2014年11月25日火曜日


先週の説教要旨「 担われて生きる 」 使徒言行録21章27節~36節 

前回はエルサレムに帰って来たパウロに対して、エルサレムのユダヤ人キリスト者たちの間で、パウロがエルサレムから離れた地域でユダヤ人に割礼や律法を守るなと教えているという誤解が広まっている、ということを知らされた。そこでエルサレムのユダヤ人キリスト者の中にいる4人の請願者の髪をそる費用をパウロが立て替えて、パウロもこのように律法を大切にしているではないか、という事を示してパウロについての誤解を解くようにと勧められた。今朝の箇所では、誤解を解こうとして行動したパウロが、神殿で新たな誤解を受け、捕らえられてしまうことになったということが記されている。その誤解は、異邦人を連れ込んではならない神殿の聖域にパウロが異邦人を連れ込んだということであった(27節)。神殿の庭の部分は、手前の部分と奥の部分を石垣によって区切られていて、その石垣の手前の部分が異邦人の庭と呼ばれ、異邦人であっても、そこまでは入ってくることができる。しかしその石垣を越えて、さらに奥へ入ることは許されない。そこはユダヤ人でなければ入っていけない。その石垣には「 異邦人がここから先に入ると死をもって罰せられる 」と刻まれた石碑が埋め込まれていたそうだ。ちょうどペンテコステの時期であり、いろいろな地方からエルサレムに巡礼にやって来る外地に住むユダヤ人たちが都にあふれていた。その中にアジア州から来た者たちがそのような誤解をして、叫び出したのである。エルサレムのユダヤ人キリスト者の中でパウロに不信感を抱いている者がいるということで、それを払拭するために神殿に行ったのに、彼らとは全く別の巡礼に来ていたユダヤ教徒たちから新たな誤解を受けるというのは、パウロにしてみれば、大変意外な、皮肉なことが起きてしまったと言える。

騒ぎが起きたとの情報は、すぐに神殿の監視に当たっていたローマの兵営に伝わった。千人隊長が部下を率いて駆けつけると、人々はパウロをリンチするのをやめた。しかし、群衆があれやこれやと叫び立てていて、騒々しくて真相をつかむことができないので、千人隊長はパウロを兵営に連れて行くように命じた。このとき、パウロは2本の鎖で左右の腕を縛られたのだろう。しかも群集があまりに騒ぐので、パウロを担がなければ階段を上っていけない。両手を縛られ、担がれて自分の足では歩けない格好になった。これは以前アガボという予言者がパウロについて予言したことが成就したのである(21章11節)。パウロは予期せぬ形で捕らえられてしまった。しかしパウロの場合、こうして逮捕され、ローマの軍隊の手に渡ったことで、それによってかえって、パウロが長年希望していたローマ行きの機会を提供することになるのである。来週以降のところでは、パウロがローマの市民権を持っていることが判明して、ローマの千人隊長はパウロをローマの地で裁判にかけることにし、パウロをローマに送り出す。その間、一貫してユダヤ教の人たちはパウロに攻撃的だが、ローマの兵士たちはパウロに保護的であり、パウロに寛大な態度を示し続ける。まるで、パウロをローマに連れて行くための道具として、神様がローマの兵隊たちを用いているかのようである。パウロが書いた「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています 」(ローマ8章28節)の御言葉が思い起こされる。パウロが兵営に連行されるとき、兵士は一時的にパウロを担いでいる(35節)。イザヤ書46章3節から4節には、「 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」とあるが、兵士たちに担がれて連行されるパウロの姿に、私たちはパウロを担ぐ神様の姿を重ねて見ている思いになるのではないだろうか。

今年は集中豪雨により、土石流が発生し、多大な被害が生じた。被災された方々には、大変、お気の毒であった。だが、ある方がこのことに関してちょっとした文章を書いている。私たちは、それをえぐられるとか、削られるとか、壊れると言うように「 マイナス 」ととらえる。しかしある専門家はその同じ現象をとらえて、「 岩石が生産される 」と書いていた。自分たちが「 マイナス 」としてとらえていることを専門家はプラスとしてとらえているのである。ある意味、私たちは皆、専門家なのである。信仰を持っている者は、皆、生きることの専門家であると言っていいだろう。私たちは自分の生活の中で様々な「 崩れる、えぐられる、削られる、壊される 」という経験をするが、専門家である私たちはそれをマイナスとして捕らえるのではなく、プラスとしてとらえることができる。ここでのパウロのように、万事が益となるように共に働くという信仰において、プラスとしてとらえられるようになっているのである。そして神様に担われて生きているということは、そういう信仰のまなざしを与えられているということなのである。ここでのパウロのように。先週、求道者のNさんが緊急入院され、足の手術を受けられた。病院生活でたっぷりの時間が与えられた。活字に飢えた彼は、信仰の書物や聖書を読み、信仰を深めるための時として、この時を過ごそうとしている。彼もまた、既に生きることの専門家のひとりになっているように思える。感謝。2014年11月16日)