2014年11月9日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月10日~11月16日

11月10日(月) 創世記1章1節
 「 初めに、神は天地を創造された 」(1節)、これが聖書の最初の言葉です。「 神が 」ではなく、「 神は 」と翻訳されていることに注意しましょう。日本の昔話は「 昔、昔、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは・・・」と語りだしますね。つまり、「 」という言葉は登場人物を初めて登場させるときに用い、「 」は、すでに読み手が登場人物を知っていることを前提しているときに使われるのです。そういう意味からすると、聖書は神の存在をすべての読者が知っているという前提をもって書かれていると言えます。たとえ神を信じない人であっても、神というものがいかなるものであるかという考えがあって、それに照らして、そういうものは存在しないと言い切ることができているわけです。「 初めに、神は 」・・・どうぞ、あなたの生活がいつも神を前提とし、いつも「 初めに神 」が実践されている歩みでありますように。「 初めに自分 」ではなくて・・・。

11月11日(火) 創世記1章2節~4節
 「 神は言われた。『 光あれ 』。こうして、光があった 」(2節)。神が発せられた言葉は必ず、その通りになります。それは、私たちたちの願うような時に、願うような方法でもって、その通りになるのではありません。神が最良とお定めになった時に、最良の方法でそうなるのです。私たちには「 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない 」(マタイ7章9節~11節)という約束が与えられていますが、この言葉が成る時、成る方法もまた、そういうことなのです。

11月12日(水) 創世記1章5節
 「 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である 」(5節)。神の創造の御業について語る一節ですが、「 夕べがあり、朝があった 」と言われています。私たちの感覚では「 朝があり、夕べがあった 」という順序の方が何かスッキリするかも知れませんね。夕→朝ではなく、朝→夕、つまり闇→光ではなく、光→闇、その方が私たちの生活体験に合っているからなのでしょう。しかし、すべてのことを造り、支配しておられるお方の御業は、必ず、闇から光へと向かう性質を持っていると言うのです。たとえ、一時的にでも闇が深まったとしても、それは必ず光へと向かう途中経過でしかないのです。それが私たちの信仰です。

11月13日(木) 創世記1章6節~31節(Ⅰ)
 神はすべてのものをお造りになられました。大地、天、海、植物、魚、動物、そして人間。私たちは、すべての存在の根源に神の存在があると信じています。神の許可があって、はじめてすべての命は存在するようになるのです。人間が命を作り出すことはできません。ですから私たちは「 子どもを作る 」という言い方を絶対にしません。それは極めて不信仰な言葉です。子どもは与えられるもの、すべての命も与えられるもの、自分が作ったと考えると、それは自分のものになり、自分の思う通りに扱って当然という結論に至ります。世の中に存在する悲しみの多くは、このことに起因していると思います。命は私たちのものではなく、神のもの、神がそれを私たちに貸し与えてくださっているものなのです。

11月14日(金) 創世記1章6節~31節(Ⅱ)

 すべての造られたものの中で、人間は最後に造られました。これには深い意味が感じられます。最初に造られた者ほど、他者への依存度が少なく、後になって造られたものほど、他者に依存して生きなくてはならない度合いが高いからです。神派人間をそのような存在としてお造りになられたのです。一見すると、人間が一番強いように思えるのですが、実は一番弱いのです。一番、支えてもらう必要があるのです(特に、神に支えてもらう)。そのことを忘れて、私たちは一番強いと、傲慢になるとき、神が祝福をもって造られたこの世界を、人間がダメにしてしまうということが起こるのです。人よ、謙遜であれ、聖書はそう私たちに訴えているのです。

11月15日(土) 創世記1章27節
 「 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された 」(27節)。聖書は、人間は神にかたどって創造されたのだと言います。かたどって、つまり「 似せて 」ということです。一体、どこが似ているのでしょうか・・・。いろいろなことが思い浮かぶと思いますが、より聖書に密着して考えるならば、他の被造物と人間の違いに着目することが鍵になります。その違いは、他の被造物には神の命令が与えられておらず、人間にだけ命令が与えられている(28節)。つまり、人間だけが神からの語りかけを聴き取ることができる、神とコミュニケーションを取ることができる。それが神にかたどられているということなのです。だからもし、私たちがこのコミュニケーションを持たないならば、そのとき、私たちは神に造られた人としての姿を失ってしまっているのです。

11月16日(日) 創世記1章31節
 「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった 」(31節)。神はすべてのものを良いものとして創造し、存在せしめられました。しかしそれは、神とのかかわりが保たれているという条件に於いて、ということです。その条件が崩れるとき、人は良いものではなく、悪しきものとなってしまう可能性を持つのです。しかし神との関係を回復させていただいた信仰者相互に於いては、お互いを良いものとして受け止めます。たとえそう思えなくても信仰によって。