2015年1月18日日曜日


先週の説教要旨「 神の法廷を心に留め 」使徒言行録25章1節~12節 

図書館が本の福袋を始めたというニュースを見た。自分で本を選ぶと好みのものしか手に取らない。それだとどうしても世界が広がらない。そこで福袋形式にして自分以外の人に選んでもらった本を読むようにしてみよう。福袋という形式であれば、おもしろみもあって、自分の好みでないものが与えられても、読んでみようとするのではないか、というのである。なるほどと思った。神様のなさることもこれと似ていると思う。神様は私たちの信仰の世界を広げるために、私たちの好まないような体験を与えられる。しかしそのことによって、信仰の世界が広がって行く。たとえば福音書の中に、イエス様が夕方になって弟子たちを「 強いて 」舟でガリラヤ湖の向こう岸に向かわせたということが書かれている。プロの漁師であった弟子たちは、しばしば夕方からこの湖は風が強まり、荒れることがある。この時間帯に舟を出すのは好ましいことではないと知っていたから。しかしイエス様はそうするよう弟子たちに求められた。その結果、案の定、嵐に見舞われ、弟子たちは命を落とすかもしれないという恐ろしい経験をするのだが、このことによってイエス様は自然さえも言うことを聞かせることをおできになる方なのだ、この方は何という方なのかと、彼らの信仰の世界が広げられたのである。今、使徒言行録のパウロがユダヤ人から訴えられて裁判にかけられている箇所を読んでいる。エルサレムからカイサリアまで護送されて来たパウロは、総督フェリクスのもと2年間も裁判も行なわれず、留置されることになる。それはパウロにとって決して好ましいこととは思えなかったであろう。自由に世界を駆け巡り、福音を宣べ伝えることに使命と喜びを見出していたパウロなのだから。しかし神様は、こういう経験をパウロに与えられることを通して、彼の信仰の世界を広げようとしておられたのだと思う。

パウロに転機が訪れた。総督がフェリクスからフェストゥスに代わったのである。パウロは新しい総督のもと、いち早く裁判が行なわれることを期待した。しかしフェストが開いた裁判の席で、パウロのその期待は打ち砕かれる。ユダヤ人に気に入られようとしたフェストゥスは、エルサレムに戻っての裁判をパウロに打診したのである(9節)。こうして事態はパウロの思わぬ方向に動き出す。そこでパウロは言った。「 私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します 」(10~11節)。パウロは皇帝への上訴権を持ち出した。ローマ市民権を持つ者が、地方の裁判で不当に取り扱われて終わりとなることがないように、ローマでの裁判を要求できる特権である。これが出されれば、たとえ地方総督であっても拒否することはできない。このことによってパウロはローマへと移されることになるのだが、パウロとしてはカイサリアで無罪とされて釈放され、自由の身となってローマへ行くことを思い描いていたであろう。まさか囚われの身のままで・・・。かくして、「 勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない 」(23章11節)という主のお言葉は、不思議な形で成就して行くことになる。ユダヤ人たちの陰謀、そしてフェストゥスの下心、それらのものは退けられ、ただ主の御旨だけが成って行くのである。パウロは、この道が開かれるよう祈っていた、神に訴えていた。神に向かって訴える、祈る、そのことが人の道を開く、もっとも有効な武器となるのである。

「 私は皇帝に上訴します 」、パウロはローマ帝国の市民でもあったので、このように言って自分の裁判の場所を無力な地方法廷から皇帝の前に移した。このことは、私たちに大事なことを示唆していることに気がつく。私たちは自分に対する訴えや人に対する不満をどこで処理しようとするだろうか。行き当たりばったりの電話口であったり、立ち話、うわさ話など、決して好ましい形で処理しようとしないのではないだろうか。パウロの上訴から、私たちは正式な道筋に立つことの大事さを教えられる。ローマ帝国の市民であれば、皇帝への上訴であり、私たち神の民であれば、それを神に訴えるのである。それは言い換えると、祈りおいて訴えるということである。神に訴えることこそ、最もよい解決への道なのだ。今朝はヨブ記2章を合わせて読んだ。災難に見舞われたヨブを見舞おうと3人の友人が訪れる。最初は黙っていた彼らだが、次第にこのようなことになったのはヨブが罪を犯したからだと指摘し始める。そして無実だと神に訴えるヨブのその訴えをやめさせようとする。ヨブはこの試練をすでに乗り越えている信仰の告白をしていたが、友人たちの対応によってそこから引きずり降ろされるようにして、激しく神に訴えて行くようになる。かくして、最後の場面で神はヨブを正しいと認め、友人たちの発言を退ける。ヨブの物語は、神に向かって訴えることによって、難解な人生の問題が解決へと導かれることを示している。神に向かって訴えることをやめてしまっていけない。そこは私たちが本当に訴えるべき場所なのであるから。 2015年1月11日)