2014年12月7日日曜日


先週の説教要旨「 天国の市民 」使徒言行録22章17節~29節 
  今朝の箇所、三つの「 市民権 」というものを考えさせられた。今朝は、そのことをお話したいと思う。
  第一は、ユダヤ人の市民権である。パウロを訴え、非難するユダヤ人たちは「 こんな男は地上から除いてしまえ。生かしてはおけない 」(22節)とわめき立てた。それは、パウロがユダヤ人の市民権、いわばその特権を否定することを言ったからだ。パウロは自分に与えられた弁明の機会を自身の信仰の証の場として用い、その証の中で「 行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ 」(21節)と、主から使命を託されたと語る。それは、ユダヤ人の特権だと彼らが考えていた神の救いの恵みが、異邦人にも与えられることを意味した。ユダヤ人は神に選ばれた選民としての誇りを持ち、神の救いの恵みは自分たちのものであると自負していた。そしてそれこそがユダヤ人の特権、市民権であると考えていた。パウロはそれを否定したのである。こういう選民意識は、私たちとはかけ離れたことのように思うかも知れないが、決してそうではない。よく聖書を読み、よく祈り、熱心に集会に出席し、教会のために奉仕している者は、自分はちゃんとした信仰者、あの人は自分に比べて少しだらしがない信仰者と言った具合に区別し、その人が自分と同じように扱われることに内心不満を覚えたりしやすいのではないだろうか・・・。パウロを非難するユダヤ人も、自分たちが異邦人と同じに扱われるのが、我慢ならなかったのである。だが、神の救いの恵みはパウロの言う通り、人間がどれだけ努力したか、どれだけ真面目に信仰生活を送ったかによって計られ、与えられものではない。神の救いの恵みへの応答としての熱心さ、忠実さ、努力が、結果として他者に寛容になれず、人を認められない排他主義的なエゴイズムだとしたら、それは残念なことである。それは恵みを与えてくださる神様の御心とは、遠くかけはなれている。
  第二は「 ローマの市民権 」である。パウロがユダヤ人の市民権を否定したため、今まで静かにパウロの証を聞いていたユダヤ人たちは再び、騒ぎ始めた。その騒ぎを収めようと、千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るために、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。そこでパウロは自分がローマの市民権を持つ者であると口にした。ローマの市民権を持つ者は、裁判にもかけられず、判決の出る前から、鞭で打たれて尋問されるというような野蛮な事態からは免れることができた。パウロは、それで助かったのである。ユダヤ人であるパウロがどういう理由で、この市民権を持っていたのかは分からない。しかしパウロは、自分が持っていた社会的な権利を最大限に生かして用いた。それは、命が助かるためにということもあっただろうが、神様から託された異邦人伝道の使命を考えたからこそであっただろう。神様は、伝道の働きのために、しばしば、伝道とは関係ないと思われていたものを利用なさる。泉教会の潮田先生は、現在の教会堂を入手するときに、ご自分が父親から譲り受けた「 農協の正会員 」であったことが入手の決定打となったと言う。すべてのことを相働かせて益としてくださる全能の神様は、農協の会員権でさえ、伝道の働きのための武器として用いられる方なのである。ローマの市民権は、ローマ帝国に福音を携える、異邦人の使徒となるパウロに、神が備えられた武器だったに違いない。私たちがこんなものは伝道の役には立たないだろうと決め付けてしまっているもの、それが神様の働きのために無くてはならない大事なものになるのである。ダビデは、羊飼いが獣を追い払う石投げを、ゴリアトを倒す武器にした。マタイは徴税のために使った筆を、彼の福音書を書くために役立てた。ヨセフは、父親のヤコブの遺体を約束の地カナンに葬るために、当時の医療技術の最高峰にあったミイラの技術を役立てることができた。こんなものは・・・神様にあっては、なくてはならないものなのである。あなたは自分自身のことを伝道には役に立たない者とみなしていないだろうか。決してそんなことはない。この方にあっては、あなたも確かに用いられるのである。
  第三は天国の市民権である。パウロは、ローマの市民権を盾にして鞭打ちの尋問を免れた。しかしパウロは、ローマの市民権を頼りにして生きていた人間ではない。パウロの心をいつも占めていたのは、自分はローマの市民であるという意識ではなく、自分はキリスト者であるという自覚であった。そのパウロが後に、フィリピの教会の信徒たちにこう書き送った。「 あなたがたの国籍は天にある 」(フィリピ3章20節) ・・・。パウロは、神の国の市民権、すなわち天国の市民権にこそ、信頼して生きたのである。天国の市民権、それはその市民権を与えてくださった方を信頼して生きてよいという権利。そういう者に、このお方は必ず応えてくださるという権利である。果たして・・・私たちは天国の市民権というものを日々の歩みにおいて行使しているだろうか・・・。その行使は、何よりも祈りにおける行使である。祈りは天国の市民権を行使することである。「 行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ 」(21節)と言われる主は、私たちに天国の市民権を与え、それによって生きるようにと遣わされるのである。
                                                  2014年11月30日)