2014年11月25日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月24日~11月30日

11月24日(月) 創世記3章1節
  蛇の誘惑。ここでの蛇の背後には悪魔の存在があります。悪魔が蛇を利用して人間を誘惑します。悪魔の働きは、神様と人間の信頼関係を打ち壊し、両者の関係を断たせることです。悪魔は言いました。「 園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか 」・・・これは実際に神が言われた「 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない 」(2章16節、17節)とは違います。悪魔の言葉は、いかにも神様が意地悪で心の狭い方であるかのように聞こえます。ここに悪魔の攻撃の典型があります。悪魔は、いつでも神様があなたに与えられた賜物、恵みが少ないように思わせるのです。本当はすごく大きな恵みが与えられているのに。あなたはこの悪魔の方法にたぶらかされてしまうことはないですか。神様の恵みはあなたにとっていつも十分なのです。

11月25日(火) 創世記3章2節~5節
  善悪の知識の木の実を食べると、「 目が開け、神のように善悪を知るものとなる 」(5節)と悪魔は言いました。最初の誘惑の言葉(1節)をちゃんと退けた女でしたが(2節、3節)、「 神のようになる 」という誘惑の言葉には屈してしまいます。神のようになる・・・それはいつの時代であっても、人間にとって最大の誘惑であり、罠です。私たちの心には「 神のように・・・」という欲求がこびりついています。自分が神のようになると言うのは、究極のエゴイズムですが、誰もこの誘惑から自由な者はいないでしょう。皆、自分の思い通りになることを求める心があり、その通りにならないと怒ったり、泣いたり、やる気をなくしたりするものです。でも、自分の思い通りになるより、神様の思い通りになる方が私たちにとっては幸いなのです。考え方をひっくり返す必要があります。

11月26日(水) 創世記3章6節
  神様に背いてしまう2人・・・。彼らは善悪の知識の木の実を食べてしまいます。「 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた 」とあります。結局、彼らは「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(2章17節)という神様の言葉の確かさよりも、自分たちの目で見た感覚、自分の状況判断を優先したのです。そちらの方が確かだと思い込んだのです。ここに罪の本質が顔をのぞかせています。罪は、神の言葉の確かさよりも、自分の状況判断や自分の目で見た認識の方が確かだと思い込み、神の言葉を退けてしまうことなのです。そういう姿勢には、委ねるというものが生まれる余地はありません。自分の状況判断よりも、神の言葉の確かさに立とうとする者は必ず、委ねるということを知っています。

11月27日(木) 創世記3章7節(Ⅰ)
 「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした 」。神様の「 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(2章17節)という言葉は,嘘だったのでしょうか。2人は死んでいません。いいえ、2人はこの時、確かに死んだのです。それは肉体の死ではなく、霊的な死です。人は自分の命の与え主である神様との関係が崩れると、自分の命が存在する意味や生きる目的が分からなくなります。そして「 生けるしかばね 」という言葉があるように、生物学的にただ「 生きている 」ということになっていくのです。それは肉体の死以上の苦痛となります。

11月28日(金) 創世記3章7節(Ⅱ)
  「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした 」。2人の目は開けました。2人は自分たちが丸腰であることをはずかしいと思い、それを隠しました。それが目の開けた証として聖書は伝えています。しかし2人の目が開けたことによって、見えなくなってしまったことがあります。それは、丸腰で、弱い存在であった自分たちが、自分を守ろうとしないでいられた。つまり、神様に守られていたという事実です。その事実が2人には見えなくなりました。悪い意味で目が開かれてしまったのです。悪い意味で目が開かれている人はいつでも、自分を自分の手で守ろうと汲々としています。しかし良い意味で目が開かれていない人は、神様の守りを信じて平安でいます。

11月29日(土) 創世記3章8節~11節
 「 主なる神はアダムを呼ばれた。『 どこにいるのか 」(9節)。神に背いた2人は、神様から身を隠しました。背き、罪はいつでも放置しておくと、徐々に徐々に、自分の身を神様から遠ざける方向へと引っ張って行きます。罪は隠しても解決しません。むしろ、それを神様の御前に正直に差し出し、その裁きを神様に委ねることでしか、解決しないのです。神様は罪を裁きつつも、そこに赦しを与えてくださいます。神様はその恵みを与えようと、隠れる私たちを探し出そうとしておられます。罪を犯した私たちを神様が探されるのは、私たちに赦しを与えるためであって、決して滅ぼすためではないのです。

11月30日(日) 創世記3章12節~13節
   神様から背きの責任を問われた2人は、お互いに罪を擦り付け合っています。女は蛇がだました(13節)と言っていますが、男は「 あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・・」(12節)と、神様への責任転嫁とも取れる発言をしています。これは人類最初の夫婦喧嘩ですが、お互いに責任を転嫁しては何も始まりません。責任転嫁は、よく見かけられる行為なのですが、実は罪の解決を最も遅らせる最悪の行為なのです。2章23節の賛歌は一体、どこに行ったのでしょう。