2015年1月25日日曜日


先週の説教要旨「 主の手紙として生きる 」使徒言行録25章13節~27節 

今朝の箇所は、新しく総督として着任したフェストゥスの前で再開された裁判(25章6~11節)と26章から始まるアグリッパ王の前でのパウロの弁明との間に挟まれている箇所である。パウロの言葉もなく、フェストゥスとアグリッパ王のパウロを巡るやりとりだけが記されていて、これと言った見所がないように思われる。このような箇所はさっさと通り過ぎてしまえば良いのかも知れない。しかしこのような箇所にも私たちを立ち止まらせるものがある。光り輝くような信仰の真理が現れ出ているのである。

ここに登場するのは3人、最近着任したばかりのローマのユダヤ総督まずフェストゥス、ユダヤの王アグリッパ王とその妹ベルニケである。アグリッパは父が17歳のときに死に、王位につくべき立場にいたが、ローマの政府が若いという理由からそれを許さなかったという過去を持つ。彼の家系は王位を維持するためには何でもするという血が流れている。一方、フェストゥス総督は、かつてはローマ帝国に奴隷としてとらえられていた敵国の人間であったが、敵国から得た奴隷であっても、有能な人間であればローマの高官に任じるというローマの政策によって命拾いをし、ここまで登り詰めることができた人物である。彼らのふるまいには、この世の権力を握っている者たちが自分の地位を守ろうとして、より強い者の顔色を伺うという姿が見受けられる。また、そのような権力欲としばしば結びついている、性倫理の乱れもというものがあったとも伝えられている。そのような人物たちの会話のみが記されていて、ここには何の光を放つようなことがないように見受けられる。だが、やはりここにも信仰の真理が輝いている。フェストゥスは、アグリッパ王が表敬訪問して訪ねて来たとき、パウロのことを相談する。ユダヤの事情に詳しい彼に相談し、囚人パウロを皇帝のもとに護送する際に添付する手紙の内容に書くべきヒントを得ようと考えたのである。彼は一応、パウロに対する自分の見解を述べている。死罪に相当するようなことは何もしていない、パウロが争っている問題は彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことで、このイエスが生きているとパウロは主張していると・・・。このフェストゥスの言葉こそ、光り輝く信仰の真理である。それは、死んでしまったイエスが生きているということである。エマウス途上の二人の弟子は暗い顔をして歩いていた(ルカ24章)。十字架にかけられて死んだイエス様が生きておられるという婦人たちの報告を信じられず、イエス様が死んだ、それでもう終わったと思い込んでいたのだ。イエス様が生きておられることが分かるということは信仰の急所であり、それが分かればすべての悩みは、もはや悩みとしての力を持たないと言うことができる。なぜか。イエス様自身がこう言っておられる。「 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる 」(ヨハネ14章19節)。生ける屍という言葉があるように、人は絶望的な状況や困難に囲まれると生きる気力を失い、生ける屍のようになってしまうが、たとえそのような状況に置かれたとしても、信じる者は生き生きと生きる。主が生きておられるから・・・。主は私たちと生きた者同士としての交わりを求めておられる。だから私たちが死んだような状態に捨て置かれていることを主の愛は決してお許しにならないのである。必ず、生かさずにおかないのである。「 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる 」。裁判にかけられ不遇を味わっているパウロもその信仰に生きていた。だからこそ、信仰のことを知らないフェストゥスが数日、パウロのことを調べ、彼に接しただけで、彼はイエスが生きているということにすべてをかけており、そのことのゆえに問題に巻き込まれているのだと分かったのである。果たして、私たちの言動を見て、信仰を知らない人たちがこれと同じような感想を持ってくれるだろうか・・・あの人の言う事、あの人のやる事を見ていると「 イエスは生きている 」、あるいは「 神様って、本当にいるんだと思う 」、そう言ってもらえるだろうか。私たち信じる者が神様を信じながら、もがき苦しみ、一生懸命生きている、そうであるならば、目を見張るような立派なことをしなくても、「 神様って、本当にいるんだ 」と言ってもらえるようになる、神様がそうしてくださると私は信じている。かつて息子のことを巡って、友子がクラスメートの母親からそう言われたことがあった。私たちは決して誇れるような子育てをしていたわけではなかったのだが・・・。 

フェストゥスは、皇帝に「 確実なこと 」(26節)を書き送る書簡を求めていた。だがパウロという人は、イエス様が生きておられることが確実なこととして、誰に対してもはっきりと語りかけてやまない「 手紙 」だったのである。パウロはコリントの教会の人たちを「 キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙 」(コリント第二紙3章3節)と言った。私たちも主が生きておられることが記された生きた手紙なのである。私たちは主が生きておられることを証する手紙として生きているのだ。    2015年1月11日)