2014年9月7日日曜日


先週の説教要旨 「 私たちは神の子 」使徒言行録19章1節~20節 

第19章はパウロのエフェソ伝道、その前半の様子を伝えている。パウロは2年半の間、エフェソで伝道した(8節、10節)。その間に起きた2つの出来事(1節~7節と11節~20節)がここに記されている。それぞれ別々の出来事が記されているようにも思えるが、実はこの2つのことは深く関連している。
 まず1節~7節のヨハネの洗礼を巡る出来事であるが、パウロがコリントに来たとき、そこで何人かの弟子たちにあった。しかし、一緒に過ごし、言葉を交わしているうちら、何か「 これは違う 」、と感じるところがあったのだろう。「 信仰に入ったとき、洗礼を受けましたか 」と聞いてみた。「 聖霊があるかどうか、聞いたこともありません 」と彼らは答えた。そこでパウロは、「 どんな洗礼を受けたのか 」と続けると、彼らは「 ヨハネの洗礼です 」と答えた。彼らはヨハネの洗礼を受けていたが、そのヨハネが「 わたしの後から来られる、わたしよりも大いなる方 」からの洗礼はまだ受けていなかったのだ。すなわち、イエスの名による洗礼である。私たちは神を信じたとき、その信じた人に洗礼という儀式を施す。牧師がその人の頭の上に水で濡らした手を置いて、父と子と聖霊の名によって、この人が神の子となったことを宣言する、それが洗礼の儀式。この洗礼を受けると、そこで決定的なことが起こる。それは聖霊が、その人に与えられるということである。聖霊というのは神の霊。私たち人間は、肉体と霊からなっている。私たちひとりひとりには、自分の霊というものがあり、それが肉体と結びついてひとつの命を形作っている。その私たちの霊の部分に、神の霊が入り込んできて、いわば、神の霊との同居生活が始まる。それが洗礼を受けるということである。そして聖霊を受けた時、私たちはどういう者になるかと言うと、「 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『 アッバ、父よ 』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます 」(ローマ8章15節、16節)とあるように、私たちは神の子となる。神を父と呼ぶ神の子になるのである。先例を受け、神の霊をいただいたものは、皆、ひとりの例会゛もなく、神の子として生き始めているのである。この点が後半の出来事と深く関連するのである。
  11節以降には、いささかこっけいなことがしるされている。神はパウロの手を通して、目覚しい奇跡を行なわれた。すると、そこにいたユダヤ人の魔術師たちが、自分たちもパウロみたい悪霊を追い出してみたいと思って、「 パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる 」と言って、悪霊を追い出しにかかったところ、悪霊からの「 イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、お前たちは何者だ 」と、反逆され、反対にとっちめられてしまったというのである。ここで心に留めたいことは、悪霊に「 お前たちは何者だ 」(15節)と問われたきに、彼らは答えることができなかったということである。悪霊は言った。イエスは知っている。パウロも知っている。つまり、神の霊と共に生きている者であるならば、我々はそいつを知っている。しかし神の霊と共に生きていないお前は誰か、そんな者を我々が知る必要はないし、恐れる必要もないと言ったということなのである。「 お前たちは何者だ 」と悪霊は問うた。この悪霊の問いは、大切なことを突いている。私たちは、この問いに何と答えられるだろうか。洗礼を受け、神の霊と共に生きている者は、この問いに明確に答えることができる。私は神の子、聖霊と共に生きている者、永遠の神と共に永遠に生き得る者なのだと・・。
 悪霊というのは、私たちにあまり身近な存在ではないかも知れない。だが聖書は、聖霊と対抗する悪霊の存在、その仕業を明確に語る。聖霊が人を造り、成長させる働きをするのに対し、反対に悪霊は人を破壊し、破滅に追い込む働きをする。その悪霊は、今日の文明社会では、「 世の価値観 」を支配する形で、人を破滅に追いやると、ある神学者は言っている。トニー・モリスンの小説『 青い目がほしい 』は、様々なテレビ、雑誌の映像で、繰り返し取り上げられる金髪の白人女性たちを見ているうちに、自分は醜く汚い存在なのだと思い込まされ、「 青い目にしてください 」と祈るようになる黒人少女のことが描かれている。お前は何者であるか、醜い者ではないかと、この世の価値観に働きかけてそう問うことで、少女を破滅へと追いやろうとしたのである。彼女が助かる道は、自分は神にそのままで愛されている神の子なのだということに立ち帰ることであった。悪魔は、絶えず「 お前は何者なのか 」という問いをもって、私たちを揺さぶり、破滅へと追いやろうとする。時に、悪魔は死を用いてそれをする。死は、自分は何者であるかを分からなくさせる力を持つ。自分は死んだら、どうなるのか・・・そういうことを考えて、人は不安になる。しかし神を信じる者は、そこでも私は神の子である、神の聖霊と共に生きている者、神と共に永遠に生きる者だと答えることができる。それゆえ、私たち信じる者にとって死は終わりを意味しない、死は永遠への通り道に過ぎない。死の現実は、私たちに計り知れない打撃を与え、打ちのめす。しかしそこでも私たちは「 自分は神の子だ 」という事実によって支えられるのである。 (2014年8月31日)