2014年10月6日月曜日


先週の説教要旨「 礼決められた道を走り 」使徒言行録20章13節~24節 

パウロは、当時の世界の中心ローマへと赴くことを神の導きであると信じ、一路ローマを目指している(19章21節参照)。一度エルサレムに戻り、そこからローマへ向かう計画を立てていたが、パウロはアジア州で時を費やさずに早くエルサレムに戻ろうとしていた(16節)。だがアジア州の教会のことが気にかかったパウロは、自分からエフェソには立ち寄らなかったが、代わりにエフェソの教会の長老たちにミレトスまで来てもらって、そこで伝えたい言葉を語った。そのことが17節から38節までのところに記されている。今朝は、その前半のところを読む。

この箇所には、伝道者パウロの生きる姿を実によく表している言葉がある。「 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果すことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません 」(24節)である。人生の充実を感じさせる言葉だ。パウロは、御霊が導くままにエルサレムに行く。そこでどんなことが起こるのか分からないけれども、ただはっきりしていることは、どこに行っても投獄と苦難が待ち受けているということ。だがそれでいい。それが自分にとって決められた道だから、神が定めた道だから・・・と言う。しかし神の定めの道を行くパウロには、悲壮感とかあきらめというものは感じられない。パウロにとって、決められた道は自分の苦しみの中に見えてくるのでない。自分の涙の中に感じ取るものでもない。パウロは涙を流し、投獄と苦難の道を経験するだろうが、その中で語るのは福音、喜びの知らせなのである。悲壮感の中で語られる喜びは、相手には喜びとして伝わらない。喜びの知らせというのは、それを語る本人が喜んでいないと、喜びの知らせとはならない。パウロにとって、自分の決められた道を走るというのは、投獄や苦難があるけれども、一番深いところでは喜びに生かされている。そういう道。だから悲壮感ではなく、充実感があふれるのである。私たちの人生を充実させるものは、仕事、勉強、スポーツ、趣味、恋愛、奉仕、旅行など、決して少なくない。しかしこのパウロの姿から私たちが感じることは、そういうものではない、もっと別のものが私たちの人生を充実へと導くということではないだろうか。多くの人は困難がないことがその人生を幸せに、そして充実したものにすると考えている。しかしたとえ投獄があり、困難があったとしても、それらを貫いて人生を充実させてくれるものが確かにあるのだ! アメリカで黒人解放運動を行なったマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺される前日に行なった講演は、まさにパウロと同じ充実感を漂わせている。死を予感しながら語られたものであるが、気品を漂わせる生の充実ということを思わされる。一体何が、彼らを充実させていたのか。パウロは、そういう人生のありようを「 走る 」と表現するのだが、何が彼らをして、そのように走らせていたのであろうか・・・。人間的情熱でそれができないことは言うまでもない。福音を伝えなければならないという義務感、それも違う。

太宰治の作品に『 走れメロス 』がある。暴君を暗殺しようとして捕まった正義漢メロスは死刑に処せられることになる。しかしメロスには妹の結婚式があり、それで3日間だけの猶予を願い、必ず帰るからと言い、友人のセリヌンティウスを人質として王に差し出す。人を信じていない王は、これはおもしろいとメロスの申し出を受け入れる。無事に妹の結婚式を済ませたメロスは、友が待っている王城に戻るため、走る。様々な困難、誘惑に打ち勝ってメロスは走り続け、ついに友との約束を果す。メロスを走らせたのは、彼の剛健な体力ではなく、彼の義理堅さでもなかった。そうではなくて「 信頼されている 」(友に)ということであった。同様に、パウロを走らせているものは信頼、神がパウロを信頼しておられるということなのである。かつて、パウロは教会を迫害する人間であった。神に敵対してしまっていた人間、そのパウロが今では、神に罪赦されるばかりか、信頼され、福音を伝える人間として福音を委ねられている。罪人を義人とみなす神の信頼、その信頼こそがパウロを走らせる。私たちの人生を充実させるものは、決して少なくはない。しかし私たちの人生を真に充実させるものは、神の愛なのだ。神があなたを愛し、あなたのことを深く信頼し、あなたにしかできない働きを託してくださっている。それが充実を生む。人間には、神だけがそこを満たすことのできる「 内なる部屋 」がある。そしてその部屋が人生を生きる上で決定的な意味を持っているのでる。

 金曜日、清瀬の喜望園に武井百合子姉を数人で訪ねた。結核患者の療養施設として都が建てた施設である。聖餐を伴う小さな礼拝をした。マタイ13章の真珠商人の話をした。高価な真珠をひとつ見つけると、持っているものを全部売り払い、そのひとつを買う。神様にとって、武井さんは高価の真珠のような宝。自分の持ち物のすべてを差し出しても、ご自分の独り子イエス・キリストの命を差し出してでも、手に入れたい、武井さんは神にとってそういう存在なのですよと話すと、「 そんな、もったいない 」と言われた。それじゃ赤字の取引だと・・・。しかし神はその取引をされる。パウロもまた、なんともったいないと思っていただろう。しかしそれが彼の走る原動力なのである。私たちもそうなのだ。 (2014年9月28日)