2014年9月28日日曜日


先週の説教要旨「 礼拝で居眠りし 」使徒言行録20章1節~12節 
 この箇所には、これを絵にして教会の玄関に飾り、「 これがキリストの教会のイメージです 」と言って、訪ねて来る方に紹介したい、そのようなことが記されている。「 教会とはどういう集まりですか 」と問われたときに、その答えとして、何度でもそこに帰って行く物語がここに記されているのだ。場所はトロアスという港町、しかも夜。エーゲ海に面したこのトロアスがいかなる町であったのか、思い浮かべることはそんなにたやすいことではないかも知れないが、観光旅行のパンフレットなどで、エーゲ海に面した港町の写真をご覧になったことがあるだろう。ギリシアの家々は昔から白い四角い家が多かった。家の白、海の青、昼をつかさどったそれらの色が、夜になると漆黒の黒へと塗り替えられて行く。昔の人は、陽が沈むと床に就いて寝た。今日のように夜も昼のように過ごすことはない。それゆえトロアスの港町も夜になれば、町中の明りが消えて、真っ暗になっていた。けれどもこの日だけはいつもと違って、一軒の大きな家の「 階上の部屋 」が赤々と輝いている。そこに教会員が集まり、礼拝を捧げている。まだ成瀬教会のように立派な教会堂はない。比較的広い信徒の家を借りて礼拝をしている。電気でつく電灯はまだない時代、油を燃やして明りとしていた。すべての家々が暗闇の中に没している中で、この一軒の家だけが赤々と明りを灯している。これはずいぶん目立ったであろうと思う。プロ野球のナイターをしている球場をヘリコプターでその上を飛びながら写すのを見たことがあるだろう。町の中にポカッと明るく野球場が浮かび上がっているのと同じように、トロアスの町に浮かび上がる1軒の家。闇の町の中に光を放っている一軒の家、それがキリストの教会のイメージなのである。

礼拝が行なわれていたのは「 週の初めの日 」。今日の日曜日だ。だがこの時代はまだ土曜日が安息日であり、仕事を休んで神を礼拝する日であった。弟子たちがキリストのよみがえられた日曜日に集まり、礼拝をするようになり、後にキリスト教がローマ帝国の国教となると、礼拝を守りやすいよう、日曜日がお休みの日に変更されたのである。だがこのときは、週の初めの日は皆、仕事に出かけた。それで礼拝をする場合、仕事の前にするか、仕事が終わってからするか、2つの方法があった。トロアスの礼拝は後者であった。朝、日の出とともに仕事に出かけて行った者が、仕事を終えて礼拝の場所へと集まって来る。信仰の仲間の家に教会の者たちが集まる。7節に、「 わたしたちがパンを裂くために集まっていると・・・」と、ある。「 パンを裂く 」というのは、この頃の聖餐を祝うことを表す表現であったようだ。夕食と共に主の晩餐を祝ったのである。もちろんキリストの救いの御業について語る説教が行なわれた。しかしこのトロアスの教会にとって、この日の礼拝は特別な意味を持っていた。自分たちの優れた指導者であって、しかしなかなか会うことができなかったパウロ先生がこのトロアスに来てくれたのである。パウロのトロアス滞在は7日間、これがただ一度の日曜日の礼拝であった。教会の人々はその日、働きながらもそのことを楽しみにしていたであろうと思う。そして集まって来た。パウロもついつい熱が入り、とうとう徹夜の礼拝をしてしまった。闇夜の中に明りをたくさん灯しながら浮かび上がっている教会、これは単なる情景にとどまらず、教会の本質を象徴する姿なのである。教会は、人々にとってまさに暗闇に輝く慰めの光、導きの光なのである。先行きの見えない不安な人生の道を照らし、進むべき道を示す望みの光、それが教会なのである。そしてその光は神が私たちに与えてくださる光であって、私たちが作り出す光ではない。

エウティコの事件は、その光が何であるかをより明らかにする。窓に腰掛けていた彼、新鮮な空気を吸おうと思ったのだろうか、しかしパウロの話しが長くなり、つい居眠りをして3階から落下して、死んでしまった。しかし神がパウロを通して奇跡を行なわれ、彼は生き返る。教会の仲間たちは生き返った彼を迎えて礼拝を再開する。そこで聖餐が行なわれて、この聖餐は「 私たちが罪赦されて、永遠に生きる神の子とされるためにキリストが裂かれた体、キリストが流された血だ 」。その恵みを生き返ったエウティコの姿と重ね合わせ、この恵みのためにキリストが・・・と心深く受け止め、真にキリストの恵みが支配する場になったであろう。このことが示しているように、教会の光は何よりも、死に打ち勝つ神の恵みを示す光なのである。真っ暗な闇の中に輝く光、教会、そこは死ではなく、死に対する恐れではなくて、命が支配している、命が勝利しているところ。私たちはキリストを信じ、この光の家の一員となっている。死に勝利することができる一員になっているのである。『 死の陰の谷を歩むとも 』(教団出版局)という本の中に大宮溥先生が12歳の娘さんを天に送られたときの証が載っている。光は闇に輝くというタイトルの証である。まさにこの箇所のメッセージと重なる内容である。死に行く娘さんの信仰の言葉に心打たれる。彼女の人生のともし火は消えた。しかし世の終わりの時、神は彼女に永遠に消えないともし火、復活の体を伴う永遠の命というともし火を与えてくださる。その望みが、彼女の死の現実の中に赤々と光り輝いている。私たちも同じ恵みの中に招き入れられているひとりなのである。(2014年9月21日)