2014年12月21日日曜日


先週の説教要旨「人々の陰謀を縫って進むもの」使徒言行録23章12節~35節 

 ある餃子専門店の店主は色々な問題がある店にアドバイスするとき、あれやこれやと直そうとせず、一点だけ直すように指示するとのこと。人生もそういうものなのかも知れない。どんなに誠実に頑張ってみても、自分の思った通りには生きられないし、事は進まないという体験を私たちは重ねている。そうしたときに、自分のあそこが悪い、ここを直そうと、あれやこれやするよりも、一点だけを選んで、そこを直すことに集中する。そういうことなのだと思う。それでは、私たちにとってのその一点とは何なのか。そのことを今朝、与えられている聖書から聴き取りたい。
 今朝の箇所はパウロ自身の身に危機が迫っていることが、ヒシヒシと伝わってくる。パウロの暗殺計画が進められているのだ。40人以上の者たちが、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓いを立てたと言うのである。この箇所には、『 パウロの暗殺陰謀 』という小見出しがつけられ、パウロの人生にとっては確かに危機なのだが、でもそこが神様の栄光を物語る場になっていることに気づかされる。暗殺の陰謀は、パウロを再びユダヤ最高法院に出頭させるように働きかけ、議会に向かう途中に殺してしまおうというもの。ローマの役人たちは、前日にパウロを議会に引き出したときに大きく混乱した経験から、注意力を議場に集中させ、議場に赴く途中に関しては注意が甘くなっただろうから、暗殺計画は簡単に成功していたに違いない。つまり、彼らの暗殺計画は固い誓いを伴う巧妙な仕掛けになっていて、侮りがたいものだったのだ。しかしそれをはるかにしのぐ神様の良い仕掛けが、絶妙なタイミングで現れたのである。大切なメッセンジャーとして登場したパウロの甥の存在、なぜ彼が計画を知りえたのか・・・。そして彼がそれを伝えるべく、千人隊長の元へ行ったときの隊長の丁寧な対応(19節)・・・、これらは神様の不思議な仕掛けだったとしか思えない。神様の愛にあって、私たちは絶望的な状況にも必ず、絶妙な形で神様の精密機械の歯車が噛み合って動き出すような事態の展開を見ることになる。「 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する 」(箴言19章21節)。私たちの歩みには自分の描いていた計画通りに行かないことが多くある。そのとき、私たちは不安になったり、恐れたり、イライラしたりするが、そのような思い通りに行かない時に、すべてのことが主の御手の中にあって導かれているということを私たちはいつも覚えていたい。「 主の御旨のみが・・・」というのは、私たちが何を計画してもしょうがないのだということではなく、「 計画通りに行く時も行かない時も、いつも主の御旨の中にあるという平安に立とう 」という励まし、あなたは主の御旨の中に置かれている幸いな人なのですよと、という神様のお約束なのだ。私たちの人生、一生懸命誠実に生き、使命を果そうとしたとしても、苦難が到来し、危機が迫ることがある。思い通りに事が進まなかったり、失敗をしたりして落ち込み、心が折れてしまうことがある。そういう人生を生きている私たちが一点だけ直すならば(直したいことが山ほどあったとしても)・・・、それは計画通りに行く時も行かない時も、いつも私たちは主の御旨の中にあるのだということ、私たちは主の御旨の中に置かれている幸いな人なのだ、という神様のお約束を信じる、その一点だけを直すことなのであろう。
  こうしてパウロの身は、陰謀渦巻くエルサレムから100キロほど北に位置するカイサリアへと移されることになる(カイサリアには、ローマの総督府があり、ユダヤの王ヘロデの官邸があった)。ローマ総督フェリクスの元に護送されるパウロの様子が23節、24節に記されている。指揮官である千人隊長の支配化のほぼ半数の兵士が動員され、パウロは馬に乗った。その姿は犯罪者として訴えられている者のそれではなく、たくさんの兵士を引き連れて戦地から戻って来る凱旋将軍のようだ。 馬上の人となったパウロの耳には、「 勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない 」(23章11節)との神様のお約束の言葉葉が鳴り響いていたのではないか。そしてパウロは「 ここは地上の楽園だ 」とささやいたかも知れない。神を信じる者は、その住んでいる所を地上の楽園にする信仰を与えられている人々なのだと思う。「 住めば都 」という言葉があるがキリスト者こそは、「 住めば都 」を地で行くような人たちなのだ。先日の女性会、出身地と今まで生活した地域を皆に紹介してもらった。地震や災害に遭った地域もあった。私たちはひとりひとり、人生を生きて来る中で様々な経験を重ねる。思わぬ形で降りかかってくる災害ものもあれば、病気、事故、怪我、いろいろな困難や試練が私たちの人生という旅には待ち構えている。しかしキリスト者は、どこに身を置いていたとしても、そこを「 住めば都 」にしてしまう不思議な人たち。なぜなら彼らには精密機械を造られた方、主の御旨のみが実現するという方が共におられるから・・・。今朝合わせて読んだ詩編139編には、神様は本当にどこにでも私たちと共にいてくださるという信頼が記されている。パウロがカイサリアへ護送されたその道にも、主はパウロに伴っておられた。主はここにいる私たちに対しても、本当にどこにでも共にいてくださるので、私たちの生活も「 住めば都 」になる可能性に満ち満ちているのである。2014年12月14日)