2014年9月28日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月29日~10月5日

9月29日(月) ヨハネによる福音書12章20節~26節
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ 」という24節の言葉、とてもよく知られている言葉です。この聖書の言葉が好きだという人も多いようです。この言葉が示している大切なことは、私たちの命は、イエス・キリストの犠牲の上に成り立つ、いわばイエス・キリストという一粒の麦の実りであるということです。もし私たちの日々の歩みが命をただ浪費しているような歩みになってしまっているならば、そのとき私たちは自分の命の重さを忘れてしまっているのです。あなたの命は、イエス・キリスト、神の御子という一粒の麦の実りなのです。

9月30日(火) ヨハネによる福音書12章27節~36節前半
 「『 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう 』。 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである 」(32節、33節)。私たちにやがて必ず訪れる死のとき。そのとき、私たちはどのような思いになり、何が支えとなるのでしょうか。その時が来て見ないとわからないことも多いと思います。しかしそのとき、このヨハネ福音書の言葉を思い出してください。そして自分自身にこう言ってあげてください。「 お前が死ぬことは、イエス・キリストのもとに引き寄せられることなんだ。恐れることはない。不安になることはない。この御言葉がお前には与えられているのだ。キリストを信じ、キリストの者とされているお前は、この『 すべての人 』の中に数えられているのだ 」と。道の世界へと足を踏み入れることになる死、それでも私たちには望みありです。

10月1日(水) ヨハネによる福音書12章36節後半~43節
 この世の人は光を憎み、闇に生きることを愛しました。そのことをヨハネは預言者イザヤの言葉が実現したのだと言います。40節の「 神は彼らの心を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして彼らは目で見る事なく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない 」という言葉は、人々がイエス様を信じないのは、神が彼らの心をかたくなにしたからだと言っているように読めます。しかし神は独り子をお与えになるほどに世の人の救われることを願っておられることに照らして考えると、その読み方は間違っていることが分かります。これは、もともと彼らの心の中にある思い、すなわち光よりも闇を好む思いが福音を聞くことによって、はっきりと外側に現れてくると言うことなのです。「 神の定め 」が問題なのではなく、神からの誉れよりも人間からの誉れを好む「 」が問題なのです。
 

10月2日(木) ヨハネによる福音書12章44節~50節
  「 イエスは叫んで、こう言われた 」(44節)。私たちは日常生活の中で、あまり叫ぶことをしません。時々、誰かを呼び止めようとしたり、危険が近づいている事を知らせる時に叫ぶことがあります。イエス様の叫びも、私たちに危険が迫っている。このままでは危ない。何としても、大声で呼び止めなくてはいけない。私たちの魂の救いを求めるイエス様の熱望が思わず叫びとなって現れたのです。46節の「 光と闇 」の対照ですが、神のまなざしに照らし出される人間の姿は闇に生きているか、光に生きているかのどちらかです。「 だれも暗闇の中にとどまることがないように 」(46節)、光として来られたイエス様の叫びがあなたに届いていますよ。

10月3日(金) ヨハネによる福音書13章1節~11節
 過越しの食事の席でのこと、通常は奴隷がする「 足を洗う 」という行為を主であるイエス様がなさり始めました。ペトロは驚いて、これを拒否しようとします。イエス様は、人間の罪を拭い、人を洗い清めるというご自身の救いの御業を象徴する行為として、弟子たちの心深く記憶されるようにと、これをしたのでした。足は、人間の体の中で最も汚れる部分、汚れの象徴です。しかしペトロはその意味するところが分からず、とんちんかんなことを言っています(8節)。「 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた 」(1節)とあるように、イエス様はご自身の持てる最高の愛を注いで、これをなさったのです。愛の行為は、その愛が深ければ深いほど、すぐには分からず、あとになって分かるものなのです(7節)。

10月4日(土) ヨハネによる福音書13章12節~20節
  「 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない 」(14節)。イエス様は、洗足の行為に二重の意味を込めておられます。ひとつはご自身の贖いを象徴する行為として。もうひとつは、互いに仕え合う模範の行為としての意味。私たちが本当に人に仕えるというのは、その人の前に身を低くし、足を洗うほどに身をかがめなくては(謙遜になるのでなければ)決してできないことなのです。そしてそれは、自分の命はイエス・キリストの贖いのゆえに今、こうしてあるのだということが心底、分かったというところからしか、生まれて来ない行為なのです。

10月5日(日) ヨハネによる福音書13章21節~30節
  イエス様はひとりひとりの前にひざまずいて、弟子たちの足を洗われました。その部屋には、イエス様の愛と赦しに包まれた温もりがありました。しかしそこから外へと、ユダが飛び出したとき、夜の闇がユダを飲み込んでしまいました。「 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった 」(30節)。夜であったというのは、とても象徴的ですね。イエス様の愛はユダにも十分に届いていました。しかしユダはそれを振り切って出たのです。人は、神の愛から排除されて、神を捨てるのではありません。神の愛を振り切って、神を捨てるのです。