2014年12月28日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月29日~12月31日

12月29日(月) 創世記15章1節~21節
  15章には、12章7節及び14章15節~17節で語られていた神の約束を巡って、神様とアブラムのやりとりが記されています。アブラムは、自分に子孫が与えられるという約束がその通りになっていないという不満をダマスコのエリエゼルという名を持ち出して訴えています。すると神様は、アブラムに天を仰ぎ、星を数えるように促しました。現実をきちんと見ることも大事ですが、それだけではないのです。天を見上げることも大事です。約束の証拠を求めるアブラムに神様は契約のしるし(獣を裂くことは、契約違反をした場合、このようになるという事を意味します)を与えられました。ここでは、さらに子孫のエジプト行きと、帰還とが語られています。しかも、かなり長い期間のことが語られています。神様は、私たちが見ているよりもはるか遠くまでも見通した上で、最善のものを、最善のときに与えてくださるお方なのです。
 

12月30日(火) 創世記16章1節~16節
 あいかわらず、子どもが与えられないアブラムとサライは、サライの発案によって、女奴隷ハガルによって子どもを得ようと考えました。すなわち、自力で神様の約束を成就させようとしたのです。しかしこの計画は、アブラム夫婦の不和、女奴隷ハガイの悲劇を生み出してしまいます。ハガイは、この事件のきっかけを作ったのはアブラムたちなのにと・・・その仕打ちに不合理を感じたことでしょう。しかし相手を責める前に、自分がサライを見下げていたことを反省しないと、元には戻れなかったのでした。ハガイの帰還はアブラムとサラに、どんな影響を与えたでしょうか。争いの種をいつも目前にしていることで、2人はますます不仲になったのでしょうか・・・分かりません。ただ厳しい状況であったことに変わりはないでしょう。神様のお約束を信じて末ことができず、自力で約束を成就させてしまおうとしたことがこれらの悲劇を生み、状況をさらに悪化させてしまったのです。信じて待つことの大切さを痛感させられます。

12月31(水) 創世記17章1節~27節
  アブラムに再び、神様からの約束が語られるまでに何年経過しているのでしょうか・・・彼はもう95歳になっています。この長い期間は何のためなのかと思います。自分たちの手による可能性が完全になくなり、神様の言葉のみに信頼するしかないという状況を生み出させるための期間ということなのでしょうか。神様の言葉への徹底した信頼を身につけるには、とことん、人間の可能性がなくなるところまで追い込まれないといけないのかも知れません。神様は再度、約束を信じるように促し、その契約のしるしとしての割礼を指示されました。体に傷をつけることは、いつもそれを覚えさせられることにつながります。信じて待つことが求められています。2人の名前が変えられていますが、聖書では、名前の変更は新しい使命が与えられること、新しい出発などを意味します。ヤコブ(イスラエル)シモン(ペトロ)もそうでしたね。しかしこの期に及んでなお、アブラムは神様の約束に対して、  あざ笑うということで応えています。人はどこまでも罪深く、そして神様はどこまで忍耐と愛をもって人を導こうとされ続けています。

●2年間にわたり、成瀬教会聖書日課をご愛読くださり、ありがとうございました。12月31日をもって、聖書日課の配布を終わらせていただきます。この日課を用意するのは大変なことでしたが、自分自身にとりましては、やはり恵みのときでした。御言葉に触れ続ける、いや御言葉に触れられ続ける(私が)ことの幸いを改めて確認させられる2年間でした。信仰生活に王道はなく、地道に御言葉に触れられ続けること以外、信仰の成長を遂げて行く道はありません。

 

先週の説教要旨「キリストに出会う」マタイ2章1節~12節 

 この箇所を読むたびに不思議に思うのは、「 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった 」(3節)ということ。どうして救い主が生まれるときに、不安になるのだろうか・・・。ヘロデは自分が王だから、新しい王が生まれるということは自分の地位がどうなるか、ということで不安を抱くことは分かる。しかしエルサレムの人々までなぜ、不安になるのだろうか・・・。イスラエルの人たちは皆、救い主が生まれることをずっと待ち望んでいたのではないか、不思議な思いになる。そういう思いをもって改めて聖書を読むと、クリスマスを巡って聖書に書かれていることは私たちがクリスマスに対して抱いているイメージとは違う。決して最初は喜びの話ではないのである。ヨセフは救い主が誕生するという出来事にぶつかったときに、まず不安や恐れを抱いた。マリアと始める2人の生活の夢や希望が打ち砕かれる、それがヨセフにとってのクリスマスの最初の形だった。ヘロデは新しく王として生まれたイエス様を無き者にしようと手を打ち、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子をことごとく殺してしまう。しかしこれは決して意外なことでも不思議なことでもないのだろう。なぜなら、クリスマスの出来事を伝える聖書の物語が不安や悩みや暗さに満ちているというのは、喜びも、幸いもないところに何が起こったか、ということを伝えようとしているからだ。

東方の占星術の学者たちは東の国からはるばるやって来た。なぜ彼らは、自分たちと違う外国の、しかも自分たちが今まで信じていたわけでもない神様の独り子、救い主だと言われる方を訪ねて来たのか。聖書にはそのことが詳しく書かれていない。だから想像してみる。あるとき彼らは、いつものように空を観察していて、新しい星の輝きを発見した。あの星は何かと問うて行ったときに、あれは神の子、救い主が生まれたしるしだということを知った。もしかしたら捕囚のユダヤ人が持っていた旧約の一部を見たのかも知れない。民数記24章17節など、救い主と星の関係について語る言葉がいくつかあるからだ。それでも彼らが自分たちの生きている場所で十分に満たされて、喜びの中に生きていたならば、おそらく旅に出ることはなかったであろう。彼らは星を調べて、それが救い主誕生の知らせだと知ったときに、おそらく、救われていない自分の存在に気がついたのだと思う。自分たちの人生に真の喜びが欠けているということに気がついたのではないか。クリスマスの光に照らし出されて、不安や悩みに陥っている人間の姿があぶり出されて来た。そういうことなのではないかと想像するのである

一方のヘロデはユダヤの王として君臨していたが、新しい王として神の御子が誕生したとの知らせを聞いて、自分の王としての支配がいかに過ちに満ちているかを思わずにおれなかったのではないか。エルサレムの人々は、救い主の誕生を待ち望んでいたが、いざ本当に神の御子が自分たちの目の前に現れるとなったときに、やはりまともに神様の顔など見られない自分たちの信仰のありようを思い、不安を抱かざるを得なかったのではないだろうか・・・。今朝の箇所に先立って登場したヨセフは、正しい人だったと書かれている。しかしヨセフはクリスマスの出来事に出会って、自分の正しさでは到底太刀打ちできないものがあるということを知らされた。自分の正しさは決して万能ではないことをヨセフは突きつけられ、恐れ、悩んだ。ヘロデもエルサレムの人々もヨセフも中身は違うが、クリスマスの出来事に最初にぶつかったときに、彼らは皆、自分の中にある恐れや不安というものを発見した。言い換えると、「 決定的喜びを欠いている自分 」を発見したのだと思う。その意味では占星術の学者たちと同じで、喜びを欠いていたのだ。その意味では彼らは同じスタートラインに立ちながら、そのゴールはあまりにも違ってしまった。どうしてなのか。学者たちは星を見つけて、それが救い主誕生の知らせだと分かったとき、これは外国の神様のことであって我々には関係ないと片付けないで、聖書に記された神様の預言の約束の中に踏み出して行った。その約束の中に身を投じた。ヘロデは学者たちに「 行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう 」と言っておきながら出かけなかった。神様の御心の中に進み出て、イエス様と出会い、イエス様を拝むために出かけて行ったかどうか、そのことがこの両者を大きく隔てた。学者たちは幼子を拝み、喜びに満たされる道を歩んだ。ヘロデたちは恐れや不安のままに生き、それに本当に押しつぶされるように歩んで行き、悲惨な出来事を引き起こして行った。イエス様と出会い、イエス様の前にひれ伏す、イエス様を拝む。そのことが私たち人間の歩みを決めるのだ。

誰も皆、喜びを欠いたところで生きている。悩みや不安を抱いて生きている。そういう者が救い主を信じ拝む。ただそのひとつの事柄によって変わって行く。学者たちの喜びを探す旅は終わった。イエス様を拝むということの中に自分の身を置くときに、喜びを探し求めるという私たちの旅は終わる。彼らが捧げた贈り物、黄金、乳香、没薬は一説によると、占いの時に使った商売道具だと言われている。つまり彼らが生きるための支えだ。人は、一番大切なものをイエス様にお委ねして行くとき、本当に喜びと平安に包まれるのである。 2014年12月21日)

2014年12月21日日曜日



成瀬教会 <聖書日課>  12月22日~12月28日

12月22日(月) 創世記12章10節~20節(Ⅰ)
  アブラムは飢饉から逃れるためにエジプトへ行きます。神様の示された約束の地で飢饉が起こったのは、選ばれた者に対する神様の訓練が始まったということです。エジプトは当時穀物の豊かな国で、地理的にも近い国でした。しかし残念なことに、アブラムは神様の導きを求めるのではなく、自力による解決を目指してしまったのでした。最初のときのように神様の命令で行動するのではなく、独自の判断で行動してしまったのです。彼は飢饉の前までは、それぞれの地で祭壇を建て、主の名を呼んで、祈ったのでした(8節)。しかし10節からのところには「 」という言葉さえ、登場していません。飢饉という問題を前にした時、彼は主の名を呼ぶことをしなかったのです。平常の時は、主に道を求めることができても、「 いざ 」となると自己判断、自力解決に動いてしまう。でも、それは解決への遠回りなのです。

12月23日(火) 創世記12章10節~20節(Ⅱ)
  エジプトへ行ったアブラムは、エジプトの王ファラオに方便としての嘘をつきました。自分の身を守るために、妻を犠牲にしているみたいで、嫌な感じがしますね。神様は、これをどのように思われたことでしょうか・・・。でも、アブラムは生きることに必死だったのです。エジプトに逃れて来たことも、神様に問わなかったとは言え、必死に生き延びようとした行為でした。驚くべきことに、神様はそういうアブラムを罰するのではなく、ファラオの方を罰されました。アブラムは自分の失敗にもかかわらず、神様に罰せられず、かえって多くの財産を得ます。そして12章2節の神様の約束の成就に一歩近づいた形で約束の地に戻るのです。ここでのアブラムの姿は、放蕩息子と重なるものがあります。神様は罰することではなく、かえって祝福を与えることで、神様への畏れ、信頼を彼に植え付けさせられたのです。

12月24日(水) 創世記13章1節~4節
  アブラムの物語には、甥のロトが登場します。不思議にも聖書は、彼の存在を何度も「 共にいた 」と紹介しています(12章4節、5節、13章1節、5節)。それはくどいと思われるほどなのですが、そこに意味があります。ロトがいたために、アブラムの生活はいつもスッキリしたものにならず、面倒くさい、やっかいな事件に巻き込まれてしまうのです(14章12節など)。しかしそういうものを引きずってアブラムは生きて行きます。アブラムの信仰生活には、いつもロトがつきまとっています。皆さんの信仰生活にも、ロトのようなやっかいな問題がいつもつきまとっているのではないでしょうか。しかしアブラムは「 このロトさえいなければ・・・」と思う、そのロトによって自身が変えられて行くのです。ロトがいたために、アブラムの礼拝はいつも切実なものになるのです。神様を礼拝せざるを得ない人間、神様を呼び続けざるを得ない人間となって行くのです。

12月25日(木) 創世記13章5節~18節
  アブラムとロは、非常に多くの財産を手にしてエジプトから戻ります。しかしやがてこのことが問題を引き起こしました(6節、7節)。アブラムはロトと離れて生活することを決断し、ロトにどの場所に住むか、その選択権を与えます。年長者への遠慮を知らないロトは、肥沃な土地を選び、アブラムは損したように見えます。しかしロトに先に選ばせたということの中に、アブラムはその結果を神様に委ねていたことを見ることができます。自身の選びによってではなく、神様の選びによって生きようとするアブラムの信仰が輝いています(ヨハネ15章16節参照)。そんなアブラムに神様は優しく恵みの言葉を語られました(14節~17節)。神様の選びによって生きようとする者を、神様は決してお見捨てにはならないのです。

12月26日(金) 創世記13章14節~18節
  主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える 」(14節、15節)。一緒に旅をしていたロトは肥沃な「 低地一帯 」を選んで去りました。アブラムに残された地は、未開の荒れた地ばかりです。しかし神様は言われます。「 見えるかぎり土地はあなたのものだと 」・・・。利口な人はいつも目の前の肥沃な土地を上手に自分のものにして行きます。しかし嘆くことはありません。残りは全部私たちのものです。残りの広大な可能性の世界を、神様は私たちのために取っておいてくださるのです。

12月27日(土) 創世記14章1節~16節
 大変です。ロトの住む地域の王たちの争いに巻き込まれ、ロトが財産もろとも連れ去られました(12節)。直ちにアブラムはロト救出に向かいます。アブラムは、良い地を選んだロトを恨んではいなかったのです。自分は主から祝福をいただいているという意識がなければこうはならないでしょう。肉親間では、遠慮がなくなり、欲がむき出しになりますから、一度こじれた関係を再生するのは難しくなります。でも、アブラムはロトを恨んでいなかった。自分は主から恵みを受けているという意識があったからです。あなたも、この祝福されているとの意識によって守られますように。

12月28日(日) 創世記14章13節~24節
  アブラムは、人数差を越えて勝利し、ロトの救出に成功します(16節)。その勝利を祝福するために登場するサムレの王、祭司メルキゼデクは謎に満ちた人物で、その氏素性は分かりません。メルキゼデクに祝福されるアブラムを見つめるロトとソドムの王は何を思ったのでしょう。ロトは肥沃だけど危険な土地を選んだ自分の選択の愚かさを思い知りつつ、神様に信頼して生きるアブラムの姿に心惹かれたかも知れません。ケチなソドムの王(21節)は何も感じなかったかも知れません。

 

先週の説教要旨「人々の陰謀を縫って進むもの」使徒言行録23章12節~35節 

 ある餃子専門店の店主は色々な問題がある店にアドバイスするとき、あれやこれやと直そうとせず、一点だけ直すように指示するとのこと。人生もそういうものなのかも知れない。どんなに誠実に頑張ってみても、自分の思った通りには生きられないし、事は進まないという体験を私たちは重ねている。そうしたときに、自分のあそこが悪い、ここを直そうと、あれやこれやするよりも、一点だけを選んで、そこを直すことに集中する。そういうことなのだと思う。それでは、私たちにとってのその一点とは何なのか。そのことを今朝、与えられている聖書から聴き取りたい。
 今朝の箇所はパウロ自身の身に危機が迫っていることが、ヒシヒシと伝わってくる。パウロの暗殺計画が進められているのだ。40人以上の者たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓いを立てたと言うのである。この箇所には、『 パウロの暗殺陰謀 』という小見出しがつけられ、パウロの人生にとっては確かに危機なのだが、でもそこが神様の栄光を物語る場になっていることに気づかされる。暗殺の陰謀は、パウロを再びユダヤ最高法院に出頭させるように働きかけ、議会に向かう途中に殺してしまおうというもの。ローマの役人たちは、前日にパウロを議会に引き出したときに大きく混乱した経験から、注意力を議場に集中させ、議場に赴く途中に関しては注意が甘くなっただろうから、暗殺計画は簡単に成功していたに違いない。つまり、彼らの暗殺計画は固い誓いを伴う巧妙な仕掛けになっていて、侮りがたいものだったのだ。しかしそれをはるかにしのぐ神様の良い仕掛けが、絶妙なタイミングで現れたのである。大切なメッセンジャーとして登場したパウロの甥の存在、なぜ彼が計画を知りえたのか・・・。そして彼がそれを伝えるべく、千人隊長の元へ行ったときの隊長の丁寧な対応(19節)・・・、これらは神様の不思議な仕掛けだったとしか思えない。神様の愛にあって、私たちは絶望的な状況にも必ず、絶妙な形で神様の精密機械の歯車が噛み合って動き出すような事態の展開を見ることになる。「 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する 」(箴言19章21節)。私たちの歩みには自分の描いていた計画通りに行かないことが多くある。そのとき、私たちは不安になったり、恐れたり、イライラしたりするが、そのような思い通りに行かない時に、すべてのことが主の御手の中にあって導かれているということを私たちはいつも覚えていたい。「 主の御旨のみが・・・」というのは、私たちが何を計画してもしょうがないのだということではなく、「 計画通りに行く時も行かない時も、いつも主の御旨の中にあるという平安に立とう 」という励まし、あなたは主の御旨の中に置かれている幸いな人なのですよと、という神様のお約束なのだ。私たちの人生、一生懸命誠実に生き、使命を果そうとしたとしても、苦難が到来し、危機が迫ることがある。思い通りに事が進まなかったり、失敗をしたりして落ち込み、心が折れてしまうことがある。そういう人生を生きている私たちが一点だけ直すならば(直したいことが山ほどあったとしても)・・・、それは計画通りに行く時も行かない時も、いつも私たちは主の御旨の中にあるのだということ、私たちは主の御旨の中に置かれている幸いな人なのだ、という神様のお約束を信じる、その一点だけを直すことなのであろう。
  こうしてパウロの身は、陰謀渦巻くエルサレムから100キロほど北に位置するカイサリアへと移されることになる(カイサリアには、ローマの総督府があり、ユダヤの王ヘロデの官邸があった)。ローマ総督フェリクスの元に護送されるパウロの様子が23節、24節に記されている。指揮官である千人隊長の支配化のほぼ半数の兵士が動員され、パウロは馬に乗った。その姿は犯罪者として訴えられている者のそれではなく、たくさんの兵士を引き連れて戦地から戻って来る凱旋将軍のようだ。 馬上の人となったパウロの耳には、「 勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない 」(23章11節)との神様のお約束の言葉葉が鳴り響いていたのではないか。そしてパウロは「 ここは地上の楽園だ 」とささやいたかも知れない。神を信じる者は、その住んでいる所を地上の楽園にする信仰を与えられている人々なのだと思う。「 住めば都 」という言葉があるがキリスト者こそは、「 住めば都 」を地で行くような人たちなのだ。先日の女性会、出身地と今まで生活した地域を皆に紹介してもらった。地震や災害に遭った地域もあった。私たちはひとりひとり、人生を生きて来る中で様々な経験を重ねる。思わぬ形で降りかかってくる災害ものもあれば、病気、事故、怪我、いろいろな困難や試練が私たちの人生という旅には待ち構えている。しかしキリスト者は、どこに身を置いていたとしても、そこを「 住めば都 」にしてしまう不思議な人たち。なぜなら彼らには精密機械を造られた方、主の御旨のみが実現するという方が共におられるから・・・。今朝合わせて読んだ詩編139編には、神様は本当にどこにでも私たちと共にいてくださるという信頼が記されている。パウロがカイサリアへ護送されたその道にも、主はパウロに伴っておられた。主はここにいる私たちに対しても、本当にどこにでも共にいてくださるので、私たちの生活も「 住めば都 」になる可能性に満ち満ちているのである。2014年12月14日)

2014年12月14日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月15日~12月21日

12月15日(月) 創世記10章1節~32節
  ノアの子孫の系図が記されています。こういう箇所は、読んでいてもあまりおもしろくないかも知れません。よほど、系図に関心のある方でもなければ・・・。ノアは洪水という神の裁きを通り抜けてなお、子孫を残していきました。「 生めよ、増えよ 」(創世記1章28節)の約束は、洪水の後も、なお生きていることが確証されていますね。私たちの神は裁き、滅ぼす神ではなく、裁きを通して罪を、赦し、生かそうとされる祝福の神なのです。祝福に至らせるために、時には厳しく裁かれるということもあります。神はあくまでも私たちにとって祝福の神なのです。

12月16日(火) 創世記11章1節~9節(Ⅰ)
  バベルの塔の物語。人は、多くの民族、氏族に増えましたが、同じ言語、同じ発音であることにより一致は保たれていました。「 多様性における一致 」を彼らは賜物として与えられていたわけです。彼らはその賜物を守ろうとして、世界に離散していくのを防ぐ努力を試みました。それが塔を建てることだったのです。しかし神はそれをやめさせられました。彼らが主を念頭に入れていなかったからです。神様抜きで一致を保とうとしていたのです(詩編127編1節~2節参照)。「 頂を天に 」という発想は、自分が神になりかわろうとする自己神格化、創造主と被造物の立場を主客転倒させる、被造物の越権的行為なのです。主客転倒・・・私たちが犯してしまいやすい罪です。主を主として歩めますように、それが私たちの祈りです。

12月17日(水) 創世記11章1節~9節(Ⅱ)
  バベルの塔の結果、言葉は混乱して人は散り散りになりました。それは昔のことではありませんね。文明が発達し、メディアが世界の隅々まで支配するようになった現代ですが、人と人の間に言葉はいよいよ通じにくくなっているのを実感しますね。隣国同士の争いはエスカレーへとするばかり、お互いがお互いを主張するのみで、「 共生 」ではなく、「 排除 」の原理が強く働いているように思えます。聖書は、人と人の言葉が通じなくなったことを「 神がなされた業 」だと語ります。なぜ神がそのようなことをなさったかと言うと、人は人の言葉によって生きることはできず、神と向き合い、神に聴く言葉によってのみ、生きることができるからです。だから人は、神に聴くべきために、散らされたのです。

12月18日(木) 創世記11章10節~32節
  ノアの3人の息子のうちのひとり、セムの系図が記されています。私たちはこの名前の羅列の中に、アブラムの名前を見つけることができますね(27節)。アブラムの妻の名はサライ(29節)で、「 サライは不妊の女で、子供ができなかった 」(30節)と紹介されています。このあと12章以降、アブラムを基とした神の壮大な人類救済の物語が始まります。その主人公となるアブラムたちが、深い悲しみを抱きながら生きていた人(当時の価値観では、跡取りがいないことは人として不十分だと考えられたのです)であったと言うことは、私たちを励ましますね。今のあなたの悲しみは、神様の御手のうちあり限り、悲しみのままでは終わらないのです。悲しんだ分がそっくりそのまま大きな喜びとなって神の御手から戻って来ます。

12月19日(金) 創世記12章1節~5節(Ⅰ)
 アブラムは、すべての人の祝福の源となるために神から選ばれました。祝福を自分のところに留めておくのではなく、それを他の人に手渡すために選ばれた・・・。つまり、自分が選ばれたのは、他者のために選ばれたのでした。このことは私たちが神の救いに与ったということが、何のためであったかを確認させてくれますね。私たちも他者に祝福を届けるために、他者に先立って選ばれたのです。ところで、アブラムがなぜ神に選ばれたのか、その理由は書かれていません。それはアブラムの側に選ばれるにふさわしい何かの理由があったから、と言うのではなく、神の側の全く自由な選びによって、彼は選ばれたのだ、と言うことなのです。私たちの選びの意味を今一度、受け止め直して、今日、遣わされ場に出て行きましょう。

12月20日(土) 創世記12章1節~5節(Ⅱ)
 アブラムは、神から言われました。「 あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように 」(1節~2節)。国、親族、あるいは父、これらはすべて、アブラムに影響を与え、彼の生活を成り立たせて来たもの、アブラムの日常そのものであります。神の言葉は、そこから身を引き離せ、と語りかけたのです。神の言葉は、ある意味で、私たちをその日常性の中から私たちを絶えず、繰り返し、引き離すものです。今、ここで生きている日常の生活、その状況の中に埋没し、沈み込んでしまいそうになる私たちを、絶えず、そこから引き離し、真の人生の目的地、天の故郷へと私たちを向かわせる、それが神の言葉です。

12月21日(日) 創世記12章6節~9節
  約束の地に入ったアブラムは、場所を何度か移動します。付近の住民との関係など、よそ者の彼は居づらかったこともあったのだと思います。しかしかの居た場所には祭壇が残りました。「 アブラムは・・・そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ 」(8節)とあるように。祭壇・・・それは彼が祈りながら歩いたことを物語る痕跡です。つまずいたこと、どうしてこんなことに・・・と思うこともあったでしょうが、それぞれの場所が彼のたびの一里塚となりました。信仰の歩みは、たとい失敗してもゼロからのやり直しということにはなりません。祈って闘ったその場所が、必ず次の歩みへの土台として用いられて行くのです。

先週の説教要旨「 良心に従って生きて 」使徒言行録22章30節~23章11節 
  『 スタンド・バイ・ミー 』という映画がある。「 私のそばにいておくれ 」という意味だ。この物語の主人公は、少年の頃、3人の親しい友がいたが、皆、家庭環境は幸福ではなく、心に傷を抱え、将来に期待を持てないでいた。ある日4人は、死体探しのたびに出る。3日前から行方不明になっている少年が、30キロ先の森の奥で、列車に跳ねられ死体のまま野ざらしになっているとの話を聞き、その死体を見つければ有名になる。英雄になれると思ったのである。途中、喧嘩もするが助け合いながら、鉄道の線路に沿って冒険のような旅を続ける。夜は森で野宿をし、彼らは自然と今まで心の内に秘めていた誰にも言えなかった悩みや悲しみを互いに打ち明けあう。そして、友の存在に支えられるというかけがえのない経験をする。この物語は、人には「 側にいてほしい 」という心の叫びがあること、そしてその叫びを聴いてくれる友がいてくれることの大切さを伝えている。しかし人はそれをどんなに強く願っても、その叫びには応えきれない面がある。物理的に、あるいは人の弱さと能力のゆえに・・・。今年の6月に息子が入院し、手術を受けた。両親が病院を離れているとき、担当の看護師から電話があった。何か良くないことが起きたかと動揺したが、「 息子さんがご両親のどちらかが早く病院に来て、そばにいてほしい 」と言っていますとの電話だった。私立ち夫婦はできるだけ、その願いに応えようとしたが、さすがに手術室の中までは入って行くことはできなかった。私たちは隣人の悲しみ、痛み、不安を支え、励ましてあげたいと強く願っても、側にい続けてあげられない限界を抱えているのである。そうであればこそ、どんな時、どんな場所、どんな状況にあっても、私たちの側にいてもらえる友を持つことが必要で、聖書はそのような友こそ、主イエス・キリストなのだと教えている。

今朝の使徒言行録第23章11節は、パウロが体験した出来事を記している。「 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『 勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証したように、ローマでも証をしなければならない 』」。「 主はパウロの側に立って 」というところを英語の聖書で読むと、The Lord stood by him となっている。パウロは厳しい試練のただ中で、スタンド・バイ・ミーという祈りを主に捧げていたことであろう。その切なる叫びに応え、イエス様はストゥド・バイ・ヒム、パウロの側に立って、パウロを真に力強く支えてくださったのだ。今年一年、イエス様は、あなたのどのような「 主よ、私の側にいてください 」という祈りを聴き取ってくださったことだろうか・・・。息子が手術室に送り出されたあと、手術室の前に座っていた私たちの前に、知人の牧師が訪ねて来て、ひと言、祈って帰って行かれた。彼は祈るためにわざわざ来てくださったのであるが、主が「 わたしが彼の側にいる  」ということを私たちにお示しくださったのだと受け止めた。主は私たちの行くことのできない所であっても、彼のそばにいてくださったのである。

 今朝の箇所を見ていると、パウロは「 こんな男は地上から除いてしまえ。生かしておけない 」と人々から非難され、ののしられているにもかかわらず、その困難な状況に対して、余裕のようなものを感じさせる。大祭司アナニヤの前で、「 あくまでも良心に従って神の前に生きてきた 」と言うが、これはパウロの敵になってしまっているあなたたちは、神の御前に反良心的になってしまっているという勇気ある発言である。余裕がなければこうは言えまい。さらにパウロは議場を見回して、サドカイ派とファリサイ派の議員がいるのを見ると、双方が意見を異にする死者の復活の問題を発言し、わざと議場を混乱へと導く。慌てた千人隊長はパウロをその場から引き離させる。パウロの狙い通りになったのだが、この状況にしてこの余裕ある対応には驚きを禁じえない。ユーモアさえ、感じられるではないか。この余裕は一体、どこから来ているのだろうか。『 キリスト教とユーモア 』という本の中で宮田光雄氏は、イエス様やパウロの笑い、ユーモアを例示しながら、神の恵みの下に究極的な神の勝利の実現を信じることで、今生きている現実の幸不幸を、一定の距離をおいて眺めることができる。そういう精神的な態度をもって生きる中で生まれるのがキリスト教的ユーモアなのであると言っている。それによれば、パウロのユーモアさえあふれる余裕の対応は、神の究極的な勝利を信じる信仰、その勝利者が自身のそばにいてくださっているという信仰から生まれていたものなのである。

 受付のラックの中に伝道用に『 こころの友 』という小紙を置いている。イエス様こそがあなたの心の友、そのイエス様をご紹介するという目的で発行されているものであるが、12月号は「 しあわせ難病生活を伝えたい 」というタイトルで、大橋グレース愛喜恵さんの証が掲載されている。不思議なタイトルと思われるかも知れない。難病生活としあわせは本来、結びつかないものだから・・・。彼女は病のために手にしていた柔道北京オリンピックアメリカ代表の権利を失う。そればかりか、相次ぐ体の不調に苦しんでいる。胃ろう、てんかんの発作、記憶障害、感覚麻痺、呼吸器も外せない。しかし、NHKの番組『バリバラ』のスタッフとして充実した難病生活を送っている。それは「 主が彼女のさばに立っていてくださるから 」という恵みが造り出した奇跡としか言いようがない。                                           (2014年12月7日)

2014年12月7日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月8日~12月14日

12月8日(月) 創世記5章1節~32節(Ⅱ)
  「 セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死んだ 」(6節~8節)。ここには、人が何年生きて、そして死んだということが繰り返されています。人はそれぞれの一生を生きて、次の世代へメッセージを残すのです。人は多くの人生を生きることはできず、制約されたただ一度の人生を生きるだけです。人は、その生き抜いた、ただ1回の人生によって、後の人たちに言葉を語るのです。「 アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています 」(ヘブライ人への手紙11章4節)とあるように・・・。それでは、あなたは何を語るのでしょうか。

12月9日(火) 創世記6章1節~13節
  創世記6章から9章は、ノアの洪水の物語です。これらの章は、私たちに神様の内にある心を直視させ、その御心をありありと知らしめます。この大洪水の出来事において、最も心を痛めておられるのは、植物や動物、人間でもありません。神様ご自身です。たとえ造られたもののすべての苦悩を寄せ集めてひとつにまとめたとしても、天の父がご自身の創造物をご覧になって抱かれる苦悩に比べたら、それは万分の一にもならないでしょう。洪水前の人間たちは、神なき人間です。神なき人間の姿を、聖書は「 堕落 」と「 不法 」(11節)の2文字をもって表します。そこで神様は一大決心をされます。それは重症患者の大手術のようです。神様は重症の患者にもなお希望を持たれるのです。「 医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である 」(マタイ9章12節)という言葉が想起されます。神様は人間にとって、最後まで名医であろうとされます。もちろん、名医たりとも直ろうとする意志のない者にとっては、いかなる巧みの業も意味をなさないのですが・・・・。

12月10日(水) 創世記6章14節~22節
  神様の後悔の中で、ノアは主の好意を得ました(8節)。ノアは人類の希望の砦となり、神様に命じられた通りに箱舟を造ります(22節)。そしてその箱舟に入った者だけが洪水による滅びから免れることができるのです。この箱舟は、長く教会を現しているのだと理解されてきました。それゆえ、教会堂を舟の形に設計することもありました。カンバーランドの渋沢教会はこの箱舟をイメージした造りになっているのをご存知でしたか。ある意味、現代人も日毎、押し寄せる様々な洪水に押し流されていますね。教会に身を寄せることが、洪水からの救いとなるのです。私たちは、ノアのように、この箱舟をせっせと造るのです。誰をも迎えられるように。

12月11日(木) 創世記7章1節~20節
  雨はやむことなく、降り続けます。水かさは増え、ついに水は箱舟を押し上げました(17節)。洪水の始まりです。しかし一方では人を打ちのめす水が、他方ではノアを高く浮き上がらせる水となる・・・。苦難が世の一切を呑み込んで行く一方で、信仰者にとってはそれが単なる苦難ではなく、試練であり、それを通じて民を救いへと引き上げて行くのです。ほとんどの人間にとって、これは苦難以外の何ものでもないと思われるようなことが、信仰ある者にとっては同時に、それは神の試練、神の祝福となるのです。神の祝福というのは、私たち人間が頭で考えるほど、分かりきった単純なものではありません。これは祝福だった、これは祝福ではなかったということは、人間には本当は分からない部分がたくさんあるのです。神によって本当に目が開かれた者たちだけが、神のなさるすべてのことは祝福となっていると知るに至るのです。

12月12日(金) 創世記7章21節~24節
  「 水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった 」(24節)。試練の恐ろしいところは、「 終わりが見えない 」ということです。洪水の中を、ノアの箱舟は漂っていました。そのまま放置されてドラマが終わるということもありえたのです。しかし、激流の中で箱舟は悠然と浮かんでいました。時代の激流の中で悠然と浮かんでいる・・・それは洪水の終わりを信じ、神の約束を信じる信仰による以外にありません。今日の教会も、神様による終わりがあると信じるから悠然と歩めるのです。

12月13日(土) 創世記8章1節~22節
 「 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『 人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ 』」(21節)。不思議な言葉です。人間もいくらか良いところがあるから赦す、というのではありません。可能性があるから受け入れようというのでもありません。人は根っから悪い、と言うのです。可能性など、ないと言うのです。それだから、もう審くことはしないと言うのです。ここは人間の弱さ、もろさ、罪悪を御自分の痛みとして担おうとする神様の決意が込められています。いかんともしがたい我が子の問題を,自分が負うしかない、と親が決意するように・・・。

12月14日(日) 創世記9章1節~28節
  神様は「 虹の契約 」を立てられました(9節~11節)。もう2度と洪水による裁きを行なわないと・・・。そのためのしるしとして虹を置かれたのです。「 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める 」(16節)。虹を見たら、しっかりしろ、気を引き締めろ、と神様は言われませんでした。虹はもう二度と地を滅ぼすことはしないという神様の約束でした。そして虹を見るたびに、16節の約束を神様が「 心に留め 」てくださるというのです。だから生きとし生ける者は、手放しで虹を仰いで喜んでいいのです。

先週の説教要旨「 天国の市民 」使徒言行録22章17節~29節 
  今朝の箇所、三つの「 市民権 」というものを考えさせられた。今朝は、そのことをお話したいと思う。
  第一は、ユダヤ人の市民権である。パウロを訴え、非難するユダヤ人たちは「 こんな男は地上から除いてしまえ。生かしてはおけない 」(22節)とわめき立てた。それは、パウロがユダヤ人の市民権、いわばその特権を否定することを言ったからだ。パウロは自分に与えられた弁明の機会を自身の信仰の証の場として用い、その証の中で「 行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ 」(21節)と、主から使命を託されたと語る。それは、ユダヤ人の特権だと彼らが考えていた神の救いの恵みが、異邦人にも与えられることを意味した。ユダヤ人は神に選ばれた選民としての誇りを持ち、神の救いの恵みは自分たちのものであると自負していた。そしてそれこそがユダヤ人の特権、市民権であると考えていた。パウロはそれを否定したのである。こういう選民意識は、私たちとはかけ離れたことのように思うかも知れないが、決してそうではない。よく聖書を読み、よく祈り、熱心に集会に出席し、教会のために奉仕している者は、自分はちゃんとした信仰者、あの人は自分に比べて少しだらしがない信仰者と言った具合に区別し、その人が自分と同じように扱われることに内心不満を覚えたりしやすいのではないだろうか・・・。パウロを非難するユダヤ人も、自分たちが異邦人と同じに扱われるのが、我慢ならなかったのである。だが、神の救いの恵みはパウロの言う通り、人間がどれだけ努力したか、どれだけ真面目に信仰生活を送ったかによって計られ、与えられものではない。神の救いの恵みへの応答としての熱心さ、忠実さ、努力が、結果として他者に寛容になれず、人を認められない排他主義的なエゴイズムだとしたら、それは残念なことである。それは恵みを与えてくださる神様の御心とは、遠くかけはなれている。
  第二は「 ローマの市民権 」である。パウロがユダヤ人の市民権を否定したため、今まで静かにパウロの証を聞いていたユダヤ人たちは再び、騒ぎ始めた。その騒ぎを収めようと、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るために、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。そこでパウロは自分がローマの市民権を持つ者であると口にした。ローマの市民権を持つ者は、裁判にもかけられず、判決の出る前から、鞭で打たれて尋問されるというような野蛮な事態からは免れることができた。パウロは、それで助かったのである。ユダヤ人であるパウロがどういう理由で、この市民権を持っていたのかは分からない。しかしパウロは、自分が持っていた社会的な権利を最大限に生かして用いた。それは、命が助かるためにということもあっただろうが、神様から託された異邦人伝道の使命を考えたからこそであっただろう。神様は、伝道の働きのために、しばしば、伝道とは関係ないと思われていたものを利用なさる。泉教会の潮田先生は、現在の教会堂を入手するときに、ご自分が父親から譲り受けた「 農協の正会員 」であったことが入手の決定打となったと言う。すべてのことを相働かせて益としてくださる全能の神様は、農協の会員権でさえ、伝道の働きのための武器として用いられる方なのである。ローマの市民権は、ローマ帝国に福音を携える、異邦人の使徒となるパウロに、神が備えられた武器だったに違いない。私たちがこんなものは伝道の役には立たないだろうと決め付けてしまっているもの、それが神様の働きのために無くてはならない大事なものになるのである。ダビデは、羊飼いが獣を追い払う石投げを、ゴリアトを倒す武器にした。マタイは徴税のために使った筆を、彼の福音書を書くために役立てた。ヨセフは、父親のヤコブの遺体を約束の地カナンに葬るために、当時の医療技術の最高峰にあったミイラの技術を役立てることができた。こんなものは・・・神様にあっては、なくてはならないものなのである。あなたは自分自身のことを伝道には役に立たない者とみなしていないだろうか。決してそんなことはない。この方にあっては、あなたも確かに用いられるのである。
  第三は天国の市民権である。パウロは、ローマの市民権を盾にして鞭打ちの尋問を免れた。しかしパウロは、ローマの市民権を頼りにして生きていた人間ではない。パウロの心をいつも占めていたのは、自分はローマの市民であるという意識ではなく、自分はキリスト者であるという自覚であった。そのパウロが後に、フィリピの教会の信徒たちにこう書き送った。「 あなたがたの国籍は天にある 」(フィリピ3章20節) ・・・。パウロは、神の国の市民権、すなわち天国の市民権にこそ、信頼して生きたのである。天国の市民権、それはその市民権を与えてくださった方を信頼して生きてよいという権利。そういう者に、このお方は必ず応えてくださるという権利である。果たして・・・私たちは天国の市民権というものを日々の歩みにおいて行使しているだろうか・・・。その行使は、何よりも祈りにおける行使である。祈りは天国の市民権を行使することである。「 行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ 」(21節)と言われる主は、私たちに天国の市民権を与え、それによって生きるようにと遣わされるのである。
                                                  2014年11月30日)

2014年11月30日日曜日


 
成瀬教会 <聖書日課>  12月1日~12月7日
12月1日(月) 創世記3章14節~15節
  アダムとエバを背信へと誘惑した蛇(悪魔)に、神の裁きが宣告されています。「 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く 」(15節)。この言葉は原福音と呼ばれ、女の子孫とは救い主イエス・キリストのことを言っていると理解されています。女の子孫であるイエス・キリストが悪魔に対して、最終決着をつける。悪魔は御子のかかとを砕くような傷を負わせますが(十字架)、それは致命傷ではありません。反対に、御子は蛇の頭を砕くという致命傷を与えます。つまり、悪魔に対して完全に勝利するのです。神様は、最初のときからすでに救い主による人間の贖いを考えていてくださったのですね。神様は私たち以上に、私たちの救いのことを熱心に考え、導いていてくださいます。それゆえのフィリピ3章12節の私たちの姿勢なのです。
12月2日(火) 創世記3章16節~19節
  蛇(悪魔)だけでなく、神様は男と女に対しても、裁きの宣告をなさいました。女は出産に伴う苦しみが大きくなると言われています(16節)。男は食べ物を得るための苦しみ、すなわち労働の苦しみがあると(17節、19節)、宣告されています。しかし、この裁きは単なる苦しみだけではなく、大きな喜びが伴っていることを忘れないようにしましょう。そこに神様の心が感じられますよ。出産は、「 産めよ,増えよ、地に満ちて 」(1章28節)と、祝福として語られていましたね。どんなに苦しんで子どもを産んだとしても、そこには新しい命を生み出した喜びがあります。それは苦しみ以上に大きなものです。額に汗して日毎の糧を得ることも、苦しみだけではなく、達成感や充実感、そして家族を養える喜びというものが伴います。神様の裁きは、単なる裁きでは終わらず、祝福をより祝福と感じさせる働きをするのです。イエス・キリストのあの十字架がそうであるように・・・・。
12月3日(水) 創世記3章20節~24節
  「 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた 」(24節)。神様はエデンの園からアダムとエバを追放されました。神様はエデンの園の命の木を守るために、再び彼らが園に入らぬよう、見張りのケルビム(天使)ときらめく剣を配置されました。見張りを置いたということは、神様もエデンの園から出られたのだということでしょう。神様が園におられるならば見張りなど必要ないからです。神様はアダムとエバの後を追うように、ご自身も園を出られたのです。まるで我が子の行き先を案じる親のように・・・。1匹の羊を追い求める羊飼いの姿が、神様のお姿と重なりますね。
12月4日(木) 創世記4章1節~7節
 カインとアベルの物語です。この物語の解釈の困難さは、なぜ、カインの捧げ物を神様はお喜びにならなかったのか、その理由が記されていない点にあります。そのために、いろいろな理由が考えられて来ました。捧げる心の姿勢、すなわちカインは最上のものではなく、どうでもよいものを捧げてしまったのだとか・・・。でもそれらは推測の域を出ませんね。確かなことは、カイン本人はその理由を知っていたであろうということ。なぜなら彼は顔を上げられないでいたのですから。このよう信仰生活には、他の人には分からない、本人にしか分からないという部分があります。そしてその本人と神様にしか分からない部分をいい加減に誤魔化すのではなく、真剣に、大切にする、人の目ではなく、神様の目、それが信仰の肝なのです。
12月5日(金) 創世記4章8節~16節
  人類最初の殺人事件が起きてしまいました。カインが怒りをアベルにぶつけてしまったのです。神様との健やかな関わりを失うとき、人は他者との健やかな関わりをも失うことになります。人間のストレスの9割は人間関係から来るといわれますが、それを聖書の観点から言い換えると、人間のストレスはすべて神様との関わりの喪失が根底にある、と言うことです。嘆きの言葉を口にするカイン(13節)に対し、神様は彼を守るためのしるしを与えてくださいました(15節)。どんなしるしであったのか、分かりません。しかし私たちには「 神様があなたを守る 」という明確にしるしが与えられているのですよ。それはイエス様が十字架にかかり、三日によみがえられたというヨナのしるし(マタイ16章4節)と言われるものです。御子の十字架と復活は、神があなたを愛されていることの最上のしるしなのです。
12月6日(土) 創世記4章17節~26節
 「 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである 」(26節)。これは、心惹かれる言葉だと思います。彼らは祈り始めたのです。祈り始めたところでは、この地上においてさすらう中にも故郷が生まれるのです。もしあなたが今、この地上の生涯を、たださすらうだけのつまらないものと感じているならば、ぜひ、祈り始めてみましょう。
12月7日(日) 創世記5章1節~32節
  アダムの系図が記されています。人の名前ばかりで、読んでいておもしろくないと思われるかも知れませんね。ここには何々を設け、何年生き、そして死んだという言葉が繰り返されています。「 産めよ,増えよ、地に満ちて 」(1章28節)と言われた祝福の言葉と対立することが、語られているわけです。死んだ、という言葉が繰り返される中、「 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった 」(24節)という言葉は異彩を放っています。そうです。神と共に歩むとき、人はたとえ肉体の死を迎えても、それは死でないのです。神のもとに取られた、依然として神と共にあるのです。ここには死を越えた祝福も記されているのです。
 

先週の説教要旨「 キリストの声を聴き 」使徒言行録21章37節~22章16節 
  パウロはユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解消するために、神殿に出かけたが、そこでユダヤ教徒たちから新たな誤解を受け、騒動に巻き込まれてしまう。その騒動を鎮静化させようとかけつけたローマの兵士たちの手によって、彼は保護されるような形で、神殿から担ぎ出されようとしていた。その途中、パウロは群集に対して語ることを許してほしいと千人隊長に求めた(39節)。それがきっかけになって、22章からパウロの弁明が始まる。まず、ユダヤの民衆に対する弁明があり、続いてユダヤ議会に対する弁明、そしてローマ総督フェリクスに対する弁明(24章)、ユダヤの王アグリッパに対する弁明(26章)というように、これから弁明が相次ぐ。今朝の箇所は、その最初としてユダヤの民衆に対するパウロの弁明である。弁明という言葉をあえて使ったが、内容的に見ると、自分が釈放されたいがための弁明ではなく、かつては熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教の迫害者であった自分が、どうして今ここに立たされるほどに、自分の人生が変わったのか、つまりキリストにとらえられた彼の証なのである。だがパウロの言葉は聴き手の心に届かない。普通は、何回か話をしても伝わらない相手に対しては、話したくなくなるものだが、パウロはあきらめることなく話し続ける。それは本当に話したいこと、伝えたいことがあったからではないか。自分の命をかけてでも、本当に伝えたいことがあった・・・だからパウロは何度でも同じことを話そうとするのである。俳優の高倉健さんが亡くなった。彼は無口であったと言われるが、たとえ無口であっても人に伝えたい、人に言い残したいという何かを人は持っているものだと思う。高倉さんは自分自身を貫くことを一番伝えたかったらしい。翻って、私たちはどうか。私たちが誰かに言い残したいこと、愛する人たちに受け継いでほしい内容とは何か・・・。もしその言葉が単に、自分自身のことだけであったり、人生に対する恨み、つらみだけであったとしたら、何と寂しいことであろうか。やはり、私たちが言い残すべきことは、本当に価値あるものであってほしいと思う。私たちは信仰を持っているからと言って、信仰を持たない他の人より優れているとは決して言えない者である。しかし私たちが伝えたいという内容については、やはり信仰を持たない他の人たちとは比べものにならないものを、私たちは神様から与えられているのではなか。

パウロの証は22章から始まるが、今朝は彼の証から2つのことを私たちは心に留めたいと思う。まず第一は、キリストと信じる者の結びつきということである。パウロは、キリスト教信者を迫害していたのだが(4節、5節)、復活のイエス・キリストは「 なぜ、わたしを迫害するのか 」(7節)と言われた。信者に対してしたことは、この私に対してしたことなのだと、主は言われたのである。それほどに、イエス様と信者は深く結びついているのだ。復活のキリストは、そこにある教会と切り離すことのできない仕方で生きて働いておられる方なのだ、ということをパウロは知らされた。後に、パウロはそのことをこう表現した。「 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です 」(Ⅰコリント12章27節)。また信者たちを励まして「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた 」(Ⅱコリント5章Ⅰ7節)と書いた。新改訳聖書はここを「 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました 」と訳していた。つまり、キリストと結びついた者は、本人だけが新しくなったというのではない、すべてが新しい。自分が経験する良いことも、悪いことも、そういうものまでも皆、新しいものになっている、今までとは違うと言うのである。たとえば、あなたが経験する苦しみも、キリストと結びついたときから、苦しみもまた新しくなっている。苦しみの意味が変わってしまっているのである。その苦しみはキリストがご自身の苦しみとして受けておられるものであるし、キリストはご自身が受ける苦しみを必ず意味ある苦しみへと変えられる方、無意味なままに終わらせない。そういう意味で、私たちの苦しみもまた新しくなっているのである。パウロはこのとき、自分が受けている苦しみをそのようなものとして受け止めていたであろうし、これは私たち全ての信仰者に与えられている祝福なのである。

もうひとつは、神はキリストに結びついた者に新しい使命、生きる目的を与えられるということ。そしてその道は、与えられる日々の出来事の中でキリストの声を聴くという形で開かれていくということ。パウロはダマスコ途上で天からの光に撃たれ、倒れてしまう。そこでキリストの声を聴くのだが、周りにいた者たちは光を見たが、キリストの声は聴いていない(9節)。同じ出来事を経験しながらも、その出来事からキリストの声を聴いた者と聴かなかった者とが、いる。こういうことは、私たちにおいてもよく起こることである。私たちが日常生活で経験する様々な出来事の中からキリストの声を敏感に聴き取り、反応する人とそうでない人とがいる。その違いは日々、祈り、神の言葉に触れているかどうかで、大きく異なる。日々、触れている人は日常の出来事の中に神の声を聴き、神の導きを敏感に感じ取る。私たちは日常の出来事の中からも神の声を聴き取り、その導きを敏感に感じられるように、日々の祈りと御言葉の生活を大切にしよう。
                                                    2014年11月23日)

2014年11月25日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月24日~11月30日

11月24日(月) 創世記3章1節
  蛇の誘惑。ここでの蛇の背後には悪魔の存在があります。悪魔が蛇を利用して人間を誘惑します。悪魔の働きは、神様と人間の信頼関係を打ち壊し、両者の関係を断たせることです。悪魔は言いました。「 園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか 」・・・これは実際に神が言われた「 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない 」(2章16節、17節)とは違います。悪魔の言葉は、いかにも神様が意地悪で心の狭い方であるかのように聞こえます。ここに悪魔の攻撃の典型があります。悪魔は、いつでも神様があなたに与えられた賜物、恵みが少ないように思わせるのです。本当はすごく大きな恵みが与えられているのに。あなたはこの悪魔の方法にたぶらかされてしまうことはないですか。神様の恵みはあなたにとっていつも十分なのです。

11月25日(火) 創世記3章2節~5節
  善悪の知識の木の実を食べると、「 目が開け、神のように善悪を知るものとなる 」(5節)と悪魔は言いました。最初の誘惑の言葉(1節)をちゃんと退けた女でしたが(2節、3節)、「 神のようになる 」という誘惑の言葉には屈してしまいます。神のようになる・・・それはいつの時代であっても、人間にとって最大の誘惑であり、罠です。私たちの心には「 神のように・・・」という欲求がこびりついています。自分が神のようになると言うのは、究極のエゴイズムですが、誰もこの誘惑から自由な者はいないでしょう。皆、自分の思い通りになることを求める心があり、その通りにならないと怒ったり、泣いたり、やる気をなくしたりするものです。でも、自分の思い通りになるより、神様の思い通りになる方が私たちにとっては幸いなのです。考え方をひっくり返す必要があります。

11月26日(水) 創世記3章6節
  神様に背いてしまう2人・・・。彼らは善悪の知識の木の実を食べてしまいます。「 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた 」とあります。結局、彼らは「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(2章17節)という神様の言葉の確かさよりも、自分たちの目で見た感覚、自分の状況判断を優先したのです。そちらの方が確かだと思い込んだのです。ここに罪の本質が顔をのぞかせています。罪は、神の言葉の確かさよりも、自分の状況判断や自分の目で見た認識の方が確かだと思い込み、神の言葉を退けてしまうことなのです。そういう姿勢には、委ねるというものが生まれる余地はありません。自分の状況判断よりも、神の言葉の確かさに立とうとする者は必ず、委ねるということを知っています。

11月27日(木) 創世記3章7節(Ⅰ)
 「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした 」。神様の「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(2章17節)という言葉は,嘘だったのでしょうか。2人は死んでいません。いいえ、2人はこの時、確かに死んだのです。それは肉体の死ではなく、霊的な死です。人は自分の命の与え主である神様との関係が崩れると、自分の命が存在する意味や生きる目的が分からなくなります。そして「 生けるしかばね 」という言葉があるように、生物学的にただ「 生きている 」ということになっていくのです。それは肉体の死以上の苦痛となります。

11月28日(金) 創世記3章7節(Ⅱ)
  「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした 」。2人の目は開けました。2人は自分たちが丸腰であることをはずかしいと思い、それを隠しました。それが目の開けた証として聖書は伝えています。しかし2人の目が開けたことによって、見えなくなってしまったことがあります。それは、丸腰で、弱い存在であった自分たちが、自分を守ろうとしないでいられた。つまり、神様に守られていたという事実です。その事実が2人には見えなくなりました。悪い意味で目が開かれてしまったのです。悪い意味で目が開かれている人はいつでも、自分を自分の手で守ろうと汲々としています。しかし良い意味で目が開かれていない人は、神様の守りを信じて平安でいます。

11月29日(土) 創世記3章8節~11節
 「 主なる神はアダムを呼ばれた。『 どこにいるのか 」(9節)。神に背いた2人は、神様から身を隠しました。背き、罪はいつでも放置しておくと、徐々に徐々に、自分の身を神様から遠ざける方向へと引っ張って行きます。罪は隠しても解決しません。むしろ、それを神様の御前に正直に差し出し、その裁きを神様に委ねることでしか、解決しないのです。神様は罪を裁きつつも、そこに赦しを与えてくださいます。神様はその恵みを与えようと、隠れる私たちを探し出そうとしておられます。罪を犯した私たちを神様が探されるのは、私たちに赦しを与えるためであって、決して滅ぼすためではないのです。

11月30日(日) 創世記3章12節~13節
   神様から背きの責任を問われた2人は、お互いに罪を擦り付け合っています。女は蛇がだました(13節)と言っていますが、男は「 あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・・」(12節)と、神様への責任転嫁とも取れる発言をしています。これは人類最初の夫婦喧嘩ですが、お互いに責任を転嫁しては何も始まりません。責任転嫁は、よく見かけられる行為なのですが、実は罪の解決を最も遅らせる最悪の行為なのです。2章23節の賛歌は一体、どこに行ったのでしょう。

先週の説教要旨「 担われて生きる 」 使徒言行録21章27節~36節 

前回はエルサレムに帰って来たパウロに対して、エルサレムのユダヤ人キリスト者たちの間で、パウロがエルサレムから離れた地域でユダヤ人に割礼や律法を守るなと教えているという誤解が広まっている、ということを知らされた。そこでエルサレムのユダヤ人キリスト者の中にいる4人の請願者の髪をそる費用をパウロが立て替えて、パウロもこのように律法を大切にしているではないか、という事を示してパウロについての誤解を解くようにと勧められた。今朝の箇所では、誤解を解こうとして行動したパウロが、神殿で新たな誤解を受け、捕らえられてしまうことになったということが記されている。その誤解は、異邦人を連れ込んではならない神殿の聖域にパウロが異邦人を連れ込んだということであった(27節)。神殿の庭の部分は、手前の部分と奥の部分を石垣によって区切られていて、その石垣の手前の部分が異邦人の庭と呼ばれ、異邦人であっても、そこまでは入ってくることができる。しかしその石垣を越えて、さらに奥へ入ることは許されない。そこはユダヤ人でなければ入っていけない。その石垣には「 異邦人がここから先に入ると死をもって罰せられる 」と刻まれた石碑が埋め込まれていたそうだ。ちょうどペンテコステの時期であり、いろいろな地方からエルサレムに巡礼にやって来る外地に住むユダヤ人たちが都にあふれていた。その中にアジア州から来た者たちがそのような誤解をして、叫び出したのである。エルサレムのユダヤ人キリスト者の中でパウロに不信感を抱いている者がいるということで、それを払拭するために神殿に行ったのに、彼らとは全く別の巡礼に来ていたユダヤ教徒たちから新たな誤解を受けるというのは、パウロにしてみれば、大変意外な、皮肉なことが起きてしまったと言える。

騒ぎが起きたとの情報は、すぐに神殿の監視に当たっていたローマの兵営に伝わった。千人隊長が部下を率いて駆けつけると、人々はパウロをリンチするのをやめた。しかし、群衆があれやこれやと叫び立てていて、騒々しくて真相をつかむことができないので、千人隊長はパウロを兵営に連れて行くように命じた。このとき、パウロは2本の鎖で左右の腕を縛られたのだろう。しかも群集があまりに騒ぐので、パウロを担がなければ階段を上っていけない。両手を縛られ、担がれて自分の足では歩けない格好になった。これは以前アガボという予言者がパウロについて予言したことが成就したのである(21章11節)。パウロは予期せぬ形で捕らえられてしまった。しかしパウロの場合、こうして逮捕され、ローマの軍隊の手に渡ったことで、それによってかえって、パウロが長年希望していたローマ行きの機会を提供することになるのである。来週以降のところでは、パウロがローマの市民権を持っていることが判明して、ローマの千人隊長はパウロをローマの地で裁判にかけることにし、パウロをローマに送り出す。その間、一貫してユダヤ教の人たちはパウロに攻撃的だが、ローマの兵士たちはパウロに保護的であり、パウロに寛大な態度を示し続ける。まるで、パウロをローマに連れて行くための道具として、神様がローマの兵隊たちを用いているかのようである。パウロが書いた「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」(ローマ8章28節)の御言葉が思い起こされる。パウロが兵営に連行されるとき、兵士は一時的にパウロを担いでいる(35節)。イザヤ書46章3節から4節には、「 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」とあるが、兵士たちに担がれて連行されるパウロの姿に、私たちはパウロを担ぐ神様の姿を重ねて見ている思いになるのではないだろうか。

今年は集中豪雨により、土石流が発生し、多大な被害が生じた。被災された方々には、大変、お気の毒であった。だが、ある方がこのことに関してちょっとした文章を書いている。私たちは、それをえぐられるとか、削られるとか、壊れると言うように「 マイナス 」ととらえる。しかしある専門家はその同じ現象をとらえて、「 岩石が生産される 」と書いていた。自分たちが「 マイナス 」としてとらえていることを専門家はプラスとしてとらえているのである。ある意味、私たちは皆、専門家なのである。信仰を持っている者は、皆、生きることの専門家であると言っていいだろう。私たちは自分の生活の中で様々な「 崩れる、えぐられる、削られる、壊される 」という経験をするが、専門家である私たちはそれをマイナスとして捕らえるのではなく、プラスとしてとらえることができる。ここでのパウロのように、万事が益となるように共に働くという信仰において、プラスとしてとらえられるようになっているのである。そして神様に担われて生きているということは、そういう信仰のまなざしを与えられているということなのである。ここでのパウロのように。先週、求道者のNさんが緊急入院され、足の手術を受けられた。病院生活でたっぷりの時間が与えられた。活字に飢えた彼は、信仰の書物や聖書を読み、信仰を深めるための時として、この時を過ごそうとしている。彼もまた、既に生きることの専門家のひとりになっているように思える。感謝。2014年11月16日)

2014年11月16日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月17日~11月23日

11月17日(月) 創世記2章1節~4節a(Ⅰ)
  「 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった 」(2節)。神様は7日目に創造の仕事を離れました。神様が疲れたので休んだということではなく、創造の業に切れ目を入れられたのです。これは重要なことで、もしこの切れ目がなければ、世界と人は様の造ったロボット、つまり永久に動く機械として神の力の中にいることになります。しかし神様は良い者として人間を最後に造り、これに世界の管理を委ね、人間に自由と主体性と自立を与えて、一歩退かれたのです。人間の親子も最初は赤ちゃんが母親に頼りきっていますが、いつかは親離れをして子どもは自立して行きます。それと同じように、神様はいつまでも自分のものとして人間を縛っておくことはなさらず、人間に自由という贈り物をくださったのです。その自由をどう使うか、それが私たちの責任です。

11月18日(火) 創世記2章1節~4節a(Ⅱ)
  神様から自立して、人間は主体性という自由を与えられました。しかしそれは人間がそのまま神様のようになる、ということではありません。人間はあくまでも神様に造られたものであり、神様のように支配し、神様と並び、あるいは神様を超える存在になろうとするのは間違っています。自由を無限に大きくして行こうとする、そこに問題があります。人間にとっては限界を知るということが必要です。神のようになるというのは、人間の力を無限に広げることです。「 記録の限界 」という言葉があるように、人は限界を嫌い、それを超えて行くことに強さを感じます。しかし実は限界を知ることが、人間をより美しく、強くするのです。スポーツにおけるドーピングは、筋肉増強剤を使って、不自然に限界を超えようとするものですが、かえって体に悪影響を及ぼします。同様に、限界を超えようとすることは人間の魂に著しい悪影響を与えるのです。命もまた限界があるからこそ、美しいのです。

11月19日(水) 創世記2章4節b~9節
  「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった 」(7節)。聖書は生きている人間すべてに神の息が吹き入れられていると教えています。「 全ての人間に 」です。しかしそれに気がついていない人は多いのです。人間が神の息のリズムの中で自分の命を感じていれば良いのですが、自分自身の中に閉じこもってしまうと息ができなくなり、窒息してしまいます。狭い心の部屋に閉じこもると呼吸困難になります。「 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである 」(ルカ9章24節)。自分の心にしがみついていると、かえってそれを失う、神の呼吸に合わせることがポイントなのです。人間は生きていても、自分にしがみついてしまうと、ますます心の呼吸困難、生き難さが出てくるのです。

11月20日(木) 創世記2章10節~17節
 「 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(16節、17節)。神様は何でそんな危険なものを園の中央に置かれたのでしょうか・・・。意地悪ですか?いいえ、違います。人と人との信頼関係は、お互いが約束を守ることによって深まって行くように、神様も人間との信頼関係を深めるためのひとつの手段として、この木を配置されたのでした。神様は私たちの目の前にいろいろなものを置かれますが、決して意地悪で置かれるのではありません。必ず良き目的のために置かれるのです。

11月21日(金) 創世記2章18節~20節
  「 人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう 」(18節)、「 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった 」(20節)。人は独りで生きて行くものではないと、神様は判断されました。動物などは人を助けてくれますが、限界があり、本当の意味での助ける者とはなり得ないのです。そこでもう独り人間を造って、与えられるのですが、本来人間は、お互い「 助ける者 」同士として造られ、存在しているのです。相手が助ける者だと思えないというのは、まだその人の本当の姿、助ける者として姿に出会っていないだけです。神様はちゃんと助ける者として、そこに存在させてくださっているのです。お互いに「 助ける者 」として、そこに存在している。これは聖書が人間について語っている大切な信仰です。

11月22日(土) 創世記2章21節~25節(Ⅰ)
 「 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた 」(21節)。「 あばら骨 」という訳は意訳で、もともとはサイド、側という意味の言葉が使われています。つまり、女性と男性は同等、横並び、決して女性は男性よりも劣っているということではありません。男尊女卑の社会的背景の強い時代の影響の中で書かれている聖書ですが、その最初から聖書は女性の立場を明確に語っています。忘れてはいけないことです。

11月23日(日) 創世記2章21節~25節(Ⅱ)
  「 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる 」(24節)。一体となる、これは身体的なことを意味するたけではありません。あたかもひとつの体のように生きる、つまり「 一緒に生きる 」ということです。聖書が教える結婚の理由は、2人が一緒に生きることです。一緒に生きるために結婚するのであれば、どちらかが召されるまでは、結婚の理由は失われないのです。結婚する理由が、お互い好きだからとか、この人とだったら理想の家庭が築けそうだからという理由では、もしそうならなかったり、嫌いになったら、その生活は続けられなくなってしまいます。2人が「 一緒に生きるため 」、それが聖書の示す結婚の目的です。

先週の説教要旨「 おおらかに生きよう 」 使徒言行録21章17節~26節 

 「 あの人は車を運転すると人が変わる 」・・・正確に言うと、あの人は車を運転すると「 素が出る 」ということだろう。だから交差点と呼ばれる、車と車が(素と素が)出会うところは、お互いの自己主張が顔を合わせるようなところであって、事故がよく起きる。信号機のない交差点はまさに危険な場所である。今朝、与えられている使徒言行録の21章17節以下は、パウロたちが3回目の大伝道旅行を終えて、エルサレムに戻って来たことが記されているが、パウロたちが着いたエルサレムは、あたかも信号機がない危険な交差点のようであった。パウロの帰りを待っていた人たちの心には、パウロに対するいろいろな思いがあり、衝突事故が発生しそうなのであった。エルサレムに着いたパウロは、エルサレムの教会の指導者であったヤコブと教会の長老たちの前で、自分の宣教の様子を詳しく話した。神様を知らない異邦人の中で、神様がどんなに力強く働いてくださり、イエス様を信じる者たちを起こしてくださったか、ということを話した。教会の者たちはこれを聞いて神様を賛美した。しかし彼らには気になっていたことがあった。それは、パウロがモーセの律法をおろそかにしているという話が伝わっていることであった(21節)。ユダヤ人キリスト者たちは、イエス様を信じながら、なおモーセの律法をも固く守っていた。それを否定するようなパウロの行為にイライラしていたのである。確かに、使徒言行録13章38節~39節でパウロ「 あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです 」と律法を守ることではなく、主を信じることによって救われることを鮮明にしているし、ガラテヤ書の中では、「 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です 」(5章6節)とも言っている。パウロにとって重要なのは、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰のみである。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、復活によって罪に勝利し、罪の贖いを完成された。それだけが救いにおいて重要なのであり、それ以外のものが人を救いに預からせることはない。パウロの十字架と復活の信仰は、さしずめブランコのような信仰である。ブランコは2本の綱が一番上でしっかり縛られ、結び付けられている。その一番上からスルスル伸びた2本の綱の一番下には、人の乗る台がある。2本の綱の1本はキリストの十字架、もう1本はキリストの復活。そしてこの2本の綱が、一番上で「 父なる神 」に固く結ばれていて、一番下の台は「 救いの土台 」である。パウロはこの十字架と復活を両手に握り締め、それ以外から自由になって、救いの台に座り、風を切り、軽やかに、フィリピヘ、コリントへと大きくブランコを漕いだ。時には恐ろしい目にも遭ったが、パウロはブランコの綱を握り締めているその自分の手を、キリストご自身が背後に立って、もっと大きな御手でつかんでくださり、一緒に漕いでいられるのを感じていた。だから大丈夫だと、大胆にブランコを漕いだ。このブランコ信仰は、すべてのキリスト者の姿だ。私たちも大事な2本の綱を握り、力の限り、自由に、大胆に、軽やかにブランコを漕ぐのである。しかしそのようなパウロの信仰は、一部のユダヤ人キリスト者には受け入れることが難しかった。パウロもそのことは十分、承知していた。なぜなら、彼もまたかつては律法を頑なに守ることによってのみ、救われると信じていたからだ。 パウロにとっての十字架と復活はローマ6章3節、4節においてより丁寧に語られている。それによれば、パウロにとって洗礼を受け、キリストと結ばれることは「 律法にこだわっていた古い自分がキリストと共に十字架につけられて死ぬことであり、キリストが復活して新しい命に生き始められたように、パウロも新しい神の命に生き始めることを意味した。だからもはや律法を守るということにこだわる自分ではない。パウロにとっての律法は、キリストの愛の律だけになったのだ。だからパウロは、心配をして解決策を提案してきたヤコブの提案をすんなり受け入れることができた。その提案は、異邦人に対してはエルサレム会議の決定通り、彼らに新しく律法の要求が求められることはないが、ユダヤ人キリスト者に対しては配慮として、パウロもまた律法を軽んじてはいないことを皆に見せてほしいというものであった(23節~25節)。つまり、パウロが律法を守る人間であることを示すために、誓願を立てた4人の人を神殿に連れて行き、彼らが頭をそる費用を出すように、ということであった。パウロはそれに従い、彼らを伴って神殿に行き、すべて律法の命じるままに事を進めた。それは彼らに対するパウロの愛から出た行動であった。 もしパウロが、どちらが正しいかにこだわる信仰を持っていたら、相手の誤解を赦せず、自分が正しいことを主張したことであろう。しかし、もはやパウロは自分の正しさにこだわることにより、相手にどうしてあげたら、相手が十字架と復活の信仰に立てるようになるか、相手が信仰においてより高められるか、そのことだけを考えていたのだ。パウロは自分の正しさを主張したくなる自分に死んでいる。十字架の信仰に生きている。言わば、パウロはエルサレムという交差点に、白黒をつけて整理する信号機ではなく、十字架を立てたのだ。私たちは人間の素が激しく交差する交差点に、パウロのように十字架を立てよう。 2014年11月9日)

2014年11月9日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月10日~11月16日

11月10日(月) 創世記1章1節
 「 初めに、神は天地を創造された 」(1節)、これが聖書の最初の言葉です。「 神が 」ではなく、「 神は 」と翻訳されていることに注意しましょう。日本の昔話は「 昔、昔、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは・・・」と語りだしますね。つまり、「 」という言葉は登場人物を初めて登場させるときに用い、「 」は、すでに読み手が登場人物を知っていることを前提しているときに使われるのです。そういう意味からすると、聖書は神の存在をすべての読者が知っているという前提をもって書かれていると言えます。たとえ神を信じない人であっても、神というものがいかなるものであるかという考えがあって、それに照らして、そういうものは存在しないと言い切ることができているわけです。「 初めに、神は 」・・・どうぞ、あなたの生活がいつも神を前提とし、いつも「 初めに神 」が実践されている歩みでありますように。「 初めに自分 」ではなくて・・・。

11月11日(火) 創世記1章2節~4節
 「 神は言われた。『 光あれ 』。こうして、光があった 」(2節)。神が発せられた言葉は必ず、その通りになります。それは、私たちたちの願うような時に、願うような方法でもって、その通りになるのではありません。神が最良とお定めになった時に、最良の方法でそうなるのです。私たちには「 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない 」(マタイ7章9節~11節)という約束が与えられていますが、この言葉が成る時、成る方法もまた、そういうことなのです。

11月12日(水) 創世記1章5節
 「 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である 」(5節)。神の創造の御業について語る一節ですが、「 夕べがあり、朝があった 」と言われています。私たちの感覚では「 朝があり、夕べがあった 」という順序の方が何かスッキリするかも知れませんね。夕→朝ではなく、朝→夕、つまり闇→光ではなく、光→闇、その方が私たちの生活体験に合っているからなのでしょう。しかし、すべてのことを造り、支配しておられるお方の御業は、必ず、闇から光へと向かう性質を持っていると言うのです。たとえ、一時的にでも闇が深まったとしても、それは必ず光へと向かう途中経過でしかないのです。それが私たちの信仰です。

11月13日(木) 創世記1章6節~31節(Ⅰ)
 神はすべてのものをお造りになられました。大地、天、海、植物、魚、動物、そして人間。私たちは、すべての存在の根源に神の存在があると信じています。神の許可があって、はじめてすべての命は存在するようになるのです。人間が命を作り出すことはできません。ですから私たちは「 子どもを作る 」という言い方を絶対にしません。それは極めて不信仰な言葉です。子どもは与えられるもの、すべての命も与えられるもの、自分が作ったと考えると、それは自分のものになり、自分の思う通りに扱って当然という結論に至ります。世の中に存在する悲しみの多くは、このことに起因していると思います。命は私たちのものではなく、神のもの、神がそれを私たちに貸し与えてくださっているものなのです。

11月14日(金) 創世記1章6節~31節(Ⅱ)

 すべての造られたものの中で、人間は最後に造られました。これには深い意味が感じられます。最初に造られた者ほど、他者への依存度が少なく、後になって造られたものほど、他者に依存して生きなくてはならない度合いが高いからです。神派人間をそのような存在としてお造りになられたのです。一見すると、人間が一番強いように思えるのですが、実は一番弱いのです。一番、支えてもらう必要があるのです(特に、神に支えてもらう)。そのことを忘れて、私たちは一番強いと、傲慢になるとき、神が祝福をもって造られたこの世界を、人間がダメにしてしまうということが起こるのです。人よ、謙遜であれ、聖書はそう私たちに訴えているのです。

11月15日(土) 創世記1章27節
 「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された 」(27節)。聖書は、人間は神にかたどって創造されたのだと言います。かたどって、つまり「 似せて 」ということです。一体、どこが似ているのでしょうか・・・。いろいろなことが思い浮かぶと思いますが、より聖書に密着して考えるならば、他の被造物と人間の違いに着目することが鍵になります。その違いは、他の被造物には神の命令が与えられておらず、人間にだけ命令が与えられている(28節)。つまり、人間だけが神からの語りかけを聴き取ることができる、神とコミュニケーションを取ることができる。それが神にかたどられているということなのです。だからもし、私たちがこのコミュニケーションを持たないならば、そのとき、私たちは神に造られた人としての姿を失ってしまっているのです。

11月16日(日) 創世記1章31節
 「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった 」(31節)。神はすべてのものを良いものとして創造し、存在せしめられました。しかしそれは、神とのかかわりが保たれているという条件に於いて、ということです。その条件が崩れるとき、人は良いものではなく、悪しきものとなってしまう可能性を持つのです。しかし神との関係を回復させていただいた信仰者相互に於いては、お互いを良いものとして受け止めます。たとえそう思えなくても信仰によって。