2012年10月14日日曜日

2012年10月14日 説教要旨


「死の恐怖から解き放たれ」 ヘブライ2章10節~18節

東日本大震災が起きて間もない頃、横浜の入国管理局に出かける用事かあった。一時的に日本を脱出するために、再入国の手続きをしておこうとたくさんの外国人が押し寄せ、建物の周りにまで人があふれていた。その光景は、人々がいかに死を恐れているかを浮き彫りにしていた。私たちは日本人もあのとき、死の恐怖におびえていた。日常あえて考えないようにしていた「死」の現実を目の前につきつけられて、ある者たちは放射能の届かない地域に移り、放射能に汚染されていない地域の食べ物を取り寄せた。スーパーでは買占めが横行した。死への恐れが人々をそのような行動へと駆り立てていた。死の恐怖は、日常私たちの意識に上ることがなくても、私たちの心の奥深くには存在している。震災以降、人々は「絆」を大事にしたいと願うようになった。本当に困窮したときに、人と人が助け合えい、支え合える絆を持っていたいと願うのは自然なこと。しかし一方でそういう絆を求めることは、死の恐怖に対抗しようとするひとつの「努力」と見ることもできる。しかし人と人の絆だけでは死の恐怖に対抗するには十分ではないということも私たちは気がついている。死の恐怖、一体、そこから解放される道はあるのだろうか。

 ヘブライ2章10節以下は、あなたがたを死の恐怖から解放してくださる方がここにおられると語っている。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(14節、15節)。この手紙の受け取り手となった人たちは、迫害が激しくなりつつある状況に置かれていた。すなわち、迫りつつある死の予感というものがあった。彼らにとって深刻だったのは、父なる神がすべてのものをイエス・キリストに従わせられたと言われているけれども、自分たちの見るところ、いまだにすべてのものがこの方に従っている様子を見ていないということであった(7節~9節)。もし、すべてのものがこの方に従わせられているのならば、なぜ、自分たちは厳しい迫害の中で死の恐怖にさらされなければならないのか・・・深刻な問いの中にいた。そこでこの手紙は、今、確かに見ているものへと彼らの目を向けさせる。9節、「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。私たちのためにイエス様が死んでくださった。そのことだけは、今、私たちもはっきりと見ることができる。だが、そのイエス様の死こそ、死の恐怖からあなたたちを解放した恵みの事実を示しているとこの手紙は告げる。イエス様の死をしっかりと見定めよう。主の死を見定めているところには、もはや死の恐怖はなくなっているのだと励ます。なぜ、主の死を見定めているところには、死の恐怖がなくなっているのか。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼしてくださったからである(15節)。それによって、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちは解放された。ヘブライ人への手紙は、死をつかさどる者として、悪魔の存在を指摘する。死は、私たちすべての人間が必ず体験しなければならない本来的なこと。しかし悪魔は死に対する恐怖心を私たちに植え付け、私たちに隷属を強いたという。悪魔が死の恐怖を私たちにちらつかせ、死を恐れ始めるとき私たちは悪魔に服従することになり、御子に対しては不服従となっているというのである。悪魔が死の恐怖を利用して私たちを支配する。だが、そこでイエス様は私たちを死の恐怖から解放するために悪魔と戦ってくださった。私たちは、死の恐怖をもって隷属を強いる悪魔と戦っても勝つことができない。しかしそこで、イエス様が私たちに代わって戦ってくださった。その勝利はどのようなものか。死を怖がり、死の不安を抱くところで何が起こるかというと、神に対する信仰を失うことがしばしば起こる。ところがイエス様には、悪魔が隷属を強いるための手段である「死の恐怖」をちらつかせても通じなかった。主は死の恐怖の中で神への信頼を失うことなく、最後まで父なる神を呼び続けた。「わが神、わが神」と。そこにかつてない死が、悪魔の手の中にある死とは全く異なる死がそこに生まれた。そのために、もはや悪魔は死をすべてその手の中におさめることはできなくなった。死をもって人を隷属させる力を失ったのである。それが死によって悪魔を滅ぼしたということの意味。「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」。礼拝のただ中に共におられ、私たちを兄弟と呼んで、共に賛美してくださる主の姿が描かれている。礼拝しながらも、死の恐怖におびえている者たちを主は、「あなたは私の兄弟、私はあなたと兄弟としての絆を結んだのだ」と言ってくださる。私たちは主イエスの兄弟、主イエスと兄弟としての絆で結ばれた人間として、もはや死の恐怖に支配されることなく、死ぬことができる!!そうは言っても、なお死は怖いと思うかも知れない。死の恐怖を味わわれた主は、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる。

2012年10月7日日曜日

2012年10月7日 説教要旨


「神から心が離れて」 ルカ15章11節~32節(Ⅱ)
 
 ヘッドホンをつけて、音楽を聴きながら歩いたり、電車に乗っている人をよく見かける。ヘッドホンで聞いている音楽は、本人にしか聴こえない。そういう姿を見ていて思う。イエス様もヘッドホンを持っておられたのではないか。それで周りの者が聞いていないような音楽を聴き続けておられたのではないかと。それはどんな音楽であるか、今朝の福音の言葉をもって私たちに教えてくださっている。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」。このとき、聴こえていた音楽というのはいなくなった弟息子が帰って来た。その喜びを表す音楽。イエス様はとってもイメージ豊かな方だから、このときに響いている音楽をたとえを語りながら、実際に聴いておられたに違いない。イエス様は、放蕩息子のたとえに先立つ2つのたとえで、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と語られた。言うまでもなく、イエス様が聴いておられた音楽というのは、この天使たちのうちにある喜びの歌、しかもイエス様には音楽が聞こえているというだけでなく、天使たちが喜び踊っている姿をも思い浮かべておられたであろう。

私たちも、洗礼を受ける方が教会に与えられる時の喜びを知っている。見失われていた者が神のもとに戻って来る。神を信じて生きて行くようになる。そういう出来事が起きると、私たちはとっても喜ぶ。そのとき、天においても同じ喜びが沸き起こっているのであって、私たちの喜びというのはその天に起こる喜びのエコー、こだまのようなものである。「音楽」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「シンフォーニア」。私たちの知っているシンフォニー、「交響曲」という言葉のもとになった言葉である。「シン」、「共に」という言葉と「フォーニア」、「音」という2つの言葉が合わさってできた言葉。つまり、音が共に響きあっているということ。天にある喜びと地にある喜びが響き合っている。あるいは、共に礼拝しているひとりひとりの救われた喜びが、ここで響き合っている。それが私たちの礼拝で歌われている賛美の歌。イエス様は、そういう天にある喜びを奏でる音楽をいつも聴いておられた。信仰というのは、ひとりの罪人であるこの私が救われたために、天に大きな喜びが生まれ、天に喜びの調べが響いている。その調べを、イエス様がいつも聴いておられたように私たちも聴き続けること。絶えず、心に響かせて生きること。それが信仰である。信仰生活が続けられる急所は、この私のためにも天に大きな喜びが起こっているのだということを、絶えず、心に響かせていることである。その調べを聴きそびれてしまうとき、私たちは、神様のもとから迷い出てしまう。このたとえ話を聴いていたファリサイ人や律法学者たちがそうであった。彼らはこの喜びの調べを聞き損なっていた。いや、聴こうとはしなかったのである。

徴税人や罪人と呼ばれている人たちが悔い改めて、主が一緒に食事をしている。そこでも、喜びの調べが奏でられていただろう。しかしファリサイ人や律法学者たちは、その喜びの調べを聴いて不愉快になった。恵みに与る資格なんかないと思っている者たちが、恵みに与る姿を見て、我慢ならなかったのである。これは、私たちの中にもあることではないか。奉仕や集会出席、献金などに対して、あまり熱心とは思えない人が自分と同じ恵みを受けるのだということに、どこか素直に喜べない。「もっと熱心になって」と言いたくなるのである。そういう現実を、主は兄息子の姿としてここでお語りになっておいる。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と、父は兄息子に言った。神が当たり前とする喜びがある。しかしその当たり前が必ずしも私たちの当たり前にはならない。むしろ不平となり、明確な対立を生む。そこに罪が現れてきている。神の喜びに対して、何が私の喜びとなるか、ということにおいて神と厳しく対立している。それは罪なのである。兄息子には、弟息子をそのまんま受け入れてしまう父親の対応が、決して当たり前のこととは思えなかった。自分はちゃんとやっているから、恵みに与る資格があると思う。でも、弟にはその資格はないと考える。何か、神の前に、自分で恵みに与る資格を用意しなければ・・・と、人は思う。これは弟息子も同じであって、彼は雇い人の一人となることを条件として提示しようとしたのである。しかし、神との関係というのは、私たち人間が何かの受け入れてもらえるための条件が提示できるかどうか、ということによって成り立つのではない。人間の提示する何らかの条件などは、この方の圧倒的な慈しみの前では何の意味も持たない。私たちが神の子として受け入れられる条件は、ただ神が私たちの常識を超えて慈しみ深い方であるという、ただその一点に拠るのである。そのことに心からアーメンと感謝して受け入れるとき、私たちの歌は真に天の喜びのエコーとなる。喜びの歌をもって世に証しして行こう。この世は何かの条件、資格を満たさないと受け入れてもらえない社会、それで深く傷ついている人たちが一杯いるのだから。