2014年12月14日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月15日~12月21日

12月15日(月) 創世記10章1節~32節
  ノアの子孫の系図が記されています。こういう箇所は、読んでいてもあまりおもしろくないかも知れません。よほど、系図に関心のある方でもなければ・・・。ノアは洪水という神の裁きを通り抜けてなお、子孫を残していきました。「 生めよ、増えよ 」(創世記1章28節)の約束は、洪水の後も、なお生きていることが確証されていますね。私たちの神は裁き、滅ぼす神ではなく、裁きを通して罪を、赦し、生かそうとされる祝福の神なのです。祝福に至らせるために、時には厳しく裁かれるということもあります。神はあくまでも私たちにとって祝福の神なのです。

12月16日(火) 創世記11章1節~9節(Ⅰ)
  バベルの塔の物語。人は、多くの民族、氏族に増えましたが、同じ言語、同じ発音であることにより一致は保たれていました。「 多様性における一致 」を彼らは賜物として与えられていたわけです。彼らはその賜物を守ろうとして、世界に離散していくのを防ぐ努力を試みました。それが塔を建てることだったのです。しかし神はそれをやめさせられました。彼らが主を念頭に入れていなかったからです。神様抜きで一致を保とうとしていたのです(詩編127編1節~2節参照)。「 頂を天に 」という発想は、自分が神になりかわろうとする自己神格化、創造主と被造物の立場を主客転倒させる、被造物の越権的行為なのです。主客転倒・・・私たちが犯してしまいやすい罪です。主を主として歩めますように、それが私たちの祈りです。

12月17日(水) 創世記11章1節~9節(Ⅱ)
  バベルの塔の結果、言葉は混乱して人は散り散りになりました。それは昔のことではありませんね。文明が発達し、メディアが世界の隅々まで支配するようになった現代ですが、人と人の間に言葉はいよいよ通じにくくなっているのを実感しますね。隣国同士の争いはエスカレーへとするばかり、お互いがお互いを主張するのみで、「 共生 」ではなく、「 排除 」の原理が強く働いているように思えます。聖書は、人と人の言葉が通じなくなったことを「 神がなされた業 」だと語ります。なぜ神がそのようなことをなさったかと言うと、人は人の言葉によって生きることはできず、神と向き合い、神に聴く言葉によってのみ、生きることができるからです。だから人は、神に聴くべきために、散らされたのです。

12月18日(木) 創世記11章10節~32節
  ノアの3人の息子のうちのひとり、セムの系図が記されています。私たちはこの名前の羅列の中に、アブラムの名前を見つけることができますね(27節)。アブラムの妻の名はサライ(29節)で、「 サライは不妊の女で、子供ができなかった 」(30節)と紹介されています。このあと12章以降、アブラムを基とした神の壮大な人類救済の物語が始まります。その主人公となるアブラムたちが、深い悲しみを抱きながら生きていた人(当時の価値観では、跡取りがいないことは人として不十分だと考えられたのです)であったと言うことは、私たちを励ましますね。今のあなたの悲しみは、神様の御手のうちあり限り、悲しみのままでは終わらないのです。悲しんだ分がそっくりそのまま大きな喜びとなって神の御手から戻って来ます。

12月19日(金) 創世記12章1節~5節(Ⅰ)
 アブラムは、すべての人の祝福の源となるために神から選ばれました。祝福を自分のところに留めておくのではなく、それを他の人に手渡すために選ばれた・・・。つまり、自分が選ばれたのは、他者のために選ばれたのでした。このことは私たちが神の救いに与ったということが、何のためであったかを確認させてくれますね。私たちも他者に祝福を届けるために、他者に先立って選ばれたのです。ところで、アブラムがなぜ神に選ばれたのか、その理由は書かれていません。それはアブラムの側に選ばれるにふさわしい何かの理由があったから、と言うのではなく、神の側の全く自由な選びによって、彼は選ばれたのだ、と言うことなのです。私たちの選びの意味を今一度、受け止め直して、今日、遣わされ場に出て行きましょう。

12月20日(土) 創世記12章1節~5節(Ⅱ)
 アブラムは、神から言われました。「 あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように 」(1節~2節)。国、親族、あるいは父、これらはすべて、アブラムに影響を与え、彼の生活を成り立たせて来たもの、アブラムの日常そのものであります。神の言葉は、そこから身を引き離せ、と語りかけたのです。神の言葉は、ある意味で、私たちをその日常性の中から私たちを絶えず、繰り返し、引き離すものです。今、ここで生きている日常の生活、その状況の中に埋没し、沈み込んでしまいそうになる私たちを、絶えず、そこから引き離し、真の人生の目的地、天の故郷へと私たちを向かわせる、それが神の言葉です。

12月21日(日) 創世記12章6節~9節
  約束の地に入ったアブラムは、場所を何度か移動します。付近の住民との関係など、よそ者の彼は居づらかったこともあったのだと思います。しかしかの居た場所には祭壇が残りました。「 アブラムは・・・そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ 」(8節)とあるように。祭壇・・・それは彼が祈りながら歩いたことを物語る痕跡です。つまずいたこと、どうしてこんなことに・・・と思うこともあったでしょうが、それぞれの場所が彼のたびの一里塚となりました。信仰の歩みは、たとい失敗してもゼロからのやり直しということにはなりません。祈って闘ったその場所が、必ず次の歩みへの土台として用いられて行くのです。