2014年8月24日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月25日~8月31日

8月25日(月) ヨハネによる福音書6章1節~15節
  「 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた 」(11節)。パン五つと魚二匹しかないと弟子たちは思いました私達も同じように考えるかも知れませんね。しかしイエス様は「 それ 」をとって感謝の祈りを捧げました「 これしかない 」というのではありません。「 これがある 」というところから始められたのです。そしてそこから始めたとき、その賜物が人々を生かすことになりました。私たちも「 これがある 」というところから始めましょう。

8月26日(火) ヨハネによる福音書6章16節~21節
 「 イエスは言われた。『 わたしだ。恐れることはない 』。そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた 」(20節、21節)。夜、荒れた海、狼狽している弟子たちにイエス様は声をかけられました。彼らがイエス様を迎えようとしたときに舟は「 目指す地に着いた 」と言われています。危機の海で、そのただ中に立ってくださるイエス様の声を聞けるかどうか、そこに私たちの信仰生活の成否はかかっています。信仰の生活は、順風に送られて目的地に着くようなものではありません。「 強い風が吹いて。湖は荒れ 」(18節)行き悩む経験を強いられます。私たちの舟に近づいて来られるキリストに叫ばないではいられません。この舟は試練を貫いて、救い主と共に目的地に着くのです。
 

8月27日(水) ヨハネによる福音書6章22節~33節
 「 イエスは答えて言われた。『 神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である 』」(29節)。神の業を行なうために何をしたらよいか、と言う質問に答えられたイエス様。あれこれのことをせよ、と言うのではありません。まず救い主を信じることから始めよ、と言われたのです。信じた後に良い行動は生まれるのです。信じないで神の業を行なうことはできないのです。まず主を信じましょう。

8月28日(木) ヨハネによる福音書6章34節~40節
 「 イエスは言われた。『 わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない 』」(34節)。これは、私たちの教会で聖餐が執行される時に読まれる聖書の言葉ですね。イエス様は十字架にかかることによって、その肉体をまさに私たちのための命のパンとしてくださいました。聖餐の時に読まれるにふさわしい御言葉です。続いてイエス様は「 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである 」(39節)と言われました。イエス様はあなたを終わりの日に復活させることこそが、ご自分の地上における大切な業なのだと言われたのです。私たちはこの御言葉を抱いて、臨終の時を迎えることができるのです。何と心強いことでしょうか。私たちにとって、肉体の死は永遠の命へと至るための単なる通過点になってしまっているのです。その恵みを聖餐のたびに、繰り返し味わいましょう。

8月29日(金) ヨハネによる福音書6章41節~51節
 「 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない 」(49節、50節)。荒れ野を放浪した神の民は、神から与えられたマンナを食べて養われました。しかし彼らのつぶやきは絶えませんでした。「 水がない、肉が食べたい、荒れ野で死なせる気か・・・」。彼らはマンナを食べながらも、罪によって滅ぼされてしまいました。それは、彼らの罪の結果です。しかしイエス様が私たちに与えてくださるパンはご自身の「 」です。それは、私たちの「 肉の罪 」のために裂かれたもので、このパンをいただく私たちは、もはや荒れ野で罪のために行き倒れることはありません。主の肉は私たちの罪を贖い、永遠の命を与えるパンだからです。

8月30日(土) ヨハネによる福音書6章52節~59節
  「 イエスは言われた。『 はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない 』」(53節)。何といまわしい言葉でしょうか。誰かの「 」を食べ、誰かの「 」を飲むと言うのですから。イエス様はそのいまわしい言葉を口にされます。考えてみれば、十字架そのものがいまわしい残酷極まりない出来事です。神の御子の体がそのように引き裂かれなければ、罪人が命をいただくことなど、あり得なかったのです。いまわしきは私たちの罪だった。

8月31日(日) ヨハネによる福音書6章60節~71節
 「 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『 実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか 』」(60節)、「 シモン・ペトロが答えた。『 主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます 』」(68節)。ここには、イエス様の言葉についての全く違う判断が見出されます。それは、満腹ということを求めて弟子になった者(26節、34節)と、イエス様をキリストと信じて弟子になった者との間に現れた決定的な相違でした。信じることで弟子になるのでなければ、イエス様の真実やその偉大さは決して知ることはできません。どうぞ、信仰に生きる者になりましょう。

先週の説教要旨「 落胆と恐れの先にあったもの 」使徒言行録18章1節~17節 

 18章はコリントにおけるパウロたちの伝道の様子が記されている。パウロはどの町に行っても、伝道することに並々ならぬ熱意を持っていたが、このコリントにおいては少々、様子が違ったようである。そのことをパウロ自身がコリントの信徒への手紙の中で次のように語っている。「 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした 」(第Ⅰの手紙2章3節)。衰弱、恐れ、不安にとりつかれたパウロの姿がそこにはある。何か具体的な理由があったのか。「 そちらに行ったとき 」とあるから、コリントの町に着く前にパウロの身に何かが起きていた。そこで多く人が指摘するのは、直前のアテネの町での伝道が思うように行かなかったことが大きなストレスになっていたのではないかと言うのである。確かに17章32節~34節を見ると「 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『 それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう 』と言った 」とある。周囲の無理解、さらにはユダヤ人による攻撃もあった。パウロは肉体の持病を抱えていたと言われるから、そのことも彼を衰弱させたのだと思われる。コリントに着いたとき、伝道者パウロは確かに行き詰っていたのである。神はパウロたちだけでなく、私たち信じる者に落胆したり、恐れや不安を抱くような経験をお与えになる。しかしそれは信じる者たちをつぶしてダメにしてしまうためではなく、その恐れと不安の先に神が用意された恵みへと導くためなのである。だからもし、パウロがその恐れと不安の中にうずくまったままでいたならば、コリントでの伝道は実を結ばず、コリントの町に教会は生まれなかったであろう。しかし恐れと不安の中で、なお神に向かって顔を上げ、神の導きに従うという信仰を働かせたからこそ、コリントの町に教会が生まれたのである。

創世記第22章はそういう神のなさりようの証である。神は、後に信仰者の父と呼ばれるようになったアブラハムに、「 あなたの独り息子を私へのいけにえとして捧げなさい 」とお命じになった。この命令はアブラハムをひどく落胆させ、彼に恐れと不安を抱かせた。しかしその恐れと不安の中でアブラハムはなお、神に向かって顔を上げた。「 どこまでも神に従って行く 」という思いを持ち続けた。その結果、アブラハムは落胆と恐れの先に、神が用意していてくださった恵みの世界へ到達したのだった。この出来事を通して人々は、「 主の山に備えあり 」という言葉を口にするようになった。神は落胆と恐れの先に恵みを用意しておられる。神を信じる者にとって、落胆と恐れは決してそのままでは終わらないのである。

 神は、恐れと不安の中にいるパウロを、その先に用意された恵みの世界へと彼を導いて行くためにパウロを励まし、その信仰を働かせるようにと促された。9節、「 恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる 」。神があなたと共におられるというのは、具体的には不安と恐れの中にいるあなたにも、そのあなたの信仰を働かせるようという、神の促しが聞こえてくるということである。パウロはアテネの町で一生懸命伝道したにもかかわらず、アテネの人々はあざ笑い、また今度、聴くことにするよと言って去って行った。パウロにはそれがこたえた。衰弱し、恐れと不安の中に突き落とされた。福音を語ることに落胆した。しかしパウロと共におられる神は、そこでなお、パウロに信仰を働かせ、福音を語り続けなさいと促された。パウロはどうしただろうか。信仰を働かせたのだ。もう一度、福音を語ろうと、神への信仰を働かせ、「 この町には、わたしの民が大勢いるからだ 」という神の約束を信じて動いたのである。その結果、どうなったか。パウロはコリントの町に一年半の長期にわたってそこにいて、伝道し続けた。コリントに教会が生まれた。コリントの教会は、やがて、エルサレムの教会、アンティオケアの教会についで、当時のキリスト教会を代表するような大きな教会となる。新約聖書の中にコリントの信徒への手紙と題する書物がⅠとⅡ、合わせて2巻入っているが、そのような聖書に残る手紙を2通もいただくことになる教会がこのコリントの町に建ったのだ。パウロが恐れと不安の中で、なお神の促しに応えて、信仰を働かせたから・・・。それで神が用意されていた恵みが姿を現したのだ。これらの経験を経て、パウロは後に、ローマの信徒に宛てた手紙の中でこう語った。「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」(ローマ8章28節)。だから私たちは、今、試練に遭っていても、恐れを抱いてしまう状況に置かれていても、落胆してしまうようなことになっていたとしても、それはそのままでは終わらない。神はこの先にある恵みを必ず用意していてくださる。そう信じてよいのだ。そう信じて顔を上げて進むのである。「 人はみなけなげに生きている 」―神は苦しみ、悲しむ者と共におられる(副題)―という本に記されたひとりの姉妹の証がある。恐れと不安の中で、司祭を通して聞こえてきた神の促しに信仰を働かせて応えたある姉妹は、今まで知らなかった新しい恵みの世界へと導かれるという結果を得た。今まで知らなかったことに大きな喜びを知るようになったのである。それは、ここに集まっている神を信じる私たちにも与えられている祝福である。 (2014年8月17日)

2014年8月17日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月18日~8月25日

8月18日(月) ヨハネによる福音書4章16節~30節
  「 さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません 」(29節)。サマリアの女はイエス様に出会って、秘密にしていた自分の過去が明らかにされました。知られたくない陰の部分を抱いて、逃げ続けていた彼女が逃げられなくなったのです。思いがけないことです。しかしそのことが彼女に不思議な平安をもたらしました。もう逃げなくてもいい、ありのままの自分を知っていてくださる方がいるという安堵の思いです。信仰とは、救い主に知っていただいているという安心であります。

8月19日(火) ヨハネによる福音書4章31節~42節
 「 彼らは女に言った。『 わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです 』」(42節)。人が信仰に導かれるのは、人によるのであります。家族、友人、知人などに導かれて信仰に入ります。それから自分の問題、悩みや傷みをもってイエス様のところに行きます。そうすると、主の言葉を、主からの言葉としてとして聞くことができるのです。そして信仰は自分のものになります。だからもし、いつまでも人に頼っていたら、信仰のことは分からずじまいで終わります。
 

8月20日(水) ヨハネによる福音書4章43節~54節
 「 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである 」(36節)。すべての労苦のあとの収穫は喜びの季節です。神はひとりで収穫の喜びを味わうこともおできになりますが、その喜びに私たちをも引き入れてくださいます。神は、私たちと一緒に収穫を喜びたいのです。拙い者が、神の国の働き手とされている、それが私たちキリスト者の光栄です。伝道しなければならないというのではありません。私たちも伝道することが許されているのです。その違いは大きい。

8月21日(木) ヨハネによる福音書5章1節~9節
 ベトザタの池は現代社会の縮図、一種の競争社会です。誰もが皆、その競争に勝っていい思いをしたいと思っています。長く待ってきた人がかわいそうだからと、整理券を発行する人など誰もいないのです。人は切羽詰まると、皆、人のことより自分のことを優先します。そういう人間の本性を嫌と言うほど見てきたのに、それでも池を離れることができず、池にしがみついているこの病人・・・。池を離れることは自分の今までの頑張りを否定することであり、それはとても辛いことでした。前にも進めず、後ろにも戻れない・・・。そんな身動きが取れなくなくっているこの病人に光が差したのは、イエス様の言葉に従ってみるという新しい生き方が示されたときでした。競争に勝つことではなく、イエス様の言葉に従うことによって開かれていく、そういう人生というものがあるのです。

8月22日(金) ヨハネによる福音書5章10節~18節
 「 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『 あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない 』」(14節)。ここで言う罪とは、愚痴、不平、不満であります。人がしてくれないとか、冷たいとか。彼はついさっきまで、「 主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです 」(7節)と言っていたではありませんか。救い主イエス様に出会い、癒されたのだから、もうそんな日常に落ち込んではならないと、イエス様は言われるのです。癒された感謝をもって、主を仰いで生きるのです。顔を上げれば道は開けます。顔を伏せて、つぶやく者に悪い事は降りかかってきます。

8月23日(土) ヨハネによる福音書5章19節~30節
この箇所は、一人の人が神様を信じて、洗礼を受ける時に、そこで一体何が起こっているのか、それをイエス様がお語りくださっていると読むことができます。「 はっきり言っておく 」という言い回しが、19節、24節、25節と3回 にわたって出て来ています。原文ギリシャ語では「 アーメン、アーメン、あなたがたに告げる 」となっています。「 わたしが告げることは真に確かな事だ 」と言う意味です。このような事が、「 私を信じる者 」の身に起こっているのだ。それは確信すべき確かな事だと念を押しておられるかのようです。「 わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている 」(24節)。これが私たちに起こっていることです。もちろん、この死は肉体の死のことではなく、霊的な死、すなわち滅びのことです。信じる者はたとえ肉体が死んでも、永遠の命へと移らされているのです。

8月24日(日) ヨハネによる福音書5章31節~47節
 聖書を間違わずに読む方法があります。聖書はいろいろな読み方がなされますが、大事なのはこの一点、「 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ 」(39節)とあるように、そこに恵み深いイエス・キリストのお姿が浮かび上がってくるように読んでいれば、それは正しい読み方なのです。主人公であるイエス様のことが大好きになり、NHKの朝のテレビ小説のように、主人公の一挙手、一投足にドキドキ、ハラハラしてしまう。そのように聖書に接しているなら、それは正しい読み方をしている「 証拠 」です。イエス様が大好きになる。そのように読めればいいのです。

先週の説教要旨「 神は遠く離れてはいない 」使徒言行録17章16節~34節 

 伝道者パウロは、アテネの町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。「 憤慨した 」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「 彼の霊がかき乱された 」という意味である。パウロの霊の部分が黙っていられなくなったのだ。霊というのは、神様とかかわりを持つ人間の内的なところである。私たちは霊において神様と語り合い、霊において神様を父と呼ぶ。その霊が黙っていられなくなったのだ。伝道するというのは、黙っていられなくなるというところがあるのだと思う。真の神との関わりに生きていない人々の姿に黙っていられなくなる。自分の愛する方にそのようにツレない態度を取らないでほしいと、霊がジリジリした思いになる。その思いがなければ、教会を大きくして一喜一憂することは出来ても、本当の伝道はできないのだと思う。そこでパウロは、アテネの町の人々に伝道した。アテネの町の人々は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた(231節)。つまり、好奇心が旺盛だったのである。そういう好奇心は一面、良いようだが、他面、よくない面もある。自分の心で判断して、それが楽しければいいと思うだけで、そこにある真理によって自分の心を揺り動かされ、それによって自分の生活を変えて行こうとする姿勢はないのである。それが単なる好奇心の持つ問題点である。それでは私たちは、どのような姿勢で神の言葉に向き合おうとしているだろうか、そのことを考えないわけには行かない。パウロは、そういう知的好奇心で私の話を聞くのではダメだとは言わないで彼らに向かって語り出した。アテネの町で「 知られざる神に 」と刻まれている祭壇を見つけた。これは、私たちにはまだ知らない神がおられるかも知れない。もしその神が真の神であり、最も力のある神であったならば、その神を祀っていないことほど、失礼なことはない。そのような失礼がないようにと、わざわざ「 知られない神に 」という祭壇を造っている。あなたがたは真に宗教心があついではないか。そのあなたがたに、私が真の神を紹介しようと言って、パウロは語り始める。

ユダヤ的な背景も、旧約聖書も知らない人たちに向かって、何をもって語り始めるか。パウロは、神は万物を造られた方であると語る。創造者としてすべてのものを超えた方。何ものにも束縛されない。神様は人間の造った神殿には住まわれない。神様は人が造った神殿に閉じ込められ、私たちの手の中に収まるような方ではない。神殿の祭司に世話されることによって、生き延びる方でもない。むしろその逆。あなたがたを生かす神なのだ。すべてのものをお造り、そして造りっぱなしではなく、季節を与え、境界線を定め、そして私たちに近くおられる。収められないほどに高く、人の手から逃れているのではなく、思いがけず近くにおられる方なのであると。私たちは神の子孫(29節)というのは、私たちが今なぜ、このように生きていることができるのか、その根源を手繰って行くと結局、神様の御手に帰する。神様こそ私たちの出発点、私たちの根源であるという意味である。その神様に対しての無知は、無知の罪に他ならず、無知は罪であるがゆえに裁かれなければならず、裁かれるべきものであるがゆえに悔い改めなければならないものであるとパウロは語る。

 パウロが語ったこれらの言葉の中で、ぜひ、今日心に留めたいのは「 神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません 」(27節)ということである。パウロは特に信仰深い人々に向かって、神は遠く離れてはいないと言ったのではない。アテネの町の極普通の人々に向かって言ったのだ。ここにいる人たちが特に気持がきれいだから、努力をして、一生懸命精進をしているから、だからあなたがたは神様に近くなったのですよと言ったのではない。そうではなくて、神様があなたがたから遠く離れることを望まれないのだと、言ったのである。人間は光を嫌うものだと、ある人は言った。光を好むのではなくて嫌う。人間は光である神様を嫌って暗いところに潜り込み、逃げようとするものだと・・・。 この逃げるというモチーフは、聖書の中にも数多くある。たとえば、アダムとエバ、預言主ヨナ、放蕩婿のたとえ話。これらの話は特別な人間のことを指しているのではない。人間は皆、神様の顔をできるだけ避けようとする習性を持っているのである。なぜ、人間は神を避けようとするのだろうか。神は人間を縛るものだと思うからである。神のもとにいるということは、その厳しいまなざしのもとに、がんじがらめに縛られる。そういう生活だと思うのである。神さえいなければ、人間はもっと自由自在にふるまえるのではないかと考えるのである。しかし神は、人間を縛る神ではない。あるいは裁判官のように厳しく人間を査定している神ではないのだ。神様は人間を査定して、評価付けをして、人間を追い詰められるような方ではない。そのために神様は人間に命を与えられるのではない。神様は人間を生かすために命を与えておられる。神様は人間の命がそれぞれのかけがえのない個性を持っているものとして、それをそのまま生かすために、命を与えておられるのだ。およそ、ひとつの命というものは、包まれなければ、育つことはできない。排除されて育つことなどはできない。神様は私たちの命を包むことの中で育てようとしておられる。十字架の出来事はその御業の証だ。神様は私たちに近くおられる。何という恵み!(2014年8月10日)

2014年8月10日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月11日~8月18日

8月11日(月) ヨハネによる福音書3章1節~15節(Ⅰ)
  ニコデモはファリサイ派に属する議員でしたから、そうとうな社会的地位がありました。それでも、その信仰生活には十分な満足が得られていなかったようです。彼はイエス様のなさるしるしを見て、この方は神が共におられると感じ、人目を避けて夜、イエス様に会いに来たのでした。そこでニコデモとイエス様の対話がなされますが、チグバクな対話になってしまいます。イエス様の霊的な観点からの語りかけをニコデモは肉的な観点から受け止めようとしたからです(6節)。「 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない 」(3節)。神の国とは神の支配のことです。神の支配/神が働いておられるのを見ることは、洗礼を受け(5節)、聖霊をいただかなければ見られないのです。私たちが新しく生まれるのは、新しくこの世界を見る(神が働いておられる世界として見る)ようになるためなのです。

8月12日(火) ヨハネによる福音書3章1節~15節(Ⅱ)
 「 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない 」(14節)。この「 ねばならない 」は、神の意志の強さを示しています。何としても、人の子(すなわち御子)を上げなければならないと・・・。この上げるというのは十字架のことを指しています。昔、イスラエルの民は荒野の旅において神に背き、毒蛇に噛まれるという神の裁きを受けました。しかし、モーセが青銅の蛇を竿の先につけて掲げると、それを見た人は皆、癒されたのでした(民数記21章)。十字架を通して、人はその罪を裁かれ、十字架を仰ぐことを通して人は罪赦されるのです。十字架は、私たちにその罪を深く悟らせ、同時にその赦しの深さを実感させます。

8月13日(水) ヨハネによる福音書3章16節
 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである 」という御言葉は、カンバーランド長老キリスト教会の信仰告白が「 福音の凝縮 」と呼んだ御言葉で、私たちにとっては宝に値します。「 滅びる 」と訳されている言葉は、いなくなった羊のたとえでは「 見失う 」と訳された言葉でもあります。いなくなった羊のイメージを重ねながら、この御言葉を思い巡らすと、意味がとてもよく分かると思います。私は最近、息子を亡くすかも知れないという体験の中で、神が独り子を与えられたということがどんなに簡単でないことか、痛切に示されました。神が人間を愛されることを、私たちは案外、簡単なことと考えてしまっているかも知れませんが、決してそんなことはありません。神が人を愛されることは激しく、痛みが伴うことです。

8月14日(木) ヨハネによる福音書3章17節~21節
 「 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである 」(17節)は、聖書の中で一番厳しい言葉だと思います。裁きは世の終末を待つまでもなく、現在すでに決定的に起こっていると言うのです(それは神を失っているがために、様々な罪の束縛の中に置かれてしまっているということです)。この「 裁く 」と訳されている言葉は、「 分ける 」という意味の言葉で、ヨハネによれば、イエス様の到来は世の人を2つに分けてしまう、信じる者と信じない者のどちらかに。イエス様を信じないことを罪であるとヨハネ福音書は考えているので、その意味ではイエス様は世を裁くために来たのではないけれども、結果として、世の人を2つに分けてしまうのです。主にとってそれは悲しみです。

8月15日(金) ヨハネによる福音書3章22節~30節
 「 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない 」(30節)。バプテスマのヨハネは、あの方、すなわち自分の後からお出でになる救い主イエス様が来られれば、イエス様は栄え、自分は衰えて行くと言いました。それは人々が皆、自分の方から救い主の方に行ってしまうようになることを言い表したものでした。しかしヨハネはそのことに喜びを感じています。自分が衰えながら、救い主の栄光が見えるからです。私たちも様々な面で衰えて行きますね。でも救い主は、そこでも救い主としての栄光を現してくださる方です。あなたのその衰えの中で・・・。

8月16日(土) ヨハネによる福音書3章31節~36節
  「 天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる 」(31節~33節)。イエス様は天におられたときに見たこと、聞いたことを証してくださっています。そのことが聖書にはたくさん記されているのです。イエス様は、まるで人が自分の故郷の様子を懐かしく、うれしそうに語るように、そこで見たこと、聞いたことを心を込めて私たちに伝えてくださっています。その故郷の様子とは、「 天の父は何と素晴らしい、あなたへの愛に満ちた方であるか 」という一点に尽きます。ハレルヤ。

8月17日(日) ヨハネによる福音書4章1節~15節(Ⅰ)
 イエス様とサマリアの女の対話です。この女の人にはいろいろな複雑な事情がありそうです。他の人がしない暑くて大変な時間帯にわざわざ水汲みをしていますから。できるだけ他の人と会わないようにしていたのでしょうか。明らかに他人の目を恐れて生きています。しかし、いつもは人がいない井戸に、見かけぬ独りの男の人が座っていました(6節)。まるで、彼女がやって来るのを待っておられたかのように・・・。そうです。イエス様は彼女と、その苦しみを抱えた姿の彼女と出会い、そして対話し、彼女の魂を癒そうと待ち構えておられたのです。あなたも同じような体験がありませんか。苦しんでいたあの日、待っておられたイエス様と出会って人生が変わった・・・。彼女の姿は、あの日の私たちの姿そのものですね。

先週の説教要旨「 イエスという別の王がいる 」使徒言行録17章1節~15節 

キリスト教の歴史は、キリストの時代から今日に至るまで、迫害と弾圧の歴史であった。しかし不思議なことに、迫害や弾圧がひどくなればなるほど、イエス・キリストの教えは広まり、信者たちの信仰は強められて行った。それはあたかも、イエス・キリストの教えという火の粉が、迫害という大風にあおられて世界中に飛び散り、いたるところにある偽りの神々を焼き尽くして行ったかのようである。イエス・キリストに対する信仰は、どんなに人間が「 こういうものはいらない。世から抹殺してしまおう 」と迫害したとしても、決して抹殺することなどできない。かえってますます、増え広がって行く信仰なのである。なぜなら、ガマリエルという老学者が「 あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない 」(使徒5章38節)と言った通り、この信仰は人間が作り出したものではなく、神に起源を持つ、神が人間に授けられた信仰だからなのである。今朝の箇所は、パウロとシラスがこの信仰を伝えるために、テサロニケ、ベレヤに出かけて行き、そこで迫害に遭遇したことを記している。

そこでパウロが語った内容が2節と3節に記されている。パウロは聖書を引用して、「 メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた 」こと、「 このメシアはわたしが伝えているイエスである 」』説明し、論証した。メシアという言葉が2回出ているが、「 メシア 」と言う言葉は本来、「 油を注がれた者 」という意味である。誰かがある職務につくときに、頭に油を注いでその職務につけるという儀式を行なった。この儀式を通して職務につく代表的なものは王であるが、この儀式を受けて王になった者が必ずしも、良い王として国を支配してくれるわけではなかった。中にはとんでもない悪王もいた。国民は苦しめられ、国はボロボロになって行く。やがて国民の間に、立派な王、本当に国民ひとりひとりのことを考えてくれる王が私たちの国に誕生し、この国を救ってくれるという願望が抱かれるようになった。そこから、このメシアという言葉が「 救い主 」を意味する言葉に変わって行ったのである。パウロは「 私たちのことを本当に考えてくれる王は、あのイエス・キリストという方なのであって、人々はイエスを十字架につけて殺してしまったが、神はイエスを死者の中からよみがえらせたので、イエスは今も、生きて働いておられる。それは聖書に予告されていたことだった 」と語り、人々にこのイエスを受け入れ、信じるようにと勧めたのであった。十字架につけられて、復活したイエスは今も生きておられるが、私たちは目で見ることはできない。そのイエスを自分の王として、自分の救い主として、受け入れることを『 信仰 』と言う。 今の時代の日本人は、誰も王など必要としないと言うだろう。しかし人には必ず、王がいるのである。 人には、必ずその人を支配しているものがある。人間であったり、持ち物であったり、その人の価値観であったり・・・その人を支配し、動かしているもの、それがその人の王なのである。キリスト教の信仰は、自分が自分の王になって、自分の人生を支配するということをやめてしまって、このイエスという方を自分の王として迎え入れ、自分の人生を支配していただく。それが、キリスト教の信仰なのである。言ってみれば、政権交代が起きるのだ。自分が握り締めていた政権を、イエスという方に向かって差し出す。それがキリスト教の信仰である。

パウロがそのように伝道すると、人々の中には肯定的な反応と否定的な反応が生じた(4節、5節)。ねたみを抱いた者たちは、パウロをこの町から追い出そうと画策し、暴動を起こしてヤソンの家を襲った。ヤソンがパウロたちをかくまっていると思ったのである。ここで興味深いのは、反対者たちがキリスト者たちを、「 世界中を騒がせてきた連中 」、皇帝の勅令に背いて、「 イエスという別の王がいる 」と言ったことである。ヤソンは確かに彼らが言うように、「 世界中を騒がせた連中 」になったのだ。イエス・キリストへの信仰は世界に大きな波紋を投げかけることになる。しかしそれは混乱ではなく、世界中に麗しい生き方、新しい秩序を構築するための波紋である。その秩序とは、「 イエスという別の王 」、いや、その「 真の王 」に従うという秩序であり、その秩序が生み出す麗しい生き方である。イエス・キリストを信じる者というのは、この世の王をはるかにしのぐ、別の王であるイエスに忠誠を誓っている民のことであり、そういう信仰を持っている人たちは、迫害に遭うこともあるが、その迫害の中で本当に麗しい生き方を生み出して行く。戦時中、迫害に遭いながらも、多くのユダヤ人が上海に向かえるように助けたホーリネス教会の人たちは、その一例である。ナチスが武力をもってもなしえなかった支配を、彼らは愛の力をもってなし遂げたのである。その後、脅威を誇ったナチスは滅び、ホーリネスの教会は再び回復し、今は日本中で神の愛を伝えている。一方、ベレヤの人たちは非常に熱心に御言葉を受け入れ、それが本当かどうか、つまりパウロの説教が正しいか、正しくないかを聖書を調べて吟味をした。聖書は本当に不思議な書物で、本当に真面目に読んで行くならば、そこに主イエスへの信仰が呼び起こされるのである。聖書を通してこの方と出会い、この方を真の王として受け入れ、この方にあって麗しい生き方をこの世界に造り出して行こう。(2014年8月3日)

2014年8月3日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月4日~8月11日

8月4日(月) ヨハネによる福音書1章29節~34節
  バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言いました。「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ 」と(29節)。救い主を証しようと思いを尽くし、心を尽くして待っていた彼のところに、イエス様は来てくださいました。神の小羊イエス様は、喜んで救い主を証しようとしている者のところに必ず、来てくださる方です。あなたが職場において、家庭にいて、所属する何かの集まりにおいて、この方をぜひとも証したいと願っていれば、必ず、主は訪れてくださいます。そして神の小羊としての御業、そう、私たち罪を贖う御業を現してくださるのです。

8月5日(火) ヨハネによる福音書1章35節~42節 
 シモン・ペトロとその兄弟アンデレがイエス様の最初の弟子になったことが語られています。「 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『 あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―― という意味――と呼ぶことにする 』と言われた 」(42節)。岩という言葉には、頑固であること、あるいは揺るがずに他者を支える・・・そう言ったイメージがあります。しかし福音書のペトロはおっちょこちょいで、思いきったことをする、大胆に失敗もする人物として登場しています。イエス様はペトロの本質をすでにご覧になって、ふさわしい呼び名を与えてくださっていたのです。彼がやがて立派に成長して奉仕する姿をビジョンとして思い描き、その名を与えてくださっていた。私たちにもイエス様の同じまなざしと愛とが注がれていますよ。

8月6日(水) ヨハネによる福音書1章43節~51節
 ナタナエルは、いちじくの木の下にいたところをイエス様に見られていました。そして、これこそまことのイスラエル人だと言っていただきました。いちじくの木の下は、ユダヤ人が神の律法を学ぶ場所であったと言われます。また、いちじくは、年に二度、実をならせ、それが人々の貴重な食糧になりました。また、乾燥させて保存すると、緊急時の食糧にもなりました。ですから、いちじくは神の恵みの象徴だったのでした。この聖書日課があなたにとっていちじくの木であるよう祈ります。

8月7日(木) ヨハネによる福音書2章1節~12節(Ⅰ)
 婚礼のお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうという失態が生じました。この婚宴は、母マリアの親戚の者の今栄であったと言われます。それでマリアは気を遣い、我が子イエスに助けを求めて訴えたのでした。それに対してイエス様は「 婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません 」(4節)と答えました。少し冷たい対応だと思われたかも知れませんが、当のマリアは拒絶されたとは思いませんでした。主イエスの答えを待つ準備をしたのです。信仰は不断に祈って待つことです。私たちの願う「 」に、願う「 やり方 」によってではなく、主が最も良い時に、最も良い方法で応えてくださる方であると信じて。

8月8日(金) ヨハネによる福音書2章1節~12節(Ⅱ)
 「 イエスが、『 水がめに水をいっぱい入れなさい 』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした 」(7節)。召使たちは、なぜ、水がめに水を満たさなければならないのか、なくなったのはぶどう酒なのに・・・と思ったことでしょう。しかし言われた通り、黙ってイエス様のご指示に従いました。なぜ、私がこんなことをしなければいけないのか。なぜ、私がこんな荷を担わなければならないのか。どうして、自分はこういう道を通らせられるのか、分からないということがたくさん、あります。私たちの人生には・・・。しかしその時は分からなくても、一生懸命、与えられた道に従っていると、いつか意味が分からせてもらえ、それが恵みだったのだと告白できるときが来ます。主はそのように私たちの人生に手を添えてくださっています。

8月9日(土) ヨハネによる福音書2章13節~22節
  神殿での礼拝の様子をご覧になってイエス様はひどく心を痛められました。そこには真の礼拝の心が見られなかったからです。手荒なイエス様を見た弟子たちは「 あなたの家を思う熱意が、私を食い尽くす 」という詩編69編10節の言葉を思い出しました。詩編69編は、義人がその正しさのゆえに苦しめられる事を歌った詩編です。弟子たちは、イエス様の熱意がかえってイエス様自身に危険を招くことになると思ったのです。イエス様は怒るユダヤ人に「 この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる 」(19節)と答えられました。これは、建物としての神殿を壊して作るというのではなく、神様を真実な心をもって礼拝する人間、神様の御霊が宿る神殿としての信仰者を、どのようにして建て直すかを宣言されたのでした。イエス様は、ご自身の十字架と復活を通して、それをなさると、その決意を語られたのです。それはあなたのための御業です。

8月10日(日) ヨハネによる福音書2章23節~25節
 イエス様は、「 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである 」(25節)と、身が縮む恐るべきことが言われています。何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる・・・・私たちは相手の中にある真実なものを知ったり、あるいはそれに触れてしまったりすると、ガッカリしたり、怒ったり、軽蔑の心にとらわれてしまいます。しかしイエス様はそうではありません。このあと、3章に入ると、イエス様はまるでこの25節の言葉の代表のように登場してくるニコデモと、丁寧な対話をし、彼に愛の言葉を語ってくださいます。知ったからこそ、嫌に鳴ったというのではなく、知ったからこそ、なお愛した。それがイエス様というお方です。

先週の説教要旨「 真夜中の賛美 」使徒言行録16章16節~40節 
 伝道者パウロが初めてヨーロッパ大陸に入り、そこに教会を立てるようになって間もなくの頃、フィリピの町で福音を宣べ伝えているがゆえに、パウロたちは捕らえられ、投獄されてしまった。しかしパウロたちは、それを少しも苦にしないで、牢屋の中で夜中に賛美していたというのである。真夜中に礼拝していたわけである。真っ暗な牢獄の中で、2人は他の囚人が苦しみ、悩んでいる中にあって、神を賛美することを知っていた。そして賛美歌を歌っているうちに突然、大きな地震が起こって、その牢屋の土台が崩れたというのである。それを見て、看守はすごく慌てて、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺をしようとした。パウロたちはそれを抑えて、自分たちは逃げていないことを告げると、その看守が大変喜んだだけでなくて、「 先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか 」と聞き、パウロたちは「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます 」と答えた。この時以来、この御言葉は多くの人を慰め、励ましてきた。そしてその言葉の通り、この看守と家族は救われて信仰に入ったというのが今朝の話の内容である。

「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます 」・・・この朝、私たちに与えられた御言葉はこれである。私たちのうちの多くの者は、すでに救いを受けている者、洗礼を受け、信仰生活をしている者である。そういう者にとって、この御言葉はもはや無用なのであろうか・・・。そうではないだろう。この御言葉はおそらく、私たちのあらゆる生活、私たちのあらゆる時にあたって、一番強い言葉として響いてくるのではないか。私たちの悲しみの日に、一番私たちを慰めてくれるのは「 主イエスを信じなさい 」という言葉であろうと思う。また、私たちの怒りの日に、その怒る心を静めさせ、人を恨む心を取り除いてくれるのも、「 主イエスを信じなさい 」という言葉ではないかと思う。そういう意味からして、この御言葉は私たちが信仰に入ったときに与えられた御言葉であると同時に、その後の信仰生活においても、絶え間なく、事あるごとに、私たちが聞かなければならない御言葉であると思う。この御言葉は、看守にとって大変な事態を収拾する言葉であった。地震が起きて、牢屋の土台が崩れてしまうような事態になり、彼は自殺しようとした。囚人たちが逃げてしまったら、その責任を問われる、もうダメだ。自分が今まで大切にし、コツコツと努力して積み上げてきた生活が、たったひとつの出来事だけで、すべて崩れてしまったように思え、彼は絶望に陥り、激しく取り乱した。そういう大変なときに、彼を慰め、その事態を収めることができたのは「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます 」という御言葉であった。そうであれば、私たちの日常生活においても同じように、「 主イエスを信じなさい 」ということだけが、混乱の中で私たちを本当に静め、私たちを整えてくれるのではないかと思う。

「 主イエスを信じれば救われる 」と言われている。考えてみると、人は皆、救われるための努力をしているものである。一生懸命にお金を稼ぐ、家を建てる、健康のために気を遣い、家族を養い、そして友だちを作り、少しでも豊かな生活が出来るようにと、人は努力をする。それは、自分は破滅したくない、滅びたくないという思いが心の底にあるからである。実際に、そういう思いを「 救い 」という言葉で表現することはないにしても、「 安定した、より豊かな生活を送りたい 」という一心で、人はあらゆる努力をしている。私たちもかつては、そうであった。しかしそういう努力をいくら積み重ねてみても、それで自分は救われるわけではない、ということを知ったから、私たちは信仰を持ったのではなかったか。あれも必要、これも必要、そう言っていろいろなものを手に入れ、自分の生活を整えてきた。確かにそれらのものは必要だった。しかしそれらの必要なものの中で、最も必要なもの、私たちの生きているときも、死ぬときも、すべてのときを通して慰めを与えてくれるもの、そういうものは一体、どこにあるのか。それは主イエスを信じることにあった。主イエスを信じるとき、私たちは激動の生活の中にあって、何が起こっても、拠り所を持った生活をすることができる。だから信仰を持ったのである。

 この信仰の力に生かされている姿、救われている者の姿をパウロたちに見ることができる。彼らは獄中にあって神を賛美していた。足かせをはめられ、夜も安心して寝られないような状況にあって、そんな不安などないかのように、神を賛美した。他の囚人たちはそれに聞き入っていた。パウロたちは、ただ賛美の歌を歌うだけであった。神にお願いして、とんでもない奇跡を呼び起こして、人々をやっつけてもらったというのではない。ただ賛美を歌っただけ。しかし神はその賛美に応えてくださった。切羽詰った状況の中で、うつむいて考え込んでいても何も始まらない。イエスを信じるのだ。信じて賛美する。目を天に上げて、神に口を向けて開く時、あなたの生きている土台は動くのである。神が応えてくださるから。そのようにして、神は牢屋の中でも主イエスを信じたパウロとシラスの賛美の歌をそのように生かしてくださった。私たちは、この神の御業は今でも続いていると信じる。私たちにおいてもそうなのだと・・・。    (2014年7月27日)