2014年11月2日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月3日~11月9日

11月3日(月) ヨハネによる福音書20章19節~23節(Ⅱ)
  驚くべき約束と使命が、よみがえりのイエス様から弟子たちに告げられました。「 聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る 」(22節、23節)。罪を赦す権威を持っている方は、神様おひとりなのですが、その権威を弟子たち、すなわち教会に委ねると言うのです。彼らはイエス様を見捨てるという罪を犯してしまい、深い慙愧の念にとらわれ、今しがたその罪の赦しに与ったばかりの人たちです。しかし、むしろそういう彼らだからこそ、高い所に立って「 お前なんか赦されない 」と言うのではなく、低いところから「 私のような者が赦されたのだから、あなただって赦されますよ 」という言い方しかできないのではないでしょうか。教会はそのような姿勢で、この使命を果たして行くのです。それ以外ではありません。

11月4日(火) ヨハネによる福音書20章24節~31節
  疑い深いトマス、ディディモ(24節)というのは双子という意味です。聖書に双子のもう一人が登場しないことから、この双子とは精神的な意味での双子、すなわち信じたいと思いと疑いの思いが拮抗して同居していることを暗示しているのかも知れません。「 わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである 」(29節)との主の言葉が胸に迫ります。私たちもディディモのようなところがあるからです。しかし群れの中で最後まで信じられないでいた信仰弱いトマスを導くために、イエス様は再び、同じ状況に設定された部屋(トマスのことを心にかけた仲間の弟子たちが同じ体験をトマスにも味わってほしいと考えて、同じ状況を用意したのだと思われます)を訪れ、トマスめがけて言葉を語られました。そこに深い、深い慰めがあります。主は私たちをも同じように導いてくださるのです。

11月5日(水) ヨハネによる福音書21章1節~14節(Ⅰ)
  「 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた 」(4節)。一晩中働いて何の収穫もなかった弟子たちが岸に向かいます。そこにイエス様が立っておられました。偶然、立っておられたのではありません。弟子たちを待って、立っておられたのです。一生懸命働いたのに、何の収穫もない、そういうことも人生には多々、あります。つまずいたり、失敗したりして、無一物で帰って行かねばならない岸辺があります。その岸辺にイエス様は立っていてくださいます。私たちを迎えるために。人生には失うことによって初めて得ることができる出発点というものがあるのです。あなた人生の岸辺にも、主が立っていてくださいます。

11月6日(木) ヨハネによる福音書21章1節~14節(Ⅱ)
 よみがえられたイエス様が炭火の食事をもって弟子たちを迎えてくださいました。ペトロにとって、これは二度目の炭火体験ですが、この炭火は前のもの(18章18節)とは違い、罪の悲しみによって冷えてしまった彼を心の底から温めてくれます。7節にはちょっとおもしろいことが書かれています。「 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『 主だ 』と言った。シモン・ペトロは『 主だ 』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ 」。どんなに親しい仲間にも、自分の知られない部分はあるものです。だから一緒に生きていられるのです。しかし救い主の光の中では、私たちは見事に「 裸同然 」なのです。隠しようもありません。恥ずかしくて湖に飛び込んだペトロを、それでもイエス様は岸辺で待っていてくださいました。そうです、私たちは「 待たれている罪人 」なのです。

11月7日(金) ヨハネによる福音書21章15節~19節(Ⅰ)
 「 三度目にイエスは言われた。『 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか 』。ペトロは、イエスが三度目も、『 わたしを愛しているか 』と言われたので、悲しくなった 」(17節)。さすがに三度目はペトロの胸にこたえました。三度、主を否認したことを思い出したからです。しかしイエス様はその罪を問うことをなさいません。「 私を愛するか 」と、その一言だけを問われます。救い主の受難、十字架、そして復活、あの一連の出来事はまさしくつまずくペトロのためにあったことが心底分かっているならば、それでよい、とイエス様は言われるのです。もし心底分かっているならば、その感謝の思いをもって、ペトロは羊を養うことができるのです。

11月8日(土) ヨハネによる福音書21章15節~19節(Ⅱ)
 「 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである 」(18節、19節)。若い時には意欲によって生きてきました。自分で身支度をし、使命感に燃えて、生きたいところへ行きました。年をとると、自分で身支度はできなくなります。誰かの意志で、望まないところに連れて行かれます。しかし、だから惨めだということではないのです。そこに神の御心があると信じるなら、そのところでも神の栄光を現すことになるのです。

11月9日(日) ヨハネによる福音書21章20節~25節
 「 ペトロは彼を見て、『 主よ、この人はどうなるのでしょうか 』と言った 」(21節)。ペトロの信仰の道は厳しいものとなります。他の人はもと楽に信仰生活をしているように思えました。そこでイエス様は言われました。それが「 あなたに何の関係があるか 」(22節)と。ペトロは自分の歩むべき厳しい道で、主の慰めを知るのです。他の人のものではない、自分だけの人生の途上で、そこだけでしか味わえない神の恵みを知るのです。私たちもそうなのです。