2014年10月19日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月20日~26日

10月20日(月) ヨハネによる福音書18章15節~18節
  「 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた 」(18節)。逮捕されたイエス様のことを気にしたペトロはそっとあとをつけて来て、大祭司の庭に忍び込みました。そこでペトロは生涯、忘れられないこのとき、ペトロが暖をとった炭火、それはいかにしてイエス様を死刑に定めようとか躍起になる大祭司カイアファの庭の「 闇の子たち 」の炭火でした。それは正義よりも利害、永遠よりも今、霊よりも肉の欲を喜ばせる世俗の暖のぬくもりでした。ペトロはイエス様の弟子であることを否定して、そのぬくもりに身を置き続けました。しかしこの一瞬の暖が、のちにペトロをどんなに寒々と震え上がらせたことでしょうか。イエス様との関わりを絶つところで、私たちが真に身も心も温められる場所など、この世には存在しないのです。

10月21日(火) ヨハネによる福音書18章19節~24節
  「 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。『 わたしは・・・・』」(19節、20節)。アンナスは、イエス様の教えについてだけではなく、弟子たちのことも尋ねました。しかしイエス様は弟子たちの「 」となって、そのような尋問には答えず、ご自分のことをお語りになりました。現代は情報開示が強く叫ばれている時代ですが、あなたはイエス様のように、仲間を守るために情報を与えないという静かな勇気を持っていますか。イエス様はご自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちのことをお語りにならず、なおもそんな彼らを守ろうとしています。あなたのすべてを知っておられる方は、同時にあなたを守ることに徹してくださる方でもあります。

10月22日(水) ヨハネによる福音書18章25節~27節
  シモン・ペトロの信仰の火とは消えてしまいそうです。激しい尋問の前にペトロは、それを打ち消して「 違う 」と言ってしまいます。聖書はその最初から(創世記2章)、人間の祝福は神と共にあることだと言っています。聖書の最後また、祝福の回復として、神が人と共にあることを語っています(ヨハネ黙示録21章)。ペトロは聖書が語るその大いなる祝福を自ら否定しています。何と悲しいことでしょうか。しかしこのペトロのために「 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った 」(ルカ22章32節)との、イエス様の言葉が伝えられています。主はいつも悔い改めてやり直す道を残していてくださいます。たとえ試練に負けて信仰の挫折をしてしまうときであっても・・・。

10月23日(木) ヨハネによる福音書18章28節~38節a
  裁かれるイエス様と裁く立場のローマ総督ポンテオ・ピラト。ここでの2人の振る舞いを見ていると、どちらが裁く側なのか、よく分からなくなりますね。堂々としたイエス様とユダヤ人とイエス様の間を右往左往するピラト。イエス様に問うことは、それによって反対に自分がイエス様から問われる形になるものです。ピラトはイエス様に問うことによって、自らの決断、真理に属する者となるか否かを問われています。私たちの祈りも、神様に問うことでありながら、実は逆に神様から問われるという形に導かれることがしばしばですね。どうぞ真理につく者であれ。

10月24日(金) ヨハネによる福音書18章38節b~19章16節a
 ポンテオ・ピラトはイエス様に「 真理とは何か 」(38節a)と尋ねておきながら、その真理を本当に理解し、その真理を大切にしようとはしませんでした。イエス様に何の罪も見出せなかったにもかかわらず(38節)、結局はバラバの釈放を要求するユダヤ人たちの声を聞いてしまうのです(16節)。ピラトは自分の良心とはうらはらな行為をさせられることになりました。真理に従う思いよりも、自己保身の思いの方が強かったのです。身につまされます。私たちのうちには「 十字架につけろ 」と叫ぶような言わば、積極的に犯してしまう罪もありますが、ズルズルと押されて、心ならずも「 引き渡してしまう 」消極的な罪もあります。そしてどちらかと言うと、大方は後者の罪なのです。

10月25日(土) ヨハネによる福音書19章16節b~27節(Ⅰ)
 ついに、イエス様は十字架にかけられて殺されてしまいます。人々は皆、自分たちの思いを貫きとおして、勝利をしたと思っていました。自分を神呼ばわりする不敬虔極まりない男を殺すことが出来たと、溜飲を下ろす思いでした。しかし24節が示しているように、これらはすべて神様の筋書き通りだったのです。神様が人間の罪をイエス・キリストに引き受けさせて、そのイエス・キリストおいて裁かれたのです。こうして人間の罪は裁かれ、贖われたのです。キリストの犠牲に於いて。このキリストの出来事をあなたはどのように引き取るか、そのことが問われています。この箇所の最初と最後は、イエスを引き取ったということで始まり、終わっています。最初のそれは、罪と不信仰を印象づけるものであり、後者は信仰の応答です。私たちは十字架の出来事に対して後者のような「 引き取り」をしたいですね。

10月26日(日) ヨハネによる福音書19章16節b~27節(Ⅱ)
  「 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」(18節)。犯罪人の二人が十字架につけられています。彼らは自分の罪の生涯の結末を迎えているのです。私たちもいつか、この体の死のときを迎えなければなりません。罪の結末という意味もそこにはあるでしょう。ですから楽ではありません。しかしその死にはもはやのろいはないのです。私たちの隣で救い主がその呪いのすべてを受けてくださっているからです。死は苦しいですけれども、それは新しい永遠の命への入り口なのです。