2014年11月30日日曜日


先週の説教要旨「 キリストの声を聴き 」使徒言行録21章37節~22章16節 
  パウロはユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解消するために、神殿に出かけたが、そこでユダヤ教徒たちから新たな誤解を受け、騒動に巻き込まれてしまう。その騒動を鎮静化させようとかけつけたローマの兵士たちの手によって、彼は保護されるような形で、神殿から担ぎ出されようとしていた。その途中、パウロは群集に対して語ることを許してほしいと千人隊長に求めた(39節)。それがきっかけになって、22章からパウロの弁明が始まる。まず、ユダヤの民衆に対する弁明があり、続いてユダヤ議会に対する弁明、そしてローマ総督フェリクスに対する弁明(24章)、ユダヤの王アグリッパに対する弁明(26章)というように、これから弁明が相次ぐ。今朝の箇所は、その最初としてユダヤの民衆に対するパウロの弁明である。弁明という言葉をあえて使ったが、内容的に見ると、自分が釈放されたいがための弁明ではなく、かつては熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教の迫害者であった自分が、どうして今ここに立たされるほどに、自分の人生が変わったのか、つまりキリストにとらえられた彼の証なのである。だがパウロの言葉は聴き手の心に届かない。普通は、何回か話をしても伝わらない相手に対しては、話したくなくなるものだが、パウロはあきらめることなく話し続ける。それは本当に話したいこと、伝えたいことがあったからではないか。自分の命をかけてでも、本当に伝えたいことがあった・・・だからパウロは何度でも同じことを話そうとするのである。俳優の高倉健さんが亡くなった。彼は無口であったと言われるが、たとえ無口であっても人に伝えたい、人に言い残したいという何かを人は持っているものだと思う。高倉さんは自分自身を貫くことを一番伝えたかったらしい。翻って、私たちはどうか。私たちが誰かに言い残したいこと、愛する人たちに受け継いでほしい内容とは何か・・・。もしその言葉が単に、自分自身のことだけであったり、人生に対する恨み、つらみだけであったとしたら、何と寂しいことであろうか。やはり、私たちが言い残すべきことは、本当に価値あるものであってほしいと思う。私たちは信仰を持っているからと言って、信仰を持たない他の人より優れているとは決して言えない者である。しかし私たちが伝えたいという内容については、やはり信仰を持たない他の人たちとは比べものにならないものを、私たちは神様から与えられているのではなか。

パウロの証は22章から始まるが、今朝は彼の証から2つのことを私たちは心に留めたいと思う。まず第一は、キリストと信じる者の結びつきということである。パウロは、キリスト教信者を迫害していたのだが(4節、5節)、復活のイエス・キリストは「 なぜ、わたしを迫害するのか 」(7節)と言われた。信者に対してしたことは、この私に対してしたことなのだと、主は言われたのである。それほどに、イエス様と信者は深く結びついているのだ。復活のキリストは、そこにある教会と切り離すことのできない仕方で生きて働いておられる方なのだ、ということをパウロは知らされた。後に、パウロはそのことをこう表現した。「 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です 」(Ⅰコリント12章27節)。また信者たちを励まして「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた 」(Ⅱコリント5章Ⅰ7節)と書いた。新改訳聖書はここを「 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました 」と訳していた。つまり、キリストと結びついた者は、本人だけが新しくなったというのではない、すべてが新しい。自分が経験する良いことも、悪いことも、そういうものまでも皆、新しいものになっている、今までとは違うと言うのである。たとえば、あなたが経験する苦しみも、キリストと結びついたときから、苦しみもまた新しくなっている。苦しみの意味が変わってしまっているのである。その苦しみはキリストがご自身の苦しみとして受けておられるものであるし、キリストはご自身が受ける苦しみを必ず意味ある苦しみへと変えられる方、無意味なままに終わらせない。そういう意味で、私たちの苦しみもまた新しくなっているのである。パウロはこのとき、自分が受けている苦しみをそのようなものとして受け止めていたであろうし、これは私たち全ての信仰者に与えられている祝福なのである。

もうひとつは、神はキリストに結びついた者に新しい使命、生きる目的を与えられるということ。そしてその道は、与えられる日々の出来事の中でキリストの声を聴くという形で開かれていくということ。パウロはダマスコ途上で天からの光に撃たれ、倒れてしまう。そこでキリストの声を聴くのだが、周りにいた者たちは光を見たが、キリストの声は聴いていない(9節)。同じ出来事を経験しながらも、その出来事からキリストの声を聴いた者と聴かなかった者とが、いる。こういうことは、私たちにおいてもよく起こることである。私たちが日常生活で経験する様々な出来事の中からキリストの声を敏感に聴き取り、反応する人とそうでない人とがいる。その違いは日々、祈り、神の言葉に触れているかどうかで、大きく異なる。日々、触れている人は日常の出来事の中に神の声を聴き、神の導きを敏感に感じ取る。私たちは日常の出来事の中からも神の声を聴き取り、その導きを敏感に感じられるように、日々の祈りと御言葉の生活を大切にしよう。
                                                    2014年11月23日)