2014年11月16日日曜日


先週の説教要旨「 おおらかに生きよう 」 使徒言行録21章17節~26節 

 「 あの人は車を運転すると人が変わる 」・・・正確に言うと、あの人は車を運転すると「 素が出る 」ということだろう。だから交差点と呼ばれる、車と車が(素と素が)出会うところは、お互いの自己主張が顔を合わせるようなところであって、事故がよく起きる。信号機のない交差点はまさに危険な場所である。今朝、与えられている使徒言行録の21章17節以下は、パウロたちが3回目の大伝道旅行を終えて、エルサレムに戻って来たことが記されているが、パウロたちが着いたエルサレムは、あたかも信号機がない危険な交差点のようであった。パウロの帰りを待っていた人たちの心には、パウロに対するいろいろな思いがあり、衝突事故が発生しそうなのであった。エルサレムに着いたパウロは、エルサレムの教会の指導者であったヤコブと教会の長老たちの前で、自分の宣教の様子を詳しく話した。神様を知らない異邦人の中で、神様がどんなに力強く働いてくださり、イエス様を信じる者たちを起こしてくださったか、ということを話した。教会の者たちはこれを聞いて神様を賛美した。しかし彼らには気になっていたことがあった。それは、パウロがモーセの律法をおろそかにしているという話が伝わっていることであった(21節)。ユダヤ人キリスト者たちは、イエス様を信じながら、なおモーセの律法をも固く守っていた。それを否定するようなパウロの行為にイライラしていたのである。確かに、使徒言行録13章38節~39節でパウロ「 あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです 」と律法を守ることではなく、主を信じることによって救われることを鮮明にしているし、ガラテヤ書の中では、「 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です 」(5章6節)とも言っている。パウロにとって重要なのは、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰のみである。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架で死に、復活によって罪に勝利し、罪の贖いを完成された。それだけが救いにおいて重要なのであり、それ以外のものが人を救いに預からせることはない。パウロの十字架と復活の信仰は、さしずめブランコのような信仰である。ブランコは2本の綱が一番上でしっかり縛られ、結び付けられている。その一番上からスルスル伸びた2本の綱の一番下には、人の乗る台がある。2本の綱の1本はキリストの十字架、もう1本はキリストの復活。そしてこの2本の綱が、一番上で「 父なる神 」に固く結ばれていて、一番下の台は「 救いの土台 」である。パウロはこの十字架と復活を両手に握り締め、それ以外から自由になって、救いの台に座り、風を切り、軽やかに、フィリピヘ、コリントへと大きくブランコを漕いだ。時には恐ろしい目にも遭ったが、パウロはブランコの綱を握り締めているその自分の手を、キリストご自身が背後に立って、もっと大きな御手でつかんでくださり、一緒に漕いでいられるのを感じていた。だから大丈夫だと、大胆にブランコを漕いだ。このブランコ信仰は、すべてのキリスト者の姿だ。私たちも大事な2本の綱を握り、力の限り、自由に、大胆に、軽やかにブランコを漕ぐのである。しかしそのようなパウロの信仰は、一部のユダヤ人キリスト者には受け入れることが難しかった。パウロもそのことは十分、承知していた。なぜなら、彼もまたかつては律法を頑なに守ることによってのみ、救われると信じていたからだ。 パウロにとっての十字架と復活はローマ6章3節、4節においてより丁寧に語られている。それによれば、パウロにとって洗礼を受け、キリストと結ばれることは「 律法にこだわっていた古い自分がキリストと共に十字架につけられて死ぬことであり、キリストが復活して新しい命に生き始められたように、パウロも新しい神の命に生き始めることを意味した。だからもはや律法を守るということにこだわる自分ではない。パウロにとっての律法は、キリストの愛の律だけになったのだ。だからパウロは、心配をして解決策を提案してきたヤコブの提案をすんなり受け入れることができた。その提案は、異邦人に対してはエルサレム会議の決定通り、彼らに新しく律法の要求が求められることはないが、ユダヤ人キリスト者に対しては配慮として、パウロもまた律法を軽んじてはいないことを皆に見せてほしいというものであった(23節~25節)。つまり、パウロが律法を守る人間であることを示すために、誓願を立てた4人の人を神殿に連れて行き、彼らが頭をそる費用を出すように、ということであった。パウロはそれに従い、彼らを伴って神殿に行き、すべて律法の命じるままに事を進めた。それは彼らに対するパウロの愛から出た行動であった。 もしパウロが、どちらが正しいかにこだわる信仰を持っていたら、相手の誤解を赦せず、自分が正しいことを主張したことであろう。しかし、もはやパウロは自分の正しさにこだわることにより、相手にどうしてあげたら、相手が十字架と復活の信仰に立てるようになるか、相手が信仰においてより高められるか、そのことだけを考えていたのだ。パウロは自分の正しさを主張したくなる自分に死んでいる。十字架の信仰に生きている。言わば、パウロはエルサレムという交差点に、白黒をつけて整理する信号機ではなく、十字架を立てたのだ。私たちは人間の素が激しく交差する交差点に、パウロのように十字架を立てよう。 2014年11月9日)