2015年1月4日日曜日


先週の説教要旨「 終わりの日を見つめて 」使徒言行録24章1節~27節 

24章には、カイサリア駐在のローマの総督フェリクスのもとへと護送されたパウロが、そこで裁判を受けている場面が語られている。大祭司アナニアら、パウロを訴える点は3つ。第一点は、パウロは疫病のような人間で、ユダヤ人の間に騒動を引き起こし、ローマ帝国内の平和を乱す者であること。第二点は、パウロはナザレ人の分派の主謀者で、言わばユダヤ教の異端であり、ローマ帝国が認めていない宗教を帝国内に広めようとしていること。第三点は神殿さえも汚そうとしたということ。これはローマには直接関係ないこととも思われるが、エルサレム神殿の重要性、その影響力を考えるなら、ローマも無関心でいるわけにはいかないことだろう。ろう。でしょう。神殿に対して大変大きな罪を彼は犯したと訴えているのです。
  これに対してパウロは一つ一つ反論して行く。まず第一点は、自分は騒ぎを起こすためではなく、ただ礼拝のためにエルサレムに来た。そしてまだそれから12日しか経っていないことに触れて、この短期間で騒ぎを起こすための準備などできるはずもないと述べる。第二の点は、確かに自分は彼らと異なる派に立っていることを認めつつ(キリスト教の教えはユダヤ教とは違う新しい教え)しかしそのような新しい教えによって自分たちが礼拝し、従っているのは、「 先祖の神 」であって、決して別の新しい神を礼拝しているのではないということ。第三の点は、神殿を汚すどころか、むしろ自分は神殿の儀式を守っていたところ、それを見て誤解した人たちが騒ぎを巻き起こしただけなのだということ。パウロを訴える者は、やり手の弁護士テルティロを立てていたが、パウロにはそういう援助者はいなかったか・・・。いや、いたのである。神様は「 真理の霊 」という弁護者をパウロにつけてくださっていたのである(ヨハネ15章26節)。聖霊という弁護士の力強い支えがあったからこそ、パウロは正々堂々と弁明出来たのである。
 これを聞いたローマ総督フェリクスは、どのような判断をしたであろうか。フェリクスは千人隊長リシアが下って来るのを待って裁判を下すと、裁判を延期した。そしてこの延期の期間は2年間に及ぶことになる。パウロにとっては、はなはだ無意味な2年間を過ごさなくてはならなくなったかのように思えるが、そうではない。パウロは比較的自由に行動できたので(23節)、この期間に信仰の思索を深め、フィリピの手紙など、獄中書簡と呼ばれている手紙をこの2年の間にて書くことになるのである。神様を信じる者にとって、決して無意味なことはないのである。
  さて、この裁判の中でパウロは被告として出廷しながら、もうひとつの裁判を見据えて弁明している。それは、世の終わりの日に行なわれる、神の御前における最後の審判である。パウロはその終わりの法廷をこの裁判の場でも見据えている。それは25節の正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています 」という発言によく現れている。そして終わりの日の裁きを見据えている者とそうでない者との生き方の差が、パウロとフェリクスの二人によって鮮やかに示されているのである。終わりの裁きを見据えるパウロは、「 神に対しても人に対しても、責められることのない良心を保つように努めている 」という。「 良心 」という言葉は、日本語では「 良い 」という言葉が入っているが、もともとの言葉にはそういうイメージはない。良心と訳されている言葉は、ギリシャ語では「 一緒に見る 」、「 一緒に感じる 」、「 一緒に経験 」するという言葉なのである。英語ではconsciencecon=共に、science=知ること、であり、英語も「 良い 」というイメージはない。本来、良心というものは、人間を超えた方と一緒に、見る、汁、経験する、感じているということなのである。その方の存在を意識しているとき、結果として「 良い 」者として生きようということにつながるのである。私たちは、世の終わり日、神様の前に立って裁きを受ける。しかしそのとき、私たちにも与えられている聖霊が弁護者として立ってくださり、こう言ってくださるであろう。「 確かに、この者は多くの罪を犯し、失敗をして来た者です。しかし私は、この人の人生のひとつひとつの場面で、共に見、共に感じ、共に経験し、なぜ、この者があのような発言をし、あのような行動を取ったのか、その思いはよく知っております。結果的には多くの至らなさがありましたが、この者の心には神様に向かって生きて行きたいという一筋の思いは確かにありました 」・・・そう言って聖霊の弁護によって、私たちは支えられ、永遠の命へと招き入れられるであろう。
 パウロとは対照的なフェリクス、彼はパウロを通して信仰の真理、すなわち「 正義と節制と来るべき裁き 」について聴き、その罪深い過去のことで赦しを請い、神様の前で自身の歩みを建て直す良い機会が与えられた。たが、恐ろしくなって、「 また適当な機会に」と言って悔い改めるチャンスを先送りしてしまった。フェリクスの心には確かに警報が鳴ったのだ。もしそれへの対処が適切なら、「 恐ろしくなり 」は、「 喜びと感謝になり 」に変わるはずであった。しかし、彼は「 また適当な機会に 」と言い出し、警報のスイッチを切ってしまった。誤動作により警報が度々、鳴るので警報機の電源を切っていたということのように。フェリクスには二度と「 適当な機会 」は訪れなかったであろう(27節)。                              2014年12月28日)