2014年3月30日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月31日~4月6日

3月31日(月) 詩 編 119編121節~128節
  「 それゆえ、金にまさり純金にまさって、わたしはあなたの戒めを愛します 」(127節)。人生には、いろいろな大切なもの、必要なもの、尊いもの、値打ちのあるものがあります。その中で詩人は、神の戒めを第一のものとして愛すると言います。人は何を一番に愛しているかによって、その人の人格、生き方、人生観が変わってきます。あなたは何を一番に愛しているでしょうか・・・。ある人はこう言いました。「 あなたが独りぼっちでいる時に一番よく考えるもの、それがあなたの一番愛しているものなのだ 」と・・・。私たちは独りでいるときこそ、ろくでもないことを考え、値打ちのないものを恋い慕うのではありませんか。私たちは皆、主の憐れみによって造り変えられることを必要としていますね。

4月1日(火) 詩 編 119編129節~136節
  「 御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます 」(130節)。高校の時の教頭先生から耳にたこができるほどに「 読書百遍、意、自ずから通ず 」と言われ続けました。いつも背筋の伸びた方で、その姿勢は先生の生き方を象徴していました。聖書も同じようなことを言っていますが、意味が分からないからと百篇も読む必要はありません。聖書は自分から読み込もうとするものではなく、神の側からの語りかけが聞こえてくるのをじっと待つようにしていればいいのです。神の言葉は不思議です。同じ箇所でも、自分が置かれている状況が変わると、今まで感じなかった語りかけが聞こえるようになったりします。御言葉を繰り返して読みながら、じっと向こう側から聞こえてくるのを待ってみましょう。

4月2日(水) 詩 編 119編137節~144節
  「 恵みの御業はとこしえに正しく、あなたの律法はまことです 」(142節)。イエス様は「 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである 」(5章17節)と言われました。まことであるはずの律法がファリサイ派や律法学者らによって曲解されて教えられ、本来、人々の生活に恵みの御業を作り出すはずの律法が、かえって人々を縛り付けるものになってしまっていたのです。イエス様はそれと戦い、律法の本来の位置を取り戻そうとされました。私たちにも、神の律法を縛るものとして聞くのではなく、恵みの御業を作り出すものとして聞き続けるという戦いがありますね。

4月3日(木) 詩 編 119編145節~152節
  「 主よ、慈しみ深くわたしの声を聞き、あなたの裁きによって命を得させてください 」(149節)。新改訳聖書はここを「 あなたの決めておられるように、私を生かしてください 」と訳しています。聖書が人の生き方として求めていることは、自分の思いのままに生きることではなく、全能の神の御旨に委ねることです。死するも、生きるも、恥も、栄えも、貧にも、富にも、あなたの御心のままに、あなたの決めておられるように、この私を生かしてくださいという信頼と従順を学ぶことが信仰の極みなのです。イエス様の最後の祈りは「 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに 」(マタイ26章39節)でしたね。

4月4日(金) 詩 編 119編153節~160節
  「 主よ、あなたの憐れみは豊かです。あなたの裁きによって命を得させてください 」(156節)。神は戒めを与えられるだけでなく、「 裁き 」を行なわれる神です。もし裁きがなければ、人は皆、自分の好む道を選び、迷い出て命を失うのです。神に裁かれ、打たれながら、人は命の道に繰り返し立ち帰らされます。厳しい裁きの中に、神の「 憐れみ 」が込められていることを忘れないようにしましょう。

4月5日(土) 詩 編 119編161節~168節
  「 日に七たび、わたしはあなたを賛美します。あなたの正しい裁きのゆえに 」(164節)。日に七度も賛美しますというのは、7回という回数のことを言っているのではありません。聖書の中では「 」という数字は特別な意味を持っていて、「 完全 」を意味する数字として使われること、しばしばです。イエス様は7の70倍、赦せとおっしゃられましたよね(マタイ18章22節)。完全に赦せという意味です。詩人は、自分の存在そのものが神への賛美となるような歩みをしたいと願っているのです。ある人が「 歌を歌える心と言うのは、人生を肯定している心なのだ 」と言っています。人生いろいろありますが、一番深いところではそういう人生を肯定していなければ、本当に賛美の歌を歌うことはできないということにも通じますね。神に導かれ、与えられて今ある人生を私たちも肯定したい・・・。

4月6日(日) 詩 編 119編169節~176節
  長かった119編もついに終わりを迎えましたね。 「 わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたの僕を探してください 」(176節)。羊は方向感覚の鈍い動物です。迷いやすく、小羊ならなおさらです。迷った羊は自分がどこにいるか分かりません。歩けば歩くほど、迷い込んでしまいます。羊飼いに見つけてもらうしかありません。私たちもそうです。自分で見出して帰ることなど、できないのです。私の息子が学校の授業で社会見学に行ったとき、彼は迷子になりました。そして自分で先生を探すことをあきらめ、先生に探してもらおうと決心し、一番目立ちそうな場所にじっと立っていました。やがて無事に先生に見つけてもらえたのでした。「 あなたの僕を探してください 」、これが私たちの絶えざる祈りです。

先週の説教要旨 「 神の恵みは広く、深く 」 使徒言行録10章34節~48節 

 神は、ユダヤ人だけでなく、異邦人であるコルネリウスを救いに招き入れられる。異邦人の救いは、旧約時代にはあたかも添え物のように、端っこに置かれていた。中心に置かれているのはユダヤ人の救いだった。しかし今や、ユダヤ人も異邦人も皆、等しく中心に置かれ、神の救いに招かれる新しい時代が来た。そのことを神は不思議な幻を通してペトロに示された。そのことをペトロがよく理解したとき、彼は「 神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました 」(34節)と告白した。これは求道中の人の言葉ではない。すでに教会の中心的人物になっていたペトロの言葉なのだ。そのペトロが今、「 自分は今まで神のことをよく知っていると思っていたけれども、そうではなかった。むしろ、自分は神のことを少しも分っていなかったのではないか 」と告白している。このペトロの言葉には、罪を告白する思いが含まれている。神はユダヤ人と異邦人というように人を分け隔てなさると思っていた。だから自分も神のなさり方にならって分け隔てして来た。それはとんでもない間違いだったとの罪の告白である。神がよく分かるということは、もはや人を分け隔てするわけには行かないのだと言うことがよく分かるということである。他人だけでなく、自分をも分け隔てしないのである。自分の良い部分は受け入れられるけれども、醜い部分は受け入れない、それはしないのである。私たちは、今朝、ペトロと同じように告白するに至りたい。神は人を分け隔てなさらない、その恵みは深く、広いたことがよく分かったから、私もあなたに見合う生き方をしますと。

神はユダヤ人であろうと、異邦人であろうと決して分け隔てなさらず、私たちひとりひとりの命を重んじ、愛してくださる。しかし、ペトロの経験をしていないユダヤ人は、今でも神の愛はユダヤ人だけのものであると考えている。2011年にイスラエルの兵士ギルアット・シャリートがテロリストたちから解放された。イスラエル政府は彼1人を解放してもらう代償として、1027名のテロリストを解放するという交渉をして、ついに彼の救出に成功した。イスラエルは1人の人間の命の価値を知っていたのだ。イスラエルには「 ひとりの人間を救う者は世界を救う 」という格言がある。1人の命をそれほど重いものと見ているのだ。敵対するアラブからも「 1人と1000人を交換したあなたの国の人間観がうらやましい 」と、この決断を賞賛する者も現れた。だが、なぜそのような命の重さを知っているイスラエルが近隣のアラブの人たちの命を平気で奪えるのか・・・。それは、彼らの命の価値観は同胞にだけ適用されるものであり、異邦人には適用されないからである。つまり、人を分け隔てしているのである。もし現代のユダヤ人が、このペトロの体験をするならば、パレスチナの状況は今と大きく変わることだろう。

  ペトロは、コルネリウスをはじめ、集まっている異邦人たちに向かって、人を分け隔てなさらない神が私にはよく分かったと言って、イエス・キリストの出来事を簡潔に語り始める(36節から43節)。それは十字架と復活をクライマックスとしたキリストの生涯なのであるが、イエス・キリストは徴税人や遊女、罪人と呼ばれ、人々から分け隔てされている人たちのところに赴き、御業をなさった。その行動が宗教指導者たちの憎しみを生み、十字架においてその肉体を刺し貫かれる。しかし十字架上で刺し貫かれたものは、本当は分け隔てに固執する人間の罪であったのだ。神はそのようにして一人一人に対する愛を示された。私はその愛を証しする者として神から遣わされたのだと語った。

神は人を分け隔てせず、ひとりひとりの命を重く見てくださるのは、なぜなのであろうか。なぜ、神は優秀なこの人の命は重い価値があるけれども、無力なこの人の命は軽い価値しかないという見方をされないのだろうか・・・。それはあなたの命が取替え不可能だから、代用がきかないからだ。私が卒業した企業内学校の校歌には「 明日はなろう・・・社会の立派な歯車に 」という歌詞があった。今思うと恐ろしい歌詞に聞こえる。社会の歯車、まるであなたの命は交換可能なもの、歯が欠ければ他のものと代えるだけだよと、言われているようだ。しかし神は、あなたの存在、あなたの命は交換可能のようなものではないと言われる。拉致被害者の横田さんご夫妻がモンゴルで孫に会った。何十年経っても変わらぬ親の愛・・・回りの者は、「 いい加減に忘れて、もっと自分の人生楽しんだら 」などとは決して言えない。なぜなら命は置き換えがきかないからだ。早紀江さんはクリスチャン。だから自分たちだけで頑張っていると思わない。自分たちにもまして、神がめぐみをかけがえのない存在として愛してくださっている。その事実が自分たちの背中を後押ししてくれていると。

 人を分け隔てなさらない神を知ったコルネリウスは罪の赦しが与えられるための洗礼を受けた。彼は信仰心あつく、神を畏れる立派な人格者であったが、洗礼を受けた。人はどんなに人格者であっても、罪の赦しを必要とする。その点においても、神は決して人を分け隔てなさらない。(2014年3月23日)

2014年3月23日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月24日~3月30日

3月24日(月) 詩 編 119編65節~72節
  「 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました 」(71節)。119編の中でもよく知られ、また愛唱されている聖句でもあります。71節のように告白が、よく考え、反省して、その結果、謙虚にされる形でなされるということは稀なことです。多くの場合、撃たれて、砕かれて、はじめて目覚めるのです。そのとき、厳しいと思った神の掟が、どん底で人間を支える力であることを知らされます。この告白の言葉にはそのような詩人の体験が込められています。

3月25日(火) 詩 編 119編73節~80節
  「 主よ、あなたの裁きが正しいことをわたしは知っています。わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです 」(75節)。人生はいろいろな苦しみで満ちています。その苦しみの種を蒔いているのは、自分であったり、周りの人であったり、取り巻く環境であったりします。しかし詩人は、神がわたしを苦しめた、そのまことのゆえにと言い、しかもそれが正しいと言います。自分で蒔いたにせよ、人から強いられたにせよ、いかなる苦しみであっても、その一番深いところには、その苦しみを与えられた神の目的があり、それは決してあなたに対して悪意を持ってのことではないと、詩人は言います。今、理由なき苦しみにあえぐあなたも、必ず詩人の告白に「 アーメン 」と言える時が来るのです。そう信じていいのです。

3月26日(水) 詩 編 119編81節~88節
  「 わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます 」(81節)。聖書の宗教は「 待ち望みの宗教 」であると言った人がいます。しかし私たちの人生そのものが「 待ち望みの人生 」なのではないでしょうか。私たちは明日に希望をかけ、待ち望みます。合格、結婚、成功、病からの回復・・・しかし私たちの待ち望みは、はかなく消えてしまうこともあります。しかしこの詩人は、神と神の言葉を待ち望むのです。山で遭難した経験のある友は、寒い一夜を過ごしながら、どんなにか太陽の昇る朝を待ち望んだことかと、話してくれました。朝の来ぬ夜はありません。同様に、神を待ち望むことに失望はありません。なぜなら、神こそが根本的な解決であり、解答であり、祝福をもたらす方だからです。神は必ず、あなたの思いを超えた最高の天的祝福を与えてくださることでしょう。

3月27日(木) 詩 編 119編89節~96節
  「 あなたへの信仰は代々に続き、あなたが固く立てられた地は堪えます 」(90節)と、詩人は歌いました。地震の被害の甚大なることを知っている私たち日本人は、地が固く立てられ、いかなる揺れにも堪えると言う詩人の言葉に、簡単に同意できないかも知れません。しかし私たちにはいかなる揺れにも動じることのない固く、しっかりした土台が与えられているのです。イエス様は、山上の説教で「 御言葉という土台 」の上に据えられた家の話をなさいました(マタイ7章24節以下)。どんな洪水にも、揺れにも、困難にも耐える土台・・・私たちがこの土台と結びついているとき、私たちの人生は固い土台の上に据えられた家となります。「 あなたの御言葉こそ、揺るがぬ土台です 」という、「 あなたへの信仰 」を大切に。

3月28日(金) 詩 編 119編97節~104節

103節、「 あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう 」。旧約聖書の中に、戦いに疲れ果てた戦士が一口の蜂蜜でもって元気を取り戻すという記事がありますね。しかし詩人は、あなたの御言葉は蜜よりも甘いと言います。でも正直、時々、御言葉を苦く感じることがありますよね。これは厳しい・・・これはグサッとくると・・・。でも、その御言葉を自分の口の中に入れ、自分の中でアーメンと消化できたとき、あなたの口から発せられるその御言葉は、甘いしたたりを持ったものに変えられているのです。主の真実を知ったうるわしい証の言葉となっているのです。3月25日の身言葉は、まさにそういう御言葉ですよね。

3月29日(土) 詩 編 119編105節~112節
  105節、「 あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯 」。これは、119編の中でも私の大好きな聖句のひとつです。この聖句を題材とした賛美歌もたくさん、ありますね。神の御言葉は、わたしの道を導く光であると言われていますが、サーチライトのように、はるか遠くまで見通せるように照らしてくれるものではありません。私たちはそうであったら、どんなに楽かと思ってしまいますが、神はそのような導き方を私たちには与えられないのです。神の導き光は、私たちの足元の一歩一歩を照らす「 」です。目の前のひと足、ひと足をその都度、照らしてくれるだけです。だから、一歩一歩をその都度、導かれ、踏みしめて行くという仕方でしか、恵みの道を歩むことはできないのです。

3月30日(日) 詩 編 119編113節~120節
 かつて神の民には、ヤーウェかバアルか、どっちつかずに迷っている時がありました(列王記上18章21節)。113節、「 心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します 」は、あの時の預言者エリヤの思いを想起していたのでしょうか。私たちは心と口がチグハグになりやすい者です。口ではお世辞を言っても、心の中は反抗し、無理していても、口先ではハイハイと言うのです。しかし神様に対しては、口も心もひとつにして、まるごと愛する心を持ちたいですね。パウロは自己の内の分裂に苦しみ、助けを求めて叫びましたよ(ローマ7章15節)。

先週の説教要旨 「 先立つ神 」 使徒言行録10章1節~33節 
  今、教会の伝道は転機を迎えていると言われる。一昔前のやり方で伝道しても、人々は教会に集まらない。子どもも大人も生活も忙しくなり、その価値観も多様化している。新しい伝道の道を開くことが急務だと叫ばれて久しい。実は、キリスト教の教会の歴史は、いつでもそういう転機にぶつかっていて、その転機をどのように乗り越えて来たか、どのようにそこで新しい道を開いて来たかということで、教会は生き続けて来たのである。そこでひとつの問題となるのは、それでは私たちの教会は、いつでも新しいことに気がついて、どんなことでもそれが必要なことならば、やってみる勇気があるか、ということだと思う。しかし私たちは自分を変えて、新しい事にチャレンジして行くことになかなか踏み込もうとしないのである。信仰はいつでも保守的になってしまう癖がある。今までやって来たことだけを後生大事に守る。そしてそれ以外のことに考えが及ばない・・・。そういう殻を打ち破る必要がある。使徒言行録は、そういう殻を教会はいつも自分たちの力で打ち破って来たのではなく、いつでも神から与えられる幻によって、むしろ打ち破られて来たのだと告げている。使徒言行録を読んでみると、教会の発展を導いた幻は使徒たちが、あるいは教会が、自分の中から生み出して行った幻ではなく、常に外から与えられた幻、神から与えられた幻こそがその殻を打ち破らせているのを見る。その典型的な例がここに記されている。

9節以下に、ひとつの幻が出て来る。初代教会の指導者であるペトロがおなかを空かせているときに幻を見た。大きな風呂敷のようなものの中に様々な生き物が入っている。その生き物の中にユダヤ人の習慣では汚れていて、食べてはいけないとされるものが入っている。天からの声はそれを食べろと言った。神は3度も同じことを繰り返された。実に丁寧に。しかしそれは、何度でもこういうことを聞かなければならないほど、私たちの心の中に頑なな思いがあるということなのだろう。ペトロはそれを食べる可能性は私たちの中にはないと言った。汚れたものは食べない、それはペトロが身につけていた感覚で、レビ記11章には清いものと汚れたものとの規定があり、そこに食べられるものとそうでないものが記されている。しかし天からの声はそれを食べることを求め、ペトロが繰り返し断ったとき、「 神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない 」(15節)と、神様は言われた。清いとか、清くないとか、これはユダヤ人の考え方から言えば、「 神様のものか、神様のものでないか 」という意味なのである。神様にとっては、清いも、清くないも実は問題ではなかった。清くないとあなたがたが言っているものもまた神様のものなのだ。神様の方では、周りの者が「 これは神様のものではない 」と言っている者も、「 これは私のものだ 」とおっしゃる。だから受け入れろと。神様は清い、清くないにとらわれない大きな自由を持っておられる。その大きな神様の自由の中で働くことが伝道の働きなのである。
  この動物で言い表されているもの、それはコルネリウス、ローマ人、つまり異邦人であった。神に属している者ではない、神とかかわりのない、もう救いから落ちてしまっているとユダヤ人が考えていた人たちだ。コルネリウスが救われるためには、彼を救う神の御業をよく理解する教会が生まれていなければならなかった。しかしその教会の指導者であったペトロが最初かられそれを受け入れる姿勢になっていなかった。ここに記されている物語は、生まれたばかりのキリストの教会が変えられる、変革の物語、教会が変えられるためにどうしても必要であった主イエス様の御業の物語である。

私たちはこれを読みながら、心深く問われる思いがする。私たちも身についた偏見によって、人々を救いとの関わりで差別してはいないかと・・・。私たちも神様から幻を見せていただく必要があるのではないか・・・。神様がその幻の中で見せてくださる第一のことは御自身の姿である。この教会の枠や私たちの狭い考え方の枠などにとらわれないで、私たちはこんな人間はもうキリスト教に関係ないだろうと思って、聖書の話なんかする気もないと思うような者も、「 これはもう私の者だ。この人も私の支配の中にあるべき者だ。この人もまた私のことを知らなければいけない人間だ 」と、神様はおっしゃるのである。神様はいつでも、そういう私たちの枠の外におられる。ここまでと思っているその外に、神様が生きて働いておられるし、そこで私たちを生かそうとしておられる。それに対して、私たちはいつでも限定しようとする。自分の家族に対しても「 もう、こんな人には神様、きっと用はないのだろう・・・」。実際に本人も言う。「 俺は神様なんかに用はない 」と。しかし自分はどんなに神様に用はないと思っても、神様の方はその人のことを必要としておられるのである。そういう神様に対しての幻を、神様のイメージを私たちが持っているか、いないか。そういう神様の幻をいつも神様から与えていただくか、いただかないかということ。それが伝道の転機を乗り越え、常に新しい道を開いていく鍵なのである。ニューヨークのマンハッタンにあるリディーマー教会の決断と行動は、神様のお姿を幻に見る幸いを証している。  (2014年3月16日)

2014年3月17日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月24日~3月30日

3月24日(月) 詩 編 119編65節~72節
  「 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました 」(71節)。119編の中でもよく知られ、また愛唱されている聖句でもあります。71節のように告白が、よく考え、反省して、その結果、謙虚にされる形でなされるということは稀なことです。多くの場合、撃たれて、砕かれて、はじめて目覚めるのです。そのとき、厳しいと思った神の掟が、どん底で人間を支える力であることを知らされます。この告白の言葉にはそのような詩人の体験が込められています。

3月25日(火) 詩 編 119編73節~80節
  「 主よ、あなたの裁きが正しいことをわたしは知っています。わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです 」(75節)。人生はいろいろな苦しみで満ちています。その苦しみの種を蒔いているのは、自分であったり、周りの人であったり、取り巻く環境であったりします。しかし詩人は、神がわたしを苦しめた、そのまことのゆえにと言い、しかもそれが正しいと言います。自分で蒔いたにせよ、人から強いられたにせよ、いかなる苦しみであっても、その一番深いところには、その苦しみを与えられた神の目的があり、それは決してあなたに対して悪意を持ってのことではないと、詩人は言います。今、理由なき苦しみにあえぐあなたも、必ず詩人の告白に「 アーメン 」と言える時が来るのです。そう信じていいのです。

3月26日(水) 詩 編 119編81節~88節
  「 わたしの魂は、あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます 」(81節)。聖書の宗教は「 待ち望みの宗教 」であると言った人がいます。しかし私たちの人生そのものが「 待ち望みの人生 」なのではないでしょうか。私たちは明日に希望をかけ、待ち望みます。合格、結婚、成功、病からの回復・・・しかし私たちの待ち望みは、はかなく消えてしまうこともあります。しかしこの詩人は、神と神の言葉を待ち望むのです。山で遭難した経験のある友は、寒い一夜を過ごしながら、どんなにか太陽の昇る朝を待ち望んだことかと、話してくれました。朝の来ぬ夜はありません。同様に、神を待ち望むことに失望はありません。なぜなら、神こそが根本的な解決であり、解答であり、祝福をもたらす方だからです。神は必ず、あなたの思いを超えた最高の天的祝福を与えてくださることでしょう。

3月27日(木) 詩 編 119編89節~96節
  「 あなたへの信仰は代々に続き、あなたが固く立てられた地は堪えます 」(90節)と、詩人は歌いました。地震の被害の甚大なることを知っている私たち日本人は、地が固く立てられ、いかなる揺れにも堪えると言う詩人の言葉に、簡単に同意できないかも知れません。しかし私たちにはいかなる揺れにも動じることのない固く、しっかりした土台が与えられているのです。イエス様は、山上の説教で「 御言葉という土台 」の上に据えられた家の話をなさいました(マタイ7章24節以下)。どんな洪水にも、揺れにも、困難にも耐える土台・・・私たちがこの土台と結びついているとき、私たちの人生は固い土台の上に据えられた家となります。「 あなたの御言葉こそ、揺るがぬ土台です 」という、「 あなたへの信仰 」を大切に。

3月28日(金) 詩 編 119編97節~104節
  103節、「 あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう 」。旧約聖書の中に、戦いに疲れ果てた戦士が一口の蜂蜜でもって元気を取り戻すという記事がありますね。しかし詩人は、あなたの御言葉は蜜よりも甘いと言います。でも正直、時々、御言葉を苦く感じることがありますよね。これは厳しい・・・これはグサッとくると・・・。でも、その御言葉を自分の口の中に入れ、自分の中でアーメンと消化できたとき、あなたの口から発せられるその御言葉は、甘いしたたりを持ったものに変えられているのです。主の真実を知ったうるわしい証の言葉となっているのです。3月25日の身言葉は、まさにそういう御言葉ですよね。

3月29日(土) 詩 編 119編105節~112節
  105節、「 あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯 」。これは、119編の中でも私の大好きな聖句のひとつです。この聖句を題材とした賛美歌もたくさん、ありますね。神の御言葉は、わたしの道を導く光であると言われていますが、サーチライトのように、はるか遠くまで見通せるように照らしてくれるものではありません。私たちはそうであったら、どんなに楽かと思ってしまいますが、神はそのような導き方を私たちには与えられないのです。神の導き光は、私たちの足元の一歩一歩を照らす「 」です。目の前のひと足、ひと足をその都度、照らしてくれるだけです。だから、一歩一歩をその都度、導かれ、踏みしめて行くという仕方でしか、恵みの道を歩むことはできないのです。

3月30日(日) 詩 編 119編113節~120節
 かつて神の民には、ヤーウェかバアルか、どっちつかずに迷っている時がありました(列王記上18章21節)。113節、「 心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します 」は、あの時の預言者エリヤの思いを想起していたのでしょうか。私たちは心と口がチグハグになりやすい者です。口ではお世辞を言っても、心の中は反抗し、無理していても、口先ではハイハイと言うのです。しかし神様に対しては、口も心もひとつにして、まるごと愛する心を持ちたいですね。パウロは自己の内の分裂に苦しみ、助けを求めて叫びましたよ(ローマ7章15節)。

先週の説教要旨 「 先立つ神 」 使徒言行録10章1節~33節 
  今、教会の伝道は転機を迎えていると言われる。一昔前のやり方で伝道しても、人々は教会に集まらない。子どもも大人も生活も忙しくなり、その価値観も多様化している。新しい伝道の道を開くことが急務だと叫ばれて久しい。実は、キリスト教の教会の歴史は、いつでもそういう転機にぶつかっていて、その転機をどのように乗り越えて来たか、どのようにそこで新しい道を開いて来たかということで、教会は生き続けて来たのである。そこでひとつの問題となるのは、それでは私たちの教会は、いつでも新しいことに気がついて、どんなことでもそれが必要なことならば、やってみる勇気があるか、ということだと思う。しかし私たちは自分を変えて、新しい事にチャレンジして行くことになかなか踏み込もうとしないのである。信仰はいつでも保守的になってしまう癖がある。今までやって来たことだけを後生大事に守る。そしてそれ以外のことに考えが及ばない・・・。そういう殻を打ち破る必要がある。使徒言行録は、そういう殻を教会はいつも自分たちの力で打ち破って来たのではなく、いつでも神から与えられる幻によって、むしろ打ち破られて来たのだと告げている。使徒言行録を読んでみると、教会の発展を導いた幻は使徒たちが、あるいは教会が、自分の中から生み出して行った幻ではなく、常に外から与えられた幻、神から与えられた幻こそがその殻を打ち破らせているのを見る。その典型的な例がここに記されている。
  9節以下に、ひとつの幻が出て来る。初代教会の指導者であるペトロがおなかを空かせているときに幻を見た。大きな風呂敷のようなものの中に様々な生き物が入っている。その生き物の中にユダヤ人の習慣では汚れていて、食べてはいけないとされるものが入っている。天からの声はそれを食べろと言った。神は3度も同じことを繰り返された。実に丁寧に。しかしそれは、何度でもこういうことを聞かなければならないほど、私たちの心の中に頑なな思いがあるということなのだろう。ペトロはそれを食べる可能性は私たちの中にはないと言った。汚れたものは食べない、それはペトロが身につけていた感覚で、レビ記11章には清いものと汚れたものとの規定があり、そこに食べられるものとそうでないものが記されている。しかし天からの声はそれを食べることを求め、ペトロが繰り返し断ったとき、「 神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない 」(15節)と、神様は言われた。清いとか、清くないとか、これはユダヤ人の考え方から言えば、「 神様のものか、神様のものでないか 」という意味なのである。神様にとっては、清いも、清くないも実は問題ではなかった。清くないとあなたがたが言っているものもまた神様のものなのだ。神様の方では、周りの者が「 これは神様のものではない 」と言っている者も、「 これは私のものだ 」とおっしゃる。だから受け入れろと。神様は清い、清くないにとらわれない大きな自由を持っておられる。その大きな神様の自由の中で働くことが伝道の働きなのである。
  この動物で言い表されているもの、それはコルネリウス、ローマ人、つまり異邦人であった。神に属している者ではない、神とかかわりのない、もう救いから落ちてしまっているとユダヤ人が考えていた人たちだ。コルネリウスが救われるためには、彼を救う神の御業をよく理解する教会が生まれていなければならなかった。しかしその教会の指導者であったペトロが最初かられそれを受け入れる姿勢になっていなかった。ここに記されている物語は、生まれたばかりのキリストの教会が変えられる、変革の物語、教会が変えられるためにどうしても必要であった主イエス様の御業の物語である。
  私たちはこれを読みながら、心深く問われる思いがする。私たちも身についた偏見によって、人々を救いとの関わりで差別してはいないかと・・・。私たちも神様から幻を見せていただく必要があるのではないか・・・。神様がその幻の中で見せてくださる第一のことは御自身の姿である。この教会の枠や私たちの狭い考え方の枠などにとらわれないで、私たちはこんな人間はもうキリスト教に関係ないだろうと思って、聖書の話なんかする気もないと思うような者も、「 これはもう私の者だ。この人も私の支配の中にあるべき者だ。この人もまた私のことを知らなければいけない人間だ 」と、神様はおっしゃるのである。神様はいつでも、そういう私たちの枠の外におられる。ここまでと思っているその外に、神様が生きて働いておられるし、そこで私たちを生かそうとしておられる。それに対して、私たちはいつでも限定しようとする。自分の家族に対しても「 もう、こんな人には神様、きっと用はないのだろう・・・」。実際に本人も言う。「 俺は神様なんかに用はない 」と。しかし自分はどんなに神様に用はないと思っても、神様の方はその人のことを必要としておられるのである。そういう神様に対しての幻を、神様のイメージを私たちが持っているか、いないか。そういう神様の幻をいつも神様から与えていただくか、いただかないかということ。それが伝道の転機を乗り越え、常に新しい道を開いていく鍵なのである。ニューヨークのマンハッタンにあるリディーマー教会の決断と行動は、神様のお姿を幻に見る幸いを証している。  (2014年3月16日)

2014年3月9日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月10日~3月16日

3月10日(月) 詩 編 113編1節~9節
  113編から118編までは、「 ハレル 」と呼ばれ、過越、仮庵などのイスラエルの大祭のときに歌われたようです。「 ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ、主の御名を賛美せよ 」(1節)という言葉から始まっています。主の僕とは、主に仕える者のこと、主に仕える者が主をほめたたえるのです。主に仕える者が、神をたたえ、仕えない者がつぶやくのです。賛美は仕えているか、否かを自己判断させてくれるリトマス試験紙でもあります。「 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。 弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ 」(5節~7節)。主は私たちよりはるかに高い視座を持ち、はるか遠く、私たちの将来をも見渡すことができます。その視座から低く、低く降り、地を這うようにして生きている、この世の最も低きにいる者の現実を同じ目線になってご覧になって、そこから高く引き上げてくださるのです。

3月11日(火) 詩 編 114編1節~8節
  「 イスラエルはエジプトを、ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り、ユダは神の聖なるもの、イスラエルは神が治められるものとなった 」(1節、2節)。イスラエルは脱出しなければなりませんでした。エジプトのしがらみから脱出し、独立して、自分の道を歩き始めたとき、彼らは神の民たる使命を果しえたのです。信仰は日常生活の中に埋没して行く自分が絶えず引き出されていく経験です。「 岩を水のみなぎるところとし、硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に 」(8節)の「 」とは、私たちの心のことを暗示するものだと思えてなりません。主は私たちの岩のように渇き切った心を、水、すなわち涙にあふれる心へと変えてくださる方です。十字架を仰いで涙する心に、感謝する心に変えてくださいます。主の十字架を見て露ほどにも自分の罪を覚えず、悔いる涙を知らなかった心を・・・・。

3月12日(水) 詩 編 115編1節~18節
  「 偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる 」(8節)。人はその理想とするところに化して行きます。偶像により頼む者は、偶像と化して行きます。それは「 耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない 」(6節、7節)状況を意味します。神が与えられた器官を有用に用い得なくなるのです。しかし人が理想とする者に化すというのは、イエス様との関係においても真理なのです。主により頼む物は主の御姿に変えられて行きます。だからこそ、詩人は「 イスラエルよ、主に依り頼め 」(9節)と連呼しているのです。私たちは、その言葉よりも、生活や振る舞いによって、より多くのことをなすことができるのです。

3月13日(木) 詩 編 116編1節~19節
  「 わたしの魂よ、再び安らうがよい。主はお前に報いてくださる 」(7節)。人の心は何と忙しいことでしょう。目覚めてから眠りにつくまで、意識ある間中、あの事、この事、心配の去来は後を絶たず、洪水のように押し寄せて来ます。人は真にはかなく、心がかき乱されることで一杯です。故なき中傷、いわれなき誤解、明かせない真実、悔しさ、悲しさ、情けなさ、加えて予期せぬ事故や病気、二重三重の不安の波にさらされます。そこで自分の魂に全き安らぎを取り戻すことができるでしょうか・・・。詩人は、次々と襲い来る不安の中で魂がズルズルとアリ地獄の底に引き込まれるように不安の底なし沼におぼれかけ、万策尽きて再び天を仰ぐのです。そして思いを主に向けます。全き憩いは、主を離れてどこにもありません。

3月14日(金) 詩 編 117編1節~2節
  詩編の中で最も短い詩編です。「 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ 」(1節、2節)。短い人生が大きな語りかけをすることがあるように、たった2節からなるこの信仰の詩も、大きな語りかけをしています。パウロはローマ15章11節、隣人を受容することを説く箇所において、この1節の言葉を引用しています。パウロはキリストの愛にあって、「 すべての民 」に希望を見出したのです。世界という人間関係は絶望的です。しかし2節をかみしめてみましょう。

3月15日(土) 詩 編 118編1節~29節
   詩編118編は主にある勝利の歌です。1節~4節を見て分かる通り交唱歌です。「 蜂のようにわたしを包囲するが、茨が燃えるように彼らは燃え尽きる 」(12節)。幾重にも敵に包囲されているそのただ中で、詩人は踏みとどまると告白しています。それは、意志が強いからではありません。ただ神にすがってひたすら立っているだけなのです。しかしそうしている間に、包囲はやがて崩壊して行くのです。「 主の御名によって・・・ 」(12節)、それは、主の力の現れによるのです。

3月16日(日) 詩 編 119編1節~8節
 詩編119編は、117編とは反対に、詩編の中で最も長い詩です。176節まであり、8節ずつ、22の部分に分けられています。ヘブライ語の22のアフファベットに合わせているのです。8節ずつに分けられた部分は(アレフ)という文字の部分ならば、その8節はすべてアレフの文字から始まるといった力の入れよう。しかも8節からなる部分はすべて、神の言葉(律法、命の言葉、教えなど表現は多種多様)をテーマとしていて、かなり技巧的な詩です。これから毎日8節ずつ読んで行きます。主の御言葉に聞くことに集中したマリア(ルカ10章)のように、一大長編の根底を流れ続ける「 御言葉を求める信仰 」を味わいましょう。

先週の説教要旨 「 聖霊の慰めを受けて 」 使徒言行録9章19節~31節 
  現代は、計画通りに事が進むことが求められる時代である。人間が計画を立て、その計画通りに物事が進んで行くことが重んじられ、計画通りに行かないということは悪しきことと受け止められる。しかしそれは危険なことではないか・・・。なぜならば、人間の計画が全てではないからである。むしろ、人の立てた計画通りには行かないというところでこそ、神の働き、計画が現れ出てくる。聖書に登場する人物は、皆、人生は自分の計画通りには行かないものであるということを身をもって知らされ、しかし、そのことがどんなに幸いあふれる道であるかを知った人たちなのである。生まれ故郷を離れるよう命じられたアブラハム、ミデヤンの地で平穏に羊飼いをしているところから神にエジプトへと呼び戻されたモーセ、イエス・キリストの育ての父となったヨセフ、皆、自分が思い描いていた計画通りに事が進まないという経験をしている。しかしそのことで、かえって神が自分に対して持っておられた深い計画を知るようになったのである。今朝の聖書の箇所に登場するサウロも同じ経験をしている。サウロは教会を迫害し、教会をつぶしてしまおうとダマスコの町に向かっていた。しかしその途中で復活のキリトと出会い、キリストを信じる者となり、180度ひるがえってキリストを宣べ伝える者になった。まさか自分が、迫害している教会の一員になるとは思わなかったであろう。それは全くの想定外、彼の人生計画にはなかったことである。そのように神に用いられた人というのは、自分の計画が破綻し、計画の変更を求められた人たちなのだが、私たちの計画が破綻することは、より大きな神の計画へと招かれることなのである。神が働かれる!だから計画通が崩れることを私たちは前向きにとらえて良いのである。


  キリスト者を捕まえて牢屋に入れるために、サウロはダマスコに向かっていた。しかし今は、全く異なる理由でダマスコの町に立っている。サウロは神によって用意された彼の新しい人生を生きるために、ダマスコへの町に立っていた。そのとき、ダマスコの町の景色は、彼がかつて知っていたものとは全く違ったものに見えていたに違いない。復活のキリストとの出会いが、ダマスコの町の景色をまったく異なるものへと変えたのである。キリストとの出会いは、私たちが今までと同じ場所に通うにしても、そこを全く異なる景色に変えてしまう。私たちはキリスト者になった後も、同じ職場、同じ学校、同じ家庭に通う。しかしキリストとの出会いによって、あなたがそこに行く目的は変えられた。あなたはキリストを証しするというより大きな目的のために、その職場に、その学校に、その家庭に遣わされて行くのである。そうやって、あなたはより大きな神の計画の中に生きるようになるのだ。
 成瀬教会の駐車場は、一日に何台もの車が方向転換をして行く。これは象徴的な行為として、教会にふさわしいと思う。教会は、人々がキリストと出会い、その生きる方向を大きく転換して行く場所なのである。今まで自分の計画ばかりに生きていたところから、神の計画に生きるようになる、教会はそういう神の御業が起こる場所。ここにいる私たちはその神の御業を経験したのである。

  ダマスコの町に入ったサウロは「 この人こそ神の子である 」と、キリストを宣べ伝え始めた。それは当然、人々を驚かせ、かつて仲間であった者たちから強い反感を買い、殺害されそうになる。それを知ったサウロは籠に乗せられ、町の城壁づたいにつり降ろされて町を脱出する。サウロは「 籠の中の人 」になったのである。この籠という言葉は、イエス様のパンの奇跡で余ったパンを集めたときの籠と同じ言葉が使われている。あのとき籠は、キリストが人々を愛し、お与えくださった恵みの偉大さを証するものになった。サウロも籠の中の人となることで、キリストの偉大な恵みを物語る人物となって行く。ここには、神は愛する者を救い、豊かに祝福するために「 籠 」の中に入る体験を与えるという示唆があるように思う。モーセは赤ちゃんの時、パピルスの籠の中の人となった。そこからもスケールの大きい神のドラマが展開した。サウロの場合、籠の中の人になるということは、キリストにあって味わう屈辱的な体験という形を取った。それはパウロ自らが計画していたようなものではない。神が計画されていたことであった。ひるがえって、愛の神はどのような形で私たちを「 籠の中の人 」になさるであろうか。「 籠の中に入れられる経験 」は、私たちの人生計画にはないだろう。しかし神のそれにはある。それは私たちをさらなる祝福の世界へと招き入れるために、神が用意されているものなのである。

 その後、サウロはエルサレムに戻り、そこで弟子たちと会うのだが、最初は疑われて仲間に入れてもらえない。そこでバルナバが仲介者となって働くのだが、教会の人たちも、まさかあのサウロが自分たちの仲間になろうとは全くの計画外であっただろう。サウロにしろ、教会の人たちにしろ、それぞれに自分たちの思い描いていた計画が破綻し、そこで明らかになってきた神の計画を、信仰をもって受け止めて行ったのである。こうして教会の基礎は固まった(31節)。サウロのような偉大な伝道者ひとりで、教会の伝道の働きが成り立つのではない。サウロも支えてくれる周りの人の存在が必要だった。こうして教会の基礎は固まった。そのような歩みを聖書はまさに聖霊の慰めを受ける歩みであったと言う。  (2014年3月2日)

2014年3月2日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  3月3日~3月9日

3月3日(月) 詩 編 106編1節~48節
  この詩編は、ハレルヤ詩編の最初の詩編と言われ、イスラエルの民の救いの歴史を想い、そこに現れた民の罪に思いを集中した内容になっています。「 わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった。わたしたちの先祖は、エジプトで驚くべき御業に目覚めず、豊かな慈しみに心を留めず、海辺で、葦の海のほとりで反抗した 」(6節、7節)。詩人は、先祖たちの罪の中に自身の罪を見、その罪を共有しています。それは聖書を読む正しい姿です。しかし実は、それができる人が、真に主の憐れみを共有できるのです。

3月4日(火) 詩 編 107編1節~43節
  この詩編は、106編と内容がつながっている詩編であり、民の罪に対する刑罰としての艱難からの回復を歌っています。「 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった 」(6節、13節、19節、28節) という言葉と「 主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる 」(8節、15節、21節、31節)と言う言葉がそれぞれ4回も繰り返されています。長い人生の旅を続けていると、振り返って自分の人生がいかに主に導かれ、守られていたかということを悟るに至ります。そして必ずや神に向かって感謝と賛美の言葉を口にするようになります。主はそのように私たちを扱われます。

3月5日(水) 詩 編 108編1節~14節
  この詩編は、2節~6節を57編8節~12節から取り、7節~14節を60編7節~14節を取って、2つを合体させた作りになっています。「 神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます 」(2節)。「 わたしの心は確かです 」を「わたしの心は揺るぎません 」と訳している聖書もありました。8千トンの巨大な船で太平洋を航行していた時、嵐に遭遇して、8千トンの船がまるで笹舟のように揺らいだそうです。そのときの船長の言葉が素敵です。「 お客さん、こんなに海の表面は荒れ狂っていますが、20メートル下は嘘のように静かなのですよ 」・・・。表面には現れて来ないけれども、確かに静かな主の導きの流れがあることを信じて、揺ぎなく歩んで行きましょう。

3月6日(木) 詩 編 109編1節~31節
  この詩編は、内容的には呪詛詩編に分類されています。私たちの人生を一番深いところで一歩一歩定められ、導かれているのは主なる神ですが、私たちも自分の人生を造っていることは確かです。なぜなら、「 あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる 」(詩編18編26節、27節)とある通りです。「 彼は呪うことを好んだのだから、呪いは彼自身に返るように。祝福することを望まなかったのだから、祝福は彼を遠ざかるように 」(17節)と詩人は祈っていますね。人を呪う人生を送る人には呪いに満ちた人生が与えられ、人を祝福する人生には祝福に満ちた人生が与えられるものです。

3月7日(金) 詩 編 110編1節~7節
  この詩編は、新約聖書に最も多く引用される詩編であり、メシア、来るべき救い主キリストを預言した詩編と理解されています。「 わが主に賜った主の御言葉。『 わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう 』」(1節)。この言葉は、ダビデが聖霊によって、父なる神が、わが主キリストに与えられた言葉という意味で理解されています(マルコ12章35節参照)。御使いよりも高い位にあった御子キリストは、人となられ、人類の救いのために十字架の上で贖いの業を成し遂げ、復活して天に昇り、父なる神に代わって世を裁く立場におつきになられました。すでにすべてのものは、主イエス様の足もとに置かれています。世に君臨し、ほしいままに世を支配しているように見えるいかなる力も、実はこの方の足もとに置かれているのです。恐れるな!それは聖霊によって与えられる確信です。

3月8日(土) 詩 編 111編1節~10節
  111編から118編は、ハレルヤ詩編集と呼ばれています。111編はその始まりを告げる詩編で、ヘブライ語のアルファベット詩編になっています。日本語のいろは歌のように、ヘブライ語の聖書では各行の始まりに、きれいにヘブライ語のアルファベットの文字が並んでいます。芸術的、遊び心のある詩編です。10節の「 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る 」という言葉は、しばしば旧約聖書に現れる言葉ですね。人生を生き抜くに必要なことは知識ではなく、知恵です。その知恵は主を畏れるという基盤の上に積み重ねられるものでなければ意味はないのです。

3月9日(日) 詩 編 112編1節~10節
 112編もアルファベット詩編です。「 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している 」(7節)。世の中には良い知らせばかりではなく、悪い知らせが満ちています。新聞を広げれば、そしてテレビをつければ、飛び込んでくるのは圧倒的に悪い知らせばかりです。しかし主に信頼を置く者には、絶望的な悪しきおとずれはありません。すべてのおとずれも、みな父なる神の許しの中で届いたものであり、御父のなされたことなのですから・・・。だからそれらはいかなることであっても、私たちの益となるように、起こっていることなのです。

先週の説教要旨 「 迫害者から伝道者へ 」 使徒言行録9章1節~19節 
 オリンピックが終わろうとしている。アスリートが自分のすべてを注ぎ、この日のために努力を重ねてきた姿を見ることは何と感動的なのことか。途中でやめようかとあきらめかけたこともあったが、やめずに全身全霊をそこに注ぎ込んできた。それは見る者の心も動かす素晴らしいことである。しかしもし、全身全霊を打ち込んできたそのことが、とんでもない間違ったことであったとしたら、どうであろうか。想像するだけでも恐ろしくなる。サウロ(ギリシャ語名ではパウロ)は、まさにそのような自体に直面した人物である。サウロはステファノの殺害に賛成し、その迫害の手をさらにエルサレムからダマスコへと伸ばそうとしていた。サウロは律法を遵守する、いわば正しい人であった。彼はキリスト者を認めることができなかった。迫害者パウロの姿を見ていると、本当に残酷なことは、この世の悪人においてではなく、この世の正しい人々において現れるものなのだと思う。というよりも、本当に残酷なことは、正義の名のもとにしか為され得ないと言った方が正確かもしれない。人間は自分の悪を知りながら積極的に残酷にはなれないもの。それは人と人との間でも、国家と国家の間にも言えること。いじめにせよ、殺人にせよ、戦争にせよ、テロにせよ、そこにはその人なりの正義の論理がある。その正義の論理がある時に、人は自らの残忍さに気づかないまま、残酷なことをする。本当の罪深さは罪深いと思わないで罪深いことをしているところにあるのだ。「 正義の戦争 」と言う言葉は、まさにそのことを象徴言葉ではないか・・・。
  しかし神はサウロが迫害者としてダマスコに到着することを許されなかった。ダマスコ途上で復活のキリストがサウロに現れ、彼を地に打ち倒された。教会を迫害していたパウロをキリストが打たれた。キリストの報復の始まりである。しかしキリストの報復は、人間のする報復とは違って、恵みの報復であった。神はよりによって教会の将来に備えて、迫害者を伝道者に選ばれたのである。暴力を振るわれ、仲間を殺されてきた人々の中に、暴力を振るい殺してきた人物を加えられたのである。そして、苦しめてきた人物と苦しめられてきた人々が、一緒に主を礼拝し、一緒に福音を宣べ伝えるようにされるのである。そんなあり得ないようなことが、現実のこの世界において事実として起こったのです。神を信じて生きるということは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることである。神は私たちのちっぽけな頭が考えの及ぶ範囲に留まっていない。そのことを私たちは繰り返し聖書を通して教えられる。神は往々にして、私たちの思いを超えたことを、私たちが絶対に思いつかないような方法で実現される。時として最悪としか思えないことをも用いて、私たちが考えもしなかったようなプロセスを通して、神は最善のものを手渡される。
 四日市の教会に小林金次郎という方がいた。その方はパウロのような経験をした人である。教会に通い始めた自分の娘さんを教会に行けないように日曜日に縄で縛るようなことをしていた。因習の強い地域にあって、娘がキリススト教信仰を持つことでその将来を閉ざすことになるのではないかと案じたのである。だが、娘さんが示した聖書の言葉に目を開かれ、やがて自分も教会に行くようになり、長老に選出され、牧師と共に先頭に立って教会の伝道の働きをするようになったのである。神を信じて生きるとは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることである例だ。
  神がそのように人の思いを超えた仕方で行動なされる時、全てを御自分でなさろうとは思われない。その中に人間を取り込んで行かれる。ここでのアナニアがそうである。アナニアは迫害者パウロのもとを訪ね、彼に手をおいて祈るように神に命じられる。アナニアは抵抗した。しかし主は「 行け 」と言われた。その理由は単純、「 あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である 」(15節)。「 わたしが選んだのだ 」・・・それ以上の理由は与えられない。しかしそれで十分なのだ。主はアナニアに言われた。「 今、彼は祈っている 」と。原文ギリシャ語では「 見よ、彼はいま祈っている 」となっている。祈っている彼の姿を見よ、いや、迫害者をもそのように祈る者へと変えてしまう方をこそ見よと、アナニアを促されたのである。私たちも自分の思いを越えて、神の働きを見る信仰のまなざしを持ちたいと願う。
  アナニアはサウルのもとに赴き、彼を教会に招き入れた。私たちもひとりのアナニアを必要としている隣人のもとに、主に導かれるままに赴いて行く必要があるのではないか・・・。この出来事全体の中で、私たちが自らに問うべきことは、私たちがこの出来事からあまりにも遠ざかったところにいるのではないか、ということである。私たちはともすると、自分の人間的判断で、限りなく豊かな罪の赦しの福音を小さく切り取ってしまい、それにいろいろな条件付けをして、「 この人はこうだから、教会にふさわしくない。信仰を持つはずない 」と、レッテルを貼り、自らその人のアナニアになることを拒んでいるのではないか。神は、教会を迫害してやまなかった、すなわち教会から最も遠くにいたサウロさえ、とらえてくださった。そのことを忘れてはならいと思う。私たちの思いを越えて働かれる方を信じ、私たちもひとりのアナニアとして隣人のもとに出て行こう。                                                     (2014年2月23日)