2014年11月9日日曜日


先週の説教要旨「 涙に勝つ 」 使徒言行録21章1節~16節 
 今朝の箇所はパウロが、ミレトスの港を出て、それからカイサリアに着くまでの道筋が記されている。カイサリアはエルサレムまでもう一歩のところにある港町である。これまでにパウロは 「 マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『 わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない 』と言った 」(19章21節)、「 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません 」(20章22節~24節)と、その覚悟を示していた。パウロは、エルサレムに着くまでの間に、船が停泊した町々で、そこに生きているキリスト者たちを探し出しては、礼拝と交わりを共にした(4節、8節)。ほんの短い期間の交わりであったが、その交わりは深く、豊かなものであった。それゆえに、別れの時には家族そろって見送りに来ている(5節)。パウロは、ひとつの町にとどまりながら、そこで一生懸命にキリストに従って生きている人たちの話を聞き、その姿に触れて、大変励まされたと思う。パウロのような大きな務めを担っているわけではないが、自分に与えられた賜物を生かして、一生懸命に神にお仕えしている。自分もこの人たちと同じように、キリストに従って生き抜こうと、その決意を新たにしたい違いない。フィリポの4人の娘たちが、結婚するよりもすべてを神様に捧げて、お父さんと一緒に伝道に励んでいる姿にも力づけられたであろう(9節)。ところで、このように教会を訪ねて行くところで共通の問題が起きている。それは、教会の人たちが異口同音にパウロのエルサレム行きを止めさせようと働きかけていることである(4節、12節)。しかもそれは御霊による働きであると記されていて、その中にはパウロの心を誰よりもよく知っていた伝道者仲間のルカも含まれていた(12節)。エルサレムに行ったら、大変なことが待っている。だから行かない方がいい!そしてこの点では確かに、この後に記されているように、アガボの予言がその通り実現するのであって、パウロは縛られて異邦人の手に引き渡される。そしてローマの官警に渡され、やがてローマにまで連れて行かれることになる。ここでは、いずれの場合も霊が働いてパウロのエルサレム行きを止めようとしている。パウロも御霊の導きによってエルサレムへ行くのだと確信している。神の御霊は、賛成、反対、双方の人たちを導いているということなのだろうか、それは自己矛盾なのではないか・・・。

 私はこう思う。明らかに神の霊は双方に働いていた。こういう御霊の導きは、ちょうどイエス様が伝道の歩みを始められるときに、荒れ野の誘惑で悪魔と対決をしたときにも経験なさったことである。「 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた 」(マルコ1章12節、13節)。御霊が悪魔の試みを受けさせようと、イエス様を荒野に追いやっている。なぜ、御霊はイエス様を荒野に追いやったのか。その直前のところでイエス様は洗礼を受けておられる。そしてそこで「 救い主としてのご自分の使命 」を三位一体の神、総動員で確認しておられる。この出来事を受けて悪魔の誘惑へと導かれるのであるが、御霊はイエス様が救い主としての歩みを全うされる覚悟があるかいなかを、試すためにあえてイエス様を荒野に追いやったのである。聖書の神は従う者をあえて試される、どこまでも従って行きたいとの思いがあるかどうか・・・。アブラハムがその子イサクを捧げるよう命じられたのもその一例だ。ここでは教会員の口を通して、アガボの口を通して、そしてルカら伝道者仲間の口を通して、神がパウロを試されたと、読むことができると思う・・・。宗教改革者ルターは、試練、試みを「 神の攻撃 」と言った。ルターも、いつも厳しい戦いにさらされたときに、自分の敵であるかと思う人の、自分に対する試練の言葉を、私は神によって攻撃されている、そのように理解した。パウロはここで、神によって、イエス様と同じように試されている。その中でなお神に従い抜く思いを確かにしている。このパウロの決意の固さを知ったときに、ルカも他の仲間たちも「 主の御心が行なわれますように 」と言って、口をつぐんだ。主の御心が行なわれるように・・・。

 マルコ福音書は、そのような歩みにイエス様が踏み込んで行かれたときに、天使が一緒に仕えたと書いている。野獣も一緒だけれども、天使も一緒だったと・・。霊に満たされるとき、そこには苦しみのない安全な世界が広がるわけではない。そこには野獣と一緒に象徴される苦しみがあるけれども、同時に天使と一緒という平安もある。つまり、神が共におられるという恵みは、野獣も一緒という苦しみにおいて展開され、いよいよその姿を現して行くものなのである。苦しみがあることは断じて、神かがあなたと共におられないことのしるしではない。否、むしろその逆なのだ。パウロはそのことをよく知っていたし、その恵みに支えられていたのである。2014年11月2日)