2014年11月16日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月17日~11月23日

11月17日(月) 創世記2章1節~4節a(Ⅰ)
  「 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった 」(2節)。神様は7日目に創造の仕事を離れました。神様が疲れたので休んだということではなく、創造の業に切れ目を入れられたのです。これは重要なことで、もしこの切れ目がなければ、世界と人は様の造ったロボット、つまり永久に動く機械として神の力の中にいることになります。しかし神様は良い者として人間を最後に造り、これに世界の管理を委ね、人間に自由と主体性と自立を与えて、一歩退かれたのです。人間の親子も最初は赤ちゃんが母親に頼りきっていますが、いつかは親離れをして子どもは自立して行きます。それと同じように、神様はいつまでも自分のものとして人間を縛っておくことはなさらず、人間に自由という贈り物をくださったのです。その自由をどう使うか、それが私たちの責任です。

11月18日(火) 創世記2章1節~4節a(Ⅱ)
  神様から自立して、人間は主体性という自由を与えられました。しかしそれは人間がそのまま神様のようになる、ということではありません。人間はあくまでも神様に造られたものであり、神様のように支配し、神様と並び、あるいは神様を超える存在になろうとするのは間違っています。自由を無限に大きくして行こうとする、そこに問題があります。人間にとっては限界を知るということが必要です。神のようになるというのは、人間の力を無限に広げることです。「 記録の限界 」という言葉があるように、人は限界を嫌い、それを超えて行くことに強さを感じます。しかし実は限界を知ることが、人間をより美しく、強くするのです。スポーツにおけるドーピングは、筋肉増強剤を使って、不自然に限界を超えようとするものですが、かえって体に悪影響を及ぼします。同様に、限界を超えようとすることは人間の魂に著しい悪影響を与えるのです。命もまた限界があるからこそ、美しいのです。

11月19日(水) 創世記2章4節b~9節
  「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった 」(7節)。聖書は生きている人間すべてに神の息が吹き入れられていると教えています。「 全ての人間に 」です。しかしそれに気がついていない人は多いのです。人間が神の息のリズムの中で自分の命を感じていれば良いのですが、自分自身の中に閉じこもってしまうと息ができなくなり、窒息してしまいます。狭い心の部屋に閉じこもると呼吸困難になります。「 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである 」(ルカ9章24節)。自分の心にしがみついていると、かえってそれを失う、神の呼吸に合わせることがポイントなのです。人間は生きていても、自分にしがみついてしまうと、ますます心の呼吸困難、生き難さが出てくるのです。

11月20日(木) 創世記2章10節~17節
 「 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 」(16節、17節)。神様は何でそんな危険なものを園の中央に置かれたのでしょうか・・・。意地悪ですか?いいえ、違います。人と人との信頼関係は、お互いが約束を守ることによって深まって行くように、神様も人間との信頼関係を深めるためのひとつの手段として、この木を配置されたのでした。神様は私たちの目の前にいろいろなものを置かれますが、決して意地悪で置かれるのではありません。必ず良き目的のために置かれるのです。

11月21日(金) 創世記2章18節~20節
  「 人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう 」(18節)、「 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった 」(20節)。人は独りで生きて行くものではないと、神様は判断されました。動物などは人を助けてくれますが、限界があり、本当の意味での助ける者とはなり得ないのです。そこでもう独り人間を造って、与えられるのですが、本来人間は、お互い「 助ける者 」同士として造られ、存在しているのです。相手が助ける者だと思えないというのは、まだその人の本当の姿、助ける者として姿に出会っていないだけです。神様はちゃんと助ける者として、そこに存在させてくださっているのです。お互いに「 助ける者 」として、そこに存在している。これは聖書が人間について語っている大切な信仰です。

11月22日(土) 創世記2章21節~25節(Ⅰ)
 「 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた 」(21節)。「 あばら骨 」という訳は意訳で、もともとはサイド、側という意味の言葉が使われています。つまり、女性と男性は同等、横並び、決して女性は男性よりも劣っているということではありません。男尊女卑の社会的背景の強い時代の影響の中で書かれている聖書ですが、その最初から聖書は女性の立場を明確に語っています。忘れてはいけないことです。

11月23日(日) 創世記2章21節~25節(Ⅱ)
  「 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる 」(24節)。一体となる、これは身体的なことを意味するたけではありません。あたかもひとつの体のように生きる、つまり「 一緒に生きる 」ということです。聖書が教える結婚の理由は、2人が一緒に生きることです。一緒に生きるために結婚するのであれば、どちらかが召されるまでは、結婚の理由は失われないのです。結婚する理由が、お互い好きだからとか、この人とだったら理想の家庭が築けそうだからという理由では、もしそうならなかったり、嫌いになったら、その生活は続けられなくなってしまいます。2人が「 一緒に生きるため 」、それが聖書の示す結婚の目的です。