2014年10月12日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月13日~10月18日

10月13日(月) ヨハネによる福音書16章16節~24節
  「 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる 」(20節)。イエス様を信じて従って来た弟子たちは、イエス様が十字架にかけられてしまうとき、悲嘆に暮れるけれども、主の復活が起きると、その悲しみが喜びに変わるということが告げられています。信仰を持っているがゆえの悲しみを私たちは知るようになりました。信仰を持っていないときには、ちっとも悲しいと思わなかったことに悲しみを抱くようになりました。しかしそのような悲しみは喜びへと変えられる悲しみです。いつか喜びに変わる悲しみなのです。信仰者の深い喜びは悲しみをくぐって与えられるのです。

10月14日(火) ヨハネによる福音書16章25節~33節
  「 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている 」(33節)。大江健三郎さんが、チャンピオンという言葉には一番強い人という意味だけでなく、「 代わりに戦ってくれる人 」という意味があることを知ったときのお兄さんとのエピソードを感動的に記しています。私たちは、イエス様のことを私のチャンピオンと言うことができるのです。イエス様がすでに勝っていてくださる、その戦いは私たちに代わって戦ってくださった戦いなのです。だから私たちも既に勝っている!と言うことができるのです。勇気が与えられますね。

10月15日(水) ヨハネによる福音書17章1節~5節
  十字架を目前にして捧げられたイエス様の長い祈りが記されています。大祭司の祈りと呼ばれている祈りです。まず、ご自分のために祈っておられます。父なる神の栄光を現わせるようにと・・・。その祈りの中に「 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです 」(3節)という言葉があります。永遠の命の祝福は、永遠に生き続けるようになることにあるのではなく、いよいよ深く、神を知るようになる、単に知的に知っているというのではなく、人格的に知る、交わりを持つということにあります。私のことをとことん愛し、受け入れてくださる方として神を知るようになるのです。地上では十分とは言えない「 知っている 」が、いよいよ深められて行く祝福です。

10月16日(木) ヨハネによる福音書17章6節~19節
  続いてイエス様は12人の弟子たちのために祈ります。「 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです 」(14節)。この世界に生きている人は、神に属する者と世に属する者とに分けられると言うのです。その区分けは御言葉に対する姿勢によって成立しています。弟子たちはその性格や品性が優れているということでキリストの弟子なのではありません。キリストが言葉を語り、その言葉を弟子たちが聞いている。御言葉を介してつながっている、ただその一点が、弟子が弟子である理由なのです。世は(世の人は)弟子たちがのちに伝えるようになる言葉を受け入れず、語った弟子たちを憎むようになると予告されています。主が語り、弟子たちがそれを聞いている、そこに新しい世界、神の国が出現しているのです。

10月17日(金) ヨハネによる福音書17章20節~26節
 イエス様は弟子たちの伝道によって信じるようになる、いわば将来の信徒たちのためにも祈られます。現代に生きる私たちもここに含まれています。その祈りの核心は「 一つになる 」ということです。教会が一致する。父なる神と御子キリストが独立した人格でありながら、愛によって結ばれてひとつであられるように、そのことが源にあるような一致、そのことが模範であるような教会の一致を祈られています。そしてその一致の姿を見て、世の人が信じるようになると言うのです。このことは私たちの課題でもありますが、主が祈られたということは大きな支えです。

10月18日(土) ヨハネによる福音書18章1節~11節
  イエス様の逮捕の場面です。通常、逮捕する側は強気になり、逮捕される側は弱気になるものです。しかしここではそのような常識は吹き飛ばされています。「 イエスが『 わたしである 』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた 」(6節)逮捕される側であるにもかかわらず、イエス様は実に堂々としておられます。イエス様はむざむざと捕らえられてしまうのではありません。自ら強い意志をもって進み出ています。捕らえに来た者たちが打ち倒されるほどのあふれる気力をもって十字架へと踏み出されます。それは、なんとしても守らなければならない民がいるからです。この救い主の背後にいる私たちは、一人も失われることはないのです(9節)。あなたも「 失われない 」ひとりに数えられているのです。ハレルヤ。

10月19日(日) ヨハネによる福音書18章12節~14節
  逮捕されたイエス様は、ときの大祭司カイアファのところに連行されました。「 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった 」(14節)。人の思惑と神のご意志が重さなり合って、事が進展していることに注意しましょう。それは二重舞台のようです。下の舞台では、人間が悪意をもって神の御子を殺してしまおうと躍起になっています。しかし上の舞台では、神の御子を殺してしまおうとするところに現れてくる人間の罪を(人間の罪は、自分の生活から神を締め出し、無きものとしてしまうところに極まります)、父なる神が御子キリストに引き受けさせ、御子の十字架においてその罪を裁き、罪の贖いをなさろうとしておられるのです。人の罪と神の愛とが際立つ舞台、それが十字架なのです。カイアファの助言はいみじくも、その舞台の預言となったのです。