2014年9月7日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月8日~9月14日

9月8日(月) ヨハネによる福音書8章21節~30節
 私たちは信仰を持ったからと言って、死なない人間になるわけではありません。皆、死ぬのです。問題は、私たちが死ぬときに、この人は「 罪の中に死んだ 」(21節、24節)と言われないような死に方をしないですむか、ということです。罪人の死と言われるような死に方をしてしまうのかどうか、と言うことです。まわりの人が判断してそう言われてしまうということではなく、イエス様がご覧になって、この人は私が心配していた通りに、罪の中に死んでしまったと言われないような死に方をするということです。私たちがそういう死に方をしないですむように、イエス様ご自身が他の誰も代わることのできない死に方をすることがここで語られています。そのイエス様の死の恵みを拒否することが、罪の中に死ぬことなのです。

9月9日(火) ヨハネによる福音書8章31節~38節
 「 真理はあなたたちを自由にする 」(32節)という場合の真理とは、イエス様ご自身のことを指して言っています。この言葉は「 罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である 」(34節)という言葉と対照的に語られています。ヨハネ福音書は、罪を「 イエス様を信じないこと 」であると主張していますから、イエス様を信じることは解放となり、イエス様を拒否することは束縛となるのです。あなたはイエス様以外の様々な事に心を奪われて、それに束縛された状態になっていませんか。その束縛からの解放は、イエス様に委ねることでしか、得られないのです。

9月10日(水) ヨハネによる福音書8章39節~47節
 「 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている・・・悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている 」(44節)と「 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない 」(45節)の2つの言葉は深く考えさせられます。本当のことを語るから信頼を得られるのだと私たちは考える一方で、産地や商品の中身を偽装して販売し、信頼を失墜する企業が後を絶たないのです。どうしてそんな馬鹿なことが起こるのでしょうか。この世の中、嘘をつかないとやって行けないと思うからです。しかしそのとき、私たちは悪魔のとりこになってしまっているのではないかと考えてみる必要があります。

9月11日(木) ヨハネによる福音書8章48節~59節
 イエス様は、ユダヤ人に対して明確に、ご自身が神であるという主張をなさっています。イエス様を神と同等のお方として、この言葉を理解しようとしないならば、とんでもない狂言者と断定されても仕方がないほどのことを言っておられるのです。「 はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない 」(51節)。私たちがイエス様に好意を持ち、イエス様の言葉を聞いて生き始めるとき、その人は永遠の命を生き始めるのです。「 決して死ぬことがない 」というのは、肉体的な意味ではなく、霊的な意味で死なないということです。イエス様を愛している今日のあなたの生活は、永遠の命へとつながる生活になっているのです。

9月12日(金) ヨハネによる福音書9章1節~12節(Ⅰ)
 私の大好きな聖書の箇所です。なので、3回にわたって取り上げます(わがまま?)。「 ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか 」(2節)という弟子たちの質問は、あまりにも残酷で、単なる興味本位であり、同情のひとかけらもありません。完全な上から目線です。しかし本当は、この質問は自分自身に向けるべきものなのです。なぜ、私はあの人のように生まれながら目が不自由ではなかったのか、私とあの人に何の違いもないはずなのに・・・・。なぜ、私は目が見える形で生まれてきたのだろうかと・・・。その問いを持たない限り、人は他の命を上から目線でしか見られないし、すべての命を尊んで生きることもできないのです。

9月13日(土) ヨハネによる福音書9章1節~12節(Ⅱ)
 この生まれつき目の不自由な人を見つめる弟子たちのまなざしと、すべてのものを造られたイエス様のまなざしとは、天と地ほどの差があります。イエス様のまなざしは暖かい。「 本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである 」(3節)。私たちはいつでも過去から現在の不幸の原因を見ようとします。あのこと、このことがあったためだと・・・。しかしイエス様は今ある悲しみを、神の備えた将来からご覧になっています。それは神が備えている恵みの業が現れるために、今の悲しみがあるのだよと。神の備えた将来を信じましょう。あなたもイエス様のまなざし自分の人生を見つめ直してみませんか。

9月14日(日) ヨハネによる福音書9章1節~12節(Ⅲ)
 「 神の業がこの人に現れるためである 」(3節)という言葉には、強く心惹かれますが、同時に、これは具体的にはどういうことを言っているのだろうかと考えてしまうかも知れません。信仰を持っても、癒されないままの方もいるからです。癒されたこの男の人は、癒してくださったイエス様をメシヤと認め、それを主張し続けるために、のちに村八分にされてしまいます(35節)。その彼をイエス様はすぐに見つけ、出会って、言葉をかけて導いてくださいます(35節、36節)。実はこの人はこの時、初めてイエス様を見ることができたのでした。癒された彼の目が見たイエス様は、いつも自分に目を留め続け、危機の時にはすぐに駆けつけられるようにしていてくださる、そういうイエス様の姿でした。そういう方が自分にはいるのだ、ということが分かる。それが神の御業が現れるということなのだと思います。