2014年10月19日日曜日


先週の説教要旨「 永遠に癒された命を生きている 」マルコ5章35節~43節

マルコ5章35節以下の物語、ここでは死の問題が扱われている。死は誰であっても避けて通れない問題。しかも死は、本人の問題にとどまらず、周りの人たちを巻き込む。死は本人にとっても、周りの者にとっても辛いことである。会堂長ヤイロは、死にかけている娘を救うために、イエス様のもとに来てひれ伏した。彼も娘と一緒に戦っている。しかしそこに悪い知らせが届く。イエス様がヤイロの家に向かう途中、娘は間に合わないで死んでしまった。だから、もう先生に来ていただくには及ばない、との連絡が入ったのだ。生きている間は希望がある、人はそう考える。医者に何と言われても、まだ生きている間は人は希望を持つことが出来る。ひょっとして・・・思いがけないことで回復するかも知れない。誰か優れた人の力に頼れば・・・。日頃は信じていなくても、きのことか、人が良いと言うことであればやってみようと思う。何万分の一の確率でも人は望みを持つ。しかし死んでしまったらどんな努力もそこで終わってしまう。死んだらお仕舞いという感覚が人にはある。ムンクという画家は、その感覚を見事に描いた人である。彼の『 おびえる少女 』という作品は、生きている人の背後にいつも死が迫っていて、誰もそれを消し去ることはできないということを現していると思う。知らせが届いた時、イエス様は会堂長に言われた。「 恐れることはない。ただ信じなさい 」(36節)と。イエス様は、娘はもう死んだから、それで信仰も祈りもそこで終わったというわけではないと言われたのである。「 なお、信じなさい 」と。愛する者の死に直面したところで、この言葉を聴くことができる者は何と幸いなことであろうか。

 ヤイロはこの言葉に支えられるようにしてさらに先へと進む。しかし、家に近づくにつれ、泣く者の声が大きく響いてくる。死の現実の前に立たされるヤイロ。しかしイエス様は「 なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ 」(39節)と言われた。イエス様にとって、死もまた、そこから娘を呼び覚ますことのできる眠りでしかなかったのだ。しかしその言葉を聞いた人々はあざ笑った。イエス様は、あざ笑った人たちを外に出して、両親と3人の弟子だけを連れて、子どものいる所へと進んで行かれる。つまり、あきらめてしまっている人たちは外に出したのだ。そしてなお、あきらめきれない、望みを捨て切れない人だけを連れて、部屋の中に入って行ったのである。なお、祈らないではいられない人々を連れて行かれたのである。私たちの信仰は、あきらめたところで終わる。ここまでは一生懸命祈って来た。しかしもうここから先は何もない、こんな辛い場面ではもう信仰は役に立たないと思ったら、そこで終わるのだ。こんなひどい場面では、もう神様は関係ないと思ったら、そこで終わってしまうのだ。しかしイエス様はさらにその先に、その向こうへと踏み込んで行かれる。なお祈らずにおれない者たちを連れて・・・。踏み込んだヤイロの目には、寝台の上に横たわる娘の姿が映った。ヤイロはユダヤ人だったから、罪と死のかかわりというものをよく知っていた。罪を持つ人間のもろさ、はかなさをヤイロは悲しみのうちに娘の姿に見ていたに違いない。阪田寛夫さんが母の死に見ていたように・・・。しかしそのとき、イエス様は子どもの手を取って、「 少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい 」と言われた。少女の手を取った・・・。死者の手を取ったのである。ユダヤでは死体に触れることは汚れることを意味した。しかしイエス様は触れた。これは主が少女の死をご自分の体に引き受けられたことを意味している。神の救い主は、私たちの一番深刻な病、死を引き受けられた。そのために神の子が死ぬということが起こる、あの十字架で。これはありえないこと、起こってはいけないことだ。しかし神の子は死ぬ。死へと向かう。十字架にかかる。死の支配する暗黒の闇の中に踏み込み、神の子がそこに身を横たえる。そしてそこからよみがえることによって、死の支配する闇の空間に、天に通じる風穴を開けられるのだ。イエス・キリストはその風穴を通して、死から天へと向かわれる。そしてキリストを信じるすべての者たちも、このキリストに続いて、このキリストが開けて下さった天に通じる風穴を通して、死から天へと向かうことができるようになる。このことをなすために、イエス・キリストは本来、ありえない死というところに、その身を置いてくださろうとしている。それがあの十字架と復活の出来事。それゆえ「 わたしは言う、起きなさい」との言葉は、イエス様の全存在のかかった、渾身の一言なのである。
 
 12歳の少女は、12歳の命をあるべき命の姿を回復した。主の癒しは私たちの命をそのあるべき姿に回復してくださる。心身の病気や私たちが生きることを妨げていた障害、それらすべてのものが、終わりのよみがえりの日には本来のあるべき姿に回復される。この身体も救われて新しくなる。私たちはその約束の日に向けて生きているのである。すなわち、永遠に贖われた命を今、生きている。それが召天者たち、信じる者たちに与えられている希望であり、慰めなのだ。                                                      (2014年10月12日)