2014年10月27日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月27日~11月2日

10月27日(月) ヨハネによる福音書19章28節~30節
  「 イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『 渇く 』と言われた 」(28節)。何という言葉なのでしょうか、これは・・・。イエス様はかつてサマリアの女が水をくださいと求めたときに、「 この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る 」(ヨハネ4章13節、14節)とおっしゃいました。そのイエス様がここでは渇くと言っておられるのです。渇くどころか、渇かぬものを与えることのできるお方が、私たちの罪の贖いのために、渇く立場に身を置かれているのです。たった一言の「 渇く 」。そこにどれほどの思いが込められていることでしょうか。30節の「 成し遂げられた 」という言葉と呼応して、この言葉は私たちの胸を深く貫きます。

10月28日(火) ヨハネによる福音書19章31節~37節
  「 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た 」(34節)、「 また、聖書の別の所に、『 彼らは、自分たちの突き刺した者を見る 』とも書いてある 」(37節)。兵士たちはイエス様の死を確かめるために、槍でその体を刺したと言うのです。つまり、旧約聖書に記されていた預言通りのことが行なわれたのだと言うのです。しかしイエス様の体を突き刺したのは一人の兵士の槍だということではなくて、本当は私たちひとりひとりの罪なのです。私たちの罪の鋭い穂先がイエス様の体を貫いたのです。それが聖書の伝えている信仰によるところの理解です。私たちは自分が突き刺した方と相対して生きているのです。それが私たちの信仰生活、まことに厳しくあり、かつ慰め深いものなのです。

10月29日(水) ヨハネによる福音書19章38節~42節
  イエス様の遺体を引き取ったアリマタヤ出身のヨセフという人のことが書かれています。彼は消極的な信仰者でした。「 イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた 」(38節)と言うのです。情けないと言えば、情けない弟子です。しかしその彼が極悪人の犯罪者として十字架につけられたイエス様の遺体の取り降ろしを願い、申し出たのです。この時、ペトロなどの主だった弟子たちは、皆、恐れてその姿を隠してしまっていたのです。十字架の元にはいなかったのです。そのような場面でヨセフは信仰者としての自分を奮い立たせて、遺体の取り降ろしを願い出ます。神はどのような信仰者にもその出る幕をちゃんと用意していてくださるものです。自分のような者は・・・という自己卑下はイエス様を信じる信仰にふさわしくありません。主はとっても憐れみ深い方なのですから。

10月30日(木) ヨハネによる福音書20章1節~10節
 主のおよみがえりの朝の出来事が記されています。あなたはどのようにして、キリストのおよみがえりを信じましたか。トマスという弟子は、よみがえりのイエス様に会わなければ信じられないと言いましたが、それに対抗するように9節では不思議なことが言われています。「 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである 」(9節)。復活の信仰は、よみがえられたイエス様となにか奇跡的に出会うことによって生まれるのではなく、聖書の言葉を信じることによって生まれるのだというのです。「 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています 」(第一ペトロ1章8節)。聖書の言葉に触れている生活こそが私たちに復活を信じさせてくれるのです。

10月31日(金) ヨハネによる福音書20章11節~18節(Ⅰ)
 マリアはおよみがえりのイエス様にしがみつこうとしました。もはやイエス様の墓守として生きることにしか、慰めを見いだせなくなっていたのです。しかしそのお墓も荒らされ、最後の望みさえも奪われたと思っていたマリアでしたから、イエス様の声を聞いて思わず「 もう二度と離すものか 」としがみついてしまったのです。しかしイエス様はそのマリアを留められました。まだ父の元へ上っていないのだからと・・・。イエス様は、慰めが必要なときに自由に自分で取り出して慰めを得る、そんな人間の管理下に置かれた救い主とされることを拒否されます。あなたの思いをはるかに超えて、イエス様は大きな救い主なのです。

11月1日(土)ヨハネによる福音書20章11節~18節(Ⅱ)
 イエス様は彼女のことを「 マリア 」と名をもって呼ばれました(16節)。聖書の中では、名前を呼ばれる事は重要な意味を持っています。そこには、新しい人間として造り変えられ、新たな命に生きなさいと言う神様からの召しが込められているのです(創世記22章のヤコブの例など)。今朝も、イエス様はあなたの名を呼んで、あなたを一日の歩みへと送り出してくださいます。

11月2日(日) ヨハネによる福音書20章19節~23節(Ⅰ)
 「 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『 あなたがたに平和があるように 』と言われた 」(19節)。弟子たちはひどく怯えていました。ユダヤ人たちへの恐れ(殺される恐怖)がありました。イエス様を見捨ててしまったという、十字架のもとでの挫折感もありました。その挫折した人間集団の真ん中によみがえられた主がお立ちになり、赦しの宣言をなさいました。その瞬間、惨憺たる集団は教会に成ったのです。教会は当然のことのように、ここにあるのではありません。教会になるのです。主が私たちの真ん中に来てくださることによって教会になるのです。恐れを抱くあなたのただ中にも主が立ってくださるように。