2015年1月11日日曜日


先週の説教要旨「この町にはわたしの民が大勢いる」使徒言行録18章1~11節 

 今朝の礼拝は、2015年の成瀬教会の活動標語、「 この町にはわたしの民が大勢いる 」の源泉となった箇所、使徒言行録18章から御言葉を聴きたいと思う。

 18章にはコリントにおけるパウロの伝道の様子が記されている。パウロはコリントの町の伝道のさなかに「 この町にはわたしの民が大勢いる 」という励ましの御言葉を聞いたのである。コリントという町は、のちにエルサレム、アンティオケアについで、当時のキリスト教会を代表するような大きな教会が建てられるようになった町である。新約聖書の中にはこの教会に宛てて書かれた手紙が2通収められている。パウロは1年半、ここにとどまって人々に神の言葉を教えた(11節)。あまり1ヶ所に腰を落ち着けて伝道しなかったパウロにとっては例外的である。言い換えるとコリントの町での伝道は成功したということなのである。なぜ、うまく行ったのであろうか。2つのことが挙げられると思う。

ひとつは、1節~3節にあるようにパウロがアキラとプリスキラという夫妻に出会ったということ。つまりパウロは伝道における信徒の協力者を得ることが出来たということであある。信仰が同じ、職業も同じということで、彼らはすっかり意気投合して、一緒に伝道した。教会の伝道というのは、伝道者だけでは成り立たない。信徒の協力者が必要、パウロはその協力者と出会うことが出来た。これは伝道が成功したひとつの大きな要因であると思う。私も伝道者のひとりとして21年働いて来た。その間に3つの教会にお仕えしたが、どこの教会においても素晴らしい信徒の協力者たちが与えられていた。私の伝道者としての生涯はそういう信徒の方々との出会いの歴史であったと言っても良いかも知れない。その出会って来たひとりひとりのお名前を書き上げたら、とても大きな名簿になってしまうだろうと思う。どんなに多くの人と思いがけない出会いをし、共に労してきたことであろうか。いただいた年賀状などを見ていると、共に教会のために労した日々を懐かしく思う。そのように、ふさわしい信徒協力者が与えられたこと、それが成功の要因となった。

もうひとつのことは、ふさわしい神の言葉が与えられ、それによって支えられることができたということである。実は、コリントにおけるパウロの働きは、最初から順風満帆だったわけでなく、むしろそのスタート時点においては、パウロは心が折れかかって、支えてもらう必要があったのである。パウロ自身がその時の思いを「 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした 」(コリント第一2章3節)と語っている。パウロの身に一体何があったのか。多く人が指摘するのは、直前のアテネの町での伝道が思うように行かず、大きなストレスを受けていたということである。アテネの伝道の様子を記した17章32節~34節には、死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「 それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう 」と言うような反応が多数を占めていたことが書かれている。伝道で思うような結果を得られず、憔悴して、挫折を体験する中で、パウロはコリントに着いたのである。そういう不安や恐れという者は、夜に噴出するものであっ、夜は悩みと不安が闊歩する時である。そうした夜のこと、主が幻の中でパウロに言われた。「 恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる 」(9節)。「 恐れなくていい 」、私が共にいるのだから・・・・。 主が共にいてくださるということは、神があなたの味方だ、ということ。今朝、私たちは礼拝に集まって来た。この新しい一年もこうやって礼拝に集う生活をするだろう。なぜ教会に来るのか。教会でしか聴けない励ましの言葉を聴くためである。その言葉は「 神が共にいてくださる、神があなたの味方である 」ということである。私たちは恐れや不安にとらわれることがある。そういうものから完全に自由ではない。今年も不安や恐れにとらわれることがあるかも知れない。しかし主が共におられるということにおいて、私たちはすでにその困難を乗り越えている!そう信じることが許されているのだ。もうひとつの伝道の成功の要因は、こういう励ましの御言葉が与えられていたことである。神様は、さらにパウロに続けてこう言われ。

「 この町には、わたしの民が大勢いるからだ 」(10節)。だから語り続けよ、黙っているな。教会の歴史において、この御言葉はまことに多くの伝道者たちの支えとなってきた御言葉である。神学生時代、因習の強い四日市の教会に夏の伝道実習に行ったことがある。そこの教会の牧師は、人々からの拒絶が続く中、この御言葉に支えられて、伝道を続けてくることができたと証された。神の民が大勢いる・・・それは、今はまだ信じてはいないけれども、やがて信じるようになる民を神様はこの町にたくさん備えておられるということを意味する。神様が民を選んで、用意しておられる。伝道はその民を集めること、御言葉というしるしを掲げて呼び集めることである。私たちがする伝道は、主のこの「 選びの跡をたどる 」ことなのであり、主の選びが早く明らかになるように私たちが仕えることなのである。「 この町には、わたしの民が大勢いる 」、昨年、この御言葉が私たちの教会でも成就して、泣かず飛ばすだったエリアからも今、求める人たちが与えられている。主の御言葉は確かだ。今年、私たちはこの御言葉に導かれて歩もう。
                                                2015年1月4日)