2013年7月30日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月29日~8月4日

7月29日(月)ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節
 この手紙は、行いによるのではなく、信じることによって救われるという、いわゆる「 信仰義認 」の教えがテーマになっています。ガラテヤの教会では、この教えを否定する人たちがいて、パウロはこの教え(福音の中心)を弁明するために手紙を書いたのです。そのテーマに、パウロの使徒性の擁護やキリスト者の自由などの問題が絡んで出てきます。論理的に整理された内容で、読みやすい手紙です。3節に「 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように 」と書かれています。この祈りには、自分たちの行いによるのではなく、ただただキリストの恵みの中にこそ、救いの根拠を見出してほしいという願いが込められています。「 神の恵みのみ 」に立ち続けることこそ、信仰なのです。

7月30日(火)ガラテヤの信徒への手紙 1章6節~10節
  パウロが伝えた福音と別の福音(と言っても、そのようなものはないのですが:7節)、パウロはかなり厳しい言葉をもってガラテヤの信徒に<二者択一>を迫ります。パウロが伝えたキリストの福音から他の者に乗り換えている姿にあきれ果てるパウロ(6節)。別の福音を選ぶ者は「 呪われよ 」(8節)とさえ言っています。「 呪われよ 」とは、神に捧げるという意味の言葉です。あとは、神にまかせるしかないということなのでしょう。人がキリストの福音から離れることに対し、これほどの真剣さをもって忠告してくれる仲間がいることは幸いなことだと思います。

7月31日(水)ガラテヤの信徒への手紙 1章11節~12節
  わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません 」(11節)というパウロ。彼の伝える福音は、その起源を神に持っています(12節)。パウロの伝える福音は、神の恵みのみによって救われるというものでした。「 ただより高いものはない 」という言葉がありますが、人間は「 ただ 」ということに信頼をおかないところがあります。「 自分の力で 」という面があってこそ、本当に人間らしく生きていると思い込んでいるからです。人間が持つ本性のようなものに真っ向から対立する福音、それがパウロの伝える福音でした。人間の発想からは生まれてこないような、まさに神に起源を有する福音なのです。

8月1日(木)ガラテヤの信徒への手紙 1章13節~24節(Ⅰ)

 福音そのものが疑われ始めるとき、その福音を伝えている者の存在も疑われてしまうのは、致し方ないことです。彼の伝える福音は、神に起源を有するものではないとの非難もあったようです。そこで、パウロは自分の経歴を語って、自分がただイエス・キリストによってのみ、使徒とされたことを証明しようとしているのです。パウロは、自分がユダヤ教徒として、ユダヤ教への熱心のあまり、神の教会を迫害していたということを語ります(13節~14節)。そして、そういう神にさえ敵対していた時代を過ごしていた自分もまた、実は、生まれる前から神の御手の中にあったことを「 胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった 」(15節)と言う言葉で言い表しています。実際に神と出会う以前から、自分は神の御手の中にあったのだという召しの深まり。私たちにも思いあたる体験です。

 

8月2日(金)ガラテヤの信徒への手紙 1章13節~24節(Ⅱ)
 パウロは、あのダマスコ途上で劇的に神と出会う体験(使徒言行録9章参照)をしてから、そのことを先輩使徒たちと分かち合うことなく、3年の間アラビアに退いてただ一人、神の御前に召しを確認するときを過ごしています(16節~19節)。パウロは、このような形で自分の伝える福音の神的起源を弁護しているのですが、私たちも何か大きな働きに就くとき、あるいは人生の大きな決断をするとき、人の言葉を避けて、徹底的に神の御前にその導きを問うということがあって良いのではないか?と問いかけられているように思います。

8月3日(土)ガラテヤの信徒への手紙 2章1節~10節
  ここでは啓示にしたがって、エルサレムで使徒たちに会ったパウロの様子が記されています(1節~2節)。潜り込んできた偽の兄弟たちが(4節)、救われるためにはキリストを信じるだけでなく、ユダヤ教が行っていた割礼を受け、律法を守らなければならないと教えたため、今までのパウロの宣教(パウロは割礼など受けなくても、キリストを信じる信仰によって救われるという福音を伝えていた)が無駄にならないように使徒たちに同意を求めるためでした。ペトロたちはパウロの言うことを理解し、一致しました(9節)。パウロは、自分の信じていることが真理でなければ、自分は無駄な人生を過ごしている事になると考えています。そうです。私たちは、真理に根差して生きていないとき、実は人生を無駄に生きているのです。

8月4日(日)ガラテヤの信徒への手紙 2章11節~14節
  救われるには、ユダヤ人の習慣を守る必要はない 」と、確認したパウロとペトロらでしたが、ある人々が来てからペトロの態度がおかしくなりました(12節)。異邦人と食事をしないというユダヤ人の習慣に戻ってしまったのです。それでパウロはペトロを厳しく叱責した(11節)。キリスト者は、同じ福音に生きているという事実を認めながら、明らかに一人一人が違った生き方をしていいのです。お互いをそのように認めて、救いとは関係のない自分たちの習慣を押し付けてはならないのです。ある人が言いました。「 信仰(救いに必要な条件)には譲歩がないが、愛(救われた者がどのように感謝の生活を作るか)には譲歩がある 」と。

先週の説教要旨 「 墓が新しくなる 」 ルカ23章50節~56節

 私たちが信じる神は、いかなる神なのか。私たちの信じる神は、一番期待できないと思われるところから、恵みの業を引き出すことができる方なのではないか。

イエス様が十字架の上で息を引きとられたとき、ガリラヤからずっとイエス様に従って来ていた婦人たちは、悲しみで心が引き裂かれる思いになった。そして「 せめて、この方のご遺体を丁寧に葬って差し上げたい 」、それが自分たちに唯一残された、この方に対する最後のご奉仕だと思った。しかし彼女たちにはイエス様のご遺体を葬ることができない。なぜなら、葬ることが可能なお墓を持っていなかったから。申命記には「 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである 」と記されている。この律法の規定によると、イエス様の遺体は必ず、死んだその日のうちに埋葬しなければならない。時はもう午後の3時を回っている。ユダヤの1日は、夕方から始まり夕方で終わるから、「 その日のうちに 」という条件を満たすにはもう時間がない。一体、だれがこの方の埋葬を行なってくれるのだろうか。男の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまっていた。他の誰かに期待しようにも、犯罪人として処刑された人間の遺体など、家族がそっと引き取る以外、通常は考えられないようなことなのだから・・・。もしかしたら、このまま誰も引き取ることなく、イエス様のご遺体は木に吊るされたまま放置されてしまうことになるかも知れない・・・。

 しかし、そんなご婦人たちの耳に、どこからともなく、ひとつの足音が聞こえてくる。そしてひとつの手が動き始め、イエス様のご遺体を十字架から引き降ろし始めた。そのことをしたのはヨセフという名前を持つ、ひとりの議員だった。マルコでは「 身分の高い議員 」と紹介されているから、彼はユダヤの最高議会の議員のひとりであったと考えられている。ユダヤの最高議会、ポンテオ・ビラトに「 この男を十字架にかけて殺すよう 」訴えたのは、まさにこの人たちであった。イエス様と最も激しく対立した人たち・・・しかしその議会の中から、神はイエス様の遺ご体を葬る人間を引き起こされた。一番期待できないと思われるところから、葬りを行なう人間を引き起こされたのである。私たちが信じる神は、一番期待できないと思われるところから、恵みの業を引き出すことがおできになる方なのである。イエス様に従って来た婦人たちにとって、ヨセフという議員の存在はユダヤ最高議会というベールに覆われて、全く見ることができないでいただろう。しかし神は確かに「 神の国を待ち望んでいる人間、イエス様の弟子になっている人間 」を用意されていたのだ。私たちの日々の生活をよく見回して見るとき、そこには「 期待できない 」という言葉がピッタリくるようなことばかりに囲まれているかも知れない。こういう環境では何も期待できない、こういう人には何も期待できない、そしてこういう自分にはもう何も期待できない・・・と。しかし、そういうあなたの日々の生活を共に歩んでくださっている神は、その期待できないと思うところにも、恵みを生み出すことのできる方、その御業のために、「 私たちには見えない準備 」をすでにしてくださっているお方なのである。

 神が準備されていた、このアリマタヤ出身のヨセフ、彼は必ずしも「 強い信仰 」の持ち主ではなかった。彼がした奉仕は「 弱さなしの奉仕 」ではなく、「 弱さを抱えたまま 」の奉仕であった。ルカは彼のことを「 善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった 」と紹介している。「 同僚の決議や行動には反対していた 」というのではなく、「 同意しなかった 」と言う。ヨハネ福音書は、そのことを「 イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた 」、「 議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである 」と記している。「 同意しなかった 」というのは、明確に反対意見を述べていたということではなく、反対も賛成も表明しない、棄権して結果的に賛成票として扱われなかったということなのだろう。しかしこの煮え切らない分裂状態、弱さを抱えたままものヨセフを、神はここ一番というところで、ご自身の御業のためにお用いになる。ヨセフは、「 まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓 」を提供した。おそらく自分のための墓であったのだろう。墓、そこは「 もう、これでおしまい、ここにはもう何も期待することなどない。すべてが終わってしまったのだ 」という場所でしかなかった。キリストが復活なさるまでは・・・。主が復活なさるとき、墓は終わりを意味しなくなり、新しい命への旅立ちの場になる。墓は新しい意味を持つ場所に変えられてしまうことをヨセフは知らなかった。そこでも、神は一番期待できないと思われたところから最も大いなる恵みを引き出されるのである。2013年7月21日)

2013年7月23日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月22日~28日

7月22日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12節~19節
  コリント教会には、御子キリストのおよみがえりは信じても、死んだ人間がもう一度よみがえることは信じないという人たちがいました(12節、16節)。両者を切り離して考えたのです。しかし、パウロは、キリストの復活と私たちの復活は切り離せないと指摘します(13節)。キリストが復活したからには、私たちも復活するのだと。父なる神がキリストに対してしてくださったことと同じことを、神は私たちにもしてくださるのです。父なる神は、キリストに十字架の上で死ぬという苦しみを与えられましたが、その苦しみの先で「 復活 」という栄光の輝きをも与えられました。苦しみに遭う時、父なる神がキリストになされたことを思い出そう。

7月23日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章20節~28節
  キリストの復活が意味するものは、罪に対する完全な勝利です。17節で、もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたは今もなお罪の中にいることになると言われていました。キリストの復活がなければ、私たちの罪は贖われずに神の前に残ったままなのです。罪の裁きとしての死の壁を突き破ったキリストの復活は、私たちの罪が父なる神の前に完全に贖われたことの証しです(22節)。復活のキリストに最初に出会った人は、七つの悪霊に憑かれ、罪の生活をしていたマグダラのマリアと呼ばれる人でした(マルコ16章9節)。罪の贖いの喜びが、罪の悲しみを誰よりも身にしみて知っている者に、最初に伝えられたとは・・。愛と慰めに満ちた神様のなさり方に感動です。神様はいつも私たちにそのような接し方をされます。

7月24日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章29節~34節
 死者のための洗礼(29節)とは、死んだ者に代わって誰かが洗礼を受けることですが、今日では無意味なこととして行われていません。復活を信じていないのに、そんなことをするのはおかしい事だとパウロは言うのです。復活を否定し、死んだらすべてが終わりと考えると、「 食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか 」(32節)という虚無的な生き方になります。神は、すべてのものを虚しくさせかねない死という壁を突き破ることで、この地上の営みのすべてに真実の価値を取り戻してくださったのです。だから今日一日の労苦にも意味を見出し、その労苦を精一杯負うことができるのですよ(マタイ6章34節)。

7月25日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章35節~49節
   私たちが復活する時には、一体どのようなからだで復活するのでしょうか?土葬を前に、死んだ人の肉体を見つめながら、コリントの教会の人たちはどうしても信じられないものを感じていたのです。本当にこの肉体が復活するのだろうか?と。パウロは、そのような問いは愚かであると言います(25節~26節)。復活の時に神様からいただく肉体は新しい霊の体、私たちの知らないからだだからです(44節)。それがどのようなものであるかは、私たちの知る必要のないことです。知るべきことは、私たちが最後のアダムと呼ばれる(45節)復活のキリスト、天に属するキリストの似姿にもなる(49節)と言うことです。特に愛において、私たちもまたキリストに似た者にしていただけるのです。つまり、私たちが日常直面し続けている「 愛することの格闘 」から解き放たれるのです。

7月26日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節~58節
 「 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう 」(57節)。イエス・キリストのご生涯は、その誕生から十字架、復活に至るまで、すべてが預言されていたことの成就、つまり神の約束が実現したことを証ししているのです。聖書の中には、神の民に対するたくさんの神の約束が書かれています。それらはすべて確かな事であると、キリストのご生涯は保証してくれているのです。神の民の生き方、それはその約束に賭ける生き方です。目に映る現実にはではなく、神の約束の言葉に賭けて一歩踏み込む。アブラハムもモーセもヨシュアも皆、そのようにして歩みました。さあ、私たちも後に続きましょう。

7月27日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 16章1節~12節
   この手紙の本論を書き終えたパウロは、自分の旅行計画を記しています(5節以降)。そこでパウロは、言うのです。「 主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています 」(7節)。私たちは色々な計画を立てますが、主が許してくださればと、そこで主の御心が重んじられているでしょうか?主の御心ということが意識の中から抜けていると、どうしてもこの事をするのだと、自己主張して我を通そうとしたり、祈って時を待つべきところで祈らずに焦って行動してしまったりすることです。主の御心を重んじるところには、方向を切り替えたり、立ち止まったり、前進したりと、しなやかな信仰の歩みが生み出されます。

7月28日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 16章13節~24節
   コリントの教会には多くの問題があり、それを解決するためにパウロは厳しいこともずいぶんと語って来ました。手紙の最後、パウロの目には心をひとつにしてこれらの課題を乗り越えるぞ、というコリントの教会の人たちの姿が映っていたのかも知れません。どうぞ、主を愛してください。主を愛さない者にならないでください。そうでないと主から見捨てられてしまう(22節)と語るパウロ。使徒としてそのことは厳しく言わなければならないけれども、同時にそういう人がでないようにと祝福を祈り(23節)、自分の愛を届けるパウロ(24節)。この手紙は、使徒として生き抜いた伝道者パウロの存在を注ぐような言葉で終わっています。

先週の説教要旨 「 十字架、それは深い底から 」 ルカ23章44節~49節

 イエス様が十字架の上で息を引き取られた箇所だが、44節、「 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり 」とあるように、イエス様の十字架は暗闇の中で起こった出来事である。太陽は光を失っていたとも書いてある。それと合わせて、「 神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた 」ということも書かれているが、これが何を意味しているのかは諸説があるが、ある人はこれも暗闇を表現する言葉なのだという。神殿というのは、イスラエルの人たちにとって光の象徴だった。その神殿の垂れ幕が裂けたということは、光の象徴である神殿にまで暗闇が及んだのだということ。つまり、このとき全地は神殿に至るまで、暗闇に支配されていたのである。ところで、太陽が光を失う暗さとは一体、どんな暗さなのだろう。太陽が雲にかき消されたとか、皆既日食が起きたという程度の暗さでもないであろう。太陽そのものが光を失ってしまったのだから。そしてこの暗闇というのは、何を意味しているのだろうか。

 出エジプトの際、エジプトの民に10の災いが下されたことが旧約聖書に記されているが、決定的な10番目の災い、エジプト人への裁きとしての災いは、「 暗闇 」の中で行なわれた。そのように旧約聖書では、暗闇というのは神の裁きとしての側面を持つ。旧約聖書のアモス書には、背信のイスラエルの民に対する神の裁きを次のように予告した。「 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする 」。「 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。・・・主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない 」。旧約聖書において、光というのは神様がこちらを向いてくださるということ、神様がこちらに御顔を向けて下さると、私たちは光に照らし出される。しかしその反対、神様が私たちから御顔を背けると、それは神の裁きとなり、暗闇になってしまう。それが旧約聖書の考え方なのである。その考え方によると、イエス様の十字架は、神様が御顔を背けた瞬間だった、イエス様が父なる神様に裁かれ、見捨てられたのだということを示している。イエス様は、神様が御顔を向けてくださらないその深い暗闇の中にひとり捨て置かれてしまった。それは、私たちに代わって、この裁きを受けてくださった、この苦しみを受けてくださった、ということ。

 だが、イエス様はその暗闇の中でこう叫ばれた。「 父よ、わたしの霊を御手に委ねます 」・・・旧約聖書の中では「 父よ 」と、神様に呼びかけている例はほとんどない。「 父よ 」、それだけ身近な存在として神様を呼べるというのは、旧約聖書では思いもよらないことだった。しかしイエス様は、ここで「 父よ 」と、非常に身近に呼びかけてくださっている。「 父よ 」と、深く信頼して呼びかけてくださっている。見捨てられたにもかかわらず。暗闇の中にひとり、捨て置かれたにもかかわらず・・・・。この「 父よ、わたしの霊を御手に委ねます 」という言葉は、詩編31編6節からの引用とされるが、そこでは「 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます 」となっている。父という言葉は、使われていない。イスラエルの民は毎日、寝る前には、「 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます 」と、この言葉を用いて祈ってから床に就いたという。寝るときというのは、私たちが最も無防備になるときだが、寝ている時に何が起ころうが神様に一切をお委ねする思いで眠りについたのだ。イエス様もそのお委ねする思いをもって、これから私に起こる一切のあなたの御業を受け入れます、という信頼をもって死の眠りについたのである・・・。それを見た百人隊長は「 本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美した。死の中で、この祈りができるということはこの人は本当に神様と深く、正しい確かな関わりに生きていた人なのだ、そのことが分かったと言ったのである。そしてそのイエス様を、父なる神様は死人の中に捨て置かずに、死人の中から引き上げてくださった。イエス様に信頼に応えるように、父なる神様は復活という御業をイエス様の身に与えてくださった。

 ここには2つの恵みがある。ひとつは、イエス様が私たちに《 代わって 》神の見捨てという暗闇、深い穴とも言うべきところに捨て置かれたのだから、私たちはもうそのような穴の中に捨て置かれることはないのだと言うこと。そしてもうひとつは、神様がその深い穴の底からイエス様を《 引き上げてくださったのだから 》、神様の手の届かない深い穴など、もはや私たちには存在しないのだということ。それがイエス様の十字架に込められた福音。80歳を越えたあるご婦人は、40年以上も盲学校の卒業生にオルゴールを匿名で贈り続けていた。かつて大病をして命の危険もあった時、神様に救われてその危険を乗り越えた。その時に、与えられた残りの人生は何か人の役に立つこと、恩返しのために過ごしたいと思ったのである。ある卒業生が将来を悩み、この人に手紙を書くと「 トンネルの向こうには明るい光が待っている 」と短い返事が届いたという。もはや神様の手の届かぬ暗闇はないと信じている人からの励ましの言葉である。 2013年7月14日)

2013年7月16日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月15日~21日

7月15日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章31節b~13章3節
  山を動かすほどの完全な信仰(2節)という言葉に心惹かれます。それは、イエス様が弟子たちに求められた信仰でもあります(マタイ17章20節)。しかし、そのような賞賛に値するほどの信仰であっても、愛がなければ無に等しい(2節)。愛なき献身というものがあると言うのです(2節~3節)。ただ自分を誇るための献身です。パウロは、誰かを指して「 愛なき献身 」を語るのではなく、「 わたし 」(1節、3節)を問題にしながら語ります。誰も自分には愛があると主張できない現実を抱えています。だから熱心に願い求めようと言うのです(31節a)。愛は他の賜物と違って、誰にでも等しく、豊かに、神から与えられ得る「 賜物 」だからです。

7月16日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章4節~7節
  Ⅰコリント13章は、愛の賛歌と呼ばれています。ここには「 愛のしるし 」が一杯、並べて語られていますね。忍耐強い、情け深い、ねたまない・・・いらだたず、恨みを抱かない。愛の業がいつでも理解され、受け入れられるのであれば、それは容易な業となるでしょう。しかし、愛は誤解され、曲解され、ときには裏切られ、損な生き方をしているようで、馬鹿らしく思えてしまうことさえ、あります。だから、愛はいらだちとなり、恨みとさえ、なるのです。そうやって私たちの愛は、挫折します。しかし神の愛は、挫折しません。背かれても、裏切られても、神は愛を差し出してくださいます。私たちはそういう愛だからこそ、救われるのです。

7月17日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章8節~13節
 「 信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である 」(13節)。人間の願望は、いつまでも残る、つまり、いつまでも続くということにあるように思います。若く、健康であり、仕事を続けられる身でありたい、今、手に入れている地位を失うことなく存続させたい、愛する家族や友人との関わりを失いたくない。しかし、それらのものは決して人間の願い通りに存続することはありません。病気になったり、愛する者が死んだり、仕事を定年したりして、存続が断たれる時が来ます。そして、深い悲しみに襲われるのです。しかし私たちは、断たれることのないこれら3つのものを基盤として生きます。そのとき、存続していたものが断たれる悲しみさえも乗り越えさせていただけます。

7月18日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章1節~19節
 コリントの教会では、異言の賜物の用い方で大混乱を招いていました。霊の賜物のひとつである異言は、一般の人には理解できない言葉です。語っている者にも分からない場合もありますが、それでも語っている者は神との深い交わりを体験することができます(2節)。これに対して、「 預言 」というのはここでは説教と考えて良いでしょう。パウロは、はっきりと、異言よりは預言の方が上だと語ります(5節)。それは、異言はそれを語る人だけを高めますが、預言は教会のすべての人を高めることができるからです(4節)。問題の核心は、自分の益だけでなく、教会全体を高めることになるか?です。自分の願い通りになったとしても、そのことがキリストの体である教会を建て上げるのではなく、かえって教会をバラバラにしてしまうことがあります。主よ、ゲツセマネのイエス様の思いにとどまらせてください。

7月19日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章20節~25節
 私たちの目指す礼拝の姿がここに記されています。すでに信仰を持つ者たちに入り混じって、未信者の人たちが預言(今日で言う説教です)の語られる礼拝に出ています。預言の言葉に打たれるようにして礼拝している人たちの中にあって、預言の言葉が未信者の中に深く分け入り、その人の罪が指摘され、そこから遠ざかろうとするのではなく、かえって神の前にひれ伏し、信仰を告白するに至ると言うのです(24節、25節)。語られる言葉だけではなく、説教を聞いている者たちの姿を通しても、悔い改めの心が引き起こされるというのです。礼拝における伝道は、礼拝者全員の業です。礼拝しているあなたも、御霊によって伝道に用いられるのです。

7月20日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章26節~40節
 コリントの教会の礼拝は、私たちが行う礼拝とは違って礼拝の中で何人もの人が語ったようです。しかし、われ先にと、皆が競い合って語ろうとしたため、一人が語っている間にもう一人が語り出してしまうなど、無秩序になっていたようです(27、30節)。特に、ご婦人方にそういう人が多かった(34節~36節、これはコリント教会のそういう事情から語られたもので一般原則ではありません)。パウロは、神は無秩序の神ではなく、平和の神だ(33節)と語ります。私たちは、自分の生活の中に神の言葉をきちんと聞く秩序を造っているでしょうか。それは私たちの生活の中に神の言葉に生かされる自由と喜びのある秩序を生み出してくれますよ。

7月21日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章1節~11節
  コリントの教会では、復活を信じない人たちがいました(12節)。そこで、私が伝えた福音は「 キリストの十字架と復活であった 」と、パウロは語ります(3節、4節)。そして、キリストの復活の証人の名前をあげる中(5節~7節)、自分もその一人とさせていただいた感動から「 神の恵みによって今日のわたしがあるのです 」(10節)という有名な言葉を語りました。キリストの復活は、「 この私 」のために起こったこと、私の命そのものにかかわること、とパウロは語ります。キリストは、それほどに私たち一人一人の人生、命に深く関わってくださる方なのです。今日もキリストが深く関わってくださっている「 あなたの一日 」が始まりますよ。

先週の説教要旨 「 わたしを思い出してください 」 ルカ23章32節~43節

この礼拝のあと、教会全体研修会を行ない、『 成瀬教会葬儀の手引き 』を共に学ぶ。この冊子は自分の葬儀に向けて、なすべき準備をしておこうという思いから生まれたものである。自分の葬儀に備えることとは、自分の死と向き合うことを意味する。一昔前は、自分の死に備えることは「 縁起でもない 」と言って敬遠されたこと。しかし神を信じている人間は、自分の死と向き合うことができる。「 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです 」と、詩編23編の詩人が告白したように、私たちは「 主が共にいてくださる 」という支えによって、自分の死と向き合うことができるようにしていただける。では「 その支え 」とは、いかなる支えであるのか、それを今朝の聖書から聴きたいと願う。

この箇所には、イエス様と共に十字架につけられ、処刑される2人の犯罪人のことが書かれている。彼らはまさに自分の死と向き合っている人間である。この当時、十字架につけられるということは「 重罪人 」として処刑されることを意味した。人々から「 もう二度と、この世に生まれてくるな、お前みたいな者は思い出したくもない 」、そう言って殺されることを意味した。人々の記憶から抹殺され、死を迎えようとしている時に、2人の犯罪人のうちのひとりは言った。「 イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください 」。するとイエス様は「 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる 」と言われた。つまり、「 わたしはあなたのことを思い出す 」と言われたのである。彼の救い、死後のことは、イエス様がこの人を思い出してくださるという、その一点にかかっている。この犯罪人は、イエス様に「 私はあなたを信じます。私はいつまでも、あなたのことを覚えています 」と言ったか。あるいは自分の罪を悔いて激しく泣いたか。長々と自分の悔い改めが確かであることを証明しようと言葉を重ねたか。そういうことは少しもしなかった。彼がしたこと、それはただイエス様におすがりするということだけだった。彼にとって、自分がイエス様を覚えているかどうかは、二次的な問題であった・・・。自分がいつまでもイエス様のことを覚えている、信じている。そうやって自分の生涯を走り抜くことも確かに大事なこと。しかしそれは二次的なことに過ぎない。それよりも決定的なことはイエス様が自分を思い出してくださるか、どうかなのである。そこに自分の救いがかかっているし、死んだ後のことがかかっている・・・。この犯罪人は神の御前に何ひとつ誇れるような歩みをして来なかった。それがこの十字架刑という結果を生んでいるわけだが、そういう彼は私たちとは別人なのであろうか・・・。否、聖なる神の御前では、私たちもこの犯罪人と同じなのである。誰が聖なる神の御前に「 自分は胸を張って誇ることができるような生涯を送ってきた 」と言えようか。誰が聖なる神の御前で、罪ある者に石を投げつけることができようか・・・・。聖なる神の御前には、私たちがどのように歩んだか、という「 功績 」など全く誇ることなどできない。しかしたとえ私たちが神の御前に恥じることばかりの生涯を送ってしまったとしても、イエス様は、「 お前のことなんか、忘れた。知らない 」などとは決しておっしゃられない。ご自身によりすがろうとする者を覚えていてくださる。

 もうひとりの犯罪人は、「 他人を救ったのに、自分を救うことができない 」と言って、イエス様を嘲った。イエス様の十字架の意味を知っている者にとっては、これは嘲りというよりも、むしろ最高の賛辞、讃美の言葉にしか聞こえないのであろう。「 他人を捨ててまで、自分を救おうとする 」私たちとは正反対。よりすがる者を、自分を犠牲にしてでも救ってくださる。だからイエス様を信じる者は、失望することはない。41節の「 しかし、この方は何も悪いことをしていない 」の「 悪いこと 」は、原文ギリシャ語では「 場違いな 」という意味。イエス様が十字架の上で2人の犯罪人と並んでいるのはまさに場違いなこと。けれどもイエス様は、そこに身を置き続けられる。降りてしまわない。自分を犠牲にしてでも、私たちを救うために・・・。イエス様を十字架につけた人たちは、自分たちのやりたいようにイエス様を扱った。服を剥ぎ取り、嘲り、つばを吐きかけて、ユダヤ人の王と言って散々、愚弄した。イエス様のことを自分たちの思うままに扱うことができた。ただひとつのことを除いて。そう、彼らはイエス様に憎しみの心を抱かせ、「 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです 」という祈りの言葉を、撤回させることはできなかったのだ。「 もうお前たちのことなんか、思い出したくもない。顔も見たくない。たとえ、覚えているとしても、それは憎しみの対象として覚えているに過ぎない・・・」、そう言う言葉を吐かせることはできなかった。どこまでも、他人を救い、自分を救わない姿勢を貫かれた。そこにこそ、私たちの望みがある。作家の大江健三郎さんは、原爆の悲惨さは、自分の死を覚えてくれるはずの人たちも皆、一緒に死んでしまったことなのだと言った。しかし私たちには、私たちのことをいつまでも覚えていてくださる、思い出してくださる方がいる。私たちはその方の御手の中に置かれているのである。2013年7月7日)

2013年7月9日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月8日~14日

7月8日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~26節
   23節から26節は、教会が聖餐(主の食卓)を行う根拠とする聖句です。主イエス様は最後の晩餐の席で弟子たちに「 このように行ないなさい 」(24節、25節)と言われました。それはイエス様の遺言でもあり、私たちが重く受け止めなければならない言葉です。聖餐に与ることに重きをおきましょう。聖餐に与ることを疎かにして、説教や信徒相互の交わりによって健やかな信仰生活が成り立つと考えることはできません。主の遺言を無視しているわけですから・・・。聖餐に与っているとき、目に見えない神が私たちを恵み、祝福してくださっているのです。

7月9日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27節~34節
   聖餐はイエス・キリストが私たちの罪を贖うために、十字架の上で身代りとなって死んでくださったことをあらわしています。ですから当然、聖餐に与るふさわしさというものが生れます。それは、誰からも非難されないような立派な信仰生活を送っている、ということではありません。そうではなく、私はキリストの十字架の贖いがなければ生きることができない罪人であると心から思っている、ということです。自分は罪深い歩みをしてしまったので、「 今回は聖餐に与るのをやめておこう 」と考えるのは謙遜のようですが、間違っています。自分は自分の力でもって、神の御前に恥じない生活をすることができるのだという考え方がその根底にあるからです。謙遜に、砕かれた魂をもって聖餐に与りましょう。

7月10日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1節~3節
 コリントの教会は、聖霊の賜物(神様から与えられた能力などを賜物と言います)が豊かな教会でした。聖霊の賜物には、異言の賜物や癒しの賜物など、いろいろあります。異言の賜物とは、一般の人には理解できない言語でもって神様を賛美したり、祈ったりする能力です。今日でも、このような賜物が与えられてこそ、聖霊がその人のうちに働く本当のクリスチャンなのだ、と考える人たちがいます。しかしパウロがあげる最も大切な霊の賜物、霊の働きは、それとは違います。私たちが「 イエスは主である 」と告白できること。それこそ、聖霊の賜物を受けていることの最たるしるし、最も確かなしるしなのです(3節)。たとえば、私たちがいかなる厳しい状況に置かれても、「 この状況を支配しておえられるのは・・・ではなく、主だ 」と信じ、その状況を受け止めることが出来るのも、聖霊のお働きなのです。

7月11日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4節~11節
 私たちは、自分の賜物が貧しいとか、豊かだとか、表立って口にはしませんが、腹の中ではそう考えているところがあります。そういうものが劣等感や優越感になって、浮き沈みの生活を送らせるのです。しかしパウロは言います。「 一人一人に霊の賜物が現れるのは、全体の益となるためです 」(7節)。教会では、一人一人に与えられている賜物は、教会全体のために与えられている賜物として見ることができます。つまり、自分には音楽の賜物が直接与えられてはいないけれども、あの人を通して実は私にも音楽の賜物が分かち与えられているのだと受け止めるのです。そうです。あなたの賜物は、あなたのためだけでなく、私のための賜物でもあるのです。だから自分と他の人の賜物を比べて浮沈する必要など、全くないのです。

7月12日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12節~14節
 人間のからだは、たくさんの細胞からできています。その一つ一つの細胞は個別に命を持って生きているのですが、それが集まってひとりの人間の命を造っています。それと同じように、信仰を持って生きている一人一人が集まり、互いをいたわり、支え合って、ひとつの命を造る。そこにイエス・キリストというひとりのお方が生きておられることが見えてくる。それがキリストのからだなる教会の姿です。教会を訪れる方が、ここには確かにイエス・キリストが生きておられると感じてもらえるような教会の交わりを造りましょう。今生きておられるキリストのお姿に、触れることができるような交わりを。

7月13日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章15節~26節
 霊の賜物は、人によって違います。人によっては、「 自分は何の役にも立たない、少しの賜物しかない 」と思うかも知れません。24節は、神がそのような人を引き立てられるのだ、と言っています。それは、「 自分の欠けのために苦しんでいる人を愛をもって覆ってあげる人を呼び覚ますため 」です。教会は、格好の悪い部分を隠すのではなく、それを引き立たせて覆う愛を呼び覚まそうとされる神の要請に応えて立つのです。その人の痛みを自分の痛みとして受け止め、そのようにしてその部分を尊ぶのです(26節)。あなたの賜物は、そのために与えられているのです。

7月14日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節~31節a
   あなたがたはキリストのからだであり、また、一人一人はその部分です(27節)。そう語ったパウロは、教会の中の様々な賜物を持った働き人について言及していきます(28節~30節)。一人一人がそれぞれに違った賜物をいただいています。それをお互いの益のために用いるのですが、賜物を用いるにはいつも危険がともないます。自分の賜物を誇るような自己主張となったり、相手を卑下する非難につながったりすることがあります。だからパウロは、「 あなたがたはもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい 」(31節a)と奨め、そのあと13章から「 」について語り始めるのです。そうです。「 」という大いなる賜物に根差してこそ、私たちの賜物は正しく用いられるようになるのです。

先週の説教要旨 「 私を見て深く涙しなさい 」 ルカ23章26節~31節
  カトリック教会の礼拝堂は、周りの壁に14枚の絵を飾っている。「 十字架の道行き 」と呼ばれるもので、イエス様の裁判から埋葬までに至るまでの14の場面を絵にしたものである。来拝者は絵の前に立ち、そこに描かれたイエス様のお姿を黙想し、祈る。それを第一の絵から初めて、順番に第十四番目の絵まで、黙想と祈りを繰り返す。カトリックの人たちは、礼拝堂とはそのようにイエス様の十字架への道行きを思い巡らす場所なのだと意識している。素晴らしいことである。ところでルカ福音書を読むと、十字架の道行きは14の場面も描かれていないことに気がつく。ルカの場合、裁判と埋葬以外ではキレネ人シモンのこととイエス様に従った女性たちのことだけである。聖書が描く十字架の場面は、イエス様を侮辱し、あざ笑い、鞭でたたく乾いた笑い声と乾いた鞭の音ばかりが聞こえてくるような場面なので、ここを読んでホッとした気持ちになるかも知れない。最後までイエス様に寄り添って歩む婦人たちがいたのだと・・・。たが、そういう女性たちにイエス様は「 わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供たちのために泣け 」と言われる。簡単に言ってしまえば、あなたがたの泣き方は間違っているということ。それはどういうことなのであろうか。神の恐ろしい裁きの日が来る。そのとき、幸せな人ほど不幸な人になる。幸せであればあるほど、その日に失うものが多いからだ(29節)。神が人を裁く日は、それほど恐ろしい日なのである。その裁きに直面するぐらいなら、まだ山が自分の上に崩れ落ちてくれる方ガいいと人々は思う(30節)。生の木さえ、こうされるのであれば、枯れた木はいったいどうなるのだろうか・・・(31節)。生の木とは、神にしっかりと根付いている者のこと、つまりイエス様のこと。そのイエス様でさえ、今、このように十字架という神の裁きを受けるのであるから、神から離れて生きている枯れた木であるあなたがたは、どんなに厳しい裁きを受けることになるか・・・私を見て、そのことを知りなさい、そのことに涙しなさいと、イエス様は言っておられるのだ。イエス様に付き添っていた婦人たちは、十字架を担うイエス様のお姿に「 おいたわしや 」と同情の涙を流していた。しかしイエス様は、わたしではなく、本当の自分の姿を見て泣け、「 本当の自分の姿に気づけ・・・枯れ木であるあなた自身に・・・」と言われるのである。

神から離れている枯れ木の姿、それは私たちの具体的な生活の中で、どういう姿として現れてくるのだろうか。たとえば、私たちは日々、いろいろな決断をしながら生きている。この仕事を引き受けるか、否か。このことをどのように処置するか。子どもの進路をどうするか、家族のことをどうするか・・・、それらの小さな決断の積み重ねが私たちの生活を造っていく。そういうとき、私たちの決断は、これとあれ、どちらが自分にとってメリットがあるか、ということが判断の基準になっているかも知れない。だが、神につながっているというのは、そういうところで自分の決断が最後のものにならないのである。自分はこう思うが、神はどう思われるだろうかと、神の御心を問う、神の御心こそが自分の決断の最後のものとなる。それが神につながっているということ。キレネ人のシモンのことで言えば、彼はたまたまその場に居合わせたがために、イエス様の十字架を代わって担がされることになったのだが、「 自分は何とついていないことか 」と思って終わってしまうのか、それとも「 たまたまと言うことの中に、十字架を代わって担ぐことが神の御心かも知れない 」と立ち止まってみるのか・・・。神につながっている者には、そこに「 一呼吸置いて、神のみ心は?と問う 」スペースが生まれるのである。

イエス様は、わたしの姿を見て、本当の自分の姿に気づけ。そしてそれに気づいて涙を流せ、と言われる。しかし、その涙は悲しみの涙では終わらないのだ。なぜならば、自分の本当の姿に気がつくということは、枯れ木になってしまいっている自分に気がついた、というのでは半分なのである。それでは、自分の本当の姿を半分しか気がついていないのである。本当の自分に気づくというのは、枯れ木になってしまっている自分、滅びざるを得ない自分が、実はその滅びからすでに救われている、そういう自分に気がつくということなのだ。「 生の木さえ、こうされるのなら、枯れた木はいったい、どうなるのだろうか 」と語りながら、イエス様は今、枯れ木を背に負っておられるではないか。十字架がどんな材木で作られていたかは分からないが、確かに言えることは「 十字架は枯れた木で作られていた 」ということ。枯れた木である十字架を担ぐイエス様のお姿は象徴的であって、それは枯れた木である私たちを背負ってくださるということ。枯れた木が受けるべき神の裁きを私たちに代わって、すべてを背負ってくださるということ。預言者イザヤが語った「 あなたたちは生まれた時から負われ・・・同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう 」という言葉の向こうにイエス様の十字架を背負うに背中が見えてくる。十字架の道行きの主のお姿を深く見つめ、思い巡らすことを通して、私たちが本当の自分の姿に気がつくこと。そのとき、イエス様を見て流す涙の意味は大きく変わる。「 おいたわしや 」という同情の涙ではなく、悔い改めと感謝から生まれる喜びの涙となる。 2013年6月30日)

2013年7月1日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月1日~7日

7月1日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章1節~18節
  伝道者パウロに、報酬を出すか出さないかという議論が教会の中にあったようです。そのために、パウロは一切の報酬を受け取らないでコリント伝道をしたようです。パウロには報酬を受け取る権利があった(6節~12節)のですが、その権利をあえて行使しなかったのです(12節、15節)。パウロは、報酬を受け取ることで問題が起きて、かえって福音が宣べ伝えられなくなるなら、報酬を受け取らない方がましだと考えたのです。福音宣教は、パウロにとって「 そうせずにはいられない 」(16節:原語では「 その強制が私の上に置かれている )神の定めだからです。パウロは自分に対する神の定めを愛して、喜んで受け入れていたのですね。私たちの人生に欠けていること、それは自分に対する神の定めを受け入れ、それを愛して生きることなのかも知れませんね。それは必ず、喜びにつながります。

7月2日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19節~27節
  福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それはわたしが福音に共にあずかる者となるためです 」(23節)。福音を伝道する者には大きな楽しみがあります。それは、自分が福音を伝え、救いに与らせることのできた人といっしょに、自分も福音の恵みを受けることです。自分はとっくに福音をよく分かっていて、別に新しく感動もしなくなったけれども、その人には新しいものだ、と言うのではありません。福音は、人に伝えれば伝えるほど、伝える者にとってもますます福音になる、すでに与っていた福音の喜びが増してくるものなのです。これは不思議な経験ですが、確かなことです。出し惜しみせず、使えば使うほど新しくなるのです。

7月3日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章1節~13節
  13節の言葉は、よく知られた有名な御言葉です。私たちの遭う試練で最も厳しいものは、神の真実さを疑いたくなるような試練でしょう。1節~10節のイスラエルの先祖たちは、神を試みるという過ちを犯した事例として登場しています。彼らは、神の真実を試すような疑いを持ち、不平を口にしたのです。神なんか信じていられない、信じたところで何の役に立つか、と。しかし、そこで神を捨てるのであれば、滅びもやむを得ないでしょう。すべては、試練から逃れようとするあなたの知恵や工夫にかかっているのではなく、神の真実さにかかっているのです。神の真実さを信頼し抜けば、試練に耐え、それを逃れる道は現実のものとなります。

7月4日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章14節~22節
 偶像礼拝を避けなさい(14節)。神ではないものをまるで神であるかのように拝むこと、それが偶像礼拝です。日本では、様々な偶像が神のように祭られています。本来、神はただ一人であり、偶像の神などいないのだから神社等に参拝しても問題ないと考えるかも知れません。しかし、パウロは言います。偶像は確かに神ではないが、偶像の背後に悪霊が働いているのだと(20節)。悪霊はイエス様を試みて救い主の働きから堕とそうとしましたね(マタイ4章)。悪霊はイエス様とわたりあった大敵です。だから「 戦え 」ではなく、「 避けよ 」と言われているのです。悪霊の力を侮ってはいけない。占いやオカルトも同じ類いのものとして避けましょう。

7月5日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章23節~11章1節
   ここでは、8章7節~13節の偶像のお肉の問題がもう一度取り上げられています。パウロは、全ての事が許されていることを認めます(23節)。自由なのです。しかし、その自由がどの方向に向けられるかが大事だと言います。自分は何をするか(肉を食べるか否か)?他者の心を神から引き離してしまわないように、という方向で自分のすることを決定するパウロ(33節)。しかし、これを実際の生活の中で、いろいろな出来事にあてはめて判断して行くことは、とっても難しいことです。イエス様に思いを集中し、そのなさることをなぞるように、まねる訓練を重ねるしかありませんね(1節)。そのようにして判断力を身につけるしか、ありません。

7月6日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2節~16節
  頭へのかぶりものが問題になっています。ここで何を聴き取るかは、今日でも議論百出、解釈は様々です。ある教会では婦人の役員を認めない根拠にもします。しかし、問題の核心は礼拝時の祈りの姿勢だと思います(4節~5節)。女性はかぶりものを取って神の前に出て、男性はかぶりものをつけて出ていたらしい。普段の生活では女性はかぶりものをつけ、男性はつけていないのです。それなのに神の前に出るときだけ、いつもと違う自分となって現れる。おかしくないだろうか?いつもの自然なままで、ありのままの自分で神の前に出るべきでしょう。飾ったり、隠したりすることを神は求めておられない。そう言ってパウロは神の前に出る心の姿勢を問うているのです。神は、ありのままの私たちを愛していてくださる方なのです。

7月8日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章17節~22節
 コリントの教会に手紙が書かれた時代は、まだ日曜日が休日ではなく、教会の人たちは日曜日に朝早く集まり礼拝をし、仕事を終えるとまた集まって夕食を共にし、夕食の最後のところで聖餐を行っていました。愛餐と聖餐をいっしょにしたのです。ところがお金持ちの人は、長時間の仕事をしないので早く帰って来ます。そして、まだ仕事をしなければならないでいる貧しい人たちが帰って来る前に、先に自分勝手に食べてしまうのでした(21節~22節)。パウロは、それを厳しく戒めています(20節)。仲間に対する愛を欠いているからです。私たちが聖餐に与るとき、聖餐を見守るだけの求道の友を思い、愛と祈りをもって聖餐に与りましょう。

先週の説教要旨 「 底知れぬ罪、底知れぬ愛 」 ルカ23章13節~25節

今朝の箇所は、ローマの総督ピラトの前でイエス様の死刑判決が下される場面で、「 十字架につけろ 」と叫ぶ人々の声が大きくなって行く箇所である。ここを読んでまず驚かされるのは、何と言っても民衆の変わりようだと思う。この民衆は数日前、「 主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」と言ってイエス様を迎え入れた人々だ。それからまだ5日しか経っていないのに、一転して「 十字架につけろ 」と叫んでいる。この豹変ぶり、一体、何が起きたというのか。イエス様は、かつてこの民衆をご覧になったとき、飼う者のいない羊のように弱り果てていると言って、深く憐れまれたのである。イエス様からそのようなまなざしを注がれていた人々が、ここではイエス様を「 十字架につけろ 」と叫んでいる。イエス様に死刑に当たる犯罪は何もないと判断したピラトは、鞭で懲らしめて釈放しようと提案する。だがそれを人々は突っぱねる。人々は、一斉に「 その男を殺せ。バラバを釈放しろ 」と叫び出す。ルカ福音書巻末に17節の言葉が記されている。写本によっては、この17節は存在しない。だから、新共同訳では巻末に書かれている。その17節によると、祭りの度ごとにピラトは囚人を釈放してやらなければならなかったらしい。恩赦である。そこでピラトは、このイエスと言う男を恩赦で釈放してはどうか、という提案をしたのである。もともと罪がないのだから、恩赦と言うのもおかしな話だが、この男を解放するにはこれしかないと思ったのであろう。それでも人々の「 十字架につけろ 」という叫びは大きくなり、ついにピラトは人々の要求を受け入れる決定をしてしまう。

なぜ、人々はイエス様を処刑することをこれほど執拗に求めたのか。人々は政治的な革命を好んだのであって、イエス様が伝える神の革命を求めてはいなかったのか・・・。それも一理あろう。ルカはその理由を明確にしていないが、マタイとマルコの両福音書は、それが「 ねたみ 」によるものであったと、はっきりと記す。祭司長たちだけでなく、人々もまたねたんだのだと書いてある。カトリックの信仰を持っておられた作家の遠藤周作が「 死海のほとり 」という小説の中で、そのねたみを明らかにしようと試みている。十字架刑を執行するローマの百人隊長が刑を執行しつつ、ふと思う場面があり、彼は「 もし、この人が十字架の上から、このような不合理な刑罰を与えた人間たちに、愛の言葉ではなく、憎しみと怒りの言葉を吐いてくれたなら、自分の心も楽になるのに・・・ 」と考えるのである。聖書には、そんなことは書かれていないのだが、遠藤周作はねたみをそのように解釈したのだ。すなわちこういうことである。イエス様は、愛するということを人々に教えるだけではなく、実際に自分も愛してみせた。言うだけでなく、やったのである。そのイエス様が、「 あなたも愛してご覧。同じように生きてご覧 」と、声をかけ始める。人間とは不思議なもので、ちゃんと語った通りに生きている人が目の前にいて「 あなたも同じようにやってみなさい 」などと言われると、その人を煙たく思うようになるのである。その通りにできない自分の弱さを正当化することができなくなるから・・・。そして、その人に目の前から消えてほしいと思うようになる。それが人々の心の中に生じたイエス様への「 ねたみ 」だと、遠藤周作は解釈したのである。私たちは愛されたくて、愛したくて、愛ばかりを考えているくせに、実際に、人を愛するだけで生きている人間が存在していては、本当は困ってしまうのである。そういうひねくれた心を持っている。人間の心は、複雑で恐ろしい。ルカもねたみが本当の理由であることを知っていたのであろう。だが、その理由を書かなかったのは、人間の心の中にある罪はいかに不可解な、分からない、まさか・・・と思うようなことをしてしまう底知れぬ恐ろしいものだということを伝えようとしたからではないだろうか・・・。人は何をしでかすか、分からない。そこに人間の罪の底知れぬ恐ろしさがある。罪、それは不可解なものであって、自分の中にありながら、一度、それが頭をもたげると自分でコントロールがきかなくなる。そこに人間の罪の深さ、底知れぬ罪の恐ろしさがある。
 そんな人々をイエス様はどのように見ておられたのだろうか。「 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた 」(25節)とある。人々はイエス様を好き勝手に扱うことができた。なすがままにできた。だが、ただひとつだけ、イエス様にさせることができなかったことがある。それは、そういう仕打ちを与えている人々に対して憎しみの心を抱かせることであった。それだけは、好きなようにはできなかったのだ。11節にあるように、あざけり、侮辱し、派手な衣を着せ、ユダヤ人の王ばんざいと馬鹿にし、さすがにこんなことまでされたら誰だって、憎しみの言葉のひとつやふたつ口にするに違いないと思われることをしたのに・・・。これもまた恐ろしいほどの愛である、底知れぬ愛ではないか。底知れぬ人間の罪を底知れぬ愛が包み込もうとしている。人々を見て飼う者のいない羊のように思われたこの方の憐れみの心を、憎しみへと変えさせることは誰にもできなかった。底知れぬ罪に底知れぬ愛が勝利した。私たちの罪に神の愛は打ち勝つ。