2013年2月24日日曜日

2013年2月24日 説教要旨


「 低きに下る権威 」   ルカ20章1節~8節

ここでの主題は権威である。「権威」と言う言葉に、私たちはあまり良いイメージを持っていないと思う。上の者が下の者を力ずくで言うことを聞かせる、喜びよりも苦しみを与えるもの。そういう悪いイメージが結びついている言葉だ。今朝の箇所でも、悪いイメージの権威が登場してくる。イエス様が神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たち、民の長老が近づいて来て、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と言ったのである。「このようなこと」というのは、イエス様が神殿の境内で信仰について民衆に教えておられたことや神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出したことを指す。祭司長や律法学者たちは、「神殿における権威は、この我々が持っているのだぞ。その我々の許可もないのにこんなことをして一体どういうつもりだ」と激したのである。彼らにとって神殿は自分たちの世界だった。自分たちこそが権威者で自分たちの思い通りに支配することができる世界、それが神殿。そういう世界を突き崩そうとする者を絶対に認めるわけにはいかないと彼らは考えていた。

祭司長や律法学者たちは、私たちとは全く異なる人間なのかと言うと、そうではない。私たちも彼らのように、自分が権威者となって支配することができる領域、世界を作って、それを一生懸命確保しようとしているところがあるのではないか。家庭や職場で「この家では皆、私の意見を重んじてくれなければいけない。私の思いに反することを言ったり、やったりするのを私は許さない」、そうやって権威者になっている。そこにイエス様が来られて、「あなたには権威はないのだ。その権威は私が持っているのだ」と主張され始めるとき、まことに迷惑なことだと思ってしまう。でも本当はイエス様があなたの家庭、あなたの職場、あなたの人生を支配される権威をお持ちの方なのである。本来、権威というものは善いものなのである。「権威」と訳される言葉はエクスーシア、エクス・・何々の外に、ウシア・・存在するという言葉から出来ている。存在の外にある。つまり、そこに存在する人、物、それら束縛されないで自由に行動することができる力を意味する。そこから転じて、自分だけでなくて、相手も同じように自由にしてあげる力をも意味するようになった。本来、権威は相手を縛り付けるのではなく、相手を解き放つ、自由にしてあげる力なのであり、善いものなのである。「イエス様が私たちの権威者だ」と言うのは、私たちを縛り付けている色々なもの、絶対にこうでないといけないという自分の思い込みだとか、価値観だとか、そういうものから私たちを解放して、自由に生きられるようにしてくださるということ。私たちはイエス様の権威を認めて受け入れ、その権威にひざをかがめるとき、解き放たれた自由に生きることができるようになるのである。そのように、正しく用いられている権威に服することは、私たちに平安をもたらす。たとえば、私たちが病気になったとき、「あの先生はこの病気の権威だからね」などと言われている先生に手術をしていただけるとなると、その権威のもとで安心して手術を受けられるようになるだろう。手術を受ける前からもう大丈夫だと安心して身を委ねることができる。そして権威を信頼して身を委ねるとき、そこには平安が生まれるのである。同様に、イエス様は私たちの魂の医者として、私たちの病んだ魂を癒してくださる。束縛されて病んでしまっているあなたの魂を解き放つ。今、あなたを束縛しているものは何か。先行きの不安か。それとも健康か。それを自分の力で何とか解決しようとギューッと握り締めていると、反対にあなたがその問題に握り締められてしまって身動きがとれなくなる。イエス様に委ねるのだ。「あなたこそ、私の人生の権威者、支配されるべきお方、どうぞあなたの御心のままに・・・」と言ってイエス様の権威に身を委ねるのだ。そのとき、あなたに平安が訪れるのだ。

 律法学者たちは、イエス様の権威を認めようとしなかった。「洗礼者ヨハネは、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」との問いに答えなかったというのは、イエス様の権威を絶対に認めまいとする心の現われだ。「なるほど、イエス様を認めて受け入れるということは、まことに幸いなことであろう。しかしだからと言って、今の自分のこの生き方を変えようとは思わない。自分の人生の主権者はこの私だ。神様ではない。自分はこの生き方のままで行く。今の生き方を変えないままで神様が私を救ってくれるというのだったら救われてもいい」という態度を私たちは取ってしまう。自分自身が権威を保持しようとすることをやめて、イエス様の権威を認め、それにひざをかがめる決意を新しくしよう。イエス様の権威は、私たちにひざをかがめさせるものであると同時に、ひざまずく私たちを立たせてくださるものでもある。私たちよりももっと低いところに下って、そこから私たちを支え、立ち上がらせてくれる。イエス様の権威とはそういう権威である。24歳で召されたあの青年の生涯はその権威に支えられて生き抜いた慰め深い証である。

聖書日課 2月25日〜3月3日


成瀬教会 <聖書日課>  2月25日~3月3日

2月25日(月)マタイ9章9節~13節
徴税人をしていたマタイは、イエス様に「 わたしに従いなさい 」と言われて、すぐに従いました。心の奥底まで視通すイエス様のまなざし(9節)にとらえられたのでしょうか。見える方には見えるのです。「 マタイが今生きている場所が、本当に彼の生きる場所であるのかどうか、間違ったところに生きているのか。童話『醜いあひるの子』は、生きる場所を間違えていたという物語です。もっと大きな命に生きるようにされていたのに、白鳥の子がアヒルの世界に生きようとしていた。あなたは今、本当に生きるべき場所に生きていますか。神の子として生きていますか。

2月26日(火)マタイ9章14節~17節
 「 新しいもの 」と「 古いもの 」とを混ぜるなとイエス様が言われます。ここで言う「 新しさ 」とは、婚礼の祝いに象徴される「 喜び 」です。「 古さ 」と断食に象徴される悲しみです。人々は断食して罪を悲しんだのです。しかしイエス様は、「 わたしがここに来たことによって、新しい時代が到来した。悲しんでではなく、喜んで生きられる時代があなたがたのところにやって来たのだ」と言われます。その喜びとは、「 主が共におられる 」ところに生まれる「 喜び 」です。信仰者はどんなに悲しい出来事の中にあっても、その一番深いところでは喜んで生きています。主が共にいてくださるから・・・。そして自分は婚礼の席にいるのだと知っている者は、耐えるべきことを耐えることができます。

2月27日(水)マタイ9章18節~26節(Ⅰ)
12年間も病のために出血が続いている女性は、後ろから主の服の房に触れました。堂々と主の前に進み出て、癒してくださいと願うことができない事情があったのでしょう。でもそんな彼女に主は「 あなたの信仰があなたを救った 」と言われたのです。主が認められた彼女の信仰とは、一体何なのでしょうか。それは、自分の苦しみの全てをその指先に込めて、直接イエス様に触れさせて行った姿勢のこと、それをイエス様は彼女の信仰として認め、受け入れて下さったのです。あなたはこのような姿勢をイエス様に対して抱いていますか。あなたの苦しみをイエス様に触れさせていくような祈りをしていいのですよ。

2月28日(木)マタイ9章18節~26節(Ⅱ)
ある指導者の娘が死に、父である彼は主のもとにやって来ました。主が来て下されば生き返ると信じていたのです。主はすぐさま彼の願いを聞き、彼の家に向かいましたが途中で横入りがあって、中断してしまいます。主がすでに動かれているのだけれども、待たなくてはならない時があります。その時、私たちはもう手遅れだと、あざ笑う人々(24節)の仲間になってしまうのでしょうか。そのような人々は外に出され、主の恵みの御業を体験することが許されませんでした。私たちは、最後まで、主のなさり方に信頼し、主の恵みの御業を体験する者でありたいと思います。この指導者は中断してもあきらめずに、主と共に家まで来たのです。

3月1日(金)マタイ9章27節~31節
「 タビデの子よ、私たちを憐れんでください 」(27節)と2人の盲人は主に叫んで、ついて来ました。主が家の中に入っても、ついて行きました(28節)。主の憐れみを得ようと食い下がる2人の盲人。私たちは、この盲人のように「 主よ、わたしたちを憐れんでください 」と叫ぶほどの信仰に生きているでしょうか。私たちは、自らの罪の深さ、愛の不能者である自分の姿に愕然として、ただただ主の憐れみにすがるしかないと言う思いに至ることがあるでしょうか。自分は主の憐れみがなくても、人並みのことはきちんとやっていけると、どこかで思っていないでしょうか。あなたは「 憐れんでください 」という叫びに、乞食のようだと抵抗を感じるでしょうか。いいえ、真に人間として生きようと願う誇り高き姿を感じます。

3月2日(土)マタイ9章32節~34節
悪霊に取りつかれて口の利けない人が登場しています(32節)。それって、誰のことでしょうか。そういう人を私は今まで見たことがないし、現代でもそういう人はいるの、と言うかも知れません。でも、相手の心に届く言葉、相手を励まし、慰め、建て上げる言葉をあなたは語れていますか。相手をおとしめる言葉なら、いくらでも語れるかも知れません。でもそれでは本当に口が利けるとは言えないのではないでしょうか。私たちは、主の愛の力に触れられて「 ものを言い始め 」る( 33節 )者でありたいですね。主の愛に根差した言葉を語れるように・・・。

3月3日(日)マタイ9章35節~38節
イエス様は「 群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた 」(36節)。今の日本人をあなたはどのように見ていますか。かつてはこれほど豊かに物があふれる時代が来るとは想像がつかなかったことでしょう。欲しい情報が何でもインターネットですぐに手に入れられる便利な時代が来ることも想像できなかったことでしょう。皆、表面的には不自由していないように思えます。しかしそういう表面の姿に隠れて、人々の内面はますます飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれています。キリスト者の便利屋さんが1人暮らしのある老人と食事を共にし、話を聞き、一日共にいたら、その謝礼として100万円を差し出されたということがありました。この人には福音は必要ないわ・・・そう思うのは誤解です。皆、本当は必要としているのです。心の奥底で。

2013年2月17日日曜日

2013年2月17日 説教要旨


「 平和への道をわきまえていたら 」 ルカ19章41節~48節

 巡礼者の一団がオリーブ山からエルサレムを目指して進んで行く。その途中、エルサレムの都がその視界に現れたとき歓声があがった。弟子の群れは一斉にほめ歌を歌いだした。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」。ルカ2章にはクリスマスの時に天使たちが「いと高きところには栄光、地には平和」と歌ったと書かれている。「地には平和」と天使たちは歌い、弟子たちは「天には平和」と歌った。まるで天と地がイエス様を中心として互いに祝福の歌を歌い、互いに祝福し合っている。素晴らしい光景だ。しかし、その歌声を聴いて焦った人たちもいた。群衆の中に混じっていたファリサイ人だ。オリーブ山からエルサレムへと上る途中に、アントニオの塔と呼ばれるローマ軍の監視塔がある。ローマ軍はユダヤの中心地エルサレムを特に注視していた。この時はユダヤ民族のシンボルとも言うべき、過ぎ越しの祭りが始まろうとしていた。ローマ軍もピリピリしていたに違いない。そこでファリサイ人はこう考えたのである。この歌がローマ軍に聞こえたら大変だ。特に「王」と言って歌っている。クーデターが起こったと勘違いされたら大変だ・・・。ファリサイ人もローマからの独立を切望していたが、弟子たちのようにイエス様によってそれがなされるとは考えていなかった。言わば誤ったクーデター。それに巻き込まれては大変だと思ったのである。それで歌をやめさせるように、イエス様に言ったのだ。だがイエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と、それを拒否された。

 イエス様は石についてこうも言われた。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。実際、この出来事から40年後に起きたローマ軍とヤダヤ人の戦争によって、エルサレムの都、神殿はローマ軍の手によって徹底的に破壊されてしまう。そのことを見通しておられるイエス様は、エルサレムを見つめながら、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」と涙を流された。平和への道とは何か。それは、あの歌が歌われている光景だ。イエス様を中心にして天と地が互いに祝福を交し合っている。神がイエス様を通して、人々を赦し、人々を愛し、人々を祝福してくださる。そしてそれを受け止め、人々が神に向けてほめ歌を歌う。天と地との間にそういう絆が生まれている。それがイエス様の言われる平和の姿なのだ。この平和の姿をわきまえなかったエルサレムはイエス様の預言の通りになってしまう。

 エルサレムというのは、町のことを言っているのではなくて、そこに住む人たちのことを指している。神に愛されている者たちということ。それは私たちのことでもある。だから私たちも、この平和の姿を軽んじてしまうとき、その生活はガラガラと音を立てて崩れ始めてしまう。私たちは平和を作ろうとあらゆる努力をする。大きな事で言えば国と国の間で。小さなことで言えば、家庭で、職場で、社会で、平和を作ろうと考え、努力する。しかしそうやって平和を作ろうと努力するとき、私たちはこの歌を歌う平和をいつも考えているだろうか。この歌を抜きにしたところで、平和が作られると誤解しているのではないだろうか。天との結びつき抜きで平和を作れると・・・。

 ファリサイ派も平和を作りたいと考えていた。ローマ軍と折り合いをつけ、歌をやめることで平和が作れると・・・。だが主は言われる。この世とうまく折り合いをつけることで、平和は作れるのか。天と地が祝福し合っている。天と地が強く結ばれている。そこにこそ平和は生まれるのだと・・・。人は誰だって平和を願う。その努力をする。しかし現実には、その努力はかえって平和を遠ざける皮肉な結果を生んでいないだろうか。軍事力を高めれば、相手から攻撃されず、平和を維持できると考える。その考えは本当に平和を生んでいるのか。神様のことを大事にしようとすると、家族や職場の平和が乱れるのではないか、信仰のことは持ち出さない方が平和に過ごせるのではないか・・・。だが平和が生まれるために愛がなくてはならないのだ。その愛が私たちにあるかと問えば、ないことを認めざるを得ない。敵をも愛する愛をお持ちのこの方に、私たちと他者のとの間に立って導いていただかなければ、私たちは平和を作ることはできない。イエス様はその道をわきまえない人々を思い、涙を流される。そのときの人々の生活の様子が45節以下に記されている。神殿では盛んに礼拝が行なわれている。だが、そこに真実の祈りが聞こえて来ないのだ。イエス様が聞きたいと願われた祈り、それはルカ18章9節以下のファリサイ人と徴税人のたとえで示されている。ファリサイ人の祈りの中身は、私は立派にやれています。神の力を必要としないほどに、というもの。反対に徴税人は近づくことも許されないような自分だけれども、どうしてもあなたから離れるわけには行かない。あなたがいなければ生きていけませんというものだった。神抜きでは生きられない、その心に根差す祈りが聞こえないとイエス様は嘆かれる。平和への道は小さくて見えない。だが確かにここにあるのだ。

聖書日課 2月18日〜24日


成瀬教会 <聖書日課>  2月18日~24日

2月18日(月)マタイ8章1節~4節
ここに登場する重い皮膚病の人は、主に対する深い信仰を言い表しています。イエス様の恵みの意志に対する深い徹底的な信頼です。つまり、主の御心が自分の思いと違っていたらどうしよう、そういう自分の疑いも迷いもすべてひっくるめて主に委ねて、御心のもとに立とうとする信仰の姿勢です。御心についての自分の判断を捨てています。そうでなければ、御心のままにという祈りそのものもが出てこないし、御心のままに癒してくださいという祈りも生まれてこないのです。主は、この病人に手を触れ、癒されました。イエス様の恵みの御心を表して下さいました。イエス様は「 あなたを愛するのだ 」という強い意志をお持ちなのですよ。

2月19日(火)マタイ8章5節~13節
 ローマの兵士である百卒長は権威の下にある者らしく、イエス様の御言葉の権威/力への信頼を表明し、イエス様からは驚きをもって「 これほどの信仰を見たことがない 」と言われました。ある人は「 信仰を持つとは、ところを移すことだ。自分のいるところをこちらからあちらへと換えることだ 」と言いました。この百卒長は、イエス様の恵みの権威の中に、自分の立つところを移したのです。私たちは今、どこに立っているでしょうか・・・。聖書の御言葉をいただくとき、「 ただ一言おっしゃってください。それで十分です 」と、イエス様の恵みの権威に従うところに身を移した上で、御言葉を聞きたいですね。従おうという姿勢を持たないままに、御言葉を聞いても、それに意味はありません。

2月20日(水)マタイ8章14節~17節
「 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた 」(16節)。昔、『 エクソシスト 』という恐ろしい映画を見ました。エクスシストは悪魔祓いをする人のことで、単に聖書の言葉を語って悪魔と戦うのではなく、その存在/命を賭けて悪魔と戦っていました。イエス様のお姿から聞こえてくること、それは「 存在のかかった言葉こそが人を癒し、救うのであって、責任を負わない言葉は、ただ人を傷つけてしまうだけですよ 」と言うことです。あなたの語る言葉が存在のかかった言葉であるように。

2月21日(木)マタイ8章18節~22節
「 狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない 」(20節)。イエス様のご生涯は安住の地がない、そういうご生涯でした。それは他者のために生きられたからです。他者のために多くの時間を費やされ、他者のためにいろいろなところへと引き回されました。私たちがイエス様の真似をすることは簡単なことではありません。しかし、このことは忘れないようにしましょう。他者を助けるためには、自分の何かが犠牲にならなければならないということです。誰からも損なわれることがない人生というのは、平穏ですが、何の意味も残さない人生ですよと、聖書は告げています。今日、あなたにできる小さなことを捧げよう。

2月22日(金)マタイ8章23節~27節
イエス様は風を叱りつけられました。すると風は言うことを聞いたのです。現代人に伝道するには、このような聖書の物語はかえって入信の妨げになってしまうのかも知れません。しかし、聖書を書き記した人たちは、これを正面から受け入れることこそ、入信への道であると信じて疑わなかったのです。彼らは人間の理性では理解できないものを謙遜に承認する姿勢が、信仰に必要不可欠であると信じていたのです。自分の理性的判断に固執するのではなく、神であるイエス様ならばできると、信じてみましょう。「 いったい、この方はどういう方なのだろう 」(27節)という驚きが、必ず、あなた自身の体験になりますよ。

2月23日(土)マタイ8章28節~34節
「 イエスが、『 行け 』と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った 」(32節)。悪霊に取りつかれた人から悪霊が豚の大群に乗り移り、豚が一気に崖を下って湖でおぼれ死ぬという大事件が起きました。こんな大事件を伝える記事なのに、イエス様の言葉は「 行け 」というひと言しか記されていません。この記事はほとんど悪霊に疲れた人たちの自作自演と言うか、自分で勝手に騒いで勝手に混乱している感じです。私たちもいろいろな出来事に振り回され、混乱し、この人たちのように叫び、わめいているのかも知れません。その混乱を沈めるのはただひとつ、イエス様の一言なのです。あなたの生活にイエス様のひと言を響かせましょう。いろいろなことで混乱してしまっているあなたも、その混乱から解放されます。

2月24日(日)マタイ9章1節~8節
中風の人を床に寝かせたまま、イエス様のもとに連れてきた人たちがいます。彼らは中風の人の家族でしょうか。それともお友達でしょうか。イエス様は中風の人を癒されましたが、中風の人の信仰のゆえにではなく、彼を連れてきた人々の信仰を見て、彼を癒されたのです( 2節 )。中風の友のために、自分たちが彼になりかわってでもイエス様を信じ、救っていただきたい。そういうとりなしの姿勢に心打たれますね。ここに成瀬教会の目指す姿がありますよ。教会に生きるあなたは、世の救いのために、世の人々の友となり、必死にとりなす役割をイエス様から期待されています。イエス様はそれに答えて人にはできないような大いなる御業をなしてくださいます。

2013年2月10日日曜日

2013年2月10日 説教要旨


「 神を賛美しつつ生きる 」 ルカ19章28節~40節

今朝の箇所はイエス様がエルサレムの都に入城される箇所である。この出来事は4つの福音書すべてに記されている。影絵作家の藤代清治さんがこの場面を描いておられるが、棕櫚の枝を手にした大群衆がエルサレムの都へ向かって流れるように動いている。「ホサナ」の叫び声が聴こえてきそうな見事な作品である。しかしルカ福音書では、大群集が「ホサナ」と叫びつつ、喜んでイエス様を迎えたというような書き方はしていない。ルカ福音書では、それをしたのは弟子たちであったと語る(37節)。もちろん、群集がその場にいなかったということではない。ルカは群集ではなく弟子たちに焦点を当ててこの出来事を伝えているのである。そこにルカ福音書の際立った特色があり、その特色からメッセージが聞こえてくるのである。他の福音書にはなく、ルカだけが伝えている独特な点は、39節、40節もそうである。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」と賛美する弟子たちを叱るように、ファリサイ派の人々がイエス様に求めたのである。イエス様は言い返された。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。この言葉はいつくかに解釈されているようだ。ひとつは弟子たちを黙らせれば口をきくはずのない石が弟子たちに代わってこの歌を歌い出すという意味。もうひとつは、この石は神殿を造っている石であって、もし弟子たちの歌を無理やりやめさせようとすれば、エルサレムの都そのものが神殿もろとも、自ら神の裁きを招いて崩れるという意味。いずれにしても、この歌はどうしても歌われなければならない歌なのだ、そうイエス様は言われたのである。弟子たちはこの世にあってこの歌い続けなければならない、いや、歌うように召されているこの歌を。この歌はそういう歌なのである。

 信仰者というのは、神をほめたたえる歌を歌いながら、生きるように召されている。そして、その歌を歌わなくさせようとするあらゆる力とイエス様は戦われる。私たちの教会では、初めて教会に来られた方々の受け皿として聖歌隊が用いられている。そこで願うことは、神を賛美する心を知ってほしいということである。神を賛美する心、それは「弟子たちは、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」(37節)とあるように、「喜び」、喜びから賛美が生まれる。賛美を生む喜びとは、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」(38節)と弟子たちが歌っているように、天にある平和、すなわち神の支配が行なわれるところに生まれる平安を携えてイエス様がこの地上に来てくださったこと、そこに生まれる喜びである。この喜びがある限り、私たちはどんな状況に置かれても神を賛美することができる。かつて、ある方の葬儀を行なった際、故人愛唱歌として「ああうれし我が身も、主のものとなりけり」という讃美歌を歌った。故人が葬儀でこれを歌うことを望まれていたのである。しかし式後、親戚の方が「葬儀でああうれしいとは何事か」と、憤慨の言葉を口にされた。信仰のない方には全く理解できないことだと思う。しかし、信仰者というのは、どんなに悲しい場面においても、その一番深いところに喜びがある。天にある平安を携えて来てくださったイエス様がその悲しみの只中にも共にいてくださっているという喜びがあるのである。だから、賛美の歌を歌うことができる。

 先週の礼拝で読んだ「ムナのたとえ」、神様から私たちに託された1ムナとは、神の言葉だと理解した。それをもって人々に神様を紹介するのである。だが、この1ムナを「神を賛美する心」と、とらえることもできるだろう。私たちはいかなるときにも、神を賛美する姿を通して、「共におられる主」を人々に紹介することができる。教会は、この賛美する心を失ってはならないし、この世で歌い続けるように召されているのだ。イエス様もその歌が歌われ続けるようにと、それを妨げようとするあらゆる力と闘ってくださる。弟子たちはほめ歌を歌いながら、自分たちの見たあらゆる奇跡を思い出して喜んでいた。直前の「ろばの子を調達」で経験した奇跡もそのひとつだろう。驚くべき「神の支配」がここに来ている。それをもたらす方が私たちと共におられる。その喜びが弟子たちの賛美を生む。だが、この5日後には弟子たちは賛美するどころか、息を殺して音も立てないようにして身を隠す。イエス様が十字架につけられて殺されてしまうから。上り調子にいた弟子たちは、一気に下り調子に反転し、賛美の声を失う。だが・・・カルバリの丘に天から打ち付けられた1本の十字架は、その最も暗黒な中にも神の支配が貫かれていることを証するものであったことを悟った弟子たちは、それ以降、賛美する姿勢を失わなかった。ルカ福音書は、その最後を「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」という言葉で結んでいる。私たちを取り巻くこの世の現実は、この賛美の言葉を私たちから奪おうとする。だが、そこにも神の支配が貫かれていると信じて忍耐しつつ、賛美の歌を歌い続ける私たちを神様は必ず勝利へと導いてくださる。あなたは今、どのような状況に置かれているだろうか。イエス様は天にある平和を携えて、あなたのその状況にも来てくださっている。賛美を歌わせてくださる。 

聖書日課 2月11日〜17日


成瀬教会 <聖書日課>  2月11日~17日

2月11日(月)マタイ6章25節~34節
明日のこと、将来のことを心配するばかりに、今日という今の時が心おろそかになってしまう私たちです。イエス様は、明日のことを神様の手に委ねて今日一日を精一杯、心を込めて生きるようにと言われます(34節)。明日は炉に投げ入れられる野の花でさえ、神は美しく装ってくださいます。私たちの命は、炉に投げ入れられてしまうようなものではなく、永遠の神の御手の中に向かって導かれているあなたの命は今日、どんな姿をとるのでしょうか。神から与えられたこの一日を精一杯生きるとき、それは、それは美しい姿となるはずです。

2月12日(火)マタイ7章1節~6節
 人のことはよく見える・・・・つもり。それが私たちなのです。でも自分の目の丸太を取り除かない限り、相手をはっきり、正しく見ることなどできないのだとイエス様は言われます。丸太を取り除いてこそ、はっきり見えると言うのです。「 人を裁く 」なんてことは、そもそも私たち人間には不可能なことでしかないのです。それでは、どうやって丸太を取り除けるか。それは、イエス様の十字架という赦しと憐れみが、この私のためにあったのだと骨身に徹して分かる時、はじめて私たちの目の中の丸太は取り除かれるのです。人はイエス様の十字架を通してしか、他者を正しく見ることなどできないのです。今日、あなたが出会うひとりひとりを十字架を通してみることが出来るようにと、祈っています。

2月13日(水)マタイ7章7節~12節
「 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる 」(7節)。私たちの祈りの言葉は、空しく宙に消えていくのではない。それを聞いていて、対応してくださる方がおられるのだと言うのです。神様は、私たちの命に責任を持って対応してくださる方です。考えてみると、私たちは求めなくては、探さなければ、門をたたかなければ生きてはいけない存在です。一日たりとも生きてはいけない存在です。でも、そんなあなたの求めを、今か、今か、と耳をそばだてて乗り出してくださっている方がおられる。私たちの命は、求め、そして与えられるという循環の中で育てられていきます。

2月14日(木)マタイ7章13節~14節
寄らば大樹の陰。長いものには巻かれよ。これは、日本人特有のことわざなのかも知れません。赤信号、皆で渡れば怖くないと、芸人の北野たけしさんは言いました。私たち日本人は、人のやっていることを真似ることで世を渡っていくことを好みます。それは、聖徳太子の「 和をもって尊しとなす 」という美学が根底に根付いているからでしょう。和を乱さないことが最高の徳とされるのです。でも、人と同じようにすることを追い求めることによって、人は自分で考え、自分で決断するということをしなくなってしまうのです。福音はまさにひとりひとりが自分で考え自分で決断して踏み入れる道です。皆と同じであることを追い求める人には、狭く見えてしまい、決して見つけることはできない門なのです(ヨハネ10章9節も参照)。狭い門だけに、いろいろなものを携えて通っていくこともできません。天へと向かう道では、本当は必要ないものを手放すという決断も求められるのです。

2月15日(金)マタイ7章15節~20節
 十字架は、私たちの身代わりとなってイエス様が死んでくださった出来事です。そこでは「 あなたがたをまったく知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ 」と退けられたのは偽預言者ではなく、本物の預言者であったイエス様です。本物の預言者であるイエス様が、偽預言者として裁かれた。私たちが偽預言者として裁かれないですむために、イエス様は私たちが立つべきところに身を置いてくださった。偽預言者のように天の父の御心を損なってしまうような私たちを、神はイエス様の十字架において赦し、そこから再び始めさせてくださるのです。何度でも。

2月16日(土)マタイ7章21節~23節
「 わたしに向かって、『 主よ、主よ 』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである 」(21節)。こういう御言葉を前にすると、私たちは震えてしまうかも知れませんね。これって、私のことではないかと・・・。天の父の御心を行なうということは、まず、「 御心が行なわれますように。天におけるように、地の上にも 」と、祈ることから始まります。そして、こう祈っているならば、あなたは決して、「 あなたたちのことは全然知らない 」とは言われないのですよ。そして、この祈りは、「 わたしをあなたの御心を地になすための道具として用いてください 」という思いへと私たちを導いて行きます。

2月17日(日)マタイ7章24節~29節
「 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている 」(24節)。「 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている 」(26節)。賢い人と愚かな人の違いは、行なったか、どうかにあるのだと思ってしまいそうですが、そうではありません。イエス様の語る言葉を「 これは岩だ(わたしの人生と言う家を建てる上で、土台とすべきものだ) 」と認めたかどうかの違いなのです。「 聞くだけで行なわない人 」というのは、聞いてはみたものの、これは岩ではないとやり過ごした人のことです。毎日聖書日課に精を出しているあなたは、岩と認めているのですよ。

2013年2月3日日曜日

2013年2月3日 説教要旨


「 あなたに与えられている宝 」 ルカ19章11節~27節

ムナのたとえと呼ばれる、イエス様がなさったたとえ話を読む。これはタラントンのたとえ話によく似ている。主人が僕たちにタラント、あるいはムナを託して旅に出る。そして戻って来たときに清算が行なわれる。そのとき、託された物を用いた人と用いなかった人とがいることが明らかになる。双方のたとえ共に、同じストーリー展開を持っている。だが違う点もある。タラントンのたとえと違い、ムナのたとえでは皆、同じ1ムナを授けられている。皆、同じものが与えられている・・・果たして、この1ムナとは何を意味しているのだろうか。教会は伝統的にこれを神の言葉だと理解してきた。私たちには、神の言葉という宝が与えられている。私たちもこの理解に立って、このたとえ話を読んでみたいと思う。

 このたとえ話で私たちの関心を引くのは1ムナを布に包んでしまっておいた僕であろう。どうして彼は1ムナをしまいこんでいたのか。主人から「これで商売をしなさい」と言われていたにもかかわらず・・・。ひとつの理由は明確で、主人が怖かったからである(21節)。商売に行って、失敗して怒られることを恐れた。だからしまいこんだのである。しかしある人はこうも言う。彼は主人だけでなくて、世を恐れたのであると・・・。「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」(14節)。彼というのはこの主人。この主人は国民から憎まれていた。この僕たちは国民から憎まれていた主人の僕たちなのである。つまり、商売がやりにくいのである。「あの主人の僕たちか」と、名前を聞いただけで意味もなく憎まれる。商売としてこんなにやりにくいことはない。この僕はそれを恐れて、1ムナをしまいこんだままにしてしまった。

その気持ちは私たちにもよく分かると思う。イエス様は僕たちに、つまり教会に神の言葉を宣べ伝えるようにとの使命を与えて行かれた。ご自分が王になって再び帰って来るその日まで、教会は神の言葉を宣べ伝えながらイエス様の帰りを待っている僕。しかしすぐに体験するのは、神の言葉が鼻で笑われるということである。イエス・キリスト・・・私たちの主人の名前を聞いただけで何の根拠もなく、鼻で笑われる。そういう体験を一度でもすると、私たちもこの僕のように1ムナを包んでしまっておきたくなるのではないか。自分さえ、神の言葉を聞いていればそれでいいのではないか。自分さえ、潤っていればそれでいいのではないか・・・と。

 ある人は家族への伝道のために、教会から持ち帰ったプリントをしまわないで、家族の目につくところに置いておくのだと言う。すると家族はそれを手にとって読んでいることがあると言う。それもひとつの地道な伝道である。大切なことは、神の言葉を「しまっておかない」と言うこと。

 不思議なことに、このたとえ話には商売に行って失敗した人は登場しない。それは、彼らの力によって伝道されるのではなく、神の言葉自身が持つ力、それによって伝道がなされるものだからだ。「御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました 」と僕たちは言う。「あなたの1ムナ」なのであって「私の力で」ではないのである。

 「あなたの1ムナ」が力を持っている。それが伝道の急所なのである。伝道は、私たちがその力を信頼して、(商売を)やってみることなのだ。

 神学生時代、四日市にある小さな伝道所に伝道実習に派遣された。因習が強く、キリスト教に対して極めて閉鎖的な地域であった。都会では経験しないようなことを多く経験した。神の言葉が届いていかない・・・伝道の困難さにひどく落胆してしまった。だが実習が終わる日の前夜、伝道所の母教会の牧師が私たちを夕食に招いてくれた。夕食のあと、四日市の夜景を一望できるところに私たちは連れて行かれ、こういうことを聞かされた。私たち夫婦も開拓伝道に来たときには本当に参ってしまった。ここじゃ、伝道できないなと何度も挫折しかかった。そのとき、聖書の言葉がくじけそうな私たちを勇気付けてくれた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9節、10節)。この町にも神様がご用意されている神の民がいる。だから自分たちはただ神の言葉を提示すればいい。そうすれば、必ずそれに反応する人がいる。神の民となるべき人は、神の言葉を聞いたら必ず反応するから。自分たちは神の言葉を高く掲げて、それによってその人たちを呼び出せばいいだけなのだ・・・。その母教会は伝道困難な地域であるにもかかわらず、多くの人が集う教会になっていた。神の言葉それ自体に、救われるべき者を呼び覚ます力がある。そう信じたとき、この地域で伝道することが、むしろ楽しみになったとその牧師は言った。忘れられない言葉だった。

 僕は、主人は蒔かないところからも刈り取る厳しい方だと思っていた。だがそれは違う。この主人は、ご自分を蒔いてくださった方なのだ。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。ご自分を憎み、鼻で笑うような人々のために十字架にかかって、ご自分をこの人たちのただ中に蒔いてくださった。私たちが伝道する世は、主がすでにご自分を蒔いてくださった世。不毛の土地であるはずがない。

聖書日課 2月4日〜10日


成瀬教会 <聖書日課>  2月4日~10日

2月4日(月)マタイ6章10節
「 御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように、地の上にも 」。神を信じる生活とは、神の御心が自分の生活の中で実現することを願う生活です。いつも私たちの生活の中で、神の御心を問いながら生きるのです。自分はいつまで働こうか、年老いた親とどのように暮らそうか・・・私たちの生活は、大小様々な決断のつながりです。信仰を持っている人間の場合、自分の決断だけで終わりません。自分の決心が最後のものにならないのです。何が神の御心であるかを問うのです。「 神はこの私にどうすることを求めておられるのだろうか 」と考える。それが最後の決断になるのが、信仰者の生き方です。

2月5日(火)マタイ6章11
 現代は「 飽食の時代 」です。好きな食べ物がいくらでも手に入る時代です。そういう時代に生きる私たちに対しても、「 わたしたちに必要な糧を今日与えてください 」と、祈るように呼びかけています。イエス様が神の力を持ってずっと先の時代のことも見通しておられ、今日のような飽食の時代においても、なおこの祈りは必要な祈りとして与えてくださっているならば、この祈りは、「 それでは、あなたは何を食べているのか。 何をそんなに食べ飽きているのか。あなたは本当に必要な糧を食べていると言えるのか 」と、問いかけてくるのではないでしょうか。私たちの胃袋は、主イエスが誕生した夜の、あのベツレヘムの宿屋のように、何かほかのもので満員になってはいないでしょうか。ぜひ、聖書日課も忘れずに。

2月6日(水)マタイ6章12節、14節~15節
「 負い目 」とは、負債、すなわち赦される必要のある罪のことです。私たちは人の罪など赦せないと簡単に言い切ってしまうことがあります。そのとき、私たちは自分が人の罪を赦すことをそれほど真剣に考えなくなっているのです。最初からそんなこと私には無理とあきらめて、人を赦さないままに、神様の前で祈っても少しの痛みも感じなくなっているのです。人を赦すことの闘いも、そこから生まれる深い悩みも、すっかり放棄してしまっているのです。それは、神様から与えられる自分の赦しをも真剣に考えているとは言えません。自分の罪が本当に神様から赦されなければならないものであると切実に感じてはいないでしょう。人の赦しを考えることは、(神からの)自身の赦しを考えることと深く結びついているからです。

2月7日(木)マタイ6章13節
「 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください 」という祈りは、ずいぶん極端な祈りです。誘惑とある程度戦いながら、そこで助けてください、というのではなく、最初から戦わないですむようにしてくださいと言うのですから。私たちは、そこまで徹底した求めをしたことがあるでしょうか。戦いを手助けしてくださいとは祈っても、ここまで弱さの極みに立つ祈りをしたことはないかも知れなません。イエス様は「 無力の極み 」という言葉が思い浮かぶようなこの祈り、完全に戦う意欲や自信を喪失している姿と言えるような、この祈りを祈りなさいと言われます。それでいいから祈れと言われます。イエス様は、私たちが万策尽きた、そういう場所に立ち至った時にも、なお、祈れる祈りがあるのだということを教えてくださっているのです。そして、その祈りを神様は聞いてくださるのだと・・・。

2月8日(金)マタイ6章16節~18節
人からの評価が気になります。なぜ、気になるかというと、今、ここで報われないと不安だからです。例えば、家でご馳走を作って、子どももお父さんも黙っていると、お母さんは気になるでしょう。「 味、どう?」って聞きたくなるでしょう。それでも何にも言ってくれないと空しいと思うでしょう。そういう空しさに勝たなければいけないと主は言われます。それは、神様を知っているということなのです。神様はすべてのことを見ておられる。隠れたことを見ておられるあなたの父は、見て、それにちゃんと報いてくださる。そういう神様の答えというものを、いつも知っている。そこ以外に、私たちが人の評価から自由になる道はありません。

2月9日(土)マタイ6章19節~21節
「 富は、天に積みなさい 」(20節)と言われています。地上に富を積むような地上の富に振り回されるような生活ではなく、「 天に富を積む 」生き方をしようと言うのです。バッハはあらゆる作品の最後に、「 ただ、神の栄光のために 」を略したSDG(ソリ・デオ・グロリア)という文字を書きました。そのように、何をするにしてもその最後に、「 ただ、神にのみ栄光があるように 」と書けるかどうか・・・。富を天に積む生き方とは、そういう「 神にのみ栄光を帰す 」生き方のことです。あなたの今日一日の始まりと終わりに、SDGと書けますように。

2月10日(日)マタイ6章22節~24節
澄んだ目とは、どんな目のことでしょうか。それは、2つのものを同時に見ない、一心にひとつのものを見つめている目のことです。宗教改革者M.ルターは、2つのことを同時に見ると頭が痛くなる。目つきも悪くなり、視線が定まらないから病気にもなるだろうと言いました。私たちの目つきが悪ければ、私たちの全ての生活がそこから歪み、病んで行ってしまいます。主は言われます。「 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない 」(24節)。私たちの心の目を開き、見るべきものを一心に見ようと、主は呼びかけておられます。