2014年9月5日金曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月1日~9月7日

9月1日(月) ヨハネによる福音書7章1節~9節
  仮庵祭というイスラエルが大いに盛り上がる時に、イエス様はこの世とご自身の関係について語られました。「 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ 」(7節)。世がイエス様を憎むのは、世の業の本質を「 それは罪である 」と鋭く指摘したからです。弟子たちもやがてイエス様の信仰に倣って行くようになると、やはり世から憎まれます。イエス様に倣わず、世とピッタリくっついて生きていれば、世から憎まれることはありません。しかし世の人々の行為に罪を見、その誤りを指し示して行くならば私たちもまた憎まれるでしょう。世からの憎しみは、私たちの信仰の状態をはかるものさしでもあります。

9月2日(火) ヨハネによる福音書7章10節~24節
  祭りの間にエルサレムの都に上られたイエス様は、ユダヤ人たちと論争し、そこで語られたのがこの言葉でした。「 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか 」(19節)。イエス様はベトザタの池の病人を安息日に癒されたために(5章)、安息日の律法を破ったと批判されて、しまいに殺意を持って狙われてしまうようになりました。病人を痛みの中に置き去りにして何もしなかったことと、その病人を立ち直らせたこと、一体、どちらが安息日の律法に照らして、それを守ったと言えるのか・・・そのことが問題となったのです。律法を守ったかどうか、それは相手を生かそうとした心に根差したものであったかどうかで、はかられるものです。

9月3日(水) ヨハネによる福音書7章25節~36節
  イエス様は、神から遣わされたメシアなのか否か、人々の間に賛否が渦巻きます。否を唱える人は、イエス様の出自を知っていることを理由に否と言いました(27節)。人々は、イエス様の存在の背後に神のみ手が働いていることを、いろいろな理由をつけては否定し、決して認めようとしませんでした。私たちの信仰は、すべての人の存在の背後に神のみ手が働いていることを見て行こうとする信仰です。いや、人だけではなく、いろいろな出来事の背後にも神のみ手が働いていることを見るのです。そこから、この出来事の意味を問い直す。この人の語った言葉、行動の意味を問い直す。きっとそこには神様の意図された何かの意味があると、私たちは悟らされるでしょう。信仰とはそのような働きをするものなのです。

9月4日(木) ヨハネによる福音書7章37節~39節
 「 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる 」(37節、38節)。仮庵の祭りは、荒野の旅を思い起こすときです。荒野の旅では水が命の支えで、神が水を与えてくださることによって、民は荒野を生き抜くことができました。そのことを踏まえて、イエス様は呼びかけられたのです。ここにこそ、あなたを生かす真の水がある、それは私を信じることだと・・・。海水を飲むと、一時的には渇きが収まっても、そのあとの渇きは前よりもひどくなります。それと同じように、一時的にでもあなたの渇きを癒すことが周りにたくさんあるかも知れませんが、それはやがてあなたの渇きをなお一層つらいものにすることでしょう。それが真の水でない限り・・・・。イエス様のもとに参りましょう。

9月5日(金) ヨハネによる福音書7章40節~52節
 イエス様は本当にメシアなのか、それともただの狂信的な思い上がり屋なのか・・・人々の間に意見の対立が生じました。いきり立つ議員たちは「 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか 」(48節)と下役たちに向かって怒鳴ります。そのときです。かつて真夜中にそっとイエス様を訪ねたことのある議員ニコデモが(3章)、イエス様を弁護するような発言をしたのです。ニコデモのあの夜のイエス様との面会は、意義深いものとなっていたのですね。あなたもイエス様と意義深い夜のひと時を持ちましょう。その効果を後に、現れます。

9月6日(土) ヨハネによる福音書7章53節~8章11節
  有名な姦淫の女の物語です。姦淫の罪を犯したと言って、非難し、裁く人々の視線が彼女をその場に釘づけにしていました。彼女はどんなにそこから逃げ出したかったことでしょう!しかしイエス様の発言により、ひとり減り、ふたり減り、そして誰もいなくなり、もはや彼女を釘つげにする視線がなくなったにもかかわらず、彼女はその場を去りませんでした。これがこの物語の急所です。彼女は、このイエスという方を離れて自分の罪を解決する場所はどこにもないと悟ったのです。だからその場を立ち去らなかったのです。信仰とは、自分の罪はこの方を離れては決して解決しないことを悟ることです。そこで主から赦されて新しくされることです。

9月7日(日) ヨハネによる福音書8章12節~20節
 14節の「 自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない 」という言葉は何と魅力的な言葉なのでしょうか!世の多くの人は、自分は生まれる前はどこにいて、どうなっていたのか、そして死んだあとは、どこに行き、どうなるのか、知らないで生きています。知らないと言うその不安を隠し、向き合わないようにして生きています。しかし、イエス様は知っておられます。だからイエス様を信じる私たちも知ることができるのです。死んだあと、どこに行き、どうなるのか。私たちは、永遠の命へとつながる命を、今、生きているのです。