2014年9月28日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月29日~10月5日

9月29日(月) ヨハネによる福音書12章20節~26節
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ 」という24節の言葉、とてもよく知られている言葉です。この聖書の言葉が好きだという人も多いようです。この言葉が示している大切なことは、私たちの命は、イエス・キリストの犠牲の上に成り立つ、いわばイエス・キリストという一粒の麦の実りであるということです。もし私たちの日々の歩みが命をただ浪費しているような歩みになってしまっているならば、そのとき私たちは自分の命の重さを忘れてしまっているのです。あなたの命は、イエス・キリスト、神の御子という一粒の麦の実りなのです。

9月30日(火) ヨハネによる福音書12章27節~36節前半
 「『 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう 』。 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである 」(32節、33節)。私たちにやがて必ず訪れる死のとき。そのとき、私たちはどのような思いになり、何が支えとなるのでしょうか。その時が来て見ないとわからないことも多いと思います。しかしそのとき、このヨハネ福音書の言葉を思い出してください。そして自分自身にこう言ってあげてください。「 お前が死ぬことは、イエス・キリストのもとに引き寄せられることなんだ。恐れることはない。不安になることはない。この御言葉がお前には与えられているのだ。キリストを信じ、キリストの者とされているお前は、この『 すべての人 』の中に数えられているのだ 」と。道の世界へと足を踏み入れることになる死、それでも私たちには望みありです。

10月1日(水) ヨハネによる福音書12章36節後半~43節
 この世の人は光を憎み、闇に生きることを愛しました。そのことをヨハネは預言者イザヤの言葉が実現したのだと言います。40節の「 神は彼らの心を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして彼らは目で見る事なく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない 」という言葉は、人々がイエス様を信じないのは、神が彼らの心をかたくなにしたからだと言っているように読めます。しかし神は独り子をお与えになるほどに世の人の救われることを願っておられることに照らして考えると、その読み方は間違っていることが分かります。これは、もともと彼らの心の中にある思い、すなわち光よりも闇を好む思いが福音を聞くことによって、はっきりと外側に現れてくると言うことなのです。「 神の定め 」が問題なのではなく、神からの誉れよりも人間からの誉れを好む「 」が問題なのです。
 

10月2日(木) ヨハネによる福音書12章44節~50節
  「 イエスは叫んで、こう言われた 」(44節)。私たちは日常生活の中で、あまり叫ぶことをしません。時々、誰かを呼び止めようとしたり、危険が近づいている事を知らせる時に叫ぶことがあります。イエス様の叫びも、私たちに危険が迫っている。このままでは危ない。何としても、大声で呼び止めなくてはいけない。私たちの魂の救いを求めるイエス様の熱望が思わず叫びとなって現れたのです。46節の「 光と闇 」の対照ですが、神のまなざしに照らし出される人間の姿は闇に生きているか、光に生きているかのどちらかです。「 だれも暗闇の中にとどまることがないように 」(46節)、光として来られたイエス様の叫びがあなたに届いていますよ。

10月3日(金) ヨハネによる福音書13章1節~11節
 過越しの食事の席でのこと、通常は奴隷がする「 足を洗う 」という行為を主であるイエス様がなさり始めました。ペトロは驚いて、これを拒否しようとします。イエス様は、人間の罪を拭い、人を洗い清めるというご自身の救いの御業を象徴する行為として、弟子たちの心深く記憶されるようにと、これをしたのでした。足は、人間の体の中で最も汚れる部分、汚れの象徴です。しかしペトロはその意味するところが分からず、とんちんかんなことを言っています(8節)。「 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた 」(1節)とあるように、イエス様はご自身の持てる最高の愛を注いで、これをなさったのです。愛の行為は、その愛が深ければ深いほど、すぐには分からず、あとになって分かるものなのです(7節)。

10月4日(土) ヨハネによる福音書13章12節~20節
  「 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない 」(14節)。イエス様は、洗足の行為に二重の意味を込めておられます。ひとつはご自身の贖いを象徴する行為として。もうひとつは、互いに仕え合う模範の行為としての意味。私たちが本当に人に仕えるというのは、その人の前に身を低くし、足を洗うほどに身をかがめなくては(謙遜になるのでなければ)決してできないことなのです。そしてそれは、自分の命はイエス・キリストの贖いのゆえに今、こうしてあるのだということが心底、分かったというところからしか、生まれて来ない行為なのです。

10月5日(日) ヨハネによる福音書13章21節~30節
  イエス様はひとりひとりの前にひざまずいて、弟子たちの足を洗われました。その部屋には、イエス様の愛と赦しに包まれた温もりがありました。しかしそこから外へと、ユダが飛び出したとき、夜の闇がユダを飲み込んでしまいました。「 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった 」(30節)。夜であったというのは、とても象徴的ですね。イエス様の愛はユダにも十分に届いていました。しかしユダはそれを振り切って出たのです。人は、神の愛から排除されて、神を捨てるのではありません。神の愛を振り切って、神を捨てるのです。

先週の説教要旨「 礼拝で居眠りし 」使徒言行録20章1節~12節 
 この箇所には、これを絵にして教会の玄関に飾り、「 これがキリストの教会のイメージです 」と言って、訪ねて来る方に紹介したい、そのようなことが記されている。「 教会とはどういう集まりですか 」と問われたときに、その答えとして、何度でもそこに帰って行く物語がここに記されているのだ。場所はトロアスという港町、しかも夜。エーゲ海に面したこのトロアスがいかなる町であったのか、思い浮かべることはそんなにたやすいことではないかも知れないが、観光旅行のパンフレットなどで、エーゲ海に面した港町の写真をご覧になったことがあるだろう。ギリシアの家々は昔から白い四角い家が多かった。家の白、海の青、昼をつかさどったそれらの色が、夜になると漆黒の黒へと塗り替えられて行く。昔の人は、陽が沈むと床に就いて寝た。今日のように夜も昼のように過ごすことはない。それゆえトロアスの港町も夜になれば、町中の明りが消えて、真っ暗になっていた。けれどもこの日だけはいつもと違って、一軒の大きな家の「 階上の部屋 」が赤々と輝いている。そこに教会員が集まり、礼拝を捧げている。まだ成瀬教会のように立派な教会堂はない。比較的広い信徒の家を借りて礼拝をしている。電気でつく電灯はまだない時代、油を燃やして明りとしていた。すべての家々が暗闇の中に没している中で、この一軒の家だけが赤々と明りを灯している。これはずいぶん目立ったであろうと思う。プロ野球のナイターをしている球場をヘリコプターでその上を飛びながら写すのを見たことがあるだろう。町の中にポカッと明るく野球場が浮かび上がっているのと同じように、トロアスの町に浮かび上がる1軒の家。闇の町の中に光を放っている一軒の家、それがキリストの教会のイメージなのである。

礼拝が行なわれていたのは「 週の初めの日 」。今日の日曜日だ。だがこの時代はまだ土曜日が安息日であり、仕事を休んで神を礼拝する日であった。弟子たちがキリストのよみがえられた日曜日に集まり、礼拝をするようになり、後にキリスト教がローマ帝国の国教となると、礼拝を守りやすいよう、日曜日がお休みの日に変更されたのである。だがこのときは、週の初めの日は皆、仕事に出かけた。それで礼拝をする場合、仕事の前にするか、仕事が終わってからするか、2つの方法があった。トロアスの礼拝は後者であった。朝、日の出とともに仕事に出かけて行った者が、仕事を終えて礼拝の場所へと集まって来る。信仰の仲間の家に教会の者たちが集まる。7節に、「 わたしたちがパンを裂くために集まっていると・・・」と、ある。「 パンを裂く 」というのは、この頃の聖餐を祝うことを表す表現であったようだ。夕食と共に主の晩餐を祝ったのである。もちろんキリストの救いの御業について語る説教が行なわれた。しかしこのトロアスの教会にとって、この日の礼拝は特別な意味を持っていた。自分たちの優れた指導者であって、しかしなかなか会うことができなかったパウロ先生がこのトロアスに来てくれたのである。パウロのトロアス滞在は7日間、これがただ一度の日曜日の礼拝であった。教会の人々はその日、働きながらもそのことを楽しみにしていたであろうと思う。そして集まって来た。パウロもついつい熱が入り、とうとう徹夜の礼拝をしてしまった。闇夜の中に明りをたくさん灯しながら浮かび上がっている教会、これは単なる情景にとどまらず、教会の本質を象徴する姿なのである。教会は、人々にとってまさに暗闇に輝く慰めの光、導きの光なのである。先行きの見えない不安な人生の道を照らし、進むべき道を示す望みの光、それが教会なのである。そしてその光は神が私たちに与えてくださる光であって、私たちが作り出す光ではない。

エウティコの事件は、その光が何であるかをより明らかにする。窓に腰掛けていた彼、新鮮な空気を吸おうと思ったのだろうか、しかしパウロの話しが長くなり、つい居眠りをして3階から落下して、死んでしまった。しかし神がパウロを通して奇跡を行なわれ、彼は生き返る。教会の仲間たちは生き返った彼を迎えて礼拝を再開する。そこで聖餐が行なわれて、この聖餐は「 私たちが罪赦されて、永遠に生きる神の子とされるためにキリストが裂かれた体、キリストが流された血だ 」。その恵みを生き返ったエウティコの姿と重ね合わせ、この恵みのためにキリストが・・・と心深く受け止め、真にキリストの恵みが支配する場になったであろう。このことが示しているように、教会の光は何よりも、死に打ち勝つ神の恵みを示す光なのである。真っ暗な闇の中に輝く光、教会、そこは死ではなく、死に対する恐れではなくて、命が支配している、命が勝利しているところ。私たちはキリストを信じ、この光の家の一員となっている。死に勝利することができる一員になっているのである。『 死の陰の谷を歩むとも 』(教団出版局)という本の中に大宮溥先生が12歳の娘さんを天に送られたときの証が載っている。光は闇に輝くというタイトルの証である。まさにこの箇所のメッセージと重なる内容である。死に行く娘さんの信仰の言葉に心打たれる。彼女の人生のともし火は消えた。しかし世の終わりの時、神は彼女に永遠に消えないともし火、復活の体を伴う永遠の命というともし火を与えてくださる。その望みが、彼女の死の現実の中に赤々と光り輝いている。私たちも同じ恵みの中に招き入れられているひとりなのである。(2014年9月21日)

2014年9月21日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月22日~9月28日

9月22日(月) ヨハネによる福音書11章17節~27節
  「 イエスは言われた。『 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか 』」(25節、26節)。最近、お連れ合いを天に送られた方が、最後の介護の日々を、毎日、朝、この御言葉を聞き、「 はい、信じます 」と答えて歩まれました。悲しい別れの時が近づいていることを感じつつ、この御言葉に問われて、答えることが深い慰めなり、支えとなったのでした。主の御言葉に、毎日、このようにして触れて歩むことは、何と幸いなことでしょう!

9月23日(火) ヨハネによる福音書11章28節~37節
 「 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた 」(33節、34節)。死に直面して人間は泣くことができるだけです。そしてどんなに深く嘆いたとしても、やがてあきらめるしかありません。しかしイエス様はあきらめず、憤り、激しく興奮します。イエス様の涙、怒りは、死に徹底的に支配され、翻弄されている人間の定めに対する悲しみであり、同時に死に対する憤りです。イエス様は私たちをその死の力から解放するため、全存在を注ぎ出し、十字架におかかりになります。イエス様は裂かれたその体をもって、死の前に立ちはだかり、私たちを救ってくださったのです。私たちの肉体はやがて死を迎えます。しかしそれは永遠の終わりではないのです。イエス様の涙・・・イエス様の御業にはいつでも深い共感の涙がこめられています。

9月24日(水) ヨハネによる福音書11章38節~44節
 「 イエスは、『 もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか 』と言われた 」(40節)。悲しみの中にうずくまるしかないマリアに主は語りかけられました。「 信じるなら 」というのは、「 わたしを信じるなら 」という意味です。イエス様を「 信じて 」従って行くとき、私たちは神の栄光を見ることができるのです。「 もし信じるなら 」・・・この言葉は、私たちが日常生活の中で、日々、自身の心に刻み込む必要のある言葉です。あなたが苦境に陥った時、あなたが気力を失いそうになった時、目の前が真っ暗になってしまった時に、この言葉を自分自身に語って聞かせるのです。「 もし、信じるなら 」・・・そう、この状況においてもなお・・・。そのとき、神の栄光が私たちの想像を超えた形で現れます。

9月25日(木) ヨハネによる福音書11章45節~57節
 「 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『 あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか 』」(51節)。神はご自分に反逆する大祭司カイアファの口をして、この言葉を言わせました。イエス様の犠牲の死による恵みを語らせたのです。この言葉に込められている「 神の知恵の深さ 」の何たることか・・・。ただただ、パウロの「 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです 」(Ⅰコリント1章25節)の言葉を思い起こすより他はありません。このような神の知恵と力に対抗して生きようとすることの何と愚かしいことか。そしてこのような神に委ねて生きることの何と平安なことか・・・。

9月26日(金) ヨハネによる福音書12章1節~7節
 弟子たちの目には、本当に効率の悪い、無駄なことにさえ映っていたマリアの業。馬鹿げた浪費の行為にしかとられなかったマリアの業です。けれども、イエス様は、その行為の裏にある彼女の愛をしっかりと受け止めてくださっていました。イエス様は「 」がいかなるものであるかをよく知っておられたからです。 愛の業と言うのは、本来計算づくでなされるものではないのです。計算の上で人を愛することなどできないのです。だから周りの人から見るとそれが愚かになるような事が起きうるのです。愛においては・・・。イエス様は、愛というものが計算できるものだとは考えられませんでした。だからこそ、十字架に向うことができたのです。

9月27日(土) ヨハネによる福音書12章8節~11節
  「 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった 」(9節)。多くの人が生き返らされたラザロを見にやって来ました。中には失礼な人もいて、彼を見て「 お~、生きてる、生きてる 」なんて言ったかも知れません。でもラザロを見て、「 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである 」(11節)ということが起こっています。ラザロは何か特別なことを語り、特別なことを自分がしたわけではありません。ただ、死の力をも御手のうちに治めておられる方の恵みの力に与っただけなのです。しかし、その姿が人々への証となる・・・。これがキリスト者の証の原点ですね。わしたちはただ、主の恵みを盛る器であれば、それでよいのです。たとえ、形の悪い、壊れかけた見栄えのしない器であっても、証となるのです。

9月28日(日) ヨハネによる福音書12章12節~19節
  「 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した 」(16節)。人生には分からないことがあります。どうしてあのとき、あんな出来事が起きたのか。なぜ、こんな目に遭わなければならないのか・・・。そのすべてが分かるときが来ます。そのすべては、神の、私たちを配慮するゆえの、心のこもった演出であったということが・・・。信仰者には「 なるほど 」と、ひざを打つときが必ずあるのです。

先週の説教要旨「 利益追求の信仰と真実な信仰 」使徒言行録19:21~40 

池に石を投げ込むと波紋が広がる。それと同じことが今朝の箇所で起きている。エフェソの町の人たちが持っていたその信仰のありように、パウロが伝える信仰が投げ込まれると、大きな波紋が町全体に広がったのである。今朝は、エフォソの人たちが持っていた信仰とパウロの伝えた信仰に着目して読んでみたいと思う。

 まず、エフェソの人たちの信仰であるが、彼らはギリシャの女神アルテミスを信奉していた。アルテミスの神殿は、当時のアジア州では最大の神殿であって、今日でも、どうやってあのような巨大の神殿を建てることができたのか、世界の七不思議のひとつとして数えられているほどである。そういう立派な神殿があると、たくさんの観光客や巡礼者が訪れる。そしてその人たちをあてにした商売がそこに生まれる。日本でも同じ光景を随所に見ているだろう。デメトリオは、銀細工職人たちを集めて、彼らに銀でアルテミス神殿の模型を造らせ、巡礼者や観光客にそれを売り、かなりの利益を得ていた。デメテリオだけではないだろう。おそらくエフェソの町全体が、アルテミス神殿のおかげで相当、潤っていたであろう。そういう彼らの信仰のありように、パウロの伝える信仰が投げ込まれたとき、デメトリオは激しく揺さぶられた。彼は人々に訴えた。「 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『 手で造ったものなどは神ではない 』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう 」(26節、27節)。彼の発言はとっても正直に彼の心を映し出していよう。彼が最初に口にしていることは自分たちの商売のことで、次に女神の威光のことを口にしている。つまり、彼らの関心は前者にあり、彼らの信仰というのは、自分たちの利益と深く結びついたところでの信仰、俗に言うご利益信仰だったのである。しかしデメトリオのこの発言によって、波紋は町全体へと広がって行く。随分たくさんの人たちがこの騒動に参加したようであるが、どうして、「 大もうけができなくなる 」というひとりの人の叫びが町全体の叫びとなってしまったのか・・・。それは町中の人たちもご利益信仰に立っていたからであろう。「 ご利益信仰 」というのは、自分の利益のために神を利用する信仰のことである。

それに対して、パウロの伝える信仰はどのような信仰であったか。その信仰は、21節の言葉にとてもよく現れている。「 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『 わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない 』と言った 」。「 見なくてはならない 」というのは、パウロが自分勝手にそう考えているということではなくて、神がそうすることを求めておられるから、自分はローマに行かなければならないということなのである。実際、この部分には原文ギリシ「 聖霊によって 」という言葉がついていて、御霊の導きによって決心したということを伝えている。パウロの伝える信仰というのは、自分の思いとか、自分の選択でもって、どこに向かうか、どの道を選ぶか、というのではなくて、「 こんな時はどうすべきなのだろうか・・・神は何を臨んでおられるのだろうか 」という具合に、あくまでも神の思いということが最優先される信仰なのである。もし、私たちが日々の生活の中で「 こんな時はどうすべきなのだろうか・・・聖書は何と言っているのだろうか。神はこの私にどうすることを求めておられるのだろうか 」と考えて生きているならば、あなたは神に導かれ、神と共に生きているのである。そのとき、あなたと共に神はおられるのである!

 パウロの伝えるそういう信仰とご利益信仰とは、一体、どこが違うのであろうか。 それは、「 神に委ねる 」ということが、そこにあるかどうか、である。ご利益信仰というのは、神に委ねるということはない。自分にとっての利益はこれだと、自分の方で決めていて、それに応えてくれる神でなければならない、そういう信仰である。それに対して、パウロの伝える信仰は、「 これが利益かどうかという判断さえも、神に委ねてしまう信仰 」なのである。自分の方で、これは利益、これは不利益、というような判断をして、こっちじゃないとわたしは嫌ですよ、みたいなことをしない。たとえ、自分にとっては不利益だと感じることであっても、神がそれを求めておられるならば、それを引き受けますという姿勢、それがパウロの伝える信仰である。これが利益か、不利益か、その判断さえも神に委ねてしまって、ただただ神の御心がなることを求めていく信仰。しかしそういう信仰というのは、一時的には自分に不利益だと思ってもそれを受け入れたとしても、最終的にはこれで良かったのだと言わせていただける結果に至るのである。そして神は、そのような信仰の歩みを志している者を守り、そのような結果が現れるところへと必ず、その人を導いて行かれる。時には、信仰のない人たちの力をも用いてその人の歩みを守りつつ。ここでの騒動を治めたのは、パウロでもなく、デメトリオの仲間でもなく、信仰のない町の書記官であったように・・・。それが私たちの確信である。私たちはこの信仰に生きて間違いないのである。   (2014年9月14日)

2014年9月14日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月15日~9月21日

9月15日(月) ヨハネによる福音書9章13節~23節
  「『 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう 』。両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである 」(21節、22節)。両親は自分たちの息子の目を癒したのが誰であるか、分かっていました。分かっていましたが、それを告白することはできませんでした。共同体から締め出されることを恐れたからです。信仰は分かったから告白できるというものではありません。決断をしなければ告白できません。しかし信仰の決断をするとき、主が共にいてくださることをよく分からせてもらえます。逃げていたら主の御臨在は分からないのです。

9月16日(火) ヨハネによる福音書9章24節~34節
 「 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです 」(31節~34節)。生まれつき目の見えなかった人は、イエス様が神から遣わされたメシアであることを公言するようになりました。ユダヤの指導者たちに脅されても、彼は発言を取り下げようとしません。その結果、彼は「 外に追い出  」(34節)されてしまいました。このことは、社会からの追放を意味していました。しかしこのあと、そういう彼をイエス様は見つけ出して、声をかけ、導いてくださいます。キリストを信じるゆえに、社会の片隅に追いやられることがあります。しかしそのあなたに主は目を留め、ご自身を現してくださいます。

9月17日(水) ヨハネによる福音書9章35節~41節
 「 見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『 見える 』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る 」(41節)。イエス様が神から遣わされたメシアであるかどうか、ユダヤの指導者たちはよく分かっていると自負していました。もちろん、安息日を守らない者がメシアのばすなどない。彼らは神のことをよく「 見える 」と思っていたのです。しかしそういう彼らこそ、実は見えていないというのです。神のなさっていることが。信仰生活に慣れて、いろいろなことが分かって(分かったつもりになって)きたとき、落とし穴があります。神のことは、いつだって神の前にひざまずいてこそ、分かってくるのです。

9月18日(木) ヨハネによる福音書10章1節~6節
 「『 はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである 』」(1節、2節)。羊飼いは門を通って羊に近づいてきます。柵を乗り越えてくるのは、羊を奪う盗人であり、強盗です。彼らによって、羊は傷つけられたり、殺されたりします。しかし本当の羊飼いは、羊に会うために来ます。羊飼いが羊に会うにはひとつの門を通るより他はありません。「 罪の赦し 」という門です。十字架という門を通ってイエス・キリストは、この罪人である私たちのそばに来てくださったのです。

9月19日(金) ヨハネによる福音書10章7節~21節
 「 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている 」(14節)。人を知るためには人の立っている同じ場所に立たなければなりません。神の御子は私たちを知るために、「 肉体となって私たちの間に宿られ 」(ヨハネ1章14節参照)ました。肉の人間の痛み、苦しみ、弱さ、それらのものを文字通り、イエス様は身をもって味わってくださいました。肉の人間を救うために体をもって十字架につかれました。神の御子が私たちを知るというのは、そういうことでした。ただ観察して知っているというのではありません。神に感謝!

9月20日(土) ヨハネによる福音書10章22節~42節
  「 多くの人がイエスのもとに来て言った。『 ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった 』」(41節)。ヨハネがけなされているわけではありません。ヨハネは神の救いの働きを行なうことはできませんでした。彼がしたことはただひとつ、「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊 」(ヨハネ1章29節)と言って、イエス・キリストを指し示すことだけでした。そして、彼の指し示したイエス・キリストが神の救いの働きを行なわれました。それでよかったのです、教会は自分の力で何かできるわけではありません。ただ救い主を指し示すだけです。教会は証言し、救い主は御業を行なってくださいます。それでよいのです。

9月21日(日) ヨハネによる福音書11章1節~16節
  「 イエスはお答えになった。『 昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである 』」(9節、10節)。神の御心があるならば、人はつまずきません。神の御心は光のように人の歩みを守ります。神の御心のないところを歩めば、人はつまずきます。どこにも光がないからです。信仰は信念ではありません。つまり、自分の中に何らかの光があって、それによって歩むのではなく、神の光に照らし出していただきながら、歩むのです。

先週の説教要旨 「 信仰と魔術 」使徒言行録19章11節~20節 

19節に、信仰に入った人たちが自分が持っていた魔術の本を燃やしたことが書かれている。これはエフェソという当時、文化の最先端を行く町で起こった出来事である。焼かれた魔術の本の値段、銀貨5万枚ほどであったと言う。今日の額に換算すると、数億円の額になる。それほど魔術が盛んだったのである。調べてみると、ここでいう魔術師とは、占い、まじない、霊媒(死者の声を取り次ぐようなこと)を指しているらしい。このことは、現代の日本にも当てはまることであって、日本は世界中でも科学の最先端に位置している。だが、魔術の類はすたれているかと言うと、そうではない。本屋に行けば、占いの本やスピリチュアル何とかという類の本が山積みになっている。テレビをつければ、天気予報と並んで、今日の運勢などと言ったコーナーが当たり前のように設けられている。迷信的と思われるような占い、まじないの類が科学の発達とは関係なしに、人間の心の中にある種の求めとして存在し続けているのである。なぜ、占いを求める心が人々の心から消え去らないのであろうか。自分の生活は、自分以外の何かの別の力の影響を強く受けていることを知っているからであろう。自分の力だけではどうにもならない、いや、自分の力の締める割合というのは、自分の人生においてはそれほど大きくはなくて、むしろ、周りからの力に強く影響され、自分の人生は形作られている。そして、しばしば、その周りからの影響というのは悪い影響なのである。自分が一生懸命努力して、頑張って、コツコツと努力を重ねていても、外からの力がドンと加われば、一瞬のうちに、今までの努力が水の泡と化してしまう・・・。人はそういうものを「 運命 」とか「 偶然 」という言葉で言い表す。運命、偶然・・・何か得体の知れない、不気味な力が私に働きかけており、占いとうのはそういう運命に逆らわないように今日を生きるにはどうしたらいいかを示す、言わば「 魔よけの信仰 」なのである。

 しかし信仰に入ったエフェソの人たちは、自分たちの持っていた魔術の本を焼き捨てた。もう魔術の本を必要としなくなったからである。なぜなら、信仰を持つということは、神がこの世界の創造者、そして支配者であることを知ることだからである。ひとりの人間の命をつかんでいるのは、得体の知れない運命、不気味な偶然の力などではなく、皆さんひとりひとりの命をこの地上に誕生することをお許しになられた神が、その命をつかんでおられるのだと知ること、それが信仰。この世界は、神がその独り子を送ってくださった世界。神の御手が差し伸べられている世界。運命という得体の知れない不気味な法則、偶然という気まぐれな力にとらえられているのではない。神の愛の御手が差し伸べられている世界に、私たちは生きている!

「 身を横たえて眠り、私はまた目覚めます。主が支えていてくださいます。いかに多くの民に包囲されても決して恐れません 」(詩編第3編6節、7節)。自分は夜になったら、身を横たえて眠り、そして朝になったら目覚める。神様が支えていてくださるからだ。どんなにたくさんの敵に、自分が包囲されていても決して恐れないと詩人は言う。確かにこの詩のように、人はいろいろなものに包囲されている。あまり好ましくないものに包囲されていると言ってよいかも知れない。人々の悪意や様々な策略、災難・・・しかし私たちがどんな力や悪意に包囲されていたとしても、最終的に私たちの命をつかんでおられるのは父なる神なのである。私たちはそこにある敵が見えて、そこにあるそれ以上のものが見えなくなるために、夜、眠れなくなる。そこにある嫌なものばかりが目に映って、その向こうにあるものが見えないために、いつもイライラ、ぶつぶつしている。しかしそうではない。主が私たちを支えてくださる。私たちを取り囲んでいる様々な力を超えて、その背後にあって確かに神の力が私たちの命を取り囲んでいる。神様は私たちを守っていてくだる。

 人はこんなことがないように、あんなことがないようにと、災いを恐れながら生きる。平穏無事であることが幸せであると考える。しかし、そういう生き方からは何も生み出すことはできないのだ。仮に平穏無事に過ごせたとしても、その人生には何の意味も見出されないであろう。ああならないように、こうならないように、そういう「 魔よけ 」みたいな生活ばかりしていても仕方ない。神は、困難や敵の存在を私たちに与える。その困難を貫いて生きることを通して、神はことをなそうとなさる。私たちを用いられるのである。私たちは、「 魔よけの信仰 」ではなく、むしろ、神の支配を信じているからこそ、果敢に人生の困難に挑んで行く、そういう生き方を、信仰は私たちに与えてくれる。ハンセン氏病との誤診を受けた井深八重さんは、その誤診の中に神の呼びかけを聞き取り、修道女となり、看護師の資格を取り、その生涯をハンセン氏病患者と共に生きた。エリザベス・サンダース・ホームという混血児たちの孤児院を設立した沢田美喜さんも、網棚に置かれた混血児の遺体の母親と間違えられる経験の中で、神の招きを聞き取り、孤児院のために生涯を捧げる道に生きた。たまたま間違えられて、自分は運河悪かったなどと受け止めていたら、そういうことにはならなかったであろう。彼女たちが「 魔よけの信仰 」に生きていたら、そういう人生は開かれなかった。様々な困難に囲まれて、なお、神と共に生きる、その信仰へと神は私たちを招いておられる。(2014年9月7日)

2014年9月7日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月8日~9月14日

9月8日(月) ヨハネによる福音書8章21節~30節
 私たちは信仰を持ったからと言って、死なない人間になるわけではありません。皆、死ぬのです。問題は、私たちが死ぬときに、この人は「 罪の中に死んだ 」(21節、24節)と言われないような死に方をしないですむか、ということです。罪人の死と言われるような死に方をしてしまうのかどうか、と言うことです。まわりの人が判断してそう言われてしまうということではなく、イエス様がご覧になって、この人は私が心配していた通りに、罪の中に死んでしまったと言われないような死に方をするということです。私たちがそういう死に方をしないですむように、イエス様ご自身が他の誰も代わることのできない死に方をすることがここで語られています。そのイエス様の死の恵みを拒否することが、罪の中に死ぬことなのです。

9月9日(火) ヨハネによる福音書8章31節~38節
 「 真理はあなたたちを自由にする 」(32節)という場合の真理とは、イエス様ご自身のことを指して言っています。この言葉は「 罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である 」(34節)という言葉と対照的に語られています。ヨハネ福音書は、罪を「 イエス様を信じないこと 」であると主張していますから、イエス様を信じることは解放となり、イエス様を拒否することは束縛となるのです。あなたはイエス様以外の様々な事に心を奪われて、それに束縛された状態になっていませんか。その束縛からの解放は、イエス様に委ねることでしか、得られないのです。

9月10日(水) ヨハネによる福音書8章39節~47節
 「 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている・・・悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている 」(44節)と「 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない 」(45節)の2つの言葉は深く考えさせられます。本当のことを語るから信頼を得られるのだと私たちは考える一方で、産地や商品の中身を偽装して販売し、信頼を失墜する企業が後を絶たないのです。どうしてそんな馬鹿なことが起こるのでしょうか。この世の中、嘘をつかないとやって行けないと思うからです。しかしそのとき、私たちは悪魔のとりこになってしまっているのではないかと考えてみる必要があります。

9月11日(木) ヨハネによる福音書8章48節~59節
 イエス様は、ユダヤ人に対して明確に、ご自身が神であるという主張をなさっています。イエス様を神と同等のお方として、この言葉を理解しようとしないならば、とんでもない狂言者と断定されても仕方がないほどのことを言っておられるのです。「 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない 」(51節)。私たちがイエス様に好意を持ち、イエス様の言葉を聞いて生き始めるとき、その人は永遠の命を生き始めるのです。「 決して死ぬことがない 」というのは、肉体的な意味ではなく、霊的な意味で死なないということです。イエス様を愛している今日のあなたの生活は、永遠の命へとつながる生活になっているのです。

9月12日(金) ヨハネによる福音書9章1節~12節(Ⅰ)
 私の大好きな聖書の箇所です。なので、3回にわたって取り上げます(わがまま?)。「 ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか 」(2節)という弟子たちの質問は、あまりにも残酷で、単なる興味本位であり、同情のひとかけらもありません。完全な上から目線です。しかし本当は、この質問は自分自身に向けるべきものなのです。なぜ、私はあの人のように生まれながら目が不自由ではなかったのか、私とあの人に何の違いもないはずなのに・・・・。なぜ、私は目が見える形で生まれてきたのだろうかと・・・。その問いを持たない限り、人は他の命を上から目線でしか見られないし、すべての命を尊んで生きることもできないのです。

9月13日(土) ヨハネによる福音書9章1節~12節(Ⅱ)
 この生まれつき目の不自由な人を見つめる弟子たちのまなざしと、すべてのものを造られたイエス様のまなざしとは、天と地ほどの差があります。イエス様のまなざしは暖かい。「 本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである 」(3節)。私たちはいつでも過去から現在の不幸の原因を見ようとします。あのこと、このことがあったためだと・・・。しかしイエス様は今ある悲しみを、神の備えた将来からご覧になっています。それは神が備えている恵みの業が現れるために、今の悲しみがあるのだよと。神の備えた将来を信じましょう。あなたもイエス様のまなざし自分の人生を見つめ直してみませんか。

9月14日(日) ヨハネによる福音書9章1節~12節(Ⅲ)
 「 神の業がこの人に現れるためである 」(3節)という言葉には、強く心惹かれますが、同時に、これは具体的にはどういうことを言っているのだろうかと考えてしまうかも知れません。信仰を持っても、癒されないままの方もいるからです。癒されたこの男の人は、癒してくださったイエス様をメシヤと認め、それを主張し続けるために、のちに村八分にされてしまいます(35節)。その彼をイエス様はすぐに見つけ、出会って、言葉をかけて導いてくださいます(35節、36節)。実はこの人はこの時、初めてイエス様を見ることができたのでした。癒された彼の目が見たイエス様は、いつも自分に目を留め続け、危機の時にはすぐに駆けつけられるようにしていてくださる、そういうイエス様の姿でした。そういう方が自分にはいるのだ、ということが分かる。それが神の御業が現れるということなのだと思います。

先週の説教要旨 「 私たちは神の子 」使徒言行録19章1節~20節 

第19章はパウロのエフェソ伝道、その前半の様子を伝えている。パウロは2年半の間、エフェソで伝道した(8節、10節)。その間に起きた2つの出来事(1節~7節と11節~20節)がここに記されている。それぞれ別々の出来事が記されているようにも思えるが、実はこの2つのことは深く関連している。
 まず1節~7節のヨハネの洗礼を巡る出来事であるが、パウロがコリントに来たとき、そこで何人かの弟子たちにあった。しかし、一緒に過ごし、言葉を交わしているうちら、何か「 これは違う 」、と感じるところがあったのだろう。「 信仰に入ったとき、洗礼を受けましたか 」と聞いてみた。「 聖霊があるかどうか、聞いたこともありません 」と彼らは答えた。そこでパウロは、「 どんな洗礼を受けたのか 」と続けると、彼らは「 ヨハネの洗礼です 」と答えた。彼らはヨハネの洗礼を受けていたが、そのヨハネが「 わたしの後から来られる、わたしよりも大いなる方 」からの洗礼はまだ受けていなかったのだ。すなわち、イエスの名による洗礼である。私たちは神を信じたとき、その信じた人に洗礼という儀式を施す。牧師がその人の頭の上に水で濡らした手を置いて、父と子と聖霊の名によって、この人が神の子となったことを宣言する、それが洗礼の儀式。この洗礼を受けると、そこで決定的なことが起こる。それは聖霊が、その人に与えられるということである。聖霊というのは神の霊。私たち人間は、肉体と霊からなっている。私たちひとりひとりには、自分の霊というものがあり、それが肉体と結びついてひとつの命を形作っている。その私たちの霊の部分に、神の霊が入り込んできて、いわば、神の霊との同居生活が始まる。それが洗礼を受けるということである。そして聖霊を受けた時、私たちはどういう者になるかと言うと、「 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『 アッバ、父よ 』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます 」(ローマ8章15節、16節)とあるように、私たちは神の子となる。神を父と呼ぶ神の子になるのである。先例を受け、神の霊をいただいたものは、皆、ひとりの例会゛もなく、神の子として生き始めているのである。この点が後半の出来事と深く関連するのである。
  11節以降には、いささかこっけいなことがしるされている。神はパウロの手を通して、目覚しい奇跡を行なわれた。すると、そこにいたユダヤ人の魔術師たちが、自分たちもパウロみたい悪霊を追い出してみたいと思って、「 パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる 」と言って、悪霊を追い出しにかかったところ、悪霊からの「 イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、お前たちは何者だ 」と、反逆され、反対にとっちめられてしまったというのである。ここで心に留めたいことは、悪霊に「 お前たちは何者だ 」(15節)と問われたきに、彼らは答えることができなかったということである。悪霊は言った。イエスは知っている。パウロも知っている。つまり、神の霊と共に生きている者であるならば、我々はそいつを知っている。しかし神の霊と共に生きていないお前は誰か、そんな者を我々が知る必要はないし、恐れる必要もないと言ったということなのである。「 お前たちは何者だ 」と悪霊は問うた。この悪霊の問いは、大切なことを突いている。私たちは、この問いに何と答えられるだろうか。洗礼を受け、神の霊と共に生きている者は、この問いに明確に答えることができる。私は神の子、聖霊と共に生きている者、永遠の神と共に永遠に生き得る者なのだと・・。
 悪霊というのは、私たちにあまり身近な存在ではないかも知れない。だが聖書は、聖霊と対抗する悪霊の存在、その仕業を明確に語る。聖霊が人を造り、成長させる働きをするのに対し、反対に悪霊は人を破壊し、破滅に追い込む働きをする。その悪霊は、今日の文明社会では、「 世の価値観 」を支配する形で、人を破滅に追いやると、ある神学者は言っている。トニー・モリスンの小説『 青い目がほしい 』は、様々なテレビ、雑誌の映像で、繰り返し取り上げられる金髪の白人女性たちを見ているうちに、自分は醜く汚い存在なのだと思い込まされ、「 青い目にしてください 」と祈るようになる黒人少女のことが描かれている。お前は何者であるか、醜い者ではないかと、この世の価値観に働きかけてそう問うことで、少女を破滅へと追いやろうとしたのである。彼女が助かる道は、自分は神にそのままで愛されている神の子なのだということに立ち帰ることであった。悪魔は、絶えず「 お前は何者なのか 」という問いをもって、私たちを揺さぶり、破滅へと追いやろうとする。時に、悪魔は死を用いてそれをする。死は、自分は何者であるかを分からなくさせる力を持つ。自分は死んだら、どうなるのか・・・そういうことを考えて、人は不安になる。しかし神を信じる者は、そこでも私は神の子である、神の聖霊と共に生きている者、神と共に永遠に生きる者だと答えることができる。それゆえ、私たち信じる者にとって死は終わりを意味しない、死は永遠への通り道に過ぎない。死の現実は、私たちに計り知れない打撃を与え、打ちのめす。しかしそこでも私たちは「 自分は神の子だ 」という事実によって支えられるのである。 (2014年8月31日)

2014年9月5日金曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月1日~9月7日

9月1日(月) ヨハネによる福音書7章1節~9節
  仮庵祭というイスラエルが大いに盛り上がる時に、イエス様はこの世とご自身の関係について語られました。「 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ 」(7節)。世がイエス様を憎むのは、世の業の本質を「 それは罪である 」と鋭く指摘したからです。弟子たちもやがてイエス様の信仰に倣って行くようになると、やはり世から憎まれます。イエス様に倣わず、世とピッタリくっついて生きていれば、世から憎まれることはありません。しかし世の人々の行為に罪を見、その誤りを指し示して行くならば私たちもまた憎まれるでしょう。世からの憎しみは、私たちの信仰の状態をはかるものさしでもあります。

9月2日(火) ヨハネによる福音書7章10節~24節
  祭りの間にエルサレムの都に上られたイエス様は、ユダヤ人たちと論争し、そこで語られたのがこの言葉でした。「 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか 」(19節)。イエス様はベトザタの池の病人を安息日に癒されたために(5章)、安息日の律法を破ったと批判されて、しまいに殺意を持って狙われてしまうようになりました。病人を痛みの中に置き去りにして何もしなかったことと、その病人を立ち直らせたこと、一体、どちらが安息日の律法に照らして、それを守ったと言えるのか・・・そのことが問題となったのです。律法を守ったかどうか、それは相手を生かそうとした心に根差したものであったかどうかで、はかられるものです。

9月3日(水) ヨハネによる福音書7章25節~36節
  イエス様は、神から遣わされたメシアなのか否か、人々の間に賛否が渦巻きます。否を唱える人は、イエス様の出自を知っていることを理由に否と言いました(27節)。人々は、イエス様の存在の背後に神のみ手が働いていることを、いろいろな理由をつけては否定し、決して認めようとしませんでした。私たちの信仰は、すべての人の存在の背後に神のみ手が働いていることを見て行こうとする信仰です。いや、人だけではなく、いろいろな出来事の背後にも神のみ手が働いていることを見るのです。そこから、この出来事の意味を問い直す。この人の語った言葉、行動の意味を問い直す。きっとそこには神様の意図された何かの意味があると、私たちは悟らされるでしょう。信仰とはそのような働きをするものなのです。

9月4日(木) ヨハネによる福音書7章37節~39節
 「 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる 」(37節、38節)。仮庵の祭りは、荒野の旅を思い起こすときです。荒野の旅では水が命の支えで、神が水を与えてくださることによって、民は荒野を生き抜くことができました。そのことを踏まえて、イエス様は呼びかけられたのです。ここにこそ、あなたを生かす真の水がある、それは私を信じることだと・・・。海水を飲むと、一時的には渇きが収まっても、そのあとの渇きは前よりもひどくなります。それと同じように、一時的にでもあなたの渇きを癒すことが周りにたくさんあるかも知れませんが、それはやがてあなたの渇きをなお一層つらいものにすることでしょう。それが真の水でない限り・・・・。イエス様のもとに参りましょう。

9月5日(金) ヨハネによる福音書7章40節~52節
 イエス様は本当にメシアなのか、それともただの狂信的な思い上がり屋なのか・・・人々の間に意見の対立が生じました。いきり立つ議員たちは「 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか 」(48節)と下役たちに向かって怒鳴ります。そのときです。かつて真夜中にそっとイエス様を訪ねたことのある議員ニコデモが(3章)、イエス様を弁護するような発言をしたのです。ニコデモのあの夜のイエス様との面会は、意義深いものとなっていたのですね。あなたもイエス様と意義深い夜のひと時を持ちましょう。その効果を後に、現れます。

9月6日(土) ヨハネによる福音書7章53節~8章11節
  有名な姦淫の女の物語です。姦淫の罪を犯したと言って、非難し、裁く人々の視線が彼女をその場に釘づけにしていました。彼女はどんなにそこから逃げ出したかったことでしょう!しかしイエス様の発言により、ひとり減り、ふたり減り、そして誰もいなくなり、もはや彼女を釘つげにする視線がなくなったにもかかわらず、彼女はその場を去りませんでした。これがこの物語の急所です。彼女は、このイエスという方を離れて自分の罪を解決する場所はどこにもないと悟ったのです。だからその場を立ち去らなかったのです。信仰とは、自分の罪はこの方を離れては決して解決しないことを悟ることです。そこで主から赦されて新しくされることです。

9月7日(日) ヨハネによる福音書8章12節~20節
 14節の「 自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない 」という言葉は何と魅力的な言葉なのでしょうか!世の多くの人は、自分は生まれる前はどこにいて、どうなっていたのか、そして死んだあとは、どこに行き、どうなるのか、知らないで生きています。知らないと言うその不安を隠し、向き合わないようにして生きています。しかし、イエス様は知っておられます。だからイエス様を信じる私たちも知ることができるのです。死んだあと、どこに行き、どうなるのか。私たちは、永遠の命へとつながる命を、今、生きているのです。

先週の説教要旨「 信徒伝道者の先駆者 」使徒言行録18章18節~28節 

 11月の伝道礼拝でお呼びする加藤常昭先生のお連れ合い、さゆり先生が昨日、天に召されました。さゆり先生は賛美歌280番を愛唱されていました。「 この世の のぞみの きえゆくときにも こころは うごかじ みちかい たのめば 」という歌詞です。また、伝道者となった後輩たちに「 困難に出会ったときも、必ず、主が助け手を送ってくださるから 」といって励ましておられました。その言葉は経験に裏打ちされた確信に満ちた励ましの言葉でした。神は確かに、困難に出会ったときも「 必ず、主が助け手を送ってくださる 」方です。使徒言行録第18章には、神がパウロの助け手として送ってくださったアクラとプリスキラという夫婦の働きが記されている。アクラとプリスキラ、この2人の信徒夫婦の存在がなかったならば、コリントでの伝道、そしてエフェソでのパウロの伝道はままならなかったのである。先週の礼拝で見たように、パウロがコリントにやって来たときは、ひどく落胆し、恐れと不安を抱いていた。その前に行った町、アテネでの伝道がうまく行かなかったからである。重い足取りでコリントにやって来て、まさに困難に遭い、助け手を必要としているときに、神が送ってくださったアキラとプリスキラに出会うのだ。実は、彼らは住んでいたローマから退去を命じられ、最近になってコリントへとやって来ていた。彼らもまた落胆して、コリントにやって来ていたのだ。彼らはすでにキリスト者になり、ローマに住んでいたが、他の地域同様に、ユダヤ人がキリスト者のことで騒ぎを起こしたらしい。それでローマの皇帝は、騒ぎを起こすようなら、ここから出て行けとユダヤ人に退去命令を出したのである。当時の世界の中心ローマに住んでいた2人は、そこでキリストの福音を伝えようと考えていたが、その思いにストップをかけられたのである。パウロ同様、この2人も意気消沈してコリントにたどりついた。しかし神様は、そういう落胆の経験の先に必ず、新しい道を用意していてくださる方であるね。パウロにとっても、アキラとプリスキラにとっても、コリントにまたとない出会いの機会を神様は用意されていたのだ。まさに「 主の山に備えあり 」である。

パウロとアキラ夫妻の職業は同じ、テント造りであった。仕事も同じ、信仰も同じ、彼らは出会ってすぐさま意気投合し、一緒の家に住むようになった。パウロはそこを拠点にしてコリントでの伝道を展開した。アキラ夫妻との出会いは、パウロにとって思わぬ協力者の出現であり、またとないパートナーを手に入れたことになる。どのような伝道を始める場合でも、決定的な意味を持つのは、誰とどのように出会うかということである。神様は出会いを通して、御業を進められる。私たち成瀬教会の歴史から言えば、ここに教会を建てようと移り住んで来られた吉崎忠雄牧師夫妻と、東京から転居し、ここに住み始めて間もない中市さんご夫妻が出会った。そのことが成瀬教会のその後の歩みにおいて大きな意味をもったのだった。パウロは大変、力のある伝道者だった。しかし力のあるパウロをもってしても、彼一人の力では伝道できないのだ。パウロと共に働く信徒の存在、助け手がパウロにも必要だった。その助け手となる人を神は送ってくださったのである。

パウロはコリントを後にして、エフェソを経て伝道旅行の出発点であるアンティオケアに戻る。途中、同行していたアキラとプリスキラをエフェソに残す。もし神の御心ならば、もう一度エフェソに戻って伝道を展開しよう。そのときの下準備をする者として、2人をエフェソに残したのであろう。パウロはアンティオケを発ち、再び伝道の旅に出る(23節)。23節は、第第2次伝道旅行の終わり、そして第3次伝道旅行の始まりを告げている箇所である。その第3次伝道旅行の中心は、エフェソである。ついでのことのようだが、18節ではアキラとプリスキラの名前の順番が入れ替わり、婦人のプリスキラの方が先に来ている。時々、私たちの教会でもご婦人の方が教会ではよく知られていて、旦那さんのことを「 だれそれさんのご主人 」と呼ぶことがある。そういう夫婦であったのかも知れない。奥さんがバリバリと前面に出て働いて、旦那さんは後方でそれをバックアップして働く。それもまた楽しい。そういう2人がパウロ到着までの間、下準備を進めている中で、ある出来事が起きた。アポロという伝道者が訪れたのである。彼は後にコリント教会に大きな影響を及ぼす伝道者となる。2人はアポロの説教を聴き、雄弁で聖書の知識も豊かであったけれども、正確でない部分を感じ取り、アポロがより正確に神の救いの道を説教できるように教えた。伝道者に信徒の立場で聖書を教えるのは勇気が必要だったであろう。しかし、本当に神様のためになることをしたいと彼らは考えていた。こういう信徒の存在がパウロを支え、アポロという有能な伝道者の成長に関わったのである。私はいろいろな教会に必ず、アキラとプリスキラのような信徒さんがおられることを知っている。どこの教会に行っても、そういう人たちと出会える。それは伝道者のひとつの喜びである。あそこにも、ここにも、アキラ、プリスキラと呼びたい人がいる。この成瀬教会にもたくさんのアキラ、プリスキラがいる。礼拝で御言葉に聴き、奉仕と献げ物をもって、伝道者を支える皆さんはまさに、アキラとプリスキラ。神が助け手として送られた方々である。(2014年8月24日)