2014年9月14日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月15日~9月21日

9月15日(月) ヨハネによる福音書9章13節~23節
  「『 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう 』。両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである 」(21節、22節)。両親は自分たちの息子の目を癒したのが誰であるか、分かっていました。分かっていましたが、それを告白することはできませんでした。共同体から締め出されることを恐れたからです。信仰は分かったから告白できるというものではありません。決断をしなければ告白できません。しかし信仰の決断をするとき、主が共にいてくださることをよく分からせてもらえます。逃げていたら主の御臨在は分からないのです。

9月16日(火) ヨハネによる福音書9章24節~34節
 「 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです 」(31節~34節)。生まれつき目の見えなかった人は、イエス様が神から遣わされたメシアであることを公言するようになりました。ユダヤの指導者たちに脅されても、彼は発言を取り下げようとしません。その結果、彼は「 外に追い出  」(34節)されてしまいました。このことは、社会からの追放を意味していました。しかしこのあと、そういう彼をイエス様は見つけ出して、声をかけ、導いてくださいます。キリストを信じるゆえに、社会の片隅に追いやられることがあります。しかしそのあなたに主は目を留め、ご自身を現してくださいます。

9月17日(水) ヨハネによる福音書9章35節~41節
 「 見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『 見える 』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る 」(41節)。イエス様が神から遣わされたメシアであるかどうか、ユダヤの指導者たちはよく分かっていると自負していました。もちろん、安息日を守らない者がメシアのばすなどない。彼らは神のことをよく「 見える 」と思っていたのです。しかしそういう彼らこそ、実は見えていないというのです。神のなさっていることが。信仰生活に慣れて、いろいろなことが分かって(分かったつもりになって)きたとき、落とし穴があります。神のことは、いつだって神の前にひざまずいてこそ、分かってくるのです。

9月18日(木) ヨハネによる福音書10章1節~6節
 「『 はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである 』」(1節、2節)。羊飼いは門を通って羊に近づいてきます。柵を乗り越えてくるのは、羊を奪う盗人であり、強盗です。彼らによって、羊は傷つけられたり、殺されたりします。しかし本当の羊飼いは、羊に会うために来ます。羊飼いが羊に会うにはひとつの門を通るより他はありません。「 罪の赦し 」という門です。十字架という門を通ってイエス・キリストは、この罪人である私たちのそばに来てくださったのです。

9月19日(金) ヨハネによる福音書10章7節~21節
 「 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている 」(14節)。人を知るためには人の立っている同じ場所に立たなければなりません。神の御子は私たちを知るために、「 肉体となって私たちの間に宿られ 」(ヨハネ1章14節参照)ました。肉の人間の痛み、苦しみ、弱さ、それらのものを文字通り、イエス様は身をもって味わってくださいました。肉の人間を救うために体をもって十字架につかれました。神の御子が私たちを知るというのは、そういうことでした。ただ観察して知っているというのではありません。神に感謝!

9月20日(土) ヨハネによる福音書10章22節~42節
  「 多くの人がイエスのもとに来て言った。『 ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった 』」(41節)。ヨハネがけなされているわけではありません。ヨハネは神の救いの働きを行なうことはできませんでした。彼がしたことはただひとつ、「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊 」(ヨハネ1章29節)と言って、イエス・キリストを指し示すことだけでした。そして、彼の指し示したイエス・キリストが神の救いの働きを行なわれました。それでよかったのです、教会は自分の力で何かできるわけではありません。ただ救い主を指し示すだけです。教会は証言し、救い主は御業を行なってくださいます。それでよいのです。

9月21日(日) ヨハネによる福音書11章1節~16節
  「 イエスはお答えになった。『 昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである 』」(9節、10節)。神の御心があるならば、人はつまずきません。神の御心は光のように人の歩みを守ります。神の御心のないところを歩めば、人はつまずきます。どこにも光がないからです。信仰は信念ではありません。つまり、自分の中に何らかの光があって、それによって歩むのではなく、神の光に照らし出していただきながら、歩むのです。