2015年2月22日日曜日


先週の説教要旨「 捨てて命を得る 」 使徒言行録27章13節~38節 

パウロをローマへ護送する船は途中で嵐に遭い、難船してしまった。その漂流の様子が詳しく記されているが、私たちの人生も荒海の中を行く航海のようなものだと考えると、ここからもいろいろな神様からの語りかけが聞こえてくる。パウロの乗った船は総勢276人の人々が乗っていた。彼らは絶望の極みにあっ。船はアドリア海を幾日も幾日も難船となって漂流していた。船の上で人々は身を寄せ合っていよいよ迫ってくる終わりの時を待つしかなかった。人々はついに積み荷を捨て始め、とうとう船具までも自分たちの手で投げ捨てた。もはや自分で自分を救う最後の望みがなくなり、あとは運を天にまかせるしかない状況に追い込まれたのだ。「 幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた 」・・・人々はもはや食べることすらやめてしまっていた(33節)。食べることなど、この難破船の上では生命をほんの少しの間、引き伸ばすだけでしかなかった。そういう中でパウロだけが立ち上がって語り出した。「 しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです 」(22節)、「 今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください 」(33節)。明日への希望があるのだから、今日すべきこと、すなわち、食べて力をつけて「 待つ 」ことをパウロは勧めた。なぜ、パウロだけが希望を語り得たのか。パウロの目にもまた、太陽は見えず星を目にすることはできなかった。パウロも皆と同じように望みなき中にいた。それなのになぜ・・・。

パウロの確信は23節~25節の神の言葉にあった。あなたは必ずローマに行い、わたしを証することになると・・・。つまりパウロは結果を知っていたのだ。結果を知っているということは、希望を生み出す。私たちひとりひとりの人生も荒海を航海するのに似ている。海の底に何があり、どんなことが待ち構えているのか分からない。道路を走るようにはっきりとした進むべき道が見えているわけではない。突然の暴風雨に襲われることしばしば。しかしそこでなお、私たちがその航海の結果を知っているとしたら、しかもその結果最終的に祝福へとつながっていることを知っていたら、私たちは希望を失うことなく、航海を続けて行くことができるのではないか。キリスト者というのは、結果を知らされている人間のことなのである。結果を知っていて、生きている人間、それがキリスト者。その結果というのは、「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」(ローマ8章28節)。必ず、最後に神の愛が勝利して、私たちは祝福に与ることになる、ということである。たとえ厳しい思いのままにその人生を終えるようなことがあったとしても、死の向こう側の世界で「 ああ、これで良かったのだ 」と言わせていただけるような祝福に与るということである。

私は船員たちが船を軽くするために次々と積み荷を捨てたという行動に何か暗示的なものを見る思いがする。彼らにとって船を軽くすることが助かる道だったわけだ。つまり捨てることが・・・。私たちは生きている間に色々な物を集めて、人生の船が一杯になってしまっている。嵐が来たら重くて沈没しかねない状況だ。そこで問われるのは、本当に大切にすべきものと捨ててもいいものとを見分けること。大切にすべきものとは、絶望的状況においても、なお希望を与えることのできるものではないか。私たちの歩みの結果を指し示してくれる神の言葉を繰り返し聞くことである。そこに希望は生まれる。私たちは忘れやすく、目の前のことに心を奪われやすい。嵐に遭えば目の前のことに右往左往してしまい、その大切なことを忘れ、焦って行動してしまう。だから繰り返し神の言葉を聴き、私たちの歩みの結果を語る言葉を心に堆積させて行くのだ。先日、FEBCの聖書を説く番組の録音を聴いていた。ところどころに保育園の子どもたちの声も混じって録音されている。その声の方に心を奪われぬよう、集中して御言葉を聞かなければならなかった。わたしたちの生活の中には、実にたくさんの声が聞こえてくる。そういう声に惑わされず、しっかりと聴くべき言葉を聞いて行こう。

船が陸地に近づいたとき、小舟を降ろして自分たちだけ逃げようとするものが出たのは象徴的だと思う。危険を脱し、望みが生まれ始めたときこそ、私たちは危険を迎えるのだ。困難のまっただ中にいるとき、人は神に祈り、神にすがる。しかし困難から脱し始めると、人の心は罪にとらわれ、神を忘れて、神から離れても自分で何とかやっていけるのではないかと思い始める・・・。だがそうではないのだ。

この箇所で、神はパウロに与え使命-ローマでも主を証する-をパウロが全うするまでは、パウロの命を召し上げられなかった。神は、私たちひとりひとりの人生に対しても計画を持っておられ、使命を託しておられる。その使命を私たちが果たし終えるまでは、神は私たちの人生を終わりとはなさらない。どんなに激しい嵐が襲っても、その使命が果されるまで必ず私たちを守ってくださる。御言葉を通して、結果を心に刻み、希望をもって使命を果たして行こう。2015年2月15日)