2014年12月7日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月8日~12月14日

12月8日(月) 創世記5章1節~32節(Ⅱ)
  「 セトは百五歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後八百七年生きて、息子や娘をもうけた。セトは九百十二年生き、そして死んだ 」(6節~8節)。ここには、人が何年生きて、そして死んだということが繰り返されています。人はそれぞれの一生を生きて、次の世代へメッセージを残すのです。人は多くの人生を生きることはできず、制約されたただ一度の人生を生きるだけです。人は、その生き抜いた、ただ1回の人生によって、後の人たちに言葉を語るのです。「 アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています 」(ヘブライ人への手紙11章4節)とあるように・・・。それでは、あなたは何を語るのでしょうか。

12月9日(火) 創世記6章1節~13節
  創世記6章から9章は、ノアの洪水の物語です。これらの章は、私たちに神様の内にある心を直視させ、その御心をありありと知らしめます。この大洪水の出来事において、最も心を痛めておられるのは、植物や動物、人間でもありません。神様ご自身です。たとえ造られたもののすべての苦悩を寄せ集めてひとつにまとめたとしても、天の父がご自身の創造物をご覧になって抱かれる苦悩に比べたら、それは万分の一にもならないでしょう。洪水前の人間たちは、神なき人間です。神なき人間の姿を、聖書は「 堕落 」と「 不法 」(11節)の2文字をもって表します。そこで神様は一大決心をされます。それは重症患者の大手術のようです。神様は重症の患者にもなお希望を持たれるのです。「 医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である 」(マタイ9章12節)という言葉が想起されます。神様は人間にとって、最後まで名医であろうとされます。もちろん、名医たりとも直ろうとする意志のない者にとっては、いかなる巧みの業も意味をなさないのですが・・・・。

12月10日(水) 創世記6章14節~22節
  神様の後悔の中で、ノアは主の好意を得ました(8節)。ノアは人類の希望の砦となり、神様に命じられた通りに箱舟を造ります(22節)。そしてその箱舟に入った者だけが洪水による滅びから免れることができるのです。この箱舟は、長く教会を現しているのだと理解されてきました。それゆえ、教会堂を舟の形に設計することもありました。カンバーランドの渋沢教会はこの箱舟をイメージした造りになっているのをご存知でしたか。ある意味、現代人も日毎、押し寄せる様々な洪水に押し流されていますね。教会に身を寄せることが、洪水からの救いとなるのです。私たちは、ノアのように、この箱舟をせっせと造るのです。誰をも迎えられるように。

12月11日(木) 創世記7章1節~20節
  雨はやむことなく、降り続けます。水かさは増え、ついに水は箱舟を押し上げました(17節)。洪水の始まりです。しかし一方では人を打ちのめす水が、他方ではノアを高く浮き上がらせる水となる・・・。苦難が世の一切を呑み込んで行く一方で、信仰者にとってはそれが単なる苦難ではなく、試練であり、それを通じて民を救いへと引き上げて行くのです。ほとんどの人間にとって、これは苦難以外の何ものでもないと思われるようなことが、信仰ある者にとっては同時に、それは神の試練、神の祝福となるのです。神の祝福というのは、私たち人間が頭で考えるほど、分かりきった単純なものではありません。これは祝福だった、これは祝福ではなかったということは、人間には本当は分からない部分がたくさんあるのです。神によって本当に目が開かれた者たちだけが、神のなさるすべてのことは祝福となっていると知るに至るのです。

12月12日(金) 創世記7章21節~24節
  「 水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった 」(24節)。試練の恐ろしいところは、「 終わりが見えない 」ということです。洪水の中を、ノアの箱舟は漂っていました。そのまま放置されてドラマが終わるということもありえたのです。しかし、激流の中で箱舟は悠然と浮かんでいました。時代の激流の中で悠然と浮かんでいる・・・それは洪水の終わりを信じ、神の約束を信じる信仰による以外にありません。今日の教会も、神様による終わりがあると信じるから悠然と歩めるのです。

12月13日(土) 創世記8章1節~22節
 「 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『 人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ 』」(21節)。不思議な言葉です。人間もいくらか良いところがあるから赦す、というのではありません。可能性があるから受け入れようというのでもありません。人は根っから悪い、と言うのです。可能性など、ないと言うのです。それだから、もう審くことはしないと言うのです。ここは人間の弱さ、もろさ、罪悪を御自分の痛みとして担おうとする神様の決意が込められています。いかんともしがたい我が子の問題を,自分が負うしかない、と親が決意するように・・・。

12月14日(日) 創世記9章1節~28節
  神様は「 虹の契約 」を立てられました(9節~11節)。もう2度と洪水による裁きを行なわないと・・・。そのためのしるしとして虹を置かれたのです。「 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める 」(16節)。虹を見たら、しっかりしろ、気を引き締めろ、と神様は言われませんでした。虹はもう二度と地を滅ぼすことはしないという神様の約束でした。そして虹を見るたびに、16節の約束を神様が「 心に留め 」てくださるというのです。だから生きとし生ける者は、手放しで虹を仰いで喜んでいいのです。