2015年2月28日土曜日


先週の説教要旨「 もてなしの火 」 使徒言行録27章39節~28章10節 

子どもさんびか120番は、私の大好きな賛美歌のひとつ。その歌詞は「 どんなときでも どんなときでも くるしみにまけず くじけてはならない イェスさまの イェスさまの あいを信じて  どんなときでも どんなときでも しあわせをのぞみ くじけてはならない イェスさまの イェスさまの あいがあるから 」というもの。キリスト教信仰の精髄とも言えることが、この短い歌詞の中に込められている。使徒パウロがローマへと護送されるときに、パウロたちの乗った船が暴風に遭い、難船してしまったという箇所を読み続けている。もし、パウロの時代にこども賛美歌の120番があったら、おそらくパウロはこの賛美歌を歌いながら暴風雨と戦っていたのではないかと思う。パウロは必ず、無事にローマに到着すると神様から約束の言葉を与えられていたが、その約束が与えられていなかったら、おそらくパウロは何度も死を覚悟したのではないかと思う。そういう危機の中で、パウロはこどもさんびか120番のように、イエス様の愛を信じた。信じて行動した。その結果、パウロはどうなったか・・・イエス様の愛はどのようにパウロの身に現れたか・・・。その点に着目して、今朝、この箇所を読んでみたいと思う。

パウロたちの乗った船は最初のピンチを切り抜けた。「 あきらめの心 」に支配されていた船の中に一致と希望が生まれた。パウロが神の言葉を伝え、彼らを励ましたからである。陸は近くなり、望みも見えてきている。俺たちは助かる・・・そう思っていた矢先にさらなるピンチが起きた。砂浜のある入江を見つけて前進したのだが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだしたのである。さらに悪い動きが起こる。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったのだ。もし囚人たちを逃がしたら、監視役であった自分たちが代わりに刑を負わなくてはならないから。兵士たちが囚人を殺そうと動き出したとき、パウロはどんな思いだっただろうか。一度持ち上げられてから、いきなりズドーンと落とされる。そういうときは、以前よりも激しく心が動揺するもの。だからパウロは一生懸命、神様の約束の言葉を自分に言い聞かせていたんじゃないかと思う。信じろ、イエス様の愛があることを・・・と。すると、パウロを助けたいと思った百人隊長は、この計画を思いとどまらせ、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令したと言うのである。そして、全員が無事に上陸することができた。兵士たちは囚人たちを殺そうとした行為は、軍隊の本質を言い当てていると思う。軍隊の本質は、軍を守ることであって、国民を守ることではない。いざとなると、あの沖縄戦のように、ガマと呼ばれる洞窟に避難し身を隠していた島民たちを後から来た軍人たちが追い出し、自分たちの身の安全を計ったというようなことが起こるのである。軍隊は国民を守るものであるというのは、決して自明のことではない。むしろ軍隊が優先して守るものは、自分たちの軍なのである。そういうことを考えると、百人隊長の一言でもって、パウロたちは生き延びることができたというのは実に奇跡的なことである。ここにはイエス様の愛が働いていた、確かにパウロの身にイエス様の愛が働いていたということではないだろうか。

 パウロたちが、大荒れの海を泳ぎ、雨の打ちつける中をたどりついた島の名前はマルタ島。泳いできた276人は皆、ずぶ濡れだったが、そのような難民に対してマルタ島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、パウロたちをもてなしてくれた。このホスピタリティーによって、パウロたちは身も心も温まったに違いない。顧みて、日本列島という私たちの島は、難民へのホスピタリティーという点で、良い印象を与えているだろうか。かつて、日本列島を「 不沈空母 」のようにしたいと言った首相がいた。私たちは、要塞の島よりも、マルタ島のようにしたい、それが私たちの切実な祈りである。島の人たちが用意してくれたもてなしの火に当たっていると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、パウロの手に絡みついた。島の人々はパウロの手から、その生き物が下がっているのを見て、こう言い合った「 この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『 正義の女神 』はこの人を生かしておかないのだ 」(4節)。ところがパウロはその蝮を振り払って火の中に落とす。いくら待ってもパウロに変わった様子は見えない。その結果、彼らは考えを変えて「 この人は神様だ!」と言い出した。そしてパウロたちは島の首長プブリウスの家に招待されることになり、パウロは熱病と下痢とで床に着いていたプブリウスの父を、祈ってから手を置いて直してあげる。このことを知った島の人たちは次々とパウロのもとを訪ね、そして癒され、パウロたちが島から出帆する時には必要な品々を用意してくれましたと言うのである。私たちはこのもてなしの火の背後にも、イエス様の愛の働きを見ることができるのではないか。マルコによる福音書第16章18節には、復活のイエス様が弟子たちに授けられた約束の言葉が記されている。イエス様の愛が働いて、この約束の通りのことがパウロの身に起こった。イエス様の愛は確かにパウロに働いていた。イエス様の愛は今も信じる者に働いている。それは確かなこと。2015年2月22日)