2014年9月21日日曜日


先週の説教要旨「 利益追求の信仰と真実な信仰 」使徒言行録19:21~40 

池に石を投げ込むと波紋が広がる。それと同じことが今朝の箇所で起きている。エフェソの町の人たちが持っていたその信仰のありように、パウロが伝える信仰が投げ込まれると、大きな波紋が町全体に広がったのである。今朝は、エフォソの人たちが持っていた信仰とパウロの伝えた信仰に着目して読んでみたいと思う。

 まず、エフェソの人たちの信仰であるが、彼らはギリシャの女神アルテミスを信奉していた。アルテミスの神殿は、当時のアジア州では最大の神殿であって、今日でも、どうやってあのような巨大の神殿を建てることができたのか、世界の七不思議のひとつとして数えられているほどである。そういう立派な神殿があると、たくさんの観光客や巡礼者が訪れる。そしてその人たちをあてにした商売がそこに生まれる。日本でも同じ光景を随所に見ているだろう。デメトリオは、銀細工職人たちを集めて、彼らに銀でアルテミス神殿の模型を造らせ、巡礼者や観光客にそれを売り、かなりの利益を得ていた。デメテリオだけではないだろう。おそらくエフェソの町全体が、アルテミス神殿のおかげで相当、潤っていたであろう。そういう彼らの信仰のありように、パウロの伝える信仰が投げ込まれたとき、デメトリオは激しく揺さぶられた。彼は人々に訴えた。「 諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『 手で造ったものなどは神ではない 』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう 」(26節、27節)。彼の発言はとっても正直に彼の心を映し出していよう。彼が最初に口にしていることは自分たちの商売のことで、次に女神の威光のことを口にしている。つまり、彼らの関心は前者にあり、彼らの信仰というのは、自分たちの利益と深く結びついたところでの信仰、俗に言うご利益信仰だったのである。しかしデメトリオのこの発言によって、波紋は町全体へと広がって行く。随分たくさんの人たちがこの騒動に参加したようであるが、どうして、「 大もうけができなくなる 」というひとりの人の叫びが町全体の叫びとなってしまったのか・・・。それは町中の人たちもご利益信仰に立っていたからであろう。「 ご利益信仰 」というのは、自分の利益のために神を利用する信仰のことである。

それに対して、パウロの伝える信仰はどのような信仰であったか。その信仰は、21節の言葉にとてもよく現れている。「 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『 わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない 』と言った 」。「 見なくてはならない 」というのは、パウロが自分勝手にそう考えているということではなくて、神がそうすることを求めておられるから、自分はローマに行かなければならないということなのである。実際、この部分には原文ギリシ「 聖霊によって 」という言葉がついていて、御霊の導きによって決心したということを伝えている。パウロの伝える信仰というのは、自分の思いとか、自分の選択でもって、どこに向かうか、どの道を選ぶか、というのではなくて、「 こんな時はどうすべきなのだろうか・・・神は何を臨んでおられるのだろうか 」という具合に、あくまでも神の思いということが最優先される信仰なのである。もし、私たちが日々の生活の中で「 こんな時はどうすべきなのだろうか・・・聖書は何と言っているのだろうか。神はこの私にどうすることを求めておられるのだろうか 」と考えて生きているならば、あなたは神に導かれ、神と共に生きているのである。そのとき、あなたと共に神はおられるのである!

 パウロの伝えるそういう信仰とご利益信仰とは、一体、どこが違うのであろうか。 それは、「 神に委ねる 」ということが、そこにあるかどうか、である。ご利益信仰というのは、神に委ねるということはない。自分にとっての利益はこれだと、自分の方で決めていて、それに応えてくれる神でなければならない、そういう信仰である。それに対して、パウロの伝える信仰は、「 これが利益かどうかという判断さえも、神に委ねてしまう信仰 」なのである。自分の方で、これは利益、これは不利益、というような判断をして、こっちじゃないとわたしは嫌ですよ、みたいなことをしない。たとえ、自分にとっては不利益だと感じることであっても、神がそれを求めておられるならば、それを引き受けますという姿勢、それがパウロの伝える信仰である。これが利益か、不利益か、その判断さえも神に委ねてしまって、ただただ神の御心がなることを求めていく信仰。しかしそういう信仰というのは、一時的には自分に不利益だと思ってもそれを受け入れたとしても、最終的にはこれで良かったのだと言わせていただける結果に至るのである。そして神は、そのような信仰の歩みを志している者を守り、そのような結果が現れるところへと必ず、その人を導いて行かれる。時には、信仰のない人たちの力をも用いてその人の歩みを守りつつ。ここでの騒動を治めたのは、パウロでもなく、デメトリオの仲間でもなく、信仰のない町の書記官であったように・・・。それが私たちの確信である。私たちはこの信仰に生きて間違いないのである。   (2014年9月14日)