2014年10月12日日曜日


先週の説教要旨「 与える幸いに生きる 」 使徒言行録20章25節~38節 

今朝の箇所は伝道者パウロがエフェソにある教会の長老たちを呼び寄せて語った、いわば遺言のようなものである。パウロにも長老たちにもこれが最後の別れになるという予感があった(38節)。だから長老たちはパウロの語る言葉をひとつも聞き逃すまいと、全身を耳にして聞く。語るパウロも限られた時間のどうしてもこれだけは語りたいということを厳選して語る。ここでのパウロの言葉は、教会が学び続けなければならない、言わば教会の憲法とも言われる教会の基本となる歩みを示す最も大切なことが記されている。キリストの教会に生きる者が何度も帰って来て、体得しなければならないことが記されているのである。もし、これをよく覚えて、これに従うならキリストの教会が過ちを犯すことはない、いや仮に間違いを犯したとしてもそこから立ち直ることができると、私は固く信じている。

 パウロはまず長老の起源とその務めについて語る(28節)。長老は、教会という群れ全体の世話をするために、神の霊によって立てられる者である。私たちの教会でも今、長老の選挙をしている。教会員が候補者を選ぶのだが、これは教会員の判断を用いて神の霊が選んでくださるのであって、自分たちが選ぶということではないのである。それが長老選挙における私たちの信仰である。この信仰が、長老に立てられている者に対する教会員の姿勢を造るし、またそれを支える心をも生むのである。また、長老自身にとっては、自身の力不足を嘆く必要もなくなるのである。なぜなら、神の霊が選んでくださったのであれば、必ずその務めを全うする力をも、聖霊は与えてくださるからである。聖霊は決して無責任なお方ではないのである。

 しかし長老の働きを担っていくところで、ひとつの危険があるとパウロは警告する(29節、30節)。残忍な狼どもが教会に入り込んで来て群れを荒らす。狼は奪うもの。つまり、これは神のものである教会を神の手から奪い取ってしまう人々のことを意味する。いったい、だれがそんなことをするのかと思ったところで、パウロは「 あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる 」と言う。邪説、神の恵みの福音を曲げてしまう教えを語る者があなたがた自身の中から現れる。だから、あなたがた自身と群れ全体とに気を配り、内から外からの危険に気がついてほしいと言う。どうやって気づくのか。32節、「 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです 」とあるように、神とその御言葉に委ねるのである。私たちはいろいろなことを選択しながら生きているが、信仰を持たない人は自分の選びが最後の決定となる。しかし神とその御言葉に委ねることを知る信仰者は、自分の決定が最後のものとはならない。神の言葉はどう言っているか、神の言葉こういうときにどうしろと言っているか、神の言葉に問う。そしてもし自分の判断と神の言葉とが対立したときには、自分の判断を捨て神の言葉が示す道を選ぶ。それが神とその言葉に委ねるということの具体的な姿である。もしそのように歩むのなら、教会の歩みは必ず守られるし、仮に間違ったとしても必ず立ち直れる。それは教会だけでなく、信仰者ひとりひとりの生活においても、あてはまることなのである。

 邪説を唱えてしまう者が群れから出ると言うことから、どんな邪説なのだろうかと考えるのだが、そこでパウロが主イエス御自身の「 受けるよりも与える方が幸いである 」との言葉を思い出せと言っていることは興味深い。私たちはこの事場にアーメンと言えるだろうか。もしいえないなら、そこにはすでに悔い改めて、もう一度神の言葉に身を委ねることが求められていることになろう。私たちは厳しい現実の生活を生きている中で、与えるよりも受ける方が幸いだとの考えに絶えず引き込まれる危険にさらされている。しかしそれは主の言葉と対立することである。その対立の中にこそ、私たちの罪とイエス様の十字架とが際立って現れてくる。ところでなぜ、与える幸いに生きよと主は言われたのであろうか。それは主ご自身が誰よりも与える幸いに生きられた方だからである。『 おおきな木 』という絵本があるが、原題はThe Giving Tree 』である。幼い坊やの成長を見守り、与え続ける木と坊やの物語である。坊やのために、実も枝も幹もすべて与えてしまい切り株になってしまう木、それでも坊やと共にいる喜びを求め続ける木は、まさにイエス様のことを指しているのだと思わされる。この木が表しているイエス様と出会い、その愛を知らされるとき、人は受ける幸いに生きるところから与える幸いに生きることへと、シフトチェンジするのである。もはやこの道以外に自分の進む道はない、主の歩みとひとつとなる歩みに深い喜びを見出すようになる。かつての私がそうだった。私は与えることではなく、むしろ得ることを人生最大の目標として歩んで来た。自分が得ることのために、家族を犠牲にしてしまったこともあった。得ることのみを追い続ける者は、必ず周りの者を犠牲にしてしまう。しかし教会に導かれ、イエス様の大きな愛に出会ったとき、得たいと願いつつも得られないという悩みはまことに小さなものとなった。神の愛がその悩みを飲み込んでしまったのである。おそらく、これはすべての信仰者の経験であろう。神に感謝! (2014年10月5日)