2012年3月25日日曜日

2012年3月25日 説教要旨

子羊として遣わされ 」  ルカ10章1節~20節


キリスト者の生活の中には、「遣わされた者」として生きるという面がある。私たちは礼拝が終わると、派遣の言葉を受け、祝福とともにそれぞれの生活の場へと送り出されて行く。イエス様によって、それぞれ家庭に、職場に、社会に、遣わされて行くのだ。3節に「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」というイエス様の言葉があるが、私たちはこの御言葉を受けてそれぞれ遣わされるために、ここに集まって来たと言ってもよいのである。それでは、主に遣わされる者として、私たちはどう生きるのだろうか。このことについて、ご一緒に、御言葉の導きを得たい。

まず心に留めたいのは、1節「御自分が行くつもりのすべての町や村に2人ずつ先に遣わされた」とあるように、私たちが遣わされるそれぞれの場というのも、実は、イエス様が行くつもりの場所なのだと言うことができる。言い換えると、主の熱い思い、祈りがすでに注ぎ込まれている場所に遣わされるのである。これは、何と心強いことだろうか。私たちの家庭、職場、そこは主が祈り、御業をなそうとされている場なのだ。私たちはひとりで遣わされるのではない。主が背後からついて来てくださっているこの視点から私たちの「遣わされ場」を見直し、受け止め直そう。

 遣わされる者たちは、「神の国は、あなたがたに近づいた」と言う。これは、神がおられ、その神の恵みの支配があるということであり、あなたがたに神の支配が近づいているというのは、その恵みの支配の影響下にあなたがたはもう入り始めているのだ。だから神の恵みの中に生きなさいということを言うことである。ある人の葬儀の弔辞で、悲しみの中にある友に「神を信じる以外にないではないか と二度繰り返した弔辞が述べられた。参列者にとっては、悲しみの渦中にある人間の救いがどこにあるかを問われる言葉として響いた。そして、人間に対しておよそ支えや慰めがあり得るとしたら、それはどこから来るかを十分に示す言葉でもあった。私たちはそういう恵みを伝える者として遣わされるのである。

遣わされた者は、「財布も袋も履物も持って行くな」と言われている。イエス様が言わんとしていることは、お金や蓄えがあるという安心、自分には闘う武器があるという拠り所を捨てて出て行くということである。遣わされる者は自分を守る武器を持たず、自分の生活の支えを持たない。彼らは自分を遣わされた方によって闘う。自分の背後に立ってくださる方により頼むことによって世に出て行くのである。ルーテル教団のある牧師が、震災のボランティアさとして派遣された中で、この御言葉の体験を語っている。被災地の小学校近くでたたずむおばあさんと出合った。その足元には赤い2つのランドセルが・・・。このおばあさんのために何もすることができない。おばあさんから「何か持ってきたのか」と言われ、必要なものがあればできる限り揃えて持ってくると答えると、おばあさんは「おら、何もいらねえ。あんたら来ると元気になるべ。あんたらキリストさん、しょってるからな」と言ったと言う。何も持っていなくても、私たちはキリストを持っていることをそのおばあさんを通して教えられ、この御言葉の意味に目を開かれたのだ。自分たちは何も持ってはいない。いや、もっとも大切なものを持っていたのだ。もっとも必要とされるものを自分たちは持っている。それはキリスト、この方が前面に出されること、そしてその方の慰めが相手に届けられること、そのために弟子たちは何も持たないで遣わされるのだ。私たちの背後に立たれる主が働いてくださる。その方への信頼に立って私たちは遣わされて行くのである。

さらに、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」と主は言われた。羊は無力なもの。闘う牙を持たず、敵から逃げる術を持っていない。そういう羊として世に遣わされる。この世の狼の中に・・・。これは、自分の強さを求め、それを誇ろうとする世に、それとは異なる生き方をする者として遣わされるということだろう。この世の強さと競合し、それに勝つような強さを身につけよ、というのではない。むしろ弱さに徹しろと言う。パウロはコリントの信徒に宛てた手紙の中で「わたしは弱いときにこそ強い 」(12章10節)と言った。私たちは弱いが、神は強い。その神の強さによって闘うのである。遣わされた者の強さということを言うならば、それは羊飼いによってだけ闘う強さであり、それ以外の強さは弟子の強さではない。この世と競合するような強さは、弟子の強さではない。神の国の福音は、遣わされる者のそのような弱さにおいてこそ伝えられるのだ。今月のはじめに関伸子姉の神学校の卒業式があり、カンバーランドを代表して潮田健治先生が祝辞を述べられた。卒業生にとって一番励みになることを語られたと思う。ご自身の弱さの経験である。自分の力に頼り、神に委ねることができなかった自分を示される経験を語ってくださった。それは、広場で凧揚げをしている子どもたちとの出会いを通して示されたのだと言う。凧糸を力一杯握って、がむしゃらに広場の中を縦横無尽に走り回るだけで凧は一向に舞い上がらず、疲れ果ててしまう子どもたちの姿に、神に頼らず、自分の力に固執する自身の姿を示されたのだと言う。委ねていいのだ・・・神に。遣わされた者というのは、その深いところには、神に委ねているという姿がある。

2012年3月18日日曜日

3月18日 説教要旨

どこへ行くか 」  ルカ9章57節~62節

新共同訳聖書は、この箇所に「弟子の覚悟」という小見出しをつけているのだが、むしろ私たちは十字架につけられるためにエルサレムへと向かうイエス様の覚悟(51節)を意識する必要がある。私たちのいのちを真に生かすために主は十字架につく覚悟を定めてくださっている。その覚悟をして下さった方が私たちに語っている言葉として、これを聞かなければ、ここで語られている言葉を正しく聴くことはできなくなるであろうと思う。ここに、キリストに従うということをめぐって、3人の人たちが登場する。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と、並々ならぬ決心をしていることを表明する。確かに信仰生活は、「決心をする」ということがとても大事だ。その意味では、彼は模範的な姿勢を示したと言える。だがイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」と彼の決心に水をさすような発言をされた。どういうことなのか。確かに信仰生活には、私たちが決心をする、覚悟を決めるということが不可欠である。しかし、それだけなのか。それだけで足りるのか。そうではない。私たちの「決心以上のもの」がそこに働いているのではないか。神の恵み・・・・恵みの導きがそこに働いていることが一番、大事なのではないか。その上で、私たちの決心があると言うことなのだ。キリストに従う生活というのは、私たちの決心だけでやっていけるものではない。神の恵みがそこに働いていなければ、成り立たない。もし神の恵みなくして、私たちの決心だけならば、それは長くは続かない。

2番目に登場する人は、「わたしに従ってきなさい」と、キリストからの召しの言葉が与えられた。すなわち「神の恵みがすでに働いていることが示された」のだ。 しかし彼はそれでも決断ができなかった。神の恵みがある上で、私たちの決心が用いられるのである。彼は「まず、父を葬りに行かせてください と答えた。イエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って神の国を言い広めなさい」とお答えになった。イエス様、なんでそんな家族を粗末にすることをおっしゃられたのだろうかと、思われるかも知れない。実は、この言葉を巡ってはいろいろな解釈がなされていて、今、父親が死んだのではなく、いずれ年老いた親の面倒を最期まで看なくてはならなくなるので・・・それを終えたら従いますという意味ではないか、と考える人もいる。あるいは、父と母を敬うのは十戒の第4番目の教えであって、彼はその律法を完成させなければならないと言ったのであり、イエス様は真に律法を完成させる道は私に従うことなのだ。私は律法を超えるものなのだということを示されたとする解釈。さらには、彼が行なおうとしている葬儀は、神の恵みのない、ただ死という暗黒に塗り潰された悲しみにくれるだけの望みなき葬儀であり、イエス様の告げ知らせている神の国の福音は、そういう葬儀のありようをすっかり変えてしまう。悲しみはあるけれども、明るい望みのある葬儀。そういう葬儀が至るところで行われるように、今、あなたのすべきことは、その神の国を伝えるために、私に従ってくることだと言われのだとする理解などがある。いずれにしたとしても、イエス様がここで問われたことは、「あなたがその中心に据えるべきものは何か」、ということだと思う。神なのか、それとも家族なのか。イエス様は決して、家族をないがしろにしてもいいと言ってはおられない。家族はとってもよいもの、大切なもの。だからそれだけに、家族は容易に神格化されてしまうのである。家族が本当の意味で家族となるためには、神がその中心に置かれなければならない。神とのかかわりの中から、家族との関わりも受け止め直されて行く。まず、どちらが中心に据えられるべきか、をイエス様は問うておられる。

3番目の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず、家族にいとまごいに行かせてください」と言った。イエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は神の国にふさわしくない」と言われた。私たちは「まず~」ということをよく口にする。従わないと言うのではない。神様のことを軽く見るなどとんでもない、十分に従う覚悟はできている。ただその前に、「まず一つだけ片付けてから」と言って「まず」の割り込みを求める。しかしこの「まず」は、際限なく続いて、決してなくならないというのが私たちの体験である。そうして私たちの人生において、神のことは永遠に「幻の第一位」になってしまう。そして自分の「まず」が不動の一番の位置を占め続けてしまうのである。「どうしても必要なことはわずかだ。いや一つしかない」のである。自分の人生を真実に生かすものは何なのか、何をさしおいても優先されなければならないものは何なのか、中心に据えられるべきものは何なのか・・・イエス様の問いかけには、まことに厳しいものがある。だが、これらの言葉は十字架にかかる覚悟された方の言葉なのである。私たちの命を真に生かすために、私たちを招こうとされる方の言葉なのである。私たちの命は、イエス様に従うところで真に輝く。震災のとき、障害のある孫の命の尊さを自らの命をもって、娘に証したおばあちゃんがいた。それによって障害のあるわが子に尊さを見つけられないでいた娘は目が開かれた。「まして」神の御子が命をもって証してくださったのであれば、私たちはその命を輝かす道に立つしかない。

2012年3月11日日曜日

2012年3月11日 説教要旨

「 主の仲間となって 」  ルカ9章46節~56節

 「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」と言う。「誰が偉いか」ということでは、私たちはあまり考えたりはしない。だが原文ギリシャ語では「偉い」と訳されている言葉は「大きい」という言葉である。誰が一番、この中で器が大きいか、つまり能力が高いか、あるいは評価されるべき人間であるか、ということであれば私たちの関心事となるだろう。人は、いろいろな形で群れをなして生きているが、そこでいつも密かに問題になるのはこの中で一体、誰が一番大きいだろうか、ということではないか。誰が一番の功労者か、誰が一番評価されて、その次は誰なのか・・・。弟子たちもその議論をしていた。この後、キリストによって神の国が完成するとき、誰が一番の座に就くか・・・。一端はこの世を捨ててキリストに従った弟子たちだが、それでもやっぱり誰が一番の功労者で、評価されるべき人間であるか、ということが議論になるのである。皆、ある意味で自負があったと思う。こんなに自分は頑張って来たという自負。あるいはこれを捨てた、あれを捨てた、そして耐えてきたという自負。およそ、苦労した人というのは、自分が一番苦労してきたと思うのである。いろんな人が苦労したかもしれないが、自分ほど苦労している人間はいないと思う。このグループ、家庭、集まりは、自分が一生懸命我慢をしているから成り立っていると思う。自分がいろんな荷物を背負い込んでいるから、この交わりは成り立っているのではないかと考える。もし、自分がこれだけの我慢をしていなければ、ここの人間関係は壊れていたに違いない・・・。たいていの人間はそういうふうに考える。弟子たちは議論をした。初めは静かな議論であっただろう。それが次第に声高な議論になり、そしてイエス・キリストの知るところとなる。

 49節からのところでは、キリストに従っているのだが、弟子たちとは一線画している人間がいて、それがけしからないと弟子たちは言っている。「自分たちよりも他に偉い者がいるか、いないだろう。それなのに我々を無視するとは何事か」・・・。さらに51節からのところでは、エルサレムに向かうイエス様をサマリアの人々を歓迎しなかったことに腹を立てたヤコブとヨハネが、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼそうかと言って、イエス様に戒められている。ここでも問題になるのは、自分たちの偉さ。自分たちはイエス様に裁きを進言できるほどの立場にいる。その我々の言うことを聞かないならば、神の正義の名においてお前たちを滅ぼすことなどたやすいことなのだと言うわけだ。

 イエス様は、弟子たちのそういう言葉の端々に現れてくる「自分たちの偉さを問う」思いを見抜いたところで、一人の子供を御自分のそばに立たせて言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」イエス様の時代、子どもというのは弱くて、欠点があり、手のかかる、はためから見て最も価値が見出せない存在とされていた。言わば、一番小さい者、一番低い者、一番うしろにいる者である。なぜ、そのような者を受け入れることが、主を受け入れることになるのか。主が彼らよりももっと低く、もっと小さく、もっと価値のない者となって、彼らの下に、そして一番うしろに身を置いてくださっているからだ。この前の箇所で、イエス様が2度の十字架と復活の予告をなさっている。十字架につけられて死ぬというのは、最悪の犯罪人として殺されることである。「お前なんか、生きていたって何の価値もない。むしろいないほうが世のためになる」と、烙印を押されること。そうやってキリストは誰よりも小さく、誰よりも低いところに、誰よりもうしろに身を置かれる。あの十字架の上で。なぜか。落ちこぼれる者がないように、一番弱い者が取り残されることがないように、小さい者が目にとまらなかったということがないように、互いの価値を競い合う罪とそこから生まれる痛みを取り除くため、そのためにキリストは一番低く、一番小さく、一番うしろに立たれる。一番下に救い主キリストが、すべての者を支えるお方として、すべての重荷を担う方としていてくださる。どんな弱い人でも遅れて主よりも後になることはない。主が一番うしろに立っていてくださる。どんな罪人でも主よりも下に転落することはあり得ない。救い主が一番下にいて支えていてくださる。私たちの足元には十字架がある。皆そこから担われている。神の国はそうやって成り立っている。だから神の国の目線は上ではなく下へと向かう。キリストを土台として下から上へ築き上げられて行く、命が支えられる形、それが神の国であり、教会。ならば神の国の働きを私たちがするということは、絶えず目線を下へと向ける戦いをするという以外ではないだろう。その戦いの中で、傲慢な自分が砕かれる経験をしながら、キリストが私を受け入れてくださっているという恵みが段々深く分かってくる。そのことが私たちの深い喜びなのだ。