。しかし、その委ねられたものをテモテが守ると言うのではなく、委ねた神ご自身が守ってくださると言うのです。不思議なことです。私たちが頑張って信仰を保ち続けるというのではなく、信仰を私に委ねられた神様が私の信仰を守っていてくださる事を信じる。これが信仰の急所です。

先週の説教要旨 「 神の配慮を重んじ 」 使徒言行録15章1節~21節 

15章は、教会の歴史において最初に行なわれた教会全体の会議の記録である。緊急に論じなければならない議題が生じたのである。「 ある人々がユダヤから下って来て、『 モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない 』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった 」(1節、2節)。議論の要点は、人が救われるためにはイエス・キリストの恵みによってのみでよいのか、それともそれだけでは不十分でイエス・キリストの恵み+律法の遵守&割礼なのか、であった。キリストの恵みだけでは不十分と考える代表格はファリサイ人から信者になった人たちであって、幼いときから積み重ねられてきた信仰の生き方に重ねて、キリストを信じたのであった。彼らは自分たちがユダヤ人として生まれ、大切にして来た律法を守る生活や割礼の儀式は、決して無駄ではないと思っていて、異邦人のキリスト者たちにもそれを守るように要求したのである。それに対して、ペトロが意見を述べる。彼の主張は2つ。ひとつは、割礼を受けることもなく、律法を守ってもいなかった異邦人を、「 神 」がそのまま受け入れられている(8節)という点。もうひとつは、ユダヤ人であるあなたがた自身は律法の求めを負い切ることができたのか、そうではないだろう。異邦人同様、キリストの恵みによって救われたのだ(7節~8節)という点。続いてパウロが語ったたが、その内容は記されていない。けれども、神はユダヤ以外の人々の間で律法も割礼も求めず、どのような恵みをもってこれらの人々を生かしたか、ということを語ったのであろう。最後にヤコブが答えている。ヤコブは自分の意見を述べているというよりも、あたかも裁判官のように、判決を述べている。もしかしたらヤコブが議長だったのかも知れない。ヤコブは旧約聖書、アモス書とイサヤ書の預言を引用しつつ、律法や割礼を受けていない異邦人が神の恵みによって救われるというのは、旧約の預言に一致すると語り(14節から17節)、結論として「 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません 」(19節)と宣言する。つまり、異邦人に新しく、割礼や律法の要求を付け加えてはいけない。キリストの恵みはそれだけで救いに十分なものなのであるということ。ただ、ユダヤ人たちへの配慮、心づかいとして、彼らが幼い頃から大切にして来た信仰上の習慣に関しては、ぜひ、理解し、協力していただきたいと言うのである(20節)。

さて、この会議では、人が救われるのはただ、キリストの恵みによるのであるという福音の決定的理解が確認された。そのことの意義は非常に大きい。それと合わせて、もうひとつ重要なことが示された。それは、教会における会議とはいかなるものであるかということである。この会議の様子を読んで、皆さんはこう思われたかも知れない。「 律法と割礼を重んじる人たちの意見はまったく記されていないではないか。最後に多数決さえ行なわれていないではないか。これでは民主的な会議とは言えないのではないか 」・・・。その通りである。民主的にやるというのは、民衆が支配する、民衆が権威を持っているということ。しかし教会の会議はそれとは根本的に異なるのである。教会がどのように意志決定をするかと言うと、神の御心が何にもまして重んじられ、神の意志こそが会議の決定となることを願い求める、それが教会の会議の姿勢なのである。神の言葉がそこで力を持つようになること。それが教会のすべての会議の意味するところ。御心が行なわれるように、それが会議の心なのである。「 私はこう思う、いや、私はこうだ 」という具合に、いろいろな意見があっていい。しかし、それはひとりひとりが「 私はこうしたい 」という意見ではなく、「 わたしは、神がこのように求めておられると思う 」という意見でなくてはならないのだ。教会の会議は民主主義ではなく、神主主義、神の御心こそが最後のものとならなければならい。この会議は、そのことを示した。ペトロにしろ、ヤコブにしろ、その意見が「 神はどのようになさったか 」あるいは「 聖書を通して、神はどのような御心を示しておられたか 」ということに集中しているのは、そのためである。私たちの行なうすべての会議もまた、御心が何であるかを問うのであって、御心が行なわれるようにとの祈り抜きにして教会の会議は成り立たない。

 この御心を重んじる姿勢は、教会の会議だけではなく、私たち信仰者ひとりひとりの生活をも貫く姿勢でもある。御心を重んじる、自分の思い、選択が最後のものにはならないのである。先週の木曜日の夜中、私の息子がくも膜下出血で入院した。容易ならない状況にあり、親として大変、つらい状況に立たされている。主の御心が何であるのか、私たちには時として分からなくなることがある。神の御心は神の愛に根差す、しかしその愛が深ければ深いほど、その意味はすぐには分からないのである。異邦人の救いも旧約の時代から預言されていたが、そのことが皆に理解されるまでには多くの時を必要としているではないか。だから今すぐには分からなくてもいい。ただ、神の御心は私たちにとって善きものなのである。今、この状況においても。私はそう信じるし、神の配慮を重んじたい。                                                       (2014年6月15日)

2014年6月16日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月16日~6月22日

6月16日(月) テモテの手紙Ⅰ 3章8節~13節
  「 奉仕者の資格 」という見出しがついていますが、この奉仕者というのは教会の執事という役割のことを指していると考えられます( この前のところの監督というのは長老のことです )。「 清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません 」(9節)とあります。福音の真理が良心の中に根を下ろしていないといけない。教会の役員選びの基準は、世が人を選ぶときの基準とは明らかに違うのです。社会の中で認められる働きをしているとかの理由で教会の役員は選ばれない。なぜなら教会は神の真理に根差してこそ、生き得る共同体だからです。そのことをわきまえていることが役員として選ばれる必須の条件なのです。

6月17日(火) テモテの手紙Ⅰ 3章14節~16節
 パウロはテモテのところを訪問する予定にしていたようですが(14節)、もし行くのが遅れたとしても(15節)、テモテがうろたえないようにと願っています。「 神の家でどのように生活すべきか? 」(15節)、そのひとつのことを知っていれば大丈夫だとパウロは言います。神の家での生活、その急所は16節で語られている「 キリストの勝利の栄光、キリストよるご支配 」を仰ぎ続けることです。神の家である教会では、すでにキリストの勝利の支配が始まっています。動揺せずに勝利の主が何をなさろうとしておられるのかを見ようという余裕を持っていいのです。

6月18日(水) テモテの手紙Ⅰ 4章1節~5節
 終わりの日に信仰から脱落する人が出ます(1節)。そういう人は、妙に戒律的になります。結婚を禁じたり、ある種の食物を断てと命じたり(2節~3節)。創世記に、神は造られたものひとつひとつをご覧になられ、それを良いと言われたとあります。すべては神の良き御心に根差し、良いものなのです(3節~4節)。感謝して食べるというのは、神にありがとうございますと言って食べるだけではなく、神に感謝するような関わりに生きるようになると言うことです。神に感謝する関わりに生き始めるとき、私たちが頂くすべてのもの、食べ物も伴侶も、すべて良いもの、いや聖なるものとさえ、されるのです(5節)。そのようにすべてを感謝して見ていく中で、神の言葉と祈り(5節)は、実に大きな働きをしてくれます。

6月19日(木) テモテの手紙Ⅰ 4章6節~10節
 7節、「 信心のために自分を鍛えなさい 」とパウロは勧めます。信仰を鍛えるというのは、今日のキリスト者にあまり受け入れられない事かも知れません。なぜなら、鍛錬という人間の精進によって成長しようとする律法主義的要素をそこに見出そうとするからかも知れません。しかし、神の恵みに支えられての信仰の精進は聖書の求めるところであり、決して律法主義的なものではありません。信仰を鍛えるとは、存在(自分の生き方)と信仰がひとつになるように訓練していくことです。パウロは伝道者テモテにそのような鍛錬を求め、信じる人々の望みである生ける神を証しする立派な奉仕者となるよう勧めています。

6月20日(金) テモテの手紙Ⅰ 4章11節~16節
 御言葉を語る伝道者を教会はどのように迎えているか?それが教会の人々の救いに決定的なことになります(16節)。テモテは、若い牧師であったために、教会の年配の人々に軽んじられていたのかも知れません。あの若造の言葉など聴けるかと。牧師という務めは、一面において人生の円熟を求められる務めですが、だからと言って若い者は牧師になるな!とはならないのです。若かろうが老練であろうが、伝道者は決して軽んじられてはならない、人々の救いを左右するような言葉を語るのだからとパウロは言います。パウロは、そのような立場にあることをテモテに自覚させ、かつ自らも進歩していくことを求めます(15節)。語る者も聴く者も、神の言葉が語られ、聴かれる事のために、最大限の信仰を働かせましょう。

6月21日(土) テモテの手紙Ⅰ 5章1節~2節

老人、若い男女、パウロは教会内の人たちに牧師としてどのように接したら良いかをテモテに指導しています。老人の一つの問題は、体力の衰えとともに、もうろくし、つまらない間違いをしたり、自分の心を自分でコントロールできなくなったりすることでしょう。そういう老人を叱ってはいけない。なぜなら、そのことで一番悲しい思いをしているのは当の老人だからです。若い時には何でもなかったことが、出来なくなり、うろたえている老人を叱るのではなく、慰めて勇気を与えるのです。1節の「 諭す 」は、「 慰める 」とも訳せる言葉です。これは教会内の人間関係すべてにあてはまることであり、心すべきことですね。

6月22日(日) テモテの手紙Ⅰ 5章3節~16節(Ⅰ)
 やもめの中にもいろんな人がいて、財産があり放縦な生活をするやもめもいれば、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けるやもめもいたようです(5節~6節)。年を取って独りぼっちの生活の中で、ブツブツとぼやくばかりになる人がいます。「 昔は良かった。元気だったし、家族も自分を大切にしてくれた。でも、今となっては私に先の望みなどない 」と。時には「 生きていてもしょうがない、早く死にたい 」とさえ言う人もいます。しかし神に望みを置く者は、「 神様だけが望みであって、もうこの世に生きていても何の望みもない 」とは、ならないのです。神にこそ将来があると知っている人間は、他に何もすることができなくなっても願いと祈りに生きます。もちろん、自分ひとりのためだけでなく他者のためにも祈るのです。

先週の説教要旨 「 信仰の戦い 」 使徒言行録14章21節~28節 

 今朝、このペンテコステの礼拝で共に読む箇所は、先週の続きで使徒言行録14章21節以下のところである。ペンテコステだからということで、特別に聖霊について語っている箇所を選んで説教することはしない。なぜかと言う、使徒言行録はその名前の通り、使徒たちの言葉と行いの記録であるが、かつて使徒行伝と言ったこの書は別名、聖霊行伝とも言われる。この書物の本当の主役は使徒たちのようでありながら、実は使徒たちの背後にあって、使徒たちを導き続けた聖霊が主役なのである。だから使徒言行録のどこを開いても、そこには聖霊の働きが記されていると言える。私たちは今朝の箇所からも、その聖霊の働きを知ることができ、その聖霊が私たちにも同じように働かれていることを心に刻みたいと思うのである。

  パウロたちは、第1回目の伝道の働きを終え、出発地であるシリア州のアンティオキアの教会に戻って来た。聖書の巻末の地図を見ると、そのときのパウロたちの道のりを辿ることができる。アンティオキアを出発し、キプロス(同伴者バルナバの故郷)を経て、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベ、そこでクルッと向きを変えて、引き返して、ほぼ、もと来た道を辿って、アンティオキアに戻っているのが分かる。デルベの少し先、東にはパウロの故郷タルソスがあるが、そこには行かずに引き返している。伝道者は、結構、自分の生まれ育った故郷に伝道してみたいと思っているもので、そういうことからすると、バルナバの故郷には立ち寄りながら、なぜパウロの故郷には・・・と思う。それは、故郷を訪ねること以上に、今回の働きで生まれた教会、信徒たちを励ますことの方が大切だったからだ。生まれたばかりの小さな教会。しかもパウロたちはその町を迫害によって逃げ出さなければならなかった。言葉は不適切だが、敵地に味方を置いて来ているようなもの。彼らをほっておけなかったのである。

21節、22節、「 二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、『 わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない 』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました 」。ここで「 励ます 」と訳されている言葉は、慰めるとか、勧告するとか、弁護するという具合にいろいろな言葉に訳される言葉で、聖書の中では特に、聖霊の働きを表現するときに好んで用いられる言葉なのである。つまり、聖霊の働きの特質は何よりも、「 励ますこと 」であり、「 慰めること 」なのだ。この言葉は、原文のギリシャ語では「 そばに呼ぶ 」という意味の言葉である。そばに呼んでどうするのか。あなたが落ち込んでいるときに、そばに呼んで「 どうしたの 」と、話を聞いて慰めてくれる。あなたが迷っているときに、そばに立って「 こうしたらどう 」って、勧めの言葉を語ってくれる。時には、何も語らず、無言のまま、その傍らにジーッと居続けてくれるということもある。それが「 励ます 」と訳されている言葉の持つ意味であり、聖霊が私たちに対してしてくださることなのである。ここではパウロたちの背後にあって、聖霊がパウロたちを通して働いておられるのであり、まさに聖霊行伝なのである。

それでは、このときの励ましとは具体的にはどういうものであったのか。それは「 希望を持ち続けよう 」という励ましであった。私たちは多くの苦しみを経て前に進む。それは避けられない。しかしその先には、神の国に入るという輝かしい喜びが待ち受けている。それが私たち信仰者の希望です・・・・。その希望を持ち続けよう、というのである。神の国というのは、神の支配のことで、神はご自分がなさろうと思われることを全てその通りに実現なさるときが来る。それは私たちに災いをもたらすものではなく、幸いをもたらすもの。それが私たちの希望。その希望にしっかりと踏みとどまって生きようと、聖霊はパウロたちを通して励ました。信仰に生きることは、戦いの連続だ。信仰と希望と愛によって生きようとする戦い。望みえないときに、なお望みを持ち続け戦い。聖霊は、そのために、私たちを助けてくださるのだ。今朝はエレミヤ書32章の言葉も読んだが、エレミヤはよく涙の預言者と呼ばれるが、希望の預言者でもある。彼はイスラエルがバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚とされてしまうことを預言した。だが、王や民は信じなかった。国の滅亡、それだけなら涙の預言者と呼ぶのはふさわしいが、彼は70年後に神が捕囚から民を解放してくださり、民がユダヤの地に帰還することをも預言した。涙の先の希望をも見ていたのである。そのことの証として、彼は捕囚以前にユダヤの土地を購入する。神がなさろうとしておられることは必ずその通りになると信じ、それを希望とし、その希望に投資したのである。その意味ではエレミヤは、私たちに先立って聖霊の励ましを受けていた人物と言うことができる。迫害、破壊、そういうものばかりを見ていると落ち込んで来る。しかし破壊されたことのゆえに見えてくるものがある。破壊されたがゆえに、考えるべき将来が、本当に考えるべきものが何であったかが見えてくることがある。聖霊はそのようにして私たちを導いて行かれる。聖霊は破壊や困難の中において、私たちに本当に目指すべきものを見せてくださる。それを希望としてとらえ、それに賭けよう。 (2014年6月8日)

2014年6月10日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月9日~6月15日

6月9日(月) テモテの手紙Ⅰ 1章12節~17節
  「 わたしは、罪人の中で最たる者です 」(15節)とパウロは語ります。これは、罪人の中で、自分が一番偉いというのではなく、誰よりもキリストの救いを必要としている人間であるというパウロの自覚による言葉です。テモテの手紙はパウロの晩年に書かれたものですが、それよりはるか以前に書かれたコリントの手紙第一では、パウロは「 わたしは使徒たちの中で一番小さな者であり 」(15章9節)と言っていました。パウロは長く生きる中で、その罪人意識が深められていったと言えます。神に聖められている人間ほど、実は罪に対する意識は強くなります。罪に敏感になるからです。ですから、成長することは決して傲慢や高ぶりとは結びつきません。罪意識は、キリスト者としての自己成長を計る一つのバロメーターです。

6月10日(火) テモテの手紙Ⅰ 1章18節~20節
 「 ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました 」(19節)。自分は大丈夫か?と恐ろしくなる言葉です。しかし、パウロは、「 神を冒涜してはならないことを学ぶために、二人をサタンに引き渡した 」と言ってのけます(20節)。まるでサタンは、敵というよりもパウロのお仕置き部屋、不届き者の一時預かり所のようです。そうです。サタンは、彼らが悔い改めたら、いつでも彼らを神の元に手放さなくてはならないのです。悔い改める自由を大事にしましょう。

6月11日(水) テモテの手紙Ⅰ 2章1節~7節(Ⅰ)
  祈りの勧告の中で、王や高官、すなわち為政者たちのために祈るように勧められています。米国では新しい大統領が誕生すると、大統領主催の朝食祈祷会が世界中の著名なキリスト者を招いて行われます。いろいろな動機があるのでしょうが、為政者のために祈ることを重んじて、この聖書の言葉を実践しているとも言えます。2節に「 平穏で落ち着いた生活 」とありますが、すべての民がそういう生活をするには、この地上に神の御心が行われることを求めて行くことが必須条件です。為政者が少しでも御心にかなうことを行うように祈ること、それはとても大事なことです。「 御心が天で行われるように、地でも行われますように 」という主の祈りの心を知れば知るほど、為政者のために祈らざるを得なくなります。

6月12日(木) テモテの手紙Ⅰ 2章1節~7節(Ⅱ)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます 」(4節)。神が最も喜ばれるのは、神の望みを私たちの望みとすること、神の心を私たちの心とすることです。神と人との唯一の仲介者であるイエス様(5節)は、神様の心を私たち人間にはっきりと、身をもって示してくださいました。讃美歌に「 キリストのように考え、キリストのように思う 」という歌詞があります。私たちが生活の局面で出会ういろいろな場面において、いつも「 イエス様だったらこの場面で、どうされるだろうか 」と立ち止まって考えてみることは大事ですね。

6月13日(金) テモテの手紙Ⅰ 2章8節~3章1節
 テモテの牧会するエフェソの教会では、男性よりも女性の方が多く、当然活躍する女性も多かった。それだけに、難しさもあったようです。ここでは婦人への戒めが目立ちますが、エフェソの教会の状況を反映してのことでしょう。この教会には、無益な議論に熱中したり(1章4節)、子どもを産み、育てることに意味を感じなくなったり、教会のことに熱中し、没頭し、家庭を顧みない婦人たちがいたようです。信仰と愛と清さを保つことは(15節)、子を産み育てる賢い母として生きることによって具体化するのではないか?とパウロは問うのです。神に造られた一番の賜物をまず大事にすることを見失ってはいけない。男であり、女であり続けることは易しいようで難しい。神に造られた者として、男も女もそれにふさわしい清さを身に着けようと勧めるパウロ。そのためにも主がとりなしていて下るのですから。

6月14日(土) テモテの手紙Ⅰ 3章1節~7節(Ⅰ)
  テモテの手紙が書かれた時代の教会は、大勢の信徒が与えられ、それに伴う組織化が進められていました。人間の体が多くの器官から成りつつも、一つの命をしっかりと維持するための秩序を持っているのと同じように、教会もまたそれにふさわしい組織/秩序が必要です。ここでは、指導者としての監督の資格について考えています。「 一人の妻の夫であり 」(2節)という条件は、解釈の上で問題のある箇所で、これを根拠に婦人長老を認めない立場の教会もあります。しかし、必ずしも一夫一婦制が確立していたわけでもない時代背景を思えば、これは一人の人に誠意を尽くして生きる姿勢を問うもので、ただお一人の神様にお仕えする信仰の心と深く関わることです。そこでは男女という性による区別はありません。

6月15日(日) テモテの手紙Ⅰ 3章1節~7節(Ⅱ)
 4節に「 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません 」とあります。品位と訳された言葉は、原文ギリシャ語では「 値打ち 」という意味の言葉です。親が自分自身の人間としての値打ちを保って、子どもを育てるとき、子どももまた自分の値打ちを見つけ、それを尊び、自分で自分を卑しめてしまうことのないようになります。パウロは、自分の品位を保ち、子どもたちに品位を持たせる家庭を築く心こそ、神の教会を世話する心に必要だと見ているのです。神の教会のお世話は、相手の尊厳と自分自身の尊厳とを十分に心得ている人間が初めてすることができる働き、と言うことなのでしょう。 

先週の説教要旨 「 偶像あふれる国で 」 使徒言行録14章1節~20節 

 イコニオン、リストラ、デルベ、パウロが第1回伝道旅行で巡った地域は今日のトルコの地域。当時はギリシャの神々が信仰されている、いわば日本のように偶像あふれる国であった。そういう地域で伝道をするのは簡単なことではない。その上、同胞であるユダヤ人たちが伝道の邪魔をした(2節)。しかしパウロたちはそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語ったと言う。主が彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証ししてくださったからである(3節)。主は彼らの伝道を根底から支えていてくださった。彼らの語ることが真理の言葉であることを主自ら証明してくださり、言葉だけでなく、しるしをも与えてくださったのである。私たちの語る福音の言葉を主自らが真理の言葉として証し、聴く者の心に届けてくださる。その主の御業という支えがあるからこそ、私たちは伝道できるのだ。今日の午後、病床洗礼を受ける手塚英二さんはまさにその主の御業の賜物だ。
 パウロたちはユダヤ人の迫害を逃れてリストラに行った。そこでも奇跡が起きた。説教を聴いていた足の不自由な男が癒された。それ自体は素晴らしいことだが、これが直ちに奇妙な混乱を生む。これを見た人々は、2人を神の使いだと思って、いけにえを捧げようとした。ゼウスとヘルメス、ギリシャの神々は人間の姿をとって人々を訪ねることがあるという伝説が行き渡っていたからである。そこでパウロとバルナバは人々の中に飛び込んで行き、説教をする。このときのパウロの説教は、異邦人への説教の模範として丁寧に学ばれることがあるが、その要点は15節の「 このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように 」である。分かりやすく言うと、信仰を持つということは偶像を離れて生ける神に帰ることなのである。真の神は、人間が作り出したものではなく、反対にすべてのものを造られた方。あなたがたが気づかなくても、神は自然の営みを通して、あなたがたを支えていてくださるのだ。その神の元に帰ろうとパウロは呼びかける。創世記の天地創造の御業、その創造の順序は、他者への依存度を現す。他者への依存度の高いものほど、あとに造られている。人間が最後に造られたのは、他のどんな被造物よりも人間が他者に依存しなくては生きられない存在であることを現している。それらの他者の根底に神がおられるのだ。神は根底から私たちを支えられる方である、天地万物の創造の御業はそのことを示しているのである。その神のもとに帰ることが信仰。
  ところで、偶像とまことの神との違いはどこにあるのだろうか。今朝はイザヤ書45章20節~46章4節までを合わせて読んだが、この箇所は、偶像と真の神の違いを明瞭に語っている箇所のひとつである。ここには有名な御言葉、「 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」がある。結局、イザヤ書によれば、偶像というのは人間が背負っているものであり、そして遂には人が支えきれなくなり、人の重荷になってしまうものなのである。反対に真の神は、人を造り、人を支え、最後まで背負ってくださる方なのである。誰でも、子どもの頃、おんぶをされた経験があろう。私は幼稚園のとき、たき火の燃えかすに足を突っ込み、足に大火傷を負った。幼稚園が好きだった私は、毎日母に背負われて医者に通い、そのあと幼稚園に届けてもらった。母の大きな背中の感触は、母の愛そのもの。中学まで足に残った火傷のあとは、母の愛の証として多感な時期を過ごした時の支えとなった。かつて教会のある人に自分の生い立ちを話したら、「 よく非行に走らなかったね 」と言われたことがある。決して良い家庭環境ではなかったのである。自暴自棄になって非行に走りそうなギリギリのところで踏み止まれていたのは、母の背中に背負われた体験があったからだと思う。後に、信仰を持ってイザヤ書のこの御言葉に触れたとき、私は神の愛がどういうものであるか、自分の体験と響き合ってとてもよく分かった。神はあのように愛してくださっているのだと。つらい出来事に直面し、すべてを投げ出したい思いにとらわれるとき、そこに主の言葉が響いてくる。「 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」と。だから投げ出さなくてもいい。あなたは大丈夫。私たちはそこで踏み止まるのである。
  しかし偶像には人を背負うことはできない。日本人は戦争中、現人神を必死に支えた。しかし遂に支えきれなくなったとき、偶像は若者たちの肩に重くのしかかり、人間魚雷、特攻隊という形で、若者たちの命を奪ってしまった。偶像がその本当の姿を現したのだ。偶像は自分が生きるために他者の犠牲を要求する。偶像・・・神よりも大切なものは何であってもが偶像なのである。財産、地位、能力、時には健康、家族でさえ、偶像となり得るのだ。それらのものは、最初は私たちを支えてくれるが、それが失われようとするときに、その偶像としての姿を現す。しかし真の神はあの十字架において、その本当の姿をはっきりと現された。私たちを造られた神は、自らを犠牲にしてでも、私たちを背負い続ける神。自らを犠牲にして、私たちを生かす神。この神のもとに立ち帰り、この神に背負われて生きよう。パウロを通して、真の神ご自身が私たちにも語りかけておられる。(2014年6月1日)

2014年6月1日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月2日~6月8日

6月2日(月) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅰ)
  第二の手紙が書かれた理由を読み取れる箇所です(2節)。ある人たちは主の再臨がもう来てしまったと思い、慌てふためいて分別をなくしたのです。分別というのは、見分けることができると言うことです。同じひとつの現実を見ても、そこに神の支配を見られる人もいれば、神の支配などまったく見ようともしない人がいます。パウロは現実の世界の中で、神の見えない支配をきちんと見られる、見分ける力を持つように、と勧めています。一見して人間が作り出しているように見える日々の出来事、大きくは歴史の中に、人間の思惑を超えた神の支配が働いていることを信じるのです。そこに慌てない生活も生まれるのです。

6月3日(火) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅱ)
  信仰の誘惑の一つは、真理を喜べなくなるということです。神の教えよりも不義を喜んでしまうのです(12節)。サタンにそそのかされて真理を愛せなくなるのです。神が私に求めることは難しいことばかりで信じることがつまらないとか・・・・。神の真理を愛さなくなる時、私たちは自分を神としているのです。アダムとエバを襲ったように、サタンは「 自分が神になればいい 」とそそのかします。真理を心から愛する生活が、不義を愛する生活に打ち勝つように祈りましょう。

6月4日(水) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章13節~17節
  「 あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです 」(13節)。神の選びの業が語られているところで、「 真理に対するあなたがたの信仰とによって 」と言った具合に、神の選びに私たちの信仰が関わっていることが語られています。私たちの側の信じるという行為がなければ、神の選びは全うしなかったのです。これは神の選びの不完全さと言うことではなく、神はいつもそのようにして、私たちが神の御業を信じて受け入れることを待ち、かつ期待しておられると言うことです。一方では神のご計画があると知りつつも、もう一方では私たちが神に願い祈るのも、同じ信仰理解に基づいてのことです。だから祈りましょう。

6月5日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章1節~5節
  パウロの手紙には、伝道者(パウロも含めて)のために祈ってほしいという言葉がよく出てきます。人を信仰に導くのは、人間には不可能なこと、神の御業です。それだけに神の言葉を語る伝道者の拙い言葉を通して、神が御業をなしてくださるようにと、伝道者のために祈ってくださいと言わざるを得ないのです。悪人に対しても信仰がない人にも(2節)、神の愛が勝ってくださるように(5節)。この世が神の愛の勝利に救い取られる日を一日も早く与えられるように。そのためにも、伝道者もそれを聞く信徒も、あなたが命じて下さっていることを実行し続けることができるように(4節)。そこに喜びを見出すことができるように、と祈るのです。

6月6日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章6節~15節
 「 自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい 」(12節)とパウロは勧めます。テサロニケ教会の人たちは、主の再臨、すなわち世の終わりが近いと思い、落ち着かず仕事に手がつかなくなったのです。落ち着いているには、自分の居場所を、自分が今何をすべきかを知っている必要があります。しかし落ち着いてパンを得るために一生懸命働こうと言うのは、パンを得るために働いている仕事を受け入れている人でないとできません。つまらない仕事だと思っていたら仕事に身を入れることができません。パンのために働くなんて何とつまらない、となってしまいます。ここでは、働くことの尊さを知りなさいと言っているのです(マタイ6章34節参照)。これは信仰に根差して、主から初めて教わることです。「 日毎の糧を与えてください 」と祈るように言われた主が教えてくださることなのです。

6月7日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章16節~18節
  手紙の最後は、祝福で終わっています(16節)。教会によっては祝祷と呼んでいますが、これは祈りではありません。祝福は、すでに主が私たちと共にいてくださると言う祝福を確認しているようなもので、祈りのように祈ってもそうなるかどうか分からないと言うものではないのです。そこにもう祝福があるのです。私たちの教会の礼拝も最後は祝福です。新しく始まる1週間の生活に祝福があるようにと祈っているのではなく、すでに私たちは祝福の中に置かれていて、その祝福に支えられて、祝福から1週間の生活に出て行くことを確認しているのです。

6月8日(日) テモテへの手紙Ⅰ 1章1節~11節
 テモテの手紙は、テトスの手紙と並んで牧会書簡と呼ばれています。つまり、牧師の務めについて教えている手紙なのです。この手紙はパウロからテモテに宛てて書かれました。若い伝道者テモテは、エフェソ教会の牧師でした(3節)。エフェソの教会は、病んでいる教会でした。教会の病みは、いつも教会が健全な教えに立てなくなることから始まります。何を教え、何を語り、何を神の言葉として聞くか?牧師はその責任の多くを担っています。教会を病ませる教えが入り込んで来た時、牧師はそれを見抜いて素早く断ち切らねばなりません。教会の健やかさを保つために、神の言葉を正しく聞き、正しく語ることを崩してしまうような知恵や言葉(例えば、先祖の祟りとか)に心を誘われてしまわないようにしましょう(4節)。

先週の説教要旨 「 誰が主の言葉を聞くか 」 使徒言行録13章42節~52節 
 この箇所には、先週読んだパウロの説教を聴いた人たちが、どういう応答をしたかが記されている。その応答は2種類、受容と拒絶である。42節から44節には、受容した人たちの様子が記されている。会堂での集会が終わった。パウロの話に心を動かされた人たちは、集会が終わった後もパウロたちと語り合った。パウロは彼ら似神の恵みの下に生き続けるように勧めた。そして次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。これらは、福音の受容という肯定的な応答である。しかし、皆が喜んで聞いたわけではない。全く反対の応答、すなわち福音を拒絶した人たちもいた(45節、50節)。それでパウロは、ユダヤ人への伝道から異邦人への伝道へと移って行く。それは主が命じておられる通りであると言って・・・。使徒言行録は、これらの福音の受容と拒絶の姿を、実に驚くべき言葉で言い表している。「 そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った 」(48節)。彼らが信仰に入ったのは、救いに入るように予め神に定められていたからだと・・・。これは「 予定 」と言われる教えのひとつであって、私たちのように長老改革派教会に属する教会は、この「 予定 」という教えを大切にする。この箇所は、そのひとつの典拠とされる箇所なのである。そうとすれば、福音を拒絶した人たちに関しては、救いに定められていなかったからだと言うかと思うと、そうは言わない。「 あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている 」(46節)。この「 値しない者にしている 」は、原文ギリシャ語では「 値しないものであると言う判決を自分で自分に下した 」となっている。つまり、そっちを選んだのは自分の責任だと言っているのである。信じた者に関しては、神が救われるように予め選んでおられたからだと言い、他方拒絶した者に関しては、自分自身の責任でそっちを選んだのであると、聖書は言うのである。こういう言い方をされると、私たちの頭は混乱する。論理的に整理がつかないし、感情的にもすっきりしない。しかし聖書は、神の予定と人間の自己責任という、相反する事柄を並べて、両方とも真理として提示するのである。
 この予定の教えは、すべてのキリスト教会が受け入れているわけではないが、長老改革派の教会は、この神の予定という真理と、人間の責任という真理を、そのまま両方受け入れる。それを両立主義と言う。人の理性では相反している真理(二律背反とも言う)を両方とも、アーメンと言って受け入れる。この両立主義は、キリスト教信仰の核心部分においても、求められる信仰の姿勢なのである。神は三位一体であるという真理、キリストは全き神であると同時に全き人でもあったとする真理、いずれも両立主義に立たなければ受け入れることはできない真理である。聖書は、その核心部分において、人間の理性を脇においてでも、神が主張されていることならば、それを正しいとして受け入れます、と言う姿勢を人に求めるのである。
  予定の教えに関しては、長い教会の歴史において議論が繰り返されてきており、その議論は今も続いている。予定の教えに反発を感じるのは、選ばれる人がいるのは不公平だと感じるからであろう。しかし注意しないといけないのは、聖書は二重の予定を教えてはいないことである。救われる人が決まっていて、滅びる人も決まっているとは、聖書は言わない。救いの道を求めないのはあくまでも人間の自己責任によるのである。滅びに予定されている人がいるという教えは聖書の中にはない。それどころか、誰でも私のところに来なさいというイエス様の招きの言葉が記されているではないか(マタイ11章)。そこに人間の側の責任を抹殺する、消し去るような教えは聖書にないのである。
 予定の教えは、私たちに慰めと励ましをもたらす。年を重ねて、自分の思うように信仰生活を送っていけなくなることがある。こんなんじゃ自分はもう信じているとは言えないんじゃないか・・・そこには悲しみ、痛みに共感しつつ、私たちは「 大丈夫。あなたの救いは神が定めておられることですから、あなたの今の状況によって、救いが取り消されることはないのですよ」と言ってあげられるし、信じているのだけれども、周りの状況が整わなくて・・・という人にも、「 神が定めておられるのだから、必ずその時は来ますよ 」と言ってあげられるのである。伝道においても、予定の教えは私たちに励ましと勇気を与える。私たちは、自分たちが一生懸命伝道して、自分たちの力で回心する人を生み出していくのだ、それができるかどうかは、私たちの伝道力にかかっているのだと言われたら、それはものすごいプレッシャーである。だか、神は予め救われる人を用意していてくださり、私たちは「 イエス様の十字架と復活 」、福音という「 合い言葉 」をそこに投げ込んであげれば、定められていた人たちは必ずそれに反応し、肯定的に応答するのである。伝道とはそういうことなのだと言われたら、私たちは過剰な責任感から解放されるであろう。その時、私たちの責任は、正しくキリストの福音を語るという点に集約される。世の人々には愚かに聞こえる十字架の言葉(Ⅰコリント1章18節)を臆せず、大胆に語れば、それで良いのである。誰が主の言葉を聞くか・・・、神は確かにその言葉を聞く人たちを用意してくださっているのだ。  (2014年5月25日)