2014年9月21日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月22日~9月28日

9月22日(月) ヨハネによる福音書11章17節~27節
  「 イエスは言われた。『 わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか 』」(25節、26節)。最近、お連れ合いを天に送られた方が、最後の介護の日々を、毎日、朝、この御言葉を聞き、「 はい、信じます 」と答えて歩まれました。悲しい別れの時が近づいていることを感じつつ、この御言葉に問われて、答えることが深い慰めなり、支えとなったのでした。主の御言葉に、毎日、このようにして触れて歩むことは、何と幸いなことでしょう!

9月23日(火) ヨハネによる福音書11章28節~37節
 「 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた 」(33節、34節)。死に直面して人間は泣くことができるだけです。そしてどんなに深く嘆いたとしても、やがてあきらめるしかありません。しかしイエス様はあきらめず、憤り、激しく興奮します。イエス様の涙、怒りは、死に徹底的に支配され、翻弄されている人間の定めに対する悲しみであり、同時に死に対する憤りです。イエス様は私たちをその死の力から解放するため、全存在を注ぎ出し、十字架におかかりになります。イエス様は裂かれたその体をもって、死の前に立ちはだかり、私たちを救ってくださったのです。私たちの肉体はやがて死を迎えます。しかしそれは永遠の終わりではないのです。イエス様の涙・・・イエス様の御業にはいつでも深い共感の涙がこめられています。

9月24日(水) ヨハネによる福音書11章38節~44節
 「 イエスは、『 もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか 』と言われた 」(40節)。悲しみの中にうずくまるしかないマリアに主は語りかけられました。「 信じるなら 」というのは、「 わたしを信じるなら 」という意味です。イエス様を「 信じて 」従って行くとき、私たちは神の栄光を見ることができるのです。「 もし信じるなら 」・・・この言葉は、私たちが日常生活の中で、日々、自身の心に刻み込む必要のある言葉です。あなたが苦境に陥った時、あなたが気力を失いそうになった時、目の前が真っ暗になってしまった時に、この言葉を自分自身に語って聞かせるのです。「 もし、信じるなら 」・・・そう、この状況においてもなお・・・。そのとき、神の栄光が私たちの想像を超えた形で現れます。

9月25日(木) ヨハネによる福音書11章45節~57節
 「 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『 あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか 』」(51節)。神はご自分に反逆する大祭司カイアファの口をして、この言葉を言わせました。イエス様の犠牲の死による恵みを語らせたのです。この言葉に込められている「 神の知恵の深さ 」の何たることか・・・。ただただ、パウロの「 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです 」(Ⅰコリント1章25節)の言葉を思い起こすより他はありません。このような神の知恵と力に対抗して生きようとすることの何と愚かしいことか。そしてこのような神に委ねて生きることの何と平安なことか・・・。

9月26日(金) ヨハネによる福音書12章1節~7節
 弟子たちの目には、本当に効率の悪い、無駄なことにさえ映っていたマリアの業。馬鹿げた浪費の行為にしかとられなかったマリアの業です。けれども、イエス様は、その行為の裏にある彼女の愛をしっかりと受け止めてくださっていました。イエス様は「 」がいかなるものであるかをよく知っておられたからです。 愛の業と言うのは、本来計算づくでなされるものではないのです。計算の上で人を愛することなどできないのです。だから周りの人から見るとそれが愚かになるような事が起きうるのです。愛においては・・・。イエス様は、愛というものが計算できるものだとは考えられませんでした。だからこそ、十字架に向うことができたのです。

9月27日(土) ヨハネによる福音書12章8節~11節
  「 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった 」(9節)。多くの人が生き返らされたラザロを見にやって来ました。中には失礼な人もいて、彼を見て「 お~、生きてる、生きてる 」なんて言ったかも知れません。でもラザロを見て、「 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである 」(11節)ということが起こっています。ラザロは何か特別なことを語り、特別なことを自分がしたわけではありません。ただ、死の力をも御手のうちに治めておられる方の恵みの力に与っただけなのです。しかし、その姿が人々への証となる・・・。これがキリスト者の証の原点ですね。わしたちはただ、主の恵みを盛る器であれば、それでよいのです。たとえ、形の悪い、壊れかけた見栄えのしない器であっても、証となるのです。

9月28日(日) ヨハネによる福音書12章12節~19節
  「 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した 」(16節)。人生には分からないことがあります。どうしてあのとき、あんな出来事が起きたのか。なぜ、こんな目に遭わなければならないのか・・・。そのすべてが分かるときが来ます。そのすべては、神の、私たちを配慮するゆえの、心のこもった演出であったということが・・・。信仰者には「 なるほど 」と、ひざを打つときが必ずあるのです。