2014年2月23日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  2月24日~3月2日

2月24日(月) 詩 編 99編1節~9節
   「 主こそ王 」と語り出すこの詩編、主が世界の王として即位されていることを歌う詩編のひとつです。「 主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと、主は彼らに答えられた 」(6節)。モーセもアロンもサムエルも、そのとりなしの声を神は知っておられました。そうです、とりなす者の祈りに神が答えてくださる、それが神と神の民をつなぐ「 」です。「 とりなし 」と言う一点において、神の民は神の民であり続けることができるのです。私たちの間に祈りがあるということが教会のいのちです。私たちの先頭に立ってとりなしの祈りを捧げ続けていてくださる大祭司イエス様のもとで、私たち教会は生かされ続けているのだということを忘れないようにしましょう。

2月25日(火) 詩 編 100編1節~5節
  この詩編は、礼拝への招きの賛歌です。私が最初に教会に通い始めた高座教会の礼拝で、当時、招詞として用いられていました。なので、私が全節を覚えた最初の詩編になりました。「 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ 」(3節)。礼拝でこの言葉を投げかけられるとき、襟元を正される思いになりました。私たちは神に造られた者であることをわきまえるとき、初めて「 生きる 」スタートラインに立つのです。陶器師は粘土をもって壷を造ります。目的をもって作ります。だからその目的を知らずにいることは、造られた意味を失っていることになるわけです。神は、私を何のために造り、何に生かそうとしておられるのか、そのことを日々問い、日々それに応えるように生きる。それこそが広い意味での私たちの礼拝の生活です。

2月26日(水) 詩 編 101編1節~8節
  この詩編は、王が即位した時の誓約を歌ったものと考えられています。「 わたしは家にあって、無垢な心をもって行き来します 」(2節)。人は公の場や、見知らぬ人の間では、結構正しく振舞うものです。けれども、自分の家ではそれとは違った姿で生きているようなところがあります。家族には遠慮がないから、素の自分がそのまま出ているということでしょうか。しかし、人の真価は自分の世界を正しく歩むかどうかにかかっていると言えるのです。世間の人があなたのことをどう思っているかと言うことよりも、自分の家で、家族にどう見られているか、それこそ大切な視点です。寝起きを共にし、共に食卓を囲む親しき者の間でどう生きるか・・・。インマヌエルの主は、あなたと同じ屋根の下で共に住んでおられます。

2月27日(木) 詩 編 102編1節~29節
  この詩編の表題には「 心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩 」と、私たちの心を惹く言葉が記されていますね。「 嘆き 」の詩編に属すると言われています。「 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした 」(18節)。すべてを喪失したとき、祈りは悲鳴になり、絶叫になり、切実な問いになります。ちょうどヨブ記のヨブがそうであったように・・・。実は神が最も遠く思われるその時、祈りは神のふところ深く届いているのです。手に多くのものを握り締めたままで、祈りはどこにも届きません。喪失の中でこそ、神のもとに深く届くようになるものがあるのです。

2月28日(金) 詩 編 103編1節~22節
   この詩編は、旧約聖書における最も崇高な「 讃美歌 」のひとつと言われています。「 天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい 」(11節)、素敵な言葉です。「 左手に富士が見えます 」とのアナウンス。しかし一面の雲で、どのあたりだろうと目を凝らしても見えない。もう通り過ぎたかとあきらめて、目を上げたとき、見えた。雲の上に半身を突き出した冨士に、「 おおっ 」と思う。そんな経験はありませんか。神のもとに生きる者はまさしくこの経験をします。神の恵みの大きさに驚き、神の慈しみの大きさに泣かされます。神の忍耐の大きさに打たれ、謙ることを知ります。神はいつもその計り難いスケールによって、私たちを打ち砕き、かつ再生してくださるのです。

3月1日(土) 詩 編 104編1節~35節
  この詩編は、神の創造の御業に対する賛美の詩編です。「 雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる 」(3節、4節)。風雲急を告げるような状況にも、その雲は主の足もとに置かれている車でしかないと言うのです。激しい風雨をもたらす黒雲も、主のご臨在を運ぶ車に過ぎないと言うのです。私たちが黒雲に覆われたとしても、その黒雲の上をさらに「 主の慈しみ 」が覆っていることを忘れないようにしましょう。

3月2日(日) 詩 編 105編1節~45節
 この詩編は「 ハレルヤ詩編 」と呼ばれ、高らかに主を賛美し、その賛美の中に読者を招き入れようとしています。「 主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ 」(4節)との呼びかけから始まって、創世記や出エジプト記の出来事を思い起こさせています。16節~24節にはエジプトに売られたヨセフのことが記されています。「 奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された 」(17節、18節)。ヨセフは、窮乏に満ち満ちた生活の中で御力を乞い求め、そこで神を知って行きました。神の御顔を求めることへ私たちを強く促すという点において、窮乏もまた神の祝福につながっています。

先週の説教要旨 「 走り寄る伝道者 」 使徒言行録8章26節~40節 
  エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官。彼は表向きの人生の履歴書において、申し分のない成功を収めている人である。今で言えば、一代で財務大臣の要職にまで登り詰めたということになる。思いのままになる強大な権力、有り余る財産、すべてを手に入れた幸運な人。しかし高ぶってはいない。「 手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」とフィリポに頼んでいるように、居丈高ではなく、紳士的で謙遜な誰からも好感を持たれる人格者のようである。しかし彼は、本当に幸福な人間なのか・・・。確かに外側から見た限りではいかにも幸福そうに見える。しかし内側はうめきにも似た何かを抱えていたのではないか。だからこそ、1500キロも離れたエルサレム神殿の礼拝に、巡礼に来ていたのではないか。宦官は女王の側近として女王を補佐する役目があった。その政務に集中するため、結婚し家庭を持つことを許されなかった。去勢されられたのである。男性でも女性でもない、そのために宦官は、地位はあっても、本音のところでは人間扱いされなかったのである。どうして彼がそういう人生を選ぶようになったのか、聖書はその理由を語っていない。その道を選ばざるを得ない事情があったのだろう。財務を一手にまかされるまでに登り詰める上で、彼は相当なことをして来たことだろう。悪しきことにも手を染め、競争に勝つために他者を蹴落とす非道なこともして来たであろう。同じ仲間内であっても出し抜きや裏切りがあって、いつも疑心暗鬼、緊張の連続。家庭のない彼にとっては、心を許し、うち解けて話し合える人もいない。この世に頼れる者は自分しかいない・・・。そしてどこかに根本的な赦しを願い求める思いが渦巻いている、それが彼の内面であり、心の履歴書であったのではないかと思う。跡継ぎがいない彼にとって、自分一代での成功がどれほどの意味を持つと言えるのか。死んでしまえば、自分を覚えてくれる人もいなくなる。空しく、寂しい気持が頭をもたげたとしても何ら不思議ではない。それらの心のうずきが癒されることを願って、彼はエルサレム神殿に巡礼しに来たのであろう。どこかで伝え聞いていたイスラエルの神に対する信仰、その神と出会う中で、自分も心の傷を癒されたいと願った、それがこの巡礼の旅。
  ところが、どうか。エルサレムで彼を迎えたものは、彼を拒む宗教の姿だった。「 宦官は主の会衆に加われない 」(申命記23章2節)という律法の掟は、彼に門前払いを食らわせた。心に抱えた罪の重荷を下ろすこともできず、もと来た道を戻らなければならない宦官。しかし彼はエルサレムの都で買ったと思われる高価な聖書の巻物を手にしていた。聖書を手に入れていたことが道を開くことにつながる!
  宦官がガザまでやって来たとき、そこにフィリポが神に遣わされて来る。神はこのひとりの宦官の救いのために働かれる。フィリポを北のサマリアから最南端のガザにまで呼び出されたのだ。馬車に近づいたフィリポに聖書を読む声が聞こえる。イザヤ書53章、苦難の僕の箇所だ。求められるままにフィリポは聖書を説き明かす。「 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた 」(イザヤ書53章5節)。この預言の言葉はイエス様の十字架において成就した。あなたがこの方を信じて受け入れるならば、あなたの罪もこの方において赦され、癒されるのだと。宦官の心は「 だれが、その子孫について語れるだろう 」(33節)に釘付けになったであろう。ここに、自分と同じ悲しみを知っている方がいるではないか・・・と。抜きつ抜かれつの競争による休む間もない精神的緊張、出し抜き・裏切りの恐怖、疑心暗鬼、孤独、権力闘争の渦中にあって犯してきた罪の数々。どこかで根本的な赦しを願う心があり、激しく魂がうめいている。しかしそこに声が聞こえてくる。「 あなたの痛みは癒される。傷は癒される。彼の受けた傷によって・・・」。信じた彼は洗礼を受ける。そして洗礼と共に新しい人生の道が開かれる。この新しい道は、内側に悩みを抱えたたった一人の寂しい旅ではなく、すべての思い煩いをこの方に委ねて神と共に生きる喜びの旅路だ。宦官が洗礼を受けると、彼を信仰に導き洗礼を授けたフィリポが、主の霊に連れ去られていなくなる。不思議なことだ。フィリポはまさに、このひとりの宦官のためにだけ、北のサマリアから最南端のガザにまで遣わされて来たのだ。フィリポの姿が見えなくなっても彼は喜びにあふれて旅を続けた。神が共におられるから・・・。心躍る思いでイザヤ書もそのまま読み続けたに違いない。そして先を読み進めていく次の言葉に出会う。「 主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない 」(56章3節~5節)。主の十字架の出来事が、この預言の言葉を成就させた。律法の規定を越えて新しい恵みの世界が開かれる時が来たのだ。聖書に書かれているこういう出来事は、それが私たちにも同じように起こるために書かれている!洗礼を受けている私たちにも、このことがもう起こっているのだ。 (2014年2月16日)

2014年2月16日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  2月17日~2月23日

2月17日(月) 詩 編 92編1節~16節
  この詩編は、安息日にレビ人によって神殿で歌われたと考えられています。その神殿は、第二神殿と呼ばれる捕囚から戻って来た民が再建した小ぶりの神殿です。捕囚からの救いの御業に触発された感謝、賛美と教訓が混在しています。「 主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。愚かな者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしません 」(6節、7節)。愚かな者、無知な者は、自分の思い、自分の計画の中だけで生きようとします。思い通りにならず、計画が崩れると怒り、絶望してしまいます。しかし信じるというとは、神の御業の大きさを信じるということであり、神のご計画の深さを信じるということです。たとえ自分の計画が破綻したとしても、神の大きな計らいの中になお、自分が生かされていることを信じるのです。

2月18日(火) 詩 編 93編1節~5節
  捕囚から民を解放させられた神の御業を天地創造の御業と重ねて、それを神の再創造の御業としてとらえている詩編です。「 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる 」(3節)。私たちの人生にも吠えたける潮、荒波が押し寄せます。健康、財産、自分が大切にコツコツと積み上げてきたそういうものが波に飲み込まれてしまうことがあります。しかしその大波の中で、一つの賛美が繰り返し私たちに聞こえてきます。「 大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主 」(4節)と・・・。荒波がいくら吠えたけっても、天を覆すことはできません。天を濡らすことさえ、できないのです。そのような方が、私たちと共に人生を歩んでいてくださることこそが私たちの力です。

2月19日(水) 詩 編 94編1節~23節
  この詩編は、報復の神にイスラエル民族が訴えているという構図を持っています。イエスキリストが赦しの神として顕現してくださったことを知る私たちには、1節の「 主よ、報復の神として、報復の神として顕現し 」という言葉にギョッとしてしまうかもしれませんね。「 主がわたしの助けとなってくださらなければ、わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう 」(17節)。もし神がおられなければ正しいことを求めることは無駄なことです。力の強い者だけが勝つのです。もし神がおられなければ、どんなに忍耐をしても報われることはないでしょう。もし神がおられなければ、人はあきらめて沈黙するしかありません。しかし神はおられます。世の片隅の家畜小屋に来られた神は、どんなに貧しい者の声にも耳を傾け、応えてくださいます。

2月20日(木) 詩 編 95編1節~11節
  この詩編95編から100編までは、今日の教会の礼拝の招詞として用いられています。実際に、イスラエルの民もこれを礼拝の招詞として用いていたようです。詩人は、かつてイスラエルの民が心を頑なにした「 あの日 」、主を試みた「 あのとき 」、心の迷う民であった「 40年の間 」を想い起こし、「 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない 」(7節)と、語りかけています。あなたにとって、「 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない  」と思う、その想いは何でしょうか。この詩編を読んだ「 今日 」は、その決心をするための日かも知れません。

2月21日(金) 詩 編 96編1節~13節
  「 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ 」(9節)と語りかけられています。キリスト教信仰の一つの特質は、神の御前にひれ伏すということです。新興宗教をはじめとする世の多くの宗教は、神に自分の前にひれ伏すことを要求します。自分の願いを聞くべきとして、ひれ伏させる、いわゆるご利益、人間のエゴが信仰の目的であって、神はそのための手段でしかないのです。キリスト教信仰は、人間が神の御前にひれ伏すことで、人間の思いを越えた新しい展開が、神によって開かれることを信じます。ひれ伏すことで道を開いて行く信仰です。

2月22日(土) 詩 編 97編1節~12節
  「 神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる 」(11節)。神はわたしたちの人生という名の畑に種を蒔いてくださいます。一粒、一粒、ぽつん、ぽつんと、途切れることなく種が蒔かれています。そして振り返ってみれば、それは一筋の直線になっています。神は信じる者に光を、より頼む者に喜びを種蒔いてくださいます。人生の長く辛いこの道に、ひとつひとつ、ぽつんぽつんと、しかし決して途切れることなく、その光をひとつひとつ辿りながら私たちは人生を導かれて行くのです。

2月23日(日) 詩 編 98編1節~9節
 「 新しい歌を主に向かって歌え 」(1節)と言われていますが、この新しい歌というのは、文字通り、次から次へと新しい歌を作って歌え、ということではないでしょう。主の恵みは日々、新しくされて、私たちのもとに届けられています。まるで尽きぬ泉のように、日々新鮮なものとして・・・。だからそこで生まれる賛美も、日々、新しい心で歌われる賛美となるのです。神の恵みをみくびってはなりません。もっと目を大きく開き、深くさぐって、その限りなき大きさに驚嘆しましょう。詩人は途方もない賛嘆の声をあげているではありませんか。ただ歌うだけでは物足りず、琴やラッパを動員し(6節)、さらには潮にも手を打ち鳴らさせ(8節)、山々をたたき起こして、喜び歌わせないと気がすまないほどですよ(8節)。

先週の説教要旨 「 悪事を捨てて、主に帰れ 」 使徒言行録8章4節~25節 

大雪になって、今朝は大変なことになっている。特に私たちの教会では、礼拝後に教会員総会が予定されているから、果たして成立するかどうか、心配だった。信仰を持たない人たちは、こういうとき、「 運が悪い 」とか、「 ついていない 」と言って片付けるのだが、信仰者はすべてのことは神のお許しの中で起きていると信じているので、「 なぜ、よりによって、この日に大雪なのですか 」と、神に問うだろう。私たちは嫌な状況に自分が置かれてしまった場合、「 なぜ 」なのですかと問う癖がついているかも知れない。しかしそこでちょっと考え方を変えて、「 なぜなのですか 」ではなく、「 何のためなのですか、こういうことになったのは何かの目的があるはずです。それは何のためですか 」と、問いかけることが大切なのではないかと思う。神に苦情を申し立てるように問うのではなく、聖霊による神の導きを信頼するところからの問いかけをするのだ。そのとき、道も開かれて行く。

4節に、「 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた 」とある。ステファノの殺害をきっかけにして、エルサレムでキリスト者たちへの大迫害が始まった。フィリポをはじめとする、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者たちは、エルサレムの都を後にして出て行った。そういう彼らが逃げた先々で福音を告げ知らせながら巡り歩いたと言うのである。彼らは、迫害で散らされるという状況を「 なぜですか 」と神に問うのではなく、「 何のためにですか 」と問うたに違いない。そうでなければ、逃げながらなお、伝道するという選択はあり得ないだろう。フィリポは追うに追われてサマリアの町に逃げてきたとき「 何のためにですか 」という問いへの答えが示される。使徒言行録1章8節のイエス様の約束の言葉、「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる 」が思い起こされるのである。フィリポは、自分たちが迫害に遭い、エルサレムの都を離れて、散り散りばらばらにユダヤとサマリアの全土に散らされて行くことになったとき、これを聖霊の導きの中にあることとして、前向きに受け止めた。だから伝道し続けたのである。

私たちは聖霊の導きというものをどのように考えているだろうか。聖霊の導きというのは、いつも私たちにとって、善きことをもたらすものと誤解していないだろうか。聖霊の導きの中にあるならば、こんな嫌なことは起きるはずがない・・・と。だが、フィリポたちが体験した聖霊の導きは、そういうものではなかった。住み慣れた地から追われ、働きの中心をも担っていたエルサレムの教会交わりからも引き離される・・・。聖霊の導きは、私たちの期待だとか、考えることを越えている。

星野富広さんの詩画集に「 はなしょうぶ 」というものがある。「 黒い土に根を張り、どぶ水を吸って、なぜ、きれいに咲けるのだろう。私は おおぜいの人の愛の中にいて、なぜ、みにくいことばかり、考えるのだろう 」。人間、自分がどういう環境に置かれているか、その環境が問題なのではない。自分が問題なのだ。与えられている環境を自分がどう受け止めるか、もし与えられた環境が、たとえ嫌な環境であっても、これも聖霊の導きの中にあることと、信仰をもって受け止めるならば、そこで花を咲かせることができる。しかし、どんなに好条件の環境が与えられていたとしても、こんなものは聖霊の導きとは思えないと言って、後ろ向きになるならば、花は咲かせない。聖霊の導きの中にすでに生き始めている私たちが、日々、経験する様々な出来事というのは、神のご計画に沿って与えられている出来事なのである。聖霊の風は、勝手気ままに吹くのではなく、神のご計画に沿って吹く。だから私たちは、日々いろいろな出来事、嫌な出来事にも遭遇するが、創造的なプラス思考を持ってそれを受け止めてよいのである。

そういう聖霊の導き、働きというものが私たちに与えられているならば、私たちはそれに抗うのではなく、それに委ねて行くということが正しい態度である。だが、ここに登場してくるシモンという男は、聖霊の働きを目の当たりにしたとき、その力を金で手に入れようとした(18節、19節)。聖霊の力をお金で買おうとする、その本質にあることは、聖霊を自分の思うように操ろうとする心である。聖霊に信頼して従うというのではなく、聖霊を自分の思う通りに操ろうとする心。それは信仰とはかけ離れた発想でしかない。ここには、興味深いことも記されている。「 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかった 」(16節)と言うのである。この箇所を論拠に、洗礼を受けていても、聖霊はまだ受けていないキリスト者もいるのだと主張する人たちがいる。だが、私たちはそうは信じない。ここでは、ペトロたち、使徒がエルサレムから来て、人々に手を置くことで、聖霊は降り、その人たちの洗礼の業は完結しているのを見る。教会が洗礼を授ける資格を持つ人間として(ここの場合はペトロだが)、きちんとした手続きを経て立て教職者が洗礼を授けるならば、その洗礼は聖霊をも受けている完結した洗礼なのである。だからあなたが洗礼を受けたときから、あなたはすでにこの聖霊の導きの中に生き始めているのである。(2014年2月9日)

2014年2月9日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  2月10日~2月16日

2月10日(月) 詩 編 85編1節~14節
   この詩編はバビロン捕囚から帰還した民が、エルサレムの地で新たに直面した困難から救出してくださるようにと訴えている詩編です。9節を境にして、この詩編は嘆きから信頼の告白へと移り変わっています。その確信の言葉の中で13節の言葉が心に留まりました。「 主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします 」(13節)。地は天からの陽、雨、風によって実を生み出します。天からの恵みが降り注がれて、実を生み出すのです。人もそれと同じであって、天からの恵みを日々、受け止めていくことによって、自分の人生と言う小さな花を、しかし美しい花を咲かせるのです。天からの恵みを受けずして実は結べないのです。

2月11日(火) 詩 編 86編1節~17節
   86編は旧約聖書の他の箇所からの言葉が多く引用されていて、いわば寄木細工のようにして作られている祈りの詩編です。11節の「 御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください 」という祈りは、ぜひ私たちの祈りとしたいものです。一筋の心、それはどんなときでも神に向かう心を言っているのでしょう。喜びの日も、悲しみの日も、試練の日も、罪を犯して落胆している日にも、いつも神に向かう心。決して神から逃げたりはせずに、神へと向かうのです。義人ヨブは、降りかかった数々の災いの日に、神に向かって嘆きました。神に向かって怒りを発しました。それは時として神に喧嘩を売っているような激しいものとなりましたが、いつも神に向かったことは一貫していました。涙を流すときも・・・。そしてヨブはいつしか自分が神の大きな御手の中にいたことを知りました。

2月12日(水) 詩 編 87編1節~7節
   この詩編は、シオン(エルサレム)の都が神の栄光に満ち溢れ、世界の中心的位置を占めるという希望を歌っているものです。イザヤ書の「 終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『 主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう 』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る 」(2章2節~4節)の預言のような響きを持っています。しかし今日のエルサレムには、このような麗しい情景を描くことはできませんね。怒りと悲しみと報復と絶望とが日々、地層のように積み重ねられている。それが今日のエルサレムです。でも私たちは希望を捨てません。「 いと高き神御自身がこれを固く定められ  」(5節)ているからです。

2月13日(木) 詩 編 88編1節~19節
   88編は詩編の中で最も悲哀に満ちた詩編で、通常、嘆きの詩編では、その嘆き祈りに、神が応えてくださるとの確信や感謝をもって終わりますが、この詩編は最後まで詩人の苦しみは和らげられず、詩人は死を予期するに至ります。「 わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています 」(16節)。こんなことになったら私たちは絶望的になって当然でしょう。もし私たちがこの詩編にそれでもなお、希望を見出せるとすれば、それはイエス様の十字架を通して、この詩編を読むときだけでしょう。わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか・・・と祈られたイエス様、主はこの詩人の苦しみを決して知らない方ではない。私たちのどん底よりももっと低いところから私たちを支えてくださる方、それが私たちの主です。

2月14日(金) 詩 編 89編1節~53節
   この詩編は感謝と賛美で始まり、嘆きで終わるという、通常の嘆きの詩編のパターン(嘆きから感謝、賛美に移る)と反対の流れになっている珍しい詩編です。しかし嘆きに終わるという特異な中にも大きな慰めが輝いています。「 彼らの背きに対しては杖を、悪に対しては疫病を罰として下す。それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない 」(33節、34節)。一度赦され、神の民とされた者を神は再び捨てることをなさいません。それが神の真実なのです。ローマ8章33節~39節を私たちは高らかに歌うことができます。

2月15日(土) 詩 編 90編1節~17節
   モーセの詩となっていますが、内容的にはモーセのものではなく、捕囚期に作られたものと考えられている詩編です。人生の教訓を歌っています。「 生涯の日を正しく数えるように教えてください 」(12節)。知恵ある心は、神の永遠の命(2節)に結び付けて、己が生涯の日を数えることを知っています。「 数えて見よ、主の恵み 」の賛美歌のように、私たちも永遠の命の神との結びつきにおいて恵みを数えることを知っています。そこでは不幸もまた恵みとして数えられるようになるのです。

2月16日(日) 詩 編 91編1節~16節
 11節の言葉が、イエス様の荒野の誘惑の出来事で引用されていることで有名な詩編です。信頼を歌う歌です。私たちも人生において様々な誘惑、罠に出会います。「 神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から 」(3節)とあるように、仕掛けられた罠とか、陥れる言葉からなどと言われると、もう怖くて歩けなくなってしまいますね。悪意のある人間が仕掛ける罠もあるでしょうし、サタンの仕掛ける巧妙な罠もあります。しかし「 神はあなたを救い出してくださる 」という信仰があるから、先行きの見えない人生を私たちは歩けるのです。神は、私たちが見破れない罠をちゃんと見ていて、私たちを守ってくださる方です。

先週の説教要旨 「 ステファノの死 」 使徒言行録7章54節~8章3節 
   ステファノの長い弁明が終わり、今朝の箇所ではステファノの弁明に腹を立てた人々の手によってステファノが殺される。ステファノは相手の罪を鋭く糾弾した。しかしステファノの糾弾は、私たちがよく体験する糾弾とは違って、愛をもっての糾弾であった。本当に相手のことを思っているからこそ、厳しいことも語ったのである。ステファノが愛をもって語ったことは、彼が殺される時に祈った祈りで分かる。「 主よ、この罪を彼らに負わせないでください 」。この祈りはイエス様が十字架の上で祈られた祈りをなぞっている祈りである。それは愛の極まった姿である。ステファノは伝道に生きた。ユダヤ人に対する愛に生きた。愛するが故にユダヤの人々の罪を徹底して指摘することをやめなかった。罪を語るということは大変なことである。人間というのは神の言葉をいつも喜んで聞くわけではない。むしろ怒りを込めてでしか聞くことのできないところに一番恐ろしい人間の罪が現れてくる。
 このステファノ姿から見えてくることが2つある。そのひとつは「 伝道することは愛することだ 」と言うこと。使徒言行録は教会の歴史を語る。その歴史は伝道の歴史であり、同時に愛に生きた教会の歴史でもある。伝道するということは、愛するということとひとつのこと。私たちは愛することと伝道する、つまりその人に福音を語ってあげるということを別々の事であるかのように考えてしまう。私はあの人を愛しているけれども、あの人を救おうとは思わない。そういう妙な考え方で人を愛することがある。しかしキリスト者にとって、その人を愛すると言ったらその人に福音を語ってあげるということになるのだ。私たちが本当に愛するならば、その愛する人に福音を語ることをやめるわけには行かないし、逆に言うとある人に伝道するとき、その人を愛さないで伝道することはできないのである。しかしこれもしばしば起こることだが、伝道というのは自分たちの勢力を拡大することだと思っている場合には、いくらでも愛さなくても伝道できてしまう。それは今日までキリスト教会が犯してきたひとつの罪である。
   もうひとつ、ステファノの姿から見えてくることがある。それは、そういう使徒言行録の伝道と愛に生きた歴史は、同時に迫害の苦しみを語る歴史であったということ。このことは、私たちがもう一度よく知っていなければならないことである。私たちがこの世の中で本気で愛に生きようとすれば、私たちは何らかの苦しみを引き受けることになるということなのである。例えば、日本の国を愛によって平和な国に作ろうとするならば、軍備を持たない方がよいに決まっている。しかしその場合、万が一の時は、日本人が皆殺しになる、その覚悟をしていなければダメだということである。そうでなければ愛による平和な国は作れないだろう。本気で愛に生きようとすれば、苦しみを引き受けることを覚悟しなければならない。それは信仰においても同じである。軍備などと大げさなことを言う必要はない。私たちが愛に生きよう、この人に伝道しよう、この人が救われるまで私は徹底して関わり続けるのだと決心すれば、それはすぐに何らかの苦しみを担う覚悟をも求められることなのだと、すぐに分かるだろう。私たちは経験的にそれを知っている。しかし私たちは頭で分かっていても、現実には中々、人を愛することができない。愛について聞きながら、家に帰ってすぐに誰かと角、突き合わせてしまう。どうしてなのか。
  それはステファノが見た幻を見ていないからなのである。ステファノは、「 天が開いて、人の子が神の右に立っておられる 」幻を見た。使徒信条の告白のように、キリストは座してはいない。ステフアノを受け止めようと立ち上がり、身を乗り出しておられる。このキリストの幻を見ることがなければ、私たちは愛に生きることに挫折してしまう。なぜなら愛は損得計算をした場合、損することだからである。する。私たちには損する愛には生きられないという性根がある。どんなにきれいなことを言っても、自分がただ苦しむだけの愛には生きることができない。自分はあの人のために苦しんでいるのだと思っていても、実はどこかで自分自身のその苦しみの埋め合わせはつけている。そしてそれによって自分自身を支えているのである。愛というのは、地上の生活だけでは帳尻が合わないもの。愛の帳尻が合うのは、天においてキリストに迎え入れられる時なのである。最後まで報われない愛に生き抜かれた主が、「 あなたはよく私のあとに従って来たね、あなたの労苦のすべてを私は知っている 」と言って、この方が受け入れてくださるところで、はじめて私たちの愛の歩みは報われるのである。その幻をステファノのように信仰によって見ているのでなければ、私たちは愛に生き抜くことはできない。ステファノは、死ぬ間際に「 主イエスよ、わたしの霊をお受けください 」と祈った。ステファノは自分の霊を委ねるだけではなく、今、自分を殺そうとしている人たち、愛したがゆえに福音を語ったこれらの人々のことをも神に委ねたのではないか。委ねた人々の中に、のちにパウロと呼ばれ、伝道者として大きな働きをするサウロがいた。使徒言行録は、教会は真に愛に生きるがゆえに引き受けなければならなくなる苦しみを覚悟する、最初からそこに生きていたと証言する。そのようにして教会の伝道は果され、またパウロに見る新しい展開も生まれて行ったのだと語る。 (2014年2月2日)

2014年2月2日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  2月3日~2月9日

2月3日(月) 詩 編 78編1節~72節
   長い詩編です。この詩編は、イスラエルの民に対する神の導きの歴史を賛美し、感謝しているものです。その歴史は、厳密な年代の順序ではなく、出エシプト後の荒野の放浪、エジプトの災害、カナンへの旅、士師時代、ダビデ王国の順になっていて、神の導きが与えられていたにもかかわらず、民が神に背き続けたことが語られています。「 神に対してつぶやいて言った。『 荒れ野で食卓を整えることが、神にできるのだろうか 』」(19節)・・・すでに驚くべき神の御業を体験していながら、なおこういう言葉が発せられてしまう、そこに人の罪があります。これは他人事ではありませんね。私たちもキリストの十字架と復活の恵みをすでに知っており、今日に至るまでの神のご配慮を体験していながら、困難な状況に直面すると、つい神にできるかしらと、神の能力を疑ってしまうのです。しかしそういう神を私たちは信じているのでしょうか。いいえ、違います。神には何でもできる、のです。

2月4日(火) 詩 編 79編1節~13節
   この詩編は、神殿が汚され、エルサレムが廃墟になったときの祈りの歌、民族の嘆きの歌です。見渡す限りの廃墟、詩人の心はどんなにか押しつぶされそうになっていたことでしょうか。私たちも人生の廃墟を見させられるような経験をするでしょう。今まで自分がコツコツと積み上げてきたことが跡形もなく、崩されてしまう経験を。家庭が、仕事が、健康が、そして人生設計が・・・。しかし廃墟の体験は、神を土台として人生を築き直そうとするのであれば、その廃墟の経験は本当に良いチャンスなのです。神の愛を土台として築き上げられる人生は、倒されても倒れないしなやかさを持つ人生になるのです。マタイ7章24節以降を参照しましょう。

2月5日(水) 詩 編 80編1節~20節
   これは、敵の脅かしについての回復の祈りの詩です。「 御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください 」という言葉が3回(4節、8節、21節)、繰り返されています。この詩編の基調となっている言葉ですね。一度、二度、三度と繰り返される度に、その思いは募り、回復への切望は切実さを増していきます。この切実な祈りは、すでに神のもとにしっかりと届いています。神はこの祈りを聞かれます。なぜなら、「 あなたが右の御手で植えられた株を、御自分のために強くされた子を 」(16節)とあるように、あなたは神によって始まった者とされているからです。私たちも神によって始まった者ですから、たとえこのような切実な祈りを捧げなくてはならない状況に置かれても、そこで捧げられる祈りは神に聞かれるのです。

2月6日(木) 詩 編 81編1節~17節
   この詩編は、もともと2つの詩であったものがひとつにまとめられた、統一性を欠く詩編であると言われます。前半は、賛美の歌、後半は預言の言葉になっています。ところで、「 あなたの中に異国の神があってはならない。・・・わたしが、あなたの神、主 」(10節、11節)という節は、聖書全体のちょうど真ん中にあたるのだそうです。もともと聖書には章や節などの区切りはなく、後の時代に読みやすくするためにつけられたものなのですが、不思議ですね。これは、聖書の中心的メッセージに合致していますよ。あなたの人生という書物の真ん中/中心にも、この言葉が記されていますように。アーメン。

2月7日(金) 詩 編 82編1節~8節
   この詩編は、1節の「 神々 」をどう理解するかで、2通りの解釈が成り立ちます。神々を天井における「 天使たち 」と解する場合は、この詩は神中心とした天における天使たちの会議の歌となります。天使にも悪い天使(悪魔)がいて、それを神が裁いておられるという理解。もうひとつは「 神々 」を地上の王、為政者、裁判官を指すと考え、不正を行なう者が栄え、正しい者が苦しめられている状況に、真の支配者である神の裁きが下されることを求めているという詩であるとの解釈。私は後者の理解を採りますが、その場合、為政者たちが厳しく裁かれないよう、正しいことを行なえるようにと、とりなし、祈ることが私たちに求められていますね。

2月8日(土) 詩 編 83編1節~19節
   この詩編は、国家的危機に直面した時の共同体の祈りが綴られています。「 あなたの民に対して巧みな謀をめぐらし、あなたの秘蔵の民に対して共謀しています 」(4節)。秘蔵っ子という言葉がありますね。あの選手は監督の秘蔵っ子だ・・・なんて使われ方をします。そこには「 天塩に掛けた子 」、すなわち「 自ら面倒を見た子 」という意味があります。私たちは、神の被造物であると同時に神の「 秘蔵っ子 」なのですよ。毎週の礼拝での説教は、そのことに明らかにするものです。

2月9日(日) 詩 編 84編1節~13節
 神殿での礼拝を切望する心の巡礼の詩編です。はじめてこの詩編を読んだとき、私は4節の「 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています 」の言葉に反応して、祭壇に鳥が住みかを作っちゃうなんて、管理不行き届きじゃないかと思ってしまいましたが、これは明らかに間違いですね。この言葉は比喩であって、鳥のような小さな生き物ですら、大いなる神の御翼の陰に身を寄せることを、神は受け入れ、大いに喜んでくださる方なのだと言う信仰の告白です。神は、小さなあなたにも目を留め、あなたがその人生で子育てをし、生きる姿を微笑ましく見守り、支えてくださる方なのです。私たちはその方の御翼の陰を拠点として生きているのです。

先週の説教要旨 「 いつも聖霊に逆らい 」 使徒言行録7章44節~53節 

ステファノの説教の最後の部分。ここには、これまでステファノが語っていなかった事柄が語られている。それは神殿について。ステファノを裁判に訴えた人たちは、「 この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません 」(6章13節)と言っていた。それに対して弁明したのが今朝の箇所である。

ステファノは、神の御臨在を証しする幕屋が神殿として定着して行った過程を語りつつ、そこではっきり言う。「 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません 」(48節)。それは預言者も言っていることだと、預言者イザヤの言葉(66章1節、2節)を引用する。神殿を建てたのは王ソロモンであるが、ソロモンもまた同じことを語っている。「 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。・・・あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください 」(列王記上第8章27節以下)。神殿を建てたソロモンも、預言者イザヤも知っていた。いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みにならないと。しかしそれでも、神は自ら謙遜になって、そこに身を置くことをよしとしてくださった。だから神殿で神を礼拝することができる。それは神の謙遜のなせる業であった。ならば、神殿で神を礼拝するにふさわしい人間の姿とは、神の謙遜に見合う人間の謙遜な姿勢となるだろう。それなのに、あなたがたはおごり高ぶって、神殿で神に仕えると言いながら、神の権威をまるで自分たちの権威であるかのように盗み取って、神殿に君臨し、ついには神の名によってイエス・キリストをも裁いて、殺してしまった。とんでもない間違いをしているではないか。そう、ステファノは指摘する。

神殿において求められる人間の姿は謙遜であるが、イザヤ書66章2節の後半には「 わたしが顧みるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人 」と、ある。霊の砕かれた人というのは、列王記にも出て来た言葉で言うと、罪を犯して悔いている心、詩編第51編で言うならば、悔い改めのゆえに砕かれている魂を神の前に差し出している人である。そのような人は私の言葉におののいて聞くことを知っている。そういう者こそ、神の顧みに値するのである。神殿、神殿と言って、神殿の権威を振りかざしながら、神殿において最も大切な姿勢をあなたがたは失っているのではないかと、神はステファノの口を通して語りかけておられる。

 これは、私たちも大切にしなければならないことであると思う。教会を訪ねて来られた方と話をしていて、よく耳にするのは「 礼拝に来て皆さんと一緒に礼拝してみませんか 」と言ったときに、「 私のような者は、皆さんと礼拝に出られるような立派な人間ではありません 」という言葉である。私は「 そんなことありませんよ 」と、すぐには否定せずに、そういう感覚は大事なことですと話す。神の御前における自身の欠けを知っており、謙遜である姿勢は失ってほしくない。しかし、それでもなお、神の憐れみを自分は必要としているのだと、憐れみを求めて、神の御前に進み出ることをこそ、神は私たちに求めておられる。それが礼拝者の姿。

ステフアノは、そういう姿勢とはかけ離れてしまっている大祭司とその仲間たちに向かって言った。「 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです 」(51節)。ユダヤの人々は、体に子どもの時から神の民として傷を受けている。誇り高き傷で、肉が裂かれている。だがステファノは、あなたがたの心と耳に割礼が与えられていない。聴く耳がふさがっていて、裂かれていないと言う。そのことによって、心も神の言葉に向かって閉ざされてしまっている。神の言葉におののかなくなっていると言う。「 心に割礼を受けて、苦しむ人、霊の砕かれた人・・・わたしの言葉におののく人 」・・・。私たちはどうなのだろうか。神に顧みられるにふさわしい人間なのだろうか。私たちは苦しみを好まない。小さなことですぐ悲鳴をあげる。霊が砕かれることを好まない。頑なになり、あなたが私たちを砕こうとすることを拒む。あなたの言葉を聞くことを好まず、御言葉のゆえにおののくことを好まない。それなのに顧みられることは願っている・・・。一体、これに一致する人が私たちの中にいるだろうか。主イエス様以外、誰がこの御言葉にふさわしいだろうか・・・と思う。だからこそ、私たちはイエス様によりすがって、イエス様のとりなしを切に求めるのだ。「 砕かれた魂を私に与えてください 」と、主の御名によって、父なる神に願うのである。

賛美歌60番「 どんなにちいさいことりでも 」は、2番に「 よい子になれない私でも神様は愛していてくださるって、イエス様のお言葉 」という歌詞がある。ある幼稚園の女の子が病気で高熱にうなされながら、この歌を口にして、それを聴いた母親が信仰に導かれた。その子は、神殿におけるふさわしい人間の姿を幼い魂ながら、とっていたのだ。神に顧みられる姿を・・・。 (2014年1月26日)